私は「できない」のではなく、「しない」のである



 先日、学校でICT(Information and communication technology)に関するアンケート(正式名称は知らない)が行われた。宮水独自のものではなく、県からの命令である。18あった質問の中から、3つほど例を挙げてみよう。

・学習に対する生徒の興味・関心を高めるために、コンピュータや提示装置などを活用して資料などを効果的に提示する。

・分かりやすく説明したり、生徒の思考や理解を深めたりするために、コンピュータや提示装置などを活用して資料などを効果的に提示する。

・教員間、保護者・地域の連携協力を密にするため、インターネットや校内ネットワークを活用して、必要な情報の交換・共有化を図る。

 これらの質問に対して、職員は「わりにできる」「ややできる」「あまりできない」「ほとんどできない」の中から一つ選ぶ形で回答するよう指示されている。

 さて、私が不愉快に思うのは、それらの質問が全て、興味・関心を高め、分かりやすい授業をするために、あるいは、人々のコミュニケーションを円滑にするためには、コンピュータを活用するのが当然で、教師たる者それが出来ないのはまずい、という思想に立って作られているように見えるからである。

 私にはコンピュータを活用して授業をしたりコミュニケーションを図ったりする気がありません、「しかし技術はあります」、もしくは、「だから技術を身に付けようともしてきませんでした」、といった意味で、「できる」でも「できない」でも選んでしまえばいいのだ、「できる」か「できないか」を尋ねているわけだから、授業についての思想ではなく、単純に「できる」か「できない」かだけを答えればいいのだ、と、割り切ろうとはするのだが、質問者の側はそう考えているわけではなさそうだと思うと、どうしても、素直かつ正直に答えるのは癪だという気持ちが募ってくる。

 何事においても天の邪鬼な私は、最近の風潮として「簡単に」とか「楽しく」とか「分かりやすい」というのが、宣伝の材料としても、人々の要求としてもよく語られることが気にくわない。各自が工夫して「簡単で」、「楽しく」、「分かりやすい」学習方法を手に入れるのはいい。塾、学校、教材業者などがそんなことを言い出した日には、すぐに学習者(生徒)の側で、勉強が出来ない原因を「簡単で」「楽しく」「分かりやすい」勉強方法を教えてくれない塾、学校、教材の責任にして、自分で悩み苦しまなくなり、その結果、いつまで経っても自力で学ぼうとしない、すなわち本当の実力が身に付かないという悪循環に陥ってしまうことが目に見える。パソコンも電子黒板も必要ない。少なくとも、中学や高校までは、紙と鉛筆だけを持たせ、スポーツ選手が走り込みをするごとく、基礎的基本的トレーニングを地道に行わせればよいのだ、「分かりやすい」ために最も大切なことは、授業者自身が深く正確に理解できていることであって、それを抜きにして「分かりやすく」見せかけるための策を弄してはいけないのだ、人間関係を円滑で密にするためには、生身の人間がぶつかり合うしかないのだ、と思っている私にしてみれば、授業やコミュニケーションのためのコンピュータ活用などどうでもいい、むしろ「悪」でさえあるものなのである。文明の落とし穴は、見えにくいが大きい。

 かく言う私も、一応人並みに、分かりやすく楽しい授業を目指してはいる。しかし、それはあくまでも、生身の人間が話し、黒板に書いて実現される「人間スケール」の中で目指されるべきであって、コンピュータという補助的な割に大きな能力を持つ機械の力を借りて実現されるべきものではない。実力のある人間がコンピュータを使うのはよいが、実力をごまかすためにコンピュータを使えば、人間はどんどん安易な方法を求めるようになり、想像力を失って行くことになるだろう。

 コンピュータが社会の中で重要な役割を果たしていることは認める。しかし、それを無制限に使用してよいかどうか、まして成長途上の人間にそれを使わせていいかどうかは別問題だ。今の日本で教育を取り仕切る「お上」が、コンピュータの時代だ、では学校でも・・・と考えるようでは困ったものだ。こういう時にこそ、では本当にその考え方は正しいのか?という問い直し、すなわち「哲学」という精神運動が必要なのである。