「朗読」と「歌」の境



 小松亮太を聴きに行くに当たって、なんとなく、何枚かのタンゴのCDを手に取って聴いてみた。予習が必要な音楽でもない。ただ、なんとなく自分なりに盛り上がりたかったのである。その中の1枚に、『Astor Piazzolla Best Selection』(BVCP-2652)というベスト盤があった。私がピアソラを聴き始めた初期に買ったものである。ベスト盤というと、何だか安っぽい感じがするが、曲(録音)によっては決して悪いものではない。

 このアルバムに、1982年5月29日、30日にブエノスアイレスのレジーナ劇場で演奏された「Balada para un Loco(ロコへのバラード)」という曲が含まれている。「曲」と書けば、語弊があるだろう。これは、オラシオ・フェレールという詩人が、ピアソラ五重奏団の伴奏で、自作詩を朗読したものだからである。強調しておこう。「朗読」である。

 背後に流れるピアソラ五重奏団の音楽は非常に単純素朴。主にピアノとバイオリンが同じメロディーを、繰り返し繰り返し演奏しているだけだ。ところが、この旋律を背景に、フェレールの朗読はだんだん熱を帯び、やがて歌のように抑揚が付き、聴衆が熱狂していく。最初は朗読にBGMのように音楽がそっと添えられたに過ぎないのに、やがて音楽に刺激され、朗読が盛り上がることで伴奏もテンションを上げていくという様子がよく分かる。詩の内容は甚だ奇想天外で、少なくとも私には魅力的なものには思えない。しかし、内容なんて分かっても分からなくても、本当にどうでもいい。詩人の声は、フルートやチェロと同じく「楽器」と化していて、私はそこに「音楽」を聴いているのである。

(実は、ピアソラフェレールは、二人で朗読のCD(『En Persona』BVCF-35018、1970年)を作っていて、こちらにも「ロコへのバラード」は含まれる。伴奏は、ピアソラバンドネオン一丁、メロディーは同じである。決して悪い朗読ではないが、先のライブ録音の後では、ひどく色あせたつまらないものに聞こえる。)

 私は、この録音を聴いていると、いやでも「歌」とは何かということを考えてしまうのだ。歌は始めから歌うために作られるのではなく、気分の高揚によって言葉が歌になってしまう、というもののようだ。朗読と歌に、厳密な境界など存在しない。そこが「歌」の原点であり、朗読がやむにやまれぬ衝動によって歌になるというプロセスを意識することなく作られた、いわば「歌」として必然性のない歌は、聴いていてもつまらないということになるのではないだろうか。