ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

あれぐろ・こん・ぶりお

September 12(Tue), 2017

100分de名著 『ハンナ・アーレント 全体主義の起原』

 日本ではここ10年来、ずっとアーレントルネッサンスとでも言うかのような盛況ぶりだけれど、トランプ誕生後のアメリカでもブームらしい。

読み始めたときはちんぷんかんぷんで、最近読んでも分かりやすい本ではないと思うけれど、非常にエッセンスが分かりやすく解説されている。

いくつか抜き書き。

 自分が置かれている状況の変化をきちんと把握しつつ、「分かりやすい」説明や世界観を安易に求めるのでは無い姿勢を身につけるには、どうすればよいのか。それを考える上で、今回取り上げる二つの著作全体主義の起原、と、イスラエルアイヒマン)が参考になると思います。

 自分たちは悪くない、と考えたい。それが人間の心理です。つまり、自分たちの共同体は本来うまくいっているはずだが、異物を抱えているせいで問題が発生しているのだ―と考えたいのです。自分たちの共同体に根本的な問題があると考え、それを直視しようとすることには大きな痛みが伴いますが、身体がウイルスに侵されるように、国内に潜伏する異分子に原因を押しつければ、それを排除してしまえば良い、という明快な答えに辿り着くことができます。

 しかし、異分子を排除したところで、根本的な問題の解決にはなりません。それは歴史を見ても明らかでしょう。日本でも、何か問題が起こると「自分たちではない」何かに原因と責任を押しつけ、安易に納得したがる傾向は見られます。「反ユダヤ主義」の巻に綴られた話は、決して遠いヨーロッパの人ごとではありません。国民国家である(と言う体裁をとっている)以上、異分子排除のメカニズムが働く危険性は、私たちの足元にある。そのことを意識して身近な事象や問題を観たり、考えたりすることが大切なのではないでしょうか。

 法による支配を追求してきた国民国家の限界が、国家の「外」に現れたのが無国籍者の問題であり、それが国家の「内」側に現れて、統治形態を変質させていくのが全体主義化だということもできると思います。

 「大衆」は、どの時代の,どこの国にもいるし、高度な文明国においてすら政治に無関心な大衆は「住民の多数を占めている」と、アーレントは耳の痛い指摘をしています。(略)しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広まると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかして欲しいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるものは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へと繋がっていったとアーレントは考察しています。

 ナチスは「ユダヤ人がいない世界」を作ろうとしたのではなく、「そもそもユダヤ人など無かった世界」に仕立てようとしたわけです。

 それが可能だったのは、ナチスドイツ人からも道徳的人格を奪っていたからだとアーレントは示唆しています。隣人が連行されたドイツ人の無関心も、良心の呵責に苛まれることなくユダヤ人を死に至らしめた人々のメンタリティも、全体主義支配を通して形成されたものです。

 ささやかな良心のかけらもない―というところに、むしろアイヒマンは自負を持っていたのです。彼にも「わずかなりと残った良心」はあったものの、法に例外があってはならないという彼なりの順法精神によって、それは克服されてしまったとアーレントは考察しています。

 良心の呵責など封印し、ヒトラーという法に従って粛々と義務を果たしてきただけ。だから「私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺してはいない」というのであり、自分が追及される理由は「ただユダヤ人の絶滅に『協力し幇助したこと』だけ」だとアイヒマンは繰り返し主張しました。

 アーレントのメッセージは、いかなる状況においても「複数性」に耐え、「わかりやすさ」の罠にはまってはならない―ということであり、私たちに出来るのは、この「わかりにくい」メッセージを反芻し続けることだと思います。

August 29(Tue), 2017

大田昌秀 編『沖縄鉄血勤皇隊』

沖縄鉄血勤皇隊

沖縄鉄血勤皇隊

 今年の6月12日に亡くなった、大田昌秀の最後の著書になる。

 奇しくもこの本の初版は6月12日であり、満92歳の誕生日でもあった。

 自分にとって、大田昌秀という人物沖縄県知事としての記憶からスタートしているけれど、琉球大教授としての研究者としての側面や(知事退任後は)参議院議員として想起する人もいるかも知れない。

 とはいえ、いずれにおいても大田昌秀の「思想と行動」の原点に鉄血勤皇師範隊の従軍経験があり、その後の70余年の人生は、沖縄戦で命を落とした学友たちへの鎮魂と平和への祈念にとどまらず、平和への実践において第一線で立ち続けた人物であったと思う。

 別のところで他の人が書いていたが、言うだけで行動に結びつかない、あるいは、その行動が現実から遊離している学者がいる中で、学者として発言し、そこに理念を描きつつ、政治家として、行動した希有な例だろう。沖縄を取り巻く環境は特殊である。日本政府国際社会によって(やむを得ない側面がありつつも)ある種の「既成事実」が積み重ねられていく中で、歴史認識安全保障上の問題に対して、平和への理念をどう現実化していくか、という構想力とバランス感覚も備えた人物であったように思う。

 沖縄戦に関する著作は多く出ているが、「ひめゆり部隊」に対して「鉄血勤皇隊」はまとまった著作が極端に少ない。ひめゆり部隊に代表される女子師範学校女学校の生徒たちに対して、鉄血勤皇隊旧制中学校の生徒たちが沖縄戦に際して動員された組織だと言うことは分かっては痛けれど、それ以上のことは余りよく分からなかった。本書は鉄血勤皇隊の最後の生き残りの一人として、また、アカデミズムに身を置いた人間が書いたものとして、現在、手にすることが出来る唯一の著作とさえ言えるかもしれない。

 改めて書くが、鉄血勤皇隊沖縄各地に存在した旧制中学(今でいう中学〜高校に相当する)や師範学校の(男子)生徒で組織された沖縄戦の防衛部隊である。当初は弾薬の運搬や各部隊の通信係を任務とし、沖縄守備隊の補助的役割であったが、戦況が悪化するにつれて、軍と行動を共にし、場合によっては爆弾を背負いアメリカ軍に突進していったこともあったようだ(事実上の玉砕だろう)。

 本書は、それぞれの鉄血勤皇隊がどのように組織され、どのような任務に就き、どのように戦い、最期を迎えたのかを一般化することなく記録する。戦闘の記述際して、個人名を明らかにしながらその最期を説明する箇所などは、さながら墓碑銘のようである。

 その意味で、一般書でありながら、全体像がメタレベルで整理され、分かりやすい本であるとは言えない。しかし、読み手であっても大田の深い鎮魂と学友への想いを感じさせずにはいられない。これを読むと、戦争の犠牲を数で表さざるを得ないのであるのは分かりながらも、一方で、一人ひとりの人間の生というものを改めて認識する一冊でもあった。

January 19(Thu), 2017

日本人が知らない「天皇と生前退位」

日本人が知らない「天皇と生前退位」

日本人が知らない「天皇と生前退位」

 予備校で日本史を担当し、現在はフリーで著述活動を行っている著者の新刊。「お言葉」以降、天皇制や生前退位についてメディアでは採り上げられることが多くなった。本書は前近代の天皇にスポットを当て、生前退位という言葉ではなく、本来用いられた譲位受禅という言葉を使う。そして、藤原摂関家や織豊政権、江戸幕府など、その時代の権力者と向き合いながら「ミカド」としていかにあろうとしたかを9人の天皇にスポットライトを当てながら探っていく。近代以降の天皇制を相対化しつつ日本史における天皇制を考える思考の補助線となるだろう。

October 30(Sun), 2016

岡田憲治『デモクラシーは仁義である』

 ようやく読了。電子書籍になるのを待っていると読み手である自分の鮮度というか問題関心が薄れているような気もするが、まあ、仕方が無い。

 前著『ええ、政治ですが、それが何か?』に比べると歯切れが悪いようにも思う。しかし、個人的には眼前で進行しているデモクラシーの基盤を掘り崩されているような状況に最大限抗い、デモクラシーを守ろうとする裏返しなのかもしれない。恐らく著者の主張でもある「純粋合戦をやめる」に通じるのだろう。

 デモクラシーは手段でもあり目的でもある。それは多様な人びとが生きていくなかで守りたいものを守るために、歴史のなかで形成された知恵であり仕組みなのだ。だからこそ、そこに疑義を持つヒトをも囲い込もうとする本書はまさに政治学者による辻説法なのである。

 出来うるならば、多くの人が本書を読んで、「どうせ選挙なんか」とか「どうせ民主主義なんか」というシニカルなひとたちを説得するツールとして活用されれば良い。感想を書きながら、世界観を共有せずとも、政治的目的を達成する手段としての政党支持という丸山眞男の言葉を思い出した。