連翹忌、そして女川の貝廣氏・・・高村光太郎その後



 今年の2月、私の元に「連翹忌のご案内」なる文書が届いた。差出人は「高村光太郎談話会」とある。「連翹忌」とは、4月2日=高村光太郎の命日であり、毎年この日、「談話会」が主催して、東京で光太郎を偲ぶ宴席が設けられていることは知っていた。私の高村に関する本が出てから4年近く経って、なぜか初めてその「ご案内」が来たのである。

 どうしようかな、と思った。実は、拙著『「高村光太郎」という生き方』が出てから間もなく、私は光太郎についての私の考え方が変わったような気がした。確かに、私はある時期、主体性の哲学というか、人間が考えた結果ではなく、考えるという行為の根っこのところにある衝動のようなものを重視する思想に心引かれていた。だから、大学でも陽明学を中心に学び、それが手に余るから高村光太郎に置き換えて整理したというのが、実はあの本の正体である。

 しかし、あの本が世に出てから、光太郎の内向的な性質・生き方が、非常に「独りよがり」な、鼻持ちならないものに見え始めたのである。その結果、自我というものにこだわり、個の確立を目指した光太郎という文脈で書かれた拙著が、同様に胡散臭いものに感じられ始め、自らそれを手に取ることも、まして人に売ったり差し上げたりすることもする気にもならない、という困った事態に陥っていたのである。

 もともと、専門を日本文学に乗り換えたつもりはなかった。実際、光太郎が終わった後は、自らの問題意識と予定に従って、中国近代の文化史に関する整理を始め、一応論文らしきものを1年半間隔くらいで書いてきた。だから、今更、光太郎がらみで人間関係を広げようという気も、光太郎研究者と何かの議論をしようという気もなかった。しかし、自分が執筆の過程で書籍や雑誌論文を通して知った光太郎研究者が、実際にどんな人で、何を考えているのか、ということは確かめてみたいなぁという、いわば好奇心のようなものが沸き起こってきて、即座に「欠席」と連絡する気にもならずにいた。

 迷っているうちに例の大地震が起きた。否応なく「欠席」となったが、最近知った話によれば、今年は「連翹忌」自体が中止されたそうである。


今日は天気も良く、特別な用事もなかったので、自転車で女川に行くことにした。震災後、女川に行くのは初めてである。女川の街も見てみたかったが、生存だけは確認してあった知人に会いたいという気持ちもあり、必要あれば現地で飛び入りボランティアでもいいかな、という気持ちもあった。

 噂には聞き、既に新聞やテレビでその様子は見ていたが、女川の被害というのは、石巻とはスケールが違っていた。石巻でも、ひどいところは更地になっているのだから、「それ以上」というのは存在しないように思うが、そうではなかった。女川は、波の到達ラインが尋常ではなく高い上、コンクリートの建築物が倒れたり、流されたりしていた。丘の上に建つ町立病院の1階が波で全壊したというのは、実際に見てみないと信じられないものである。ほとんどの窓が壊れ、車が打ち上げられていた。海抜20m近いのではあるまいか?

 ところで、女川の海岸には、高村光太郎の文学碑がある。10m×2mという巨大な石碑である。平成3年8月10日に除幕され、以後、その碑の前で、毎年8月の上旬に「光太郎祭」が行われてきた。

 驚いたことに、50トンあるとかいうこの巨大な石碑も、波によって破壊され、碑面を上にし、向きを90度変えて、路上に転がっていた。

 この石碑を建立した実行委員会の事務局長は、貝廣(かいひろし)という人である。序幕後は、「女川・光太郎の会」を作り、毎年の「光太郎祭」の企画・運営、全国で行われる光太郎関連イベントへの参加等を精力的に行ってきた。私は、2〜3度しかお目にかかったことはなく、光太郎について語り合ったこともなかった。ただ、光太郎に対する思い入れは強烈で、バイタリティーに満ちた人だったという印象は非常に強い。この人がどれくらいの思いで、光太郎に関する様々な企画に取り組んできたかということは、文学碑建立の際、実行委員20名が集めた募金7,790,691円のうち、貝氏一人によるものが5,610,286円(72%!)であったことによく表れている。

 今回の震災で、彼はどうなっただろうか。私はふと気になり、Googleで探してみた。すると、3月27日に死亡が確認されたとの書き込みがあった。ところが、今朝の『河北新報』には、これまでに死亡が確認された全ての人の氏名が掲載されていたにもかかわらず、そこに貝氏の名前はなかった。一体どういうことなのだろう?

(後日の補足:知らなかったのだが、貝廣氏は本名を佐々木広というそうである。この名前は、死亡者リストにある。)

 それでも、震災から1ヶ月になろうとし、通信手段もほぼ完全に復旧している現在、今から行方不明者が生きて発見されるという可能性は極めて低いであろう。これで女川の光太郎関連のイベントも無くなるのであろうか?しかし、少なくともタテマエとしては、「女川・光太郎の会」は貝氏一人のものではなく、多数の女川町民の光太郎に対する思い入れによって維持されてきた会のはずである。果たして、それがタテマエに終わってしまうのかどうか、会の性質そのものが問われているということになる。

 高村光太郎という人は、「冬の詩人」と言われるほど、冬を愛した人である。拙著の中でも書いたことだが、冬は試練の象徴であり、試練は人の本当の強さを明らかにし、人を鍛えるものである。女川は今、光太郎の言う「冬」のさなかにあると言ってよい。会が問われていることは、そのような光太郎の思想をどれだけ共感を持って捉えているか、ということでもあるだろう。


(補)連翹忌に出席するかどうか迷っていた頃、勇気をふるって久しぶりに拙著を読み直してみた。すると、満足は出来ないにしても、あまり悪い本でもないと思った(笑)。これはこれで一つの理解として「あり」のような気になってきた。人の心は揺れ動き、それによって相手の姿も変わるということである。