仙台市地下鉄東西線開業1周年の日に

 今日は仙台市地下鉄東西線開業1周年だそうである。河北新報は、広告じみた別刷りの大特集まで作っていたが、全体としては、当初の営業見込みを大きく下回り、赤字を垂れ流していると批判的な論調の意見が多いようだ。開業前の需要予測、1日80,000人に比べ、3分の2以下、約62%に相当する49,300人の利用しかなかったのだという。
 思えば、一昨日の日曜日は北海道、留萌線の留萌〜増毛が廃止となった。それに関する報道に、必ずのように付いてくるのが、JR北海道では今後13路線、のべ1237㎞で単独維持が困難である(存続するためには自治体の援助が必要)と言っているという話だ。
 人が乗らないから赤字となり、廃止の話も浮上してくる。経営を考えれば、当たり前のことである。経営努力なんて限りがある。もちろん、人の移動が減ったわけでは決してなく、自家用車や飛行機に流れているというだけのことである。「人が乗らない→列車の運行本数を減らす→不便だからますます乗らない」の悪循環だ。
 私は原理的、過激な環境主義者である。この世で環境(=資源)に最も悪いのが軍であることは言うまでもないとして、民生においては、自家用車と飛行機が悪の根源である。鉄道や船ならいいかと言えば、決してそういうわけではなく、どうしても移動が必要なら、満席に近い形で運行できるなら、という二つの前提が必要だ。リニア新幹線など、エネルギー消費量を無視した高速化にも反対である。
 現実問題として、交通機関による移動をゼロには出来ない。だとしたら、必要な移動は、やはり鉄道が最も効率的だ、ということになるだろう。とは言え、自動車以外の交通手段はとかく燃費を隠したがる。飛行機は良心が咎めるからだと想像できるが、鉄道が「エコ」を売り物にするのであれば、もっと燃費を公開すればいいのに、なぜか「かつての○○系車両に比べて何%燃費がいい」みたいな相対的な表現を探すのが関の山だ。船は、私が個人的に尋ねれば教えてくれるけれど、やはりオープンとは言えない。
 それはともかく、だから、鉄道が赤字か黒字かというだけでものを考えてはいけない。できるだけ自家用車を使わなくてもいい社会作りを目指すべきであって、そのために、自家用車を使わなくなったら鉄道を引く、という順番はありえない。鉄道の敷設を先行させ、それが引っ張る形で自家用車の使用を減らしていく必要があるのである。
 だから、仙台市がそのような理念に基づいて地下鉄を引いたとしたら、私は現在の赤字をとやかく言うべきではないと考える。問題なのは、これほど赤字は出ないという見通しを発表して工事を始め、脱マイカーを推進する姿勢もさほど強くは見られないということである。
 「公」が何かの事業を始めた時、当初見込みを上回る収益が得られたという例を、私は思い出すことが出来ない。たいていは、予想外れの大赤字である。世の中には赤字が出ても仕方のない必要投資がたくさんあり、そのようなことは「公」にしか出来ないことなのだから、理念をしっかりと定め、それに自信があるのなら、それをどこまでも主張すべきなのだ。経済性で問題がないふりをして、いわばだまして議会を通し、実際には大赤字、経営理念もあやふや、というのでは、建設業界の歓心を買うための箱物行政の類いだ、と評価されても仕方がない。
 仙台市には、東西線が需要予測を大きく下回ったくらいで弱気にならず、もっともっと自家用車のいらない街作りをして欲しいと思う。そうそう、同時に、自転車を利用しやすい街作り。これも非常に大切だ。