南浜地区復興祈念公園迷走曲(終)

 1月26日に(8)を書いてから、2ヶ月以上も経ってしまった。その間、2月15日に部会(分科会)の会議が開かれ、3月5日に第4回協議会が開かれた。私は、部会には出席したが、協議会には出なかった。いつまでたっても日程が決まらず、しびれを切らして早割の札幌行き切符を買ってしまったからである。協議会開催の案内が届いたのは、開催の2週間前。土日に予定を入れずに、じっと待っていろ、と言われても難しい。そもそも、会議の日程をなかなか明らかにせず、出られる奴は出ていいぞみたいなやり方にも、市の姿勢は表れているのだ。部会では、これまでの議論を踏まえたという公園の新プランが提示されたが、これまでの案とほとんど変わってはおらず、基本的に計画撤回論者である私は、ほとんど口を挟むことができないままに黙っていた。
 5日の協議会がどのような内容のものだったのか、出席した仲間に聞いてみようと思っていたら、3月10日の河北新報に、「復興祈り名称『石巻南浜』 公園の基本設計まとまる」という記事が出た。9日に開かれた有識者会議で基本設計が決まったことを受けての記事だという。昨年秋に見たのとほとんど何も変わらない公園の姿が、カラーで紹介されている。ほとんど同内容の記事が、22日の「石巻かほく」に出たと思ったら、今度は、26日の河北、「震災5年 3.11あの日と今」という連載の第何回目かとして、「がんばろう!石巻」看板についての大きな記事が載り、「看板は南浜に整備される復興祈念公園に移設される」と書いてある。多くの異論があるにもかかわらず、である。
 なるほど、もともと何も「迷走」なんかしていないのだ。昨年の夏までに国県市がやると言ったことが、市民の意見に耳を傾けそれを反映させたと言いつつ、ほとんどそのまま実行されることになっただけである。「迷走」は私の願望でしかなかった。
 私が、第4回協議会から1ヶ月以上たった今、ようやく(9)に相当する(終)を書こうと思ったのは、一昨日、建設コンサルタントであり、公園の事前調査を請け負っている会社であるドーコンから、「基本設計における空間デザインについて」という立派な資料が届いたからである。タイトルの下に、「第2回 石巻市南浜地区復興祈念公園有識者委員会 資料 平成28年3月9日」と書いてある。ということは、有識者委員会でも、原案に対する変更は何も加えられなかったから、その時の資料を最終決定として送ってきた、ということが分かる。「今回の協議会構成員の任期は、本年3月をもちまして終了となります。(中略)当協議会にご参加いただきまして、ありがとうございました。」送り状はこう結んであった。
 A3版21ページ、カラーの見事な資料である。検討の経緯、基本デザインコンセプト、そこを出発点としたデザイン展開、南浜の歴史と土地条件、公園計画の平面図、南側からの鳥瞰、日和山からの鳥瞰、植栽計画、市民活動拠点についての考え方、整備スケジュールと、本当に美しく手の込んだ資料だ。
 何度も何度もページをめくっては、覚悟していた敗北感をしみじみと噛みしめていた時、ふと思ったことがある。この資料を作る作業は楽しいだろう、ということだ。与えられた課題に向き合い、時間を掛け、様々なアイデアを組み合わせて、大きな公園をデザインする。自然豊かで美しく広大な公園だ。そして、見ているだけでも楽しいような美しい資料が完成する。将来のことを考えなければ、考え方、感じ方が異なる人が見た時どう思うかということを考えなければ、ワクワクと心ときめくだけの作業であろう。そして資料が完成し、それを見ながら整備された公園が眼前に広がるかのようなイメージに浸る時、とてつもなく大きな充実感、達成感が胸を熱くするに違いないのである。その感覚は、単に一つの大きなものを作り上げたという自己満足ではない。世の中のために仕事をした、という本質的な喜びであるに違いない。もちろん、私が心配している維持管理の労力と経費が、問題として表面化した時には、この計画(資料)作りに携わった誰もが責任をとるべき立場にいないはずだから、彼らは、極めて暢気に今の喜びと充実感に浸っていられるのである。
 もう一度書く。何も「迷走」はしていなかった。多少の茶番を用意しつつ、役所は自分たちの思い通りにことを進めた。そしておそらく、私自身も、ささやかな抵抗が自己満足に終わることが分かっていながら、役所の掌の上で抵抗者を演じてきた。ほとんど何も受け入れられず、予想通りにそれは挫折し、予定通りのプランが確定した。まあ、こんなものである。何が・・・?被災地の復興事業の数々が。いや、世の中のあらゆる施策が、である。