仙台フィルの第285回定期演奏会



 昨日は、仙台フィルの第285回定期演奏会に行った。指揮は下野竜也ソリスト曽根麻矢子、曲目はJ・S・バッハ(ベリオ編曲)「コントラプンクトゥス第19番」、同「チェンバロ協奏曲第1番」、そしてブルックナー交響曲第0番。2011年5月に第255回定期として予定されていながら、東日本大震災のために中止となり、3年あまりを隔ててようやく実現したといういわく付きの演奏会である。

 私は3曲とも楽しみにして行った。

 「コントラプンクトゥス第19番」というのは、バッハ晩年の作品「フーガの技法」の最終曲なのであるが、楽譜の中に「Bach(バッハ)」を表すb(シ♭)−a(ラ)−c(ド)−h(シ)の音を組み込んだところで作曲が中断され、未完に終わっているという謎めいた曲である。ベリオという前衛作曲家が、中断部分をそのままにして編曲を終えるはずがない。では、果たして、どのような結びとなっているのか・・・これがひどく私の好奇心を刺激した。

 楽器を指定せず、4段楽譜で書かれている曲を、ハープを含む23人で演奏するように指定してあるらしいが、問題の箇所までは、さほど特異さを感じさせない、楽器の組み合わせを変えながらオリジナルをなぞっているだけのような編曲である。なんだ、奇異でもない代わりに面白くもない編曲だな・・・と聴いていると、問題の終結部。ベリオは、強烈な不協和音を長く響かせて、この曲を閉じていた。ふ〜ん、いいのか悪いのか分からない。だが、最後の10〜20秒で、突然、時間が250年進んで現代風になるわけだから、「斬新な」とも「取って付けたような」とも形容できる不思議な印象を与える。

 2曲目、私のお目当ては曽根麻矢子である。専門分野がマイナーであるために、一般にはさほど名を知られた存在ではないが、若い頃からたいへんな逸材であることは聞いていて、1985年10月に、オトテール・アンサンブルのメンバーとして来仙した時に、その演奏に接して感銘を受けたことがある。それ以来、もう一度この人の演奏は聴きたいと思いながら30年近くが過ぎた。

 800人入るコンサートホールで、現代楽器のオーケストラをバックにチェンバロというか弱い楽器を弾くのは大変である。もっとも、昨日のオーケストラはわずか9人(弦楽四部が各2名+コントラバス1名)という、定期演奏会としては異例の編成。指揮者もソリストも楽員も、一緒にぞろぞろとステージに登場した。それでも、弦楽器が鳴っていると、チェンバロはジャラジャラとしか聞こえなくなってしまう場面が少なくなかった。

 しかし、その体の中からあふれ出てくるような音楽は、なんとも滑らかに流れ、音楽の楽しさや心地よさをよく感じさせてくれた。弦楽器の邪魔のない状態で、小品でよいから1曲、と、いつになくアンコールを期待していたのだが、叶わなかったのが残念!

 ブルックナーは、仙台フィルが毎年1曲くらいのペースで取り組んでいるものである。今年は「第0番」。第1番よりも若書きの曲が後に発見されて「第0番」となったのではなく、書かれたのは第1番と第2番との間だが、作曲者自身が完成した作品とは認めず、草稿に「交響曲『第0番』。全然通用しないもので、単なる試作」と書いたことで、「第0番」となった(『名曲解説全集第1巻』)。「ゼロ」というのは、「無価値」「無効」という意味をも持つらしい。

 さて、仙台フィルブルックナーについては、過去2年、小泉和裕指揮の圧倒的名演を聴かせてもらって、昨年はその感動から、「仙台フィルブルックナーオーケストラに」などと書いた(→こちら)。下野竜也指揮となった今年も、渾身の熱演であった。が、熱演であることと、感動的であることは違う。いやぁ、すごいなぁ、音楽するって大変な作業だなぁ、と感心しながら聴きはしたけれど、震えるような感動、演奏に引き付けられて集中力が高まっていくような快感はなかった。いくら熱演でも、演奏のどこかに問題があるのか、ブルックナー自身が「無価値」とした曲そのものの問題なのか、私自身の気分の問題なのか・・・それは分からない。

 この曲は確かに、後に確立されるブルックナー様式から見ると、非常に未熟で中途半端な感じがする。しかし、ブルックナー様式の萌芽は明瞭に見出せるし、何よりも全体としての響きは確かに「ブルックナー」だと感じさせられた。それは、偉大な人物の幼少時代を探ってみれば、その人物の原型を確かに見出すことができる、といった感じである。後のブルックナーがあまりにも偉大であるだけに、それはそれで一つの感慨ではあるのだけれど・・・。