電力会社の広告費・・・12月29日『朝日新聞』記事について



 そういえば、12月29日の『朝日新聞』に、原発を持つ電力会社の巨大な広告費と、それによって新聞報道がどのように影響を受けたのか、という非常に大きな(3面に渡る。大きさの合計で言えば、丸々1面半くらい)検証記事が載った。興味深く読んだ。

 それによれば、原発を持つ大手電力9社は、1970年以降の42年間で2兆4千億円以上の宣伝広告費を使っていた。特に、1979年のアメリカ・スリーマイル島原発事故以降急増し、1986年のチェルノブイリ原発事故で更に増えた。新聞との関係で言えば、広告の掲載のみならず、広報誌の編集者として新聞社OBを受け入れるなどの事もしていたようだ(一種の天下り)。原発批判記事に対しては、必ず電力会社からの抗議があったともいう。

 電力会社は独占企業であって、競争相手がいないのだから、本来、広告宣伝など必要なはずがない。だとすれば、これだけ巨額の広告費を使う目的は、マスコミによる原発批判封じである以外に考えられない。

 私は、昨年12月19日に、パチンコとの関係で、広告費の問題に触れた。同じことである。つまり、新聞社を始めとするマスコミも、企業である以上は、利潤を増やす、いや少なくとも経営を成り立たせる必要がある。だから、お金を払ってくれる人や団体の存在は必要だ。その中にあって、大きなもしくは多くの広告を掲載してくれる人は大切である。仮に、広告主から、自分たちに不都合なことは書かないようにという圧力がなかったとしても、自然に顔色を伺うことになるのは当然である。

 この問題はどうすればいいであろうか?私は、いくら新聞が今回のような反省企画を組んだとしても、出来ることには限度があると思っている。マスコミが、どの広告を掲載して良いか判断することは、自らがよって立つはずの言論の自由を積極的に制限することにもなりかねない。基本的には、違法であるとか、明らかに社会的秩序を乱すとかいうもの以外は、お金の問題を別にしても、受け入れ掲載するしかないのだ。出来ることがあるとすれば、癒着的関係を少しでも制限するために、ひとつの団体からは年間で○万円以上の契約は結ばない、といったあたりが関の山ではないだろうか?

 だとすれば、むしろ問われるのは読者だということになる。問題があると思われるこの会社(団体)の広告を、なぜこの新聞社はこんなに掲載するのか?という疑問を持ち、批判し、受け取る広告料の魅力以上に、読者の批判が怖い(購読者が減る)という状況を作ることで、社会的な議論を活性化し、不都合と思われるものを排除しようと努めるしかない。

 もちろんこれを現実の物とするのは至難である。だが、民主主義はもともと面倒なものであり、それが前提とする自由と平等、そして精神・言論の自由というものが非常にデリケートなものである以上、それは仕方の無いことなのだ。新聞社が、過去の出来事について「反省」するのを脳天気に見ているよりは、一人の読者として、自分たちの態度を反省してみる方が賢明である。