石山寺と紫式部…京都・奈良家族旅(5)

 補足として、面白かったこと、気になったことを羅列しておく。
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 行きのフェリーの食堂で、宮水の同僚A先生にばったり会った。奥さんと、生まれて1年にもならない子供を連れている。我が家と同じ家族旅行だ。
(平)「どこに行くの?」
(A)「船でのんびりするのもいいなと思って来たので、名古屋に着いたら、そのままこの船で仙台に引き返します。」
(平)「え?」
 やるなぁ、A先生。上には上がいる、ということだ。ちなみにA先生は、船舶関係ではなく数学の教員である。
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 先日、築地でも外国人の多さに驚いたし、京都は外国人旅行者が多くて宿の予約もなかなか取れない、と聞いていたが、実際は予想をはるかに超えていた。目の前に見えている景色は確かに日本のものなのだが、たくさんの観光客から聞こえてくるのは外国語ばかりで、日本語が聞こえると、子供たちが「日本人いたよ!」とわざわざ報告してくるぐらいだった。さもない食堂や土産物屋にも英語表記の案内があり、店員である普通のおばさんが英語を話す。食堂に入った時に、店員が最初に英語で話しかけてきて、日本人だと分かると日本語に変わる、ということさえあった。嵐山と伏見稲荷は特にすごかった。伏見稲荷は、なんでも3年連続外国人旅行客による日本の観光地人気ナンバーワンだとか。たしかに、龍安寺の石庭などよりも、おびただしい数の鳥居をくぐりながらの山登りは、外国人、特に欧米人の趣味に合っているだろう、と思った。首相の思惑通り、数年後に外国人旅行客が倍増したら、いったいどんなことになるのだろう?
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 時雨殿と二条城に入れなかったことは、子供たちにとって残念なことだった、という話は初日に書いた。が、一方で、近江神宮の勧学館が開いていて、百人一首名人戦、クイーン決定戦の会場となる「浦安の間」が、1月7日の本番を前に、会場設定された状態で公開されていたのには大喜びしていた。
 次に子供たちが楽しかったのは伏見稲荷らしい。息子は、一生懸命鳥居の数を数えながら、標高233mの頂上まで歩いた。伏見稲荷の鳥居は「千本鳥居」と言われる。このように言われる時、大抵は800本か900本で、格好が悪い上、キリのいい数字にするために「千本」と称しているような気がする。あるいは、中国では単に「たくさん」の意味を表すために「千」や「万」を使うので、それに倣っている、とも考えられる。ところが、子供たちが数えたところによれば、一部重複の周回コースで頂上を往復すると、くぐった鳥居の数は4000本を超える。枝道のようなものもあって、必ずしもその全てを歩いたわけではないから、もし全てを歩いたとすれば、鳥居の数は5000前後にもなるのではないだろうか?
 鳥居は個人による寄進で、大きさによって約18万円〜135万円の価格表とともに、寄進を呼びかける看板は何カ所かで見たから、信仰心の表明として価値を持つのであろうが、その信仰心(願い事成就のための単なる「おねだり」かも)は、第三者にとっては無価値である。だが、鳥居にどんな意味があるかとは関係なく、これほど徹底的に大量であることは、ある種の痛快感を催させる。私も楽しかった。
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 近江神宮の後、同じ滋賀県大津界隈の見どころだからということで、私も行ったことがなかった石山寺を訪ねた。京阪石山寺駅から、美しい瀬田川で高校生がボートの練習をしている光景を眺め、やはりエンジンのない乗り物はいいなあ、などと思いながら1キロほど歩くと石山寺である。
 山門を入るや、源氏物語云々という能書きがやたらと目につく。自動販売機まで源氏物語の絵柄だ。なんでも、この寺で紫式部は『源氏物語』の着想を得、本堂の一部となっている「源氏物語の間」で執筆を進めたらしい。へぇ〜、そうなんだ?これは来てみて良かったなぁ、と思っていたのは、最初の15分くらいであった。
 いよいよ本堂に到着すると、まず最初に「源氏の間」が目に入る。え?こんな入り口の所で創作活動をしたわけがないな、と違和感を強く感じる場所だ。そばに大津市教育委員会の名で説明書きの看板がある。それによれば、本堂が建てられたのは1096年のことだ。どう考えても、紫式部は生きていない。もっとも、本堂は元々、8世紀には建てられていたが、1078年の火災で焼失したものを再建したらしい。両者の形状が同じかどうかは不明である。だから、仮に紫式部石山寺で執筆したとしても、現在の「源氏の間」は復元されたものだということになる。
 では、紫式部がここで『源氏』を書いたことがなぜ分かるかというと、石山寺のホームページによれば『石山寺縁起』や『河海抄』にあるからだという。これはひどい。『縁起』は鎌倉時代末、『河海抄』は室町初期の成立で、どちらも『源氏』から約350年も後である。今に生きる私たちからすれば、1000年と1350年はどちらも「大昔」だが、2017年を基準に350年前を考えると、元禄文化を通り越して、江戸時代初期、鎖国を始めた時期にまで遡る。今の私が、松尾芭蕉について何かを語ったとして、それが根拠として通用するわけがない。デタラメ以外に語りようもない。同じことである。『石山寺縁起』や『河海抄』は、根拠としてはまったく信用ならないのである。
 ちなみに、石山寺自身(ホームページ)は、本堂内陣を「平安中期」、外陣を1602年の建築としている。後から気づいたので、どこからどこまでが内陣で、どこが外陣なのかは確かめなかったが、「源氏の間」は明らかに内陣に属するのであろう。11世紀末はぎりぎり「平安中期」と言うことが可能で(?)、「平安中期」と言えば紫式部も平安中期の人だ。こうして、明らかに紫式部より後の時代の建物を、同時代のものに見せるのはずるい「トリック」である。
 ともかく間違いないのは、今「源氏の間」として公開されている『源氏』執筆の場所が本物でないのはもちろん、紫式部石山寺で『源氏』を書いたというのも、学説にはなり得ない、限りなく虚構に近い「言い伝え」だということである。それを、まことしやかに、さも根拠があって語るかのように宣伝するのは、ただの観光事業である。前述の「トリック」も合わせて、あまりにも悪質であり、お寺のくせに罪深い。いつの史料とも、史料の信用性が低いとも書いてはいないものの、根拠となる史料を挙げているという点では良心的であり、それを自ら確かめもせずに鵜呑みにするのは見物人の責任、というつもりだろうか?(あれれ?まだ続く)