平城京・・・京都・奈良家族旅(3)

 平城京への遷都1300年を記念して、2010年に大極殿朱雀門が復元されたことは知っていた。昔作られた宗教的、芸術的に価値ある建物を保存するためにエネルギーを費やすならともかく、すっかり跡形なくなった平城京を復元するなどという作業は、まったくただの観光事業、その割には作業が仰々しい、と、例によって私は白い目で見ていた。それでも、復元された場所自体は間違いなくかつて平城京があった場所だし、建物はともかく、とてもいい場所だなどと言う友人もいたので、少し寄り道をしてみることにした。
 がらんとしたただの平地で、友人が何を以て「いい場所だ」などと言ったかは理解に苦しむが、建物は思ったよりも手間のかかった「本物」だった。建物の内外に掲示されている説明やパンフレットによれば、朱雀門大極殿も、素案作りから勘定すると30年前後の時間をかけている。材質もきちんとした国産木だ。
 だが、どちらの建物も、その形状についての記録は一切残ってない。朱雀門は、軒瓦のデザインこそ出土品に倣った、つまりはオリジナルと一致する可能性が高いものの、比較的近い時代に作られた薬師寺東塔や東大寺転害門を参考にして推定した形状、大極殿は恭仁宮(くにのきょう)の大極殿跡から柱の位置を推定し、法隆寺金堂、薬師寺東塔や、文献に残る平安京大極殿の絵を参考にデザインしたものらしい。つまり、現時点でできる限りの努力はしたものの、どれほどオリジナルを復元し得ているかについては、甚だ頼りない代物なのである。大極殿の中には高御座(たかみくら=玉座)も置かれているが、これは参考としたのが大正天皇即位の際の高御座ということで、さすがに「復元」ではなく「創作」と書かれていた。
 樹齢約250年という国産の貴重なヒノキやケヤキを使って、これほど歴史的に怪しげな建物を「復元」することは、さすがに気がとがめたのであろう。大極殿の説明には、「復元工事には、伝統技術を保存し継承するという一面もある」と書かれている。なるほど、これは確かに大切なことだ。
 だが、今回訪ねたわずかばかりの寺社の中でも、東本願寺平等院は、解体大修理が終わったばかり、興福寺中金堂は復元工事中、薬師寺東塔は解体大修理の最中であった。春日大社伊勢神宮のように、20年に一度、堂宇などを建て(作り)直す(式年造替、式年遷宮)神社もある。今日、新たにゼロからお寺(伽藍一式)を作るなどということはほとんどないだろうが、古い建築物の解体修理という新築に勝るとも劣らない大工事は、場所を変えながら必要であり続ける。
 宮大工が基本的に家大工と違うというのは理解しているつもりだが、果たして、日本国内に何人の宮大工がいれば、全国の寺社の維持保存は可能なのか。大きな建物を作るのには大量の巨木が必要である。しかし、それは既にかなり以前から資源の枯渇が心配されている。だからといって、早く育てることなど出来ない。切ってしまえばそれきりの貴重な木である。そのことと、技術の継承とのバランスで、修理、復元、宮大工の数は決められなければならない。一時的に仕事が作り出されることで宮大工がバランスを欠いて増えれば、今度は、宮大工を養うために新たな工事が必要となるだろう。
 私はデータを持っておらず、感覚的に考えるしかないのだけれど、やはり平城京の復元というのは余計な仕事だったのではないだろうか。しかも、寺社には祈る場所としての永続的な機能があるが、今更、平城京に託すべき機能はない。あえて言えば、やはり観光資源ということになるのだろうが、奈良が観光資源の不足に困っているとは思えない。
 私が訪ねた日、奈良は日中の最高気温が7度までしか上がらなかった。風もあり、3時過ぎの、日の傾いた平城京は寒かった。朱雀門大極殿が、箱物行政と同様の発想で作られたと感じる身に、寒さはひとしおだった。(続く)