調律とは何か?(2)

 ところがもちろん、2.0273はあくまでも2.0273であって、2ではない。上のドを無理矢理2にすると、シとドの間だけが0.0273倍分狭くなる。この程度の違いであれば、単音で鳴らしたのでは、わずかなズレを聞き取ることはできないだろうが、和音を長く鳴らすと、うなりが発生することで感知され得るレベルになってしまう(らしい)。このわずかなズレを、最後のドだけに負わせるのではなく、音階の中のどこに置くことが音楽を演奏する上で最も害が少ないのか?いくつかの場所に分散させることは可能なのか?という模索が行われた。
 机上の空論が許されるなら、このズレを12音に均等に分散させれば、1箇所当たりのズレは限りなくゼロに近くなり、音楽には支障を来さなくなる。しかし、昨日私が下のドを基準として計算を重ねたように、何かの音を基準にして協和するという現象を利用しなければ、音を作ることは難しい(ギターの調弦を見ているとよく分かる)。だとすれば、人間の耳で感知できないほどの微妙なズレを、分けて散らす(全ての音を微妙に外す)というのは口で言うほど簡単ではない。
 現在、ピアノに使われている「平均律」という音律は、このひずみを均等に分散させた音律である。理論そのものは相当昔からあったようだが、実際上は、文明の力でひずみを均等に分けた音を作り出せるようになってこそ実現したものである。これは進化だ、文明は素晴らしい、などと言ってはいけない。なぜなら、ひずみが不均等に配置されていれば、同じ3度の和音でも響きには違いが出てくる。だからこそ、調性(ハ長調とかニ長調とか・・・)には個性があった。平均律では、どの調でも和音が同じ響きを持ち、調性は基音の高さが違うという意味しか持たなくなった。どの和音もほどほどに美しく響く代わりに、完璧に協和しているという美は失われたのである。便利であることは、均質化と没個性とを生む。教訓的な話だ。
 話を戻す。
 ひずみを様々な場所に分散させる方法は、実際の作業の可能性(現実性)も考えながら作っていかなければならない。なかなか大変な作業である。基準になる音を変えたり、掛ける数を変えたりしながら、音の協和を利用してひずみの場所を調整してゆく。そうして作り出された秩序を「音律」と言い、どんな和音を美しく響かせるかによって、たくさんの音律が生み出された。ネットで検索すると、いろいろな音律を探し出すことができる。今回、見付けられなかったが、当時私が見付けてプリントアウトした「松井のページ」というサイトには、なんと37種類の音律が紹介されていた。このことは、昔の人たちが、ほんのわずかな音のひずみに強い違和感を感じ、強い執念でそれを解消させようと努力していたことを示している。
 「調律」という言葉は、いろいろな意味で用いられるが、例えば家庭で行われるピアノの「調律」は、「平均律」という音律で調整されているピアノの音の狂いと、ピアノの機械的な部分(アクション)の不具合を調整する作業のことである。しかし、パイプオルガンは、ピアノと違って、使用によってパイプの長さが変化し、音が狂うといった現象を起こさないから、音高の調整は必要ない(起こすとすれば、ポジティーフ・オルガンでなくても調整が出来なければならない)。だとすれば、今井先生がポジティーフ・オルガンを指さして、わざわざ「調律が出来る」と説明した時の「調律」とは、1本1本の管の長さを微調整して、選択した「音律」を設定する作業を意味するに違いないのである。
 我が家には、平均律で調律された現代ピアノだけではなく、「ミーントーン」や「ヴェルクマイスター」といった音律で調律された楽器によるCDがあるが、恥ずかしいことに、私の耳では違いが全く分からない。和音を長く延ばしたり、他の音律による演奏と比較して聞かせてくれれば分かることもあるのかも知れないが、後から後から音が移って行ってしまう実際の音楽においては、その音の響きの特徴など聴き取れるものではない。おそらく、どの音律で調律されても、私のような平凡な耳の持ち主にとっては意味がないのである。いや、私だけではあるまい。一部の例外的に敏感な耳を持っている人以外、おそらく誰にも違いは聴き取れないだろう。だから、ごく少数のマニアックなCDでは、用いられている音律に言及することがあるものの、あとはどんな音律を使っているかわざわざ断ったりしないのだ。そう思うと、より良い響きを求めてそれだけ多くの音律を生み出してきた昔の人というのは、信じられないほど鋭敏な耳を持っていたということになる。
 大げさな機械である現代のピアノは、音も狂いにくいし、素人作業で調整をすることはほとんど不可能である。だから、ピアノを持っていても、持ち主は弾くだけ。「調律」という調整はプロに頼む。一方、か弱い真鍮の弦を鳥の羽の軸(今はプラスチック)でひっかくハープシコードは音が狂いやすく、いちいち専門家を呼んでいられないので、大抵は持ち主が自分で音を調整をしていた。今も昔も、フレットのない弦楽器(ヴァイオリンなど)は弦の張りや押さえどころを演奏者が自分で調整して、正に音を作っている。弦楽器奏者や繊細な楽器を自分で調整しながら演奏していた昔の人が鋭敏な耳を持つようになること、家庭でピアノを弾くだけの人が耳を鍛えきれないことは当然と言える。
 久々に言わせてもらおう。「文明は人間を堕落させる」。平均律に慣れきり、自分で音の調整をしなくなった現代人に、「調律」(音律の選択)は必要がない。それはおそらく「堕落」を超えて「退化」である。(完)