シビック・ジャーナリズム

 昨日の夕方は、宮城県NIE推進委員会高校部研修会というのがあって、河北新報社へ行っていた。看板はたいそうだが、首謀者は私で、参加者も11人というささやかな会である。先日、県のNIE研究大会で公開授業を行った仙台城南高校のT先生に、ダイジェストで実践報告をしていただいた後、河北新報社論説委員、寺島英弥氏の講演を行った。演題は、「当事者とつながる報道−シビック・ジャーナリズムの視点から−」。
 「どこよりも早くスクープを取る」という従来の「いい新聞記者」像への反省から、「人と人とをつなぐ」という原点に立って報道のあり方を考え、実践に努めてきたという自らの道のりを振り返ってのお話であった。ALS患者、自死者の遺族、そして原発事故で避難を余儀なくされた福島県沿岸部(ご自身の故郷でもある)の人々について、自分が取材をして書いた記事を取り上げ、時に自ら美しいテノールで朗読しながら約80分間語って下さった。参加者アンケートは取っていないが、閉会後に寺島氏を取り囲んだ人も多く、好評だった。
 私は、この会を主催するに当たって、10月25日に河北新報社で1時間あまりにわたって寺島氏と打ち合わせをした。1対1の対談なので、1対多の講演とは性質が違うのは当たり前なのだが、私自身はその対談の方が濃密にお話を聞くことが出来て印象的だった。
 「シビック・ジャーナリズム」とは耳慣れない言葉である。実は、寺島氏は2002年から2003年にかけて、フルブライト研究員としてアメリカに滞在し、「シビック・ジャーナリズム」と言われる新しい報道のあり方について調査と考察を行った。その成果は『シビック・ジャーナリズムの挑戦−コミュニティとつながる米国の地方紙』(2005年、日本評論社)という著書として刊行されている。氏の数ある著作の中で、必ずしも新聞記者としての「業務」で書いたわけではない唯一の著作であり、作品リストの中では異彩を放っている。打ち合わせに出向くに当たって私は、身近な図書館で何冊かの寺島氏の著作を借りて読んだが、この本だけは手に入らなかった。私は、わざわざ買って読んでから河北新報社に出向いた。
 アメリカでは、従来の報道が、公正で客観的であることをよしとし、二つの立場の対立という図式でしか物事を見つめられず、高学歴の記者が上から目線で記事を書くという傾向に陥り、結果として読者の離反を招いているという反省に立って、「シビック・ジャーナリズム」が提唱されるようになった。それは、記者が住民の中に入り込んで、彼ら同士を結び付けるような取材をし、記事を書こう、それが報道の原点なのだ、という主張である。購読数の減少は、インターネットの普及だけが原因ではない。記者が読者から離れてしまったという報道姿勢そのものの問題も大きい。その問題意識がシビック・ジャーナリズムの出発点であり、寺島氏が共感して考察した原因でもある。
 私が氏の著作を通して、そのような報道姿勢の問い直しを知った時、これはずいぶん学校と重なり合う話だと思った。なぜなら、学校にも、公正、客観的な知識を、学歴的に上位にある教員が生徒に対して上から目線で注入するという図式があるからである。シビック・ジャーナリズムの立場に立つ新聞記者は、住民に接近し、共感し、時にその活動をサポートするという方向に向かった。記事も出来る限り署名入りとし、読者と双方向の交流が出来るようにもしている。警察や役所に行って取材をして記事を書くよりも、圧倒的に手間のかかる方法だ。
 「公正で客観的」という報道にある種の冷たさや上から目線があるとしても、接近しすぎれば、メディアとしてのいい意味での中立性は守れない。記事が感情的になるのも、それはそれで問題だ。そして何よりも、人々の抱える問題を解決させていくためのコーディネーターとしての役割を大きくすれば、新聞社が社会を丸抱えするような構図にもなってしまう。あれれ、これも学校が抱える問題と同じである。
 寺島氏は、アメリカから持ち帰った知見を、自分の会社、更には日本の新聞各社内でも共有してもらおうと努力をした。講演などの機会を作ってくれる会社はあったらしいし、書籍化も出来た。しかし、購読者数が右肩下がりという危機的状況が明らかで、何かをしなければ「座して死を待つ」状況にある現在の新聞社でも、シビック・ジャーナリズムを積極的に取り入れてみようという全体的な動きにはなかなかならないらしい。停滞を打破するための挑戦的な手法も、前例の壁に阻まれ、容易には受け入れられない。これもまた、学校内で普通に見られる現象だ。
 というようなわけで、時に新聞社、時に学校の事情を話しながら、ささやかなる講演会の打ち合わせが、ついつい情報交換、果ては議論のようになり、1時間以上に及んでしまったのである。
 某東京都知事がさっそうと登場すると、ほとんど一瞬にして、すわ政権交代か?というような流れが発生し、一つの発言をきっかけに急激に失速する。行われていることにさしたる中身がないのに、社会全体への影響は大きい。一方で、地道な取り組みはその成果が目に見えるようになるまでに膨大な手間(=時間)がかかる。しかし、これが様々な現象の本質なのである。「文化の価値はかけた手間暇に比例する」(→解説こちら)。にもかかわらず、人々の本能は手間を惜しむ方向を向いている。文明がそれを可能にすると誤解する。本物への道は常に遠く厳しい。