「親の次」という存在

 宮水は今日から新学期。しかし、私は欠席。23日の夜にYさんという方が亡くなって、お葬式だったのである。昨日、就職推薦会議が終わると、車で岩沼市に直行し、出棺からお葬式後の法要までを、Y家の方々と過ごした。
 ところが、このYさんという方が、いったいどういう方なのかというと、ちょっと説明が難しい。血がつながっていないので「忌引き」は取れない。けっこう重要なタイミングで学校を2日間も留守にするに当たり、教頭には「血はつながっていないが、序列から言うと親の次です」と説明した。Yさんが誰かということは、文化的背景のようなものが絡んでくるので、故人を偲ぶこともかねて、少し書いておこう。
 Yさんは、父の同僚であった。と書けば、いつぞやのNさん(→こちら)と同じであるが、そうはいかない。
 8年前に亡くなった(→その時の記事)私の父は、東洋ゴム工業というタイヤメーカーに勤務していた。昨年だったか、ビルの免震装置で不正を働いたと悪名高まったあの会社である。東洋ゴム工業は、1962年、すなわち私が生まれた年に、日本一(東洋一だったかな?)のタイヤ工場を作るといって、岩沼市(当時は町)に工場建設を開始し、1964年に岩沼工場での生産を開始した。社の命運をかけた工場新設ということで、創業時には、大阪の本社工場から選りすぐりの若くて優秀なスタッフがたくさん派遣されてきた。その中の一人が父であり、Yさんだった。
 今でこそ、1日に15便以上の飛行機が飛び、新幹線でも4時間半、テレビやインターネットという情報網の発達もあって、大阪と仙台との物理的、精神的距離は非常に短くなった。ところが、当時はそうではない。特に、大阪から仙台を見た場合、それは正に僻遠の地であって、文化的にも隔絶された場所であった。親たちの話を聞いていると、おそらく当時は、現在、宮城県からオーストラリアやインドを見るよりも、仙台が遠い場所に見えていたように思われる。社命とは言え、転勤には勇気と覚悟が必要だった。
 実際に来てみると、確かに東北は異文化の地だった。会社は、大阪から移住してくる社員とその家族のために、鉄筋コンクリート4階建ての社宅を建てた。我が家もそこに入り、私の幼少期の記憶はそのアパートから始まる。ところが、そのアパートは、岩沼はおろか、仙台にもなかなかない建物だったらしく、近くの人がわざわざ見に来ては、「あんたたちはアメリカから来たのか?」などと尋ねられた、という話も、笑い話として聞いたことがある。「肉」といえば、大阪では牛だったが、岩沼に来てみれば豚で、牛肉はなかなか手に入らない。地元の人の言葉が理解できないことも日常茶飯事。親戚も全て関西にいて、身近にはいない。このような状況の中で、大阪から移住してきた社員は、みんな家族ぐるみで付き合い、東北という異文化の地になじもうと努力しつつ、自分たちのアイデンティティを守り、助け合いながら生活してきたという。まるで移民である。その当時の感覚や、その中で培われてきた連帯感・仲間意識というものは、その後の時代を生きてきた私たち第2世代には想像もつかない。(彼らの多くが岩沼界隈に残り、あるいはどこかへ転勤しても、老後を過ごすために岩沼に戻って来たことは不思議であり、感動的である。告別式でも関西弁が耳についた。)
 そんな状況の中で、特に深く関わりあってきたのが、我が家とYさん、そして今日、弔辞を述べられたIさんの家族である。関西にいてほとんど会う機会のない本当の親戚よりもはるかに行き来が頻繁で、私もYさんやIさん(含家族)に育てられた部分が大きい。親たちは、自然に、自分たちのことを「御三家」と呼ぶようになった。私の父はYさんより3つ上、Iさんより9つ上。父は登山やテニスが趣味だったが、Yさんは野球とゴルフ、Iさんは写真や模型作りが趣味。Yさんはお酒が大好きだが、他の二人は飲まない。と書いてくると、今更ながらに、なんでこの3人が?と思うが、そこは得体の知れない「馬」というものが合った、としか言いようがない。
 Yさんには娘さんが二人で、息子がいなかった。私が可愛がってもらえた理由には、多少はそのこともあっただろう。
 Yさんは満州で生まれ、引き揚げてきて、兵庫県相生市で育った。高校時代は野球部で活躍した。私が野球というものに熱中していた小学校の頃、よくキャッチボールの相手をしてもらったが、Yさんはすごい球を投げていた。シューッという音とともに、正確なコントロールで球が飛んでくる。時折見せてくれる変化球も、切れ味抜群。その約10年後、私は1年間だけ大学の体育会系野球部(準硬式)に籍を置いていたこともあるのだが、その時も含めて、Yさんが投げたような鋭角的なカーブというものを見たことがない。私が遊んでもらっていた頃、Yさんは30代半ば過ぎで、高校時代は確か三塁手だったと聞いていたが、どうしてあんな球が投げられたのだろう?と今でもよく思い出す。Yさんの球を捕ることは、当時の私にとって、挑戦しがいのある課題であった。
 野球だけではない。ゴルフも一流。コンペの優勝カップの類いは100を遙かに超え、エイジシュート(18ホールを自分の年齢数以下で回る)は200回達成を目前にしていた。おそらくスポーツは万能だったのだ。リズム感覚の問題なのだろう、ピアノも上手だった。と、こんなことを書いていると、必然的に思い出されてくるのは、Yさんの体格、特に腰から尻にかけての重厚な存在感である。テレビで野茂英雄が投げている姿を見る時、私はいつも、Yさんの腰から尻の分厚さを思い出していた。種目によっても違いはあるだろうが、それがスポーツのできる人の体型なのだと思う。
 昨日、火葬が終わって、Yさんの骨を目にした時、その場にいた人のほとんどが、その太くて立派な大腿骨に嘆声を漏らした。まるで牛の骨だった。Yさんが高校を卒業し、会社勤めを始めた昭和20年代後半と言えば、日本がまだ戦後の混乱を引きずっていた時代であろう。少なくとも、今のようなゆとりのある社会にはなっていなかった。だからこそ、Yさんが、高卒で工場勤務を始めるわけだが、世が世なら、プロのスポーツ選手になっていたのではないだろうか?
 6月末には、死んだ私の父と一時的な体調不良だったYさんの奥様を欠いた御三家の第1世代4人で秋田県に旅行に行き、7月23日にはゴルフのコンペにも出場した。そんなYさんが、軽い心筋梗塞を起こして入院したのは、先月26日のことである。ステントを入れて治療を終えたが、血栓の様子を見るために2週間入院が必要とのことだった。ところが、その間に腎機能が急低下し、肺炎を起こし、やむを得ず人工呼吸器を装着した直後に意識を失った。今月16日には心室の壁に亀裂が生じた。そして23日に永眠。誰もが驚いた急転直下1ヶ月間のドラマだった。
 死亡診断書は「心不全」だったが、間違いなく老衰である。82歳。あの頑丈な体の持ち主が、わずか82歳で老衰死することが、私には驚きだった。筋力と体力は違うのだということ、命は正に運命的に与えられた寿命なのだ、ということを、目の前に突きつけられた思いがする。
 あのいつもニコニコと穏やかで明るかったYさんが亡くなったことは、私にとっても喪失感が大きい。私の父は7年以上寝たきりで、最後の何年かは意識もなかったので、死んだ時にさほど悲しいとも心細いとも寂しいとも思わなかった。その意味では、Yさんの死は、自分の父親の死以上の事件であった。時間とともに、寂しさは更につのることだろう。合掌。