Hatena::ブログ(Diary)

Tr,平居の月曜プリント

2018-03-31

和田岬線

 塩釜高校は昨日が離任式。どこの学校でも同じだと思うが、離任式の午後は、職員室の机の移動と大掃除である。しかし、塩釜高校が普通の学校と違うのは、キャンパスが2つあって、異なるキャンパスへの移動は転勤と同じ作業になる、という点である。だから、私が今まで勤務していた学校のように、机そのものを動かすことはせず、全員が荷物の移動をする。毎年必ずこのような作業があることが分かっていると、余計なものをため込まないというメリットはあるが、それでもやはり作業としては大変だ。東西両キャンパスの間を、段ボール箱を持って移動している教員の姿を見ながら、生徒が「あ、○○先生西(3年生担当)になるんだ」とか、いつまでも机を片付けない教員を見ては、「△△先生は東に残るみたい」とか、いろいろな噂をしている。面白い。ふふ。


 さて、六甲山全山縦走が1日半ほどで終わり、月曜日に訪ねる予定だった姫路のK先生を、日曜日の夕方に訪ねたため、月曜日がぽっかり空いた。

 この日も天気はいいし、何をしようかなぁ、と思って、京都に行くことにした。大好きな阪急電車にたくさん乗れる上、桜はおそらく満開だし、多少人は多いかも知れないけど、京都なら行ってみたい場所を探すのも簡単だ。

 だが、よく考えてみると、私が神戸宿泊したのは初めてである。昔自宅があったのは同じ兵庫県瀬戸内龍野市(現たつの市)で、そこから神戸にわざわざ泊まりに行くなんてあり得ない。その後は、神戸に用事がある時には大阪泊まりとなった。だから、元々兵庫県民だったとは言え、神戸は案外よく知らない。観光地として有名な北野の異人館街さえ、実は訪ねたことがないのである。今回、神戸駅に近いホテルに泊まり、ぶらぶら三宮まで歩いたりしながら、兵庫県庁や元町の南京町中華街)を初めて見た。

 京都に行くとは決めたものの、駅へ向かって歩き始めたところで、そうそう、もう一箇所、JR和田岬線を乗りに行こう、と思いついた。

 「和田岬線」は通称である。行き止まりの盲腸線であるため、独立感が漂い、それ故に「和田岬線」などと呼ばれはするが、実は山陽本線の一部である。宮城県で言えば、岩切利府が本線から枝分かれしていながらやっぱり東北本線だ、というのと同じである。兵庫駅から和田岬駅まで、距離はわずか2.7辧E喘罎鳳悗呂覆ぁ和田岬駅周辺の大工場(三菱電機三菱重工など)に通う人のためだけに走っているようなものなので、朝夕の通勤時間帯以外は列車が走っていない。平日は、朝に7本、夕方に10本の列車が走っている。なぜ朝より夕方の方が多いのかは分からない。会社に行く人よりも帰る人の方が多い・・・なんて、あるわけないのに・・・。そして、兵庫駅発を基準にすると9:10から17:16まで列車はない。土曜日にはそれが午前6本、午後7本となり、休日は朝夕1本ずつ、1日で2本となる。この辺の事情は、横浜鶴見線(→を訪ねた時の記録)ととてもよく似ている。そのため、今までなかなか乗る機会が無かったのである。

 兵庫駅和田岬線のホームに向かうと、入り口の所に改札口がある。切符を入れると出てこない。よく見ると、「切符はここで回収となります」というようなことが書かれている。ははぁ、なるほど、この後、駅はひとつしか無いわけだから、この改札を通過したということが、終点までの料金を払っているということであり、もう切符は必要ないわけだ。長い通路の先に1本だけのホームがある。

 車両は水色の懐かしい103系(昔の山手線型。仙石線でも走っていた)。堂々の6両編成だ。私がホームに行った時は、前の電車が出た直後で閑散としていたが、やがて電車がホームに入ってきて、出発する頃には定員を遙かに超える人が乗っていた。

 川崎重工鉄道車両工場やノエビアスタジアムヴィッセル神戸のHG)を眺めたり、兵庫運河を渡ったりしながら、ほんの3分走って着いた和田岬駅は駅舎がない、やはりホーム1本だけの駅であった。帰りの切符を買おうと思ったが、自動券売機さえない。なんとかなるのだろうと思って引き返すと、兵庫駅和田岬線改札口の所に、和田岬発の切符を売る券売機が設置されていた。なるほど、確かにこれで間に合う。

 改札のシステム以外、特に見るべきもののない電車ではあったけれど、宿題を一つ果たしたような気分にはなれた。

2018-03-29

六甲山全山縦走路を歩く

 今日はついに「ホーホケキョ」が聞こえた。梅の花も一気に満開。

 さて、兵庫の続きである。

 バスが大阪駅に定刻より10分ほど早い6:55に着くと、私はあの大好きな阪急電車(→解説記事)に乗り、まずは宝塚に行った。ここからJR山陽本線の塩谷駅まで、六甲山脈を縦走しようという計画であった。

 おそらく中学生の時だったと思うが、父が購読していた山岳雑誌『岳人』で、私は六甲山全山縦走大会というイベントがあることを知った。それは同時に、六甲山に東西を貫く一本の縦走路があることを知ったことでもあった。それから約40年。時間の都合がつかないとか、計画を立てると雨が降るとか、いろいろな事情があって、今に至ってしまった。

 神戸の街から至近に見えるからといって、馬鹿にしてはいけない。何しろ距離が約55辧腹50劼頬たないという説もあり)、累積標高差が2500mもあるのである。最初にこの縦走路のことを知ったのが縦走大会の記事だったということもあって、一気に歩き通すのが当たり前、それ以外のやり方は邪道だと考えてしまったことが、敷居を非常に高いものにしてしまった要因だろう。この間、私は六甲山系を部分的に歩くということさえしてこなかった。

 今回、未明から歩き始めるわけにはいかないということもあって、さすがに1日で完歩は無理だと思い、2日間という時間を確保した。なにしろ神戸の裏山である。バスの走る道路やら、ケーブルカーやらロープウェイやらがあって、行動を中断して下山し、翌日続きを歩く、というのが容易なのである。宝塚を起点にして、最悪でも摩耶山、あわよくば鵯越(ひよどりごえ)まで1日で行けると、2日目が楽になるな、と思いながら歩き始めた。幸い、土日は最高の天気が予想されていた。

 結局、次のように歩き通すことができた。

【3月24日】

阪急宝塚駅7:55〜8:35岩倉山〜9:15大平山〜10:35六甲最高峰(931m)10:40〜11:20ガーデン・テラス〜12:10三国池の下12:27〜天上寺〜13:05摩耶山(掬星台)13:15〜14:28大龍寺〜15:02鍋蓋山〜15:50菊水山16:00〜16:45神戸電鉄鵯越駅

【3月25日】

神戸電鉄鵯越駅8:02〜9:02高取山9:10〜那須与一墓〜10:37東山須磨アルプス〜11:05横尾山〜11:17栂尾山〜11:45高倉山12:05〜12:20鉄拐山〜12:32旗振山(鉢伏山往復)12:55〜13:30JR塩屋駅

 

 書いた以外にも休憩は短時間ながら時々取っているし、天上寺、那須与一の墓と那須神社、大龍寺など立ち寄って見るべき所はしっかり見ている。相当なピッチで歩いていたのは確かだが、それでも少々あっけないくらい早く終わってしまった。とは言え、これを1日で歩けと言われたら?・・・それはさすがに厳しい。いくら寄り道をせず、荷物をもう少し減らせたとしても、である。

 道はとても歩きやすく整備されている。しかも、ごく一部を除き、さほど人工的でもない。道標は山中でこそ過剰なくらいに設置されているが、何度か住宅地に下りる所があって、そこは道標が少なく、分かりにくい。特に、宝塚駅から岩倉山までは、車道と山道があり、その山道が山岳地図(昭文社)に載っていない上、入り口に道標がない。方向が合っているから大丈夫だろう、塩尾寺(えんべいじ)の門前あたりで車道に合流し、そこから縦走路に入るに違いない、と思って進むと、塩尾寺を通過し、岩倉山で縦走路に出た。鵯越駅から高取山の登山口までも分かりにくかった。ごく稀に、電信柱に「←全縦」とだけ書かれた小さなプレートが付けられていたりする。それで十分なのだから、もう少しあるといい、と思った。

 もっとも、私は元々、頼るべきは地図だ、道標などという過剰サービスは登山者の読図力を低下させるから設置する必要なんてない、と言っている人間である。しかし、2万5千分の1地形図も含めて、登山道の表記は正しくない場合が多いし、都市部は状況が変化しやすい。得体の知れない枝道が多いのも里山の特徴だ。スムーズな移動に、道標はやはりありがたい。

 「六甲山全山縦走路」とは言っても、それを歩けば六甲山系の全山に登るかと言えば、まったくそんなことはない。六甲山系にはおびただしい数のピークがあって、私が踏んだのは哀しいほど一部である。六甲山系にあり「○○山」と名前のついている山で、私が頂上を踏んだ山はおそらく30分の1にも満たない。「全山縦走路」とは、あくまでも、山脈の端から端までをできるだけ直線的に、尾根を伝って歩ける場所に付けた便宜的な名前なのだ。

 縦走路のほとんどは森の中の道で、視界は開けないが、ピークはそれなりの見晴らしの場所が多い。白眉摩耶山である。ここは、神戸の夜景を見るための最も有名なスポットになっていて、ロープウェイで容易に登ることが可能だ。その展望台を「掬星台(きくせいだい)」というのは、神戸の夜景が「星を掬(すく)う」ことが出来るように見えるからだと言う。確かに、夜景を見に行ったら美しいだろう、と思わされた。

 縦走路のちょうど真ん中あたりに、六甲山小学校という学校がある。事前に地図を見ながら、周りに住宅地があるわけでもなく、いや、今や住宅地があってさえ生徒数の減少がひどいのに、なぜこんなところに小学校があるのだろう?と思っていた。今回、近くにある商店で尋ねてみると、特に学区というものはなく、多くの生徒が山の下からケーブルカーで通ってくるのだという。以前は、もっと遠くからも来ていたが、非常に人気があって、児童数が増えすぎるので、今は神戸市内からに限定しているらしい。豊かな自然環境を生かした教育が売りで、児童数も少ない(各学年10名ほど)ので、下界で学校不適応を起こした子なども来るのだそうだ。恐れ入る。

 ハイライトは、やはり六甲山最高峰と須磨アルプスだろう。ガーデンテラスといういかにも観光地然とした、おしゃれなレストランなどが建ち並ぶ所のすぐ近くに889mの三角点があり、有馬温泉から上ってくるロープウェイの駅が、ケシカランことに「六甲山頂」なので、それとはっきり区別するためにわざわざ「六甲山最高峰」などと呼んでいる。しょせん931mだが、頂上は広い裸地になっていて見晴らしがいい。

 須磨アルプスとは、東山と横尾山の間にあるやせ尾根である。風化した花崗岩がやせ尾根を作り、住宅地を別にすれば、全山縦走路の中でほとんど唯一、森の中ではない場所を歩く。危険なので注意するように、というような看板が手前にあり、「なに、たいしたことあるものか」と思っていくと、少し驚く。尾根が本当に狭い上、ずるずる滑ったり崩れたりしそうな場所なのだ。本当に危ないと思ったのは、わずか2〜30mくらいのものだが、どこかの2000m峰、3000m峰の岩場に付けられた登山道よりも「怖い」と思った。

 念願かなって「全山縦走」はできたわけだが、終わってからまじまじと地図を見ると、自分が歩いていない場所の多さと、全山縦走路以外の場所の魅力がひどく気になる。いい季節に時間を取って神戸まで行くのは大変だが、何かのついでに、また別のルートも歩いてみたい、という気がしてきた。結局、今回のは「序章」だ。 

2018-03-28

ホセ・アントニオ・アブレウとエル・システマ

 今朝、ウグイスが鳴いた。「ホーホケキョ」には至らず、「ケキョ」と一声鳴いただけだったのだが、間違いない、ウグイスの声だ。息子も、「あ、パパ、ウグイス鳴いたよ!!!!」と大騒ぎ。いいなぁ、この年中行事

 そう言えば、昨晩、我が家の駐車場にカエルが大発生した。握り拳よりやや小さい程度の、大きな土色のカエルである。10匹くらいだろうか?20年以上同じ場所に住んでいて、初めてのことである。近くに池や湿地なんてない。今朝、出勤する時にはいなかったが、帰宅時にはやはり5匹くらいいた。いったい何を意味する現象なのだろうか?

 さて、兵庫旅行の続きを書くと予告しておきながら、突如別件とする。

 昨日、帰宅してから不在期間中の河北新報を読んでいたら、3月27日の国際面にホセ・アントニオ・アブレウの小さな訃報が載っているのが目に入った。知る人ぞ知る、ベネズエラの音楽教育システム「エル・システマ」の創始者である。その門下からは、昨年最年少でウィーンフィル「ニュー・イヤー・コンサート」の指揮台に立ったグスターヴォ・ドゥダメル(→を見に行ったときの話)が出たことでも有名だが、決して商業主義的な英才教育のための組織ではない。むしろ、貧困にあえぎ、心がすさんでいる多くの若者を覚醒させ、輝く人間へと生まれ変わらせるところにこそ「エル・システマ」の真骨頂がある。

 私はかつて、トリシア・タンストール『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラエル・システマの奇跡』(原賀真紀子訳、東洋経済新報社、2013年)でこの人のことを知り、とてつもない大人物として感銘を受けた。本当にとてつもない大人物なのである。

 タンストールのこの本は、「エル・システマ」をあまりにも完璧なプロジェクトとして描きすぎているような気はするが、控えめに見て、正しいことが7割しか書かれていなかったとしても、その組織者は十分に尊敬に値する。それほど偉大なプロジェクトである。

 アブレウは1939年生まれ。64年に経済学で博士学位を取得したが、その一方、音楽大学で作曲とオルガン学位を受けた。アメリカミシガン大学で助手をしながら経済学での業績を重ねるとともに、70年代に入ると、ベネズエラ議会の最年少議員となり、学問と政治の世界で着々と地位を固めた。しかし、若者に門戸を閉ざしていたベネズエラの音楽界に問題意識を持ち、輝かしいキャリアを捨てて音楽活動と音楽教育に尽力するようになる。そうして生まれたのが、「エル・システマ」だ。

 アブレウは自分の音楽体験の原点を、少年時代、ドラリーサ・ヒメネス・デ・メディアピアノ教室に通ったところに見出している。「厳しい教師についていたら、背後から睨まれて重圧を感じていたでしょう。ドラリーサ先生はそうではなく、私たちに音楽を通してコミュニティーの一員として生きることを実感させ、そこには喜びがあふれていることを教えてくれたのです。先生のところで教わったことが私の人生を決定づけました。」アブレウは「僕の持つDNAは、ドラリーサ先生にまで遡る」と言い、その写真を見ながら「システマはここから始まったのです」と語る。

 アブレウ自身(A)とドゥダメル(D)の言葉を思い付くままに本から拾ってみよう。アブレウの人となりや仕事の内容がおよそ分かるのではないか?

「社会を芸術に触れさせるという発想はやめて、芸術の中に社会を取り込む。一番つらい思いをしている弱者、すなわち子どもたち、そして他者から人として認められ、尊厳を保ちたいと願う人たちのために芸術を役立てるべきです。」(A)

「住むところや食べるものに不自由している状態だけが貧困ではない。孤独であるとか、他人に評価されないとか、精神的に満たされていない状態も貧困である。物質的に恵まれない子どもが、音楽を通して精神的な豊かさを手にしたとき、貧困が生む負の循環は断ち切られる。」(A)

「音楽を教えるとき、マエストロはいつも社会的な価値について教えようとします。音楽だけじゃない。愛について。」(D)

「相手の気持ちを思いやって手を差しのべるその器の大きさは、ほんとうにすごいと思います。だからマエストロは、みんなに愛されるのです。」(D)

マエストロ・アブレウは、人は夢や憧れを抱いてもいいのだということ、そしてそれらはかなうということを、私たちに教えてくれる人です。」(D)

 産油国として一定の富はあるけれども、貧富の差が大きく、治安もよくない現実の中で、貧困層も含めた音楽教育を組織的に行うのは至難である。それを可能にしたのは、アブレウの持つ巨大なエネルギーであり、即断即決即行の能力、そしてドラリーサによって育まれたという音楽と人間に対する深い愛だ。だが、アブレウと同様にそれらの能力を持つ人はいても不思議ではないし、努力によって獲得できる部分もあるだろう。

 一方、タンストールはアブレウが名伯楽であったことを指摘する。「アブレウは人の潜在能力を探知できる並外れた目利きである。当の本人がまったく気づいていない才能を引き出すことも珍しくない。」音楽的能力についてだけではない。楽器製作・修理や組織マネジメントに至るまでのあらゆる能力についてだ。おそらくこの点が、アブレウをアブレウたらしめていた、他の人には真似のできない、同様の才能を持つ人を探し出すことが最も難しい美点だったのではないか、と思う。

ホセ・アントニオ・アブレウ革命家であり、ネルソン・マンデラに匹敵する。彼がこのシステムを築いたことで、多くの若者が音楽とともに生きるようになった。それほどたくさんの人の命を彼は救ったのだ。」(ベルリンフィル芸術監督 サイモン・ラトル

 「エル・システマ」とは「システム」の意味だ。だが、アブレウ自身が、「なにかをシステムとして定義したら、その日からその命は消えてしまう」と語る。おそらく、何事でも同様である。いかなるものも安住は許されない。絶えず何かに挑戦し、より高い価値へ向けて新しいアイデアを出し、変革の努力を続けていかなければ、物事はいともたやすく堕落や崩壊に向かってしまうものだ。アブレウという稀有の指導者を失った、しかも巨大化してしまった「エル・システマ」が、今後どのような道を歩むのか。精神を受け継ぐことは容易ではないし、まして伯楽の目についてはなおさらである。その行く末を気にしながら、改めてこの偉人に思いを致そう。合掌。

2018-03-27

無情であり無常

 最近、体調すこぶるよろしい。基本的には、C型肝炎が9年前に治った後(→C型肝炎の記録)、肝臓に蓄積されたダメージが徐々に回復して、本当の意味での健康体になったからだと素人判断している。それが正しいとして、慢性肝炎というのは恐ろしいものだな、と思う。当時は「自覚症状なし」と思っていたのだが、症状の発現が非常に緩やかで、気付かなかっただけなのだ。ウィルスの駆除に成功したという診断をいただいた当初、体が軽くなったような気がし、不眠傾向もなくなりつつあったが、結局、それらだけの問題ではなかったのだ。そして9年。傷んだ肝臓回復するのには、これだけの時間が必要なのだとつくづく実感している。昨年11月以来の生活大改善運動による体重減少や、生活習慣病傾向の解消も多少は影響しているかも知れない。

 先週金曜日の夜から兵庫県に行っていた。帰って来たのは今朝である。往復ともに夜行バス。こんなことは、以前なら絶対にしようと思わなかった。今はさほど抵抗なくできる。今日だって、帰宅後、昼寝なんかしていない。

 元々は、「高校時代の恩師を訪ねる旅」であった。高校1年の時の担任K先生が、宮城県に知人がいるから、その人を訪ねるついでに平居の所にも行くぞ、とおっしゃっておられたのだが、数年前からだっただろうか。パーキンソン病を患い、体の自由が利かなくなった。年賀状に、もう宮城を訪ねることはできないが、君には会いたい、というような文言が毎年繰り返されるようになった。

 K先生からはずいぶん可愛がってもらった。体調もずいぶん悪そうだし、一度お見舞いのつもりでお訪ねしようか、と思い、今年の年賀状に、「春先にでも伺います」と書いた。「そのうちに・・・」と言っていると、いつまでも先延ばしになるので、わざと引っ込みがつかなくなるようにしたのである。

 2月20日頃に、一度ご都合伺いで電話を差し上げた。驚くほど以前と変わりのない、若々しい声だった。ところが、話がちぐはぐでかみ合わない。間もなく「あ、今替わります」と言って、相手が変わった。どうやら電話に出たのは息子さんだったようだ。もう15年くらい前に奥様を亡くされ、一人暮らしをすると聞いた記憶があるので、まさか息子さんが電話に出るとは思わなかったのだ。若い頃の先生の声にそっくりだったことも、私に誤解させる原因となった。電話口に出られた先生は、一転、これが本当にK先生だろうか、と思うほど老人然とした声であり話しぶりだった。

 前回、お目にかかったのは20年近く前。姫路駅から約2辧姫路城の裏手にある先生のご自宅に近い喫茶店でだった。その時は先生が場所をそこと指定されたので、自宅は訪ねない方がいいのかな、などと思いながら、今回は私の方から「姫路駅界隈でお食事でもご一緒しながらお話ししませんか?」とお誘いしてみると、「とても姫路駅までなんかよう出ん(=出られない)」との答えが返ってきた。よほどお悪いのだな、と思った。

 日曜日の夕刻、私は先生の自宅を訪ねた。衝撃を受けるほど体の自由が利かなくなっていた。パーキンソン病というのは、原因不明の難病だと知っていたが、これほど残酷に症状の出る病気だとの認識はなかった。認知症を併発することも多いというが、K先生の場合、幸いにして頭は非常に明晰。記憶もはっきりしていれば、論理的にも混乱のないお話をされる。だからこそなおさら、かろうじて自分のことが自分でできるというだけの現状は、ご本人にとってつらいことだろう。もっとも、病気だからこそ若くして(70歳)不自由生活となっているが、病気がなくてもあと15年もすれば同様の状態になる。私が高校に入って先生と出会った時、先生は30を過ぎたばかりのはつらつとした時期だった。その時の印象が非常に強いから、あの先生でもこのようになるのか、病気に罹るにしても年を取るにしても、この世は正に「無常」なのだ、という哀しい感慨は強かった。

 「平居、おまえ何歳になった?・・・あぁ、そうか。その割にずいぶん若いな。」とおっしゃるので、「この1〜2年でずいぶん白髪も増えましたけど、そう言っていただけるのはありがたいことです。欲が深いからでしょうね・・・」と答えた。先日、石巻在住の退職教員A先生にお会いした際、A先生は「最近は意欲というものが湧いてこない」とぼやいておられた。欲があれば生活に張りがあり、若さを保つことも多少は可能かも知れないが、その欲もやがては衰える。欲が衰えれば老化も早まる。肝炎が治っても、生活改善をしても、結局はやがて衰え、自由を失っていく。K先生との会話の内容とは関係なく、そんなことに対する哀しみが大きかった。

 先生の自宅にいたのは2時間あまり。私が関西にいたのは実質3日間。残りの時間は何をしていたの・・・?それはまた明日。

2018-03-19

最後は「枯葉」

 後半はラヴェルラヴェルという作曲家は、特別に好きということもないが、「左手のためのピアノ協奏曲」と「ボレロ」だけで音楽史に名前を残すに値する、と思っている。それほど、これらの曲の斬新なアイデアと音を操る術のすごさは際立っている。

 2曲演奏されたワルツは、どちらも有名なものであるが、わざわざ意識しないと、私にはワルツに聞こえない。「ラ・ヴァルス」の盛り上がりはなかなかのものだが、それでも、ラヴェルヨハン・シュトラウスファンであり、それにインスピレーションを得て作曲したワルツだと言うにはちょっと凝り過ぎなんじゃないの?という思いを止めることが出来ない。

 「ボレロ」は大いに盛り上がったが、これはあくまでも「ボレロ」という曲自体の力だ。私には「ボレロ」に指揮者が必要かどうかすら分からない。ヴェロもほとんど突っ立ったままで、せっせとオーケストラのコントロールをしていた、という感じではなかった。

 アンコールはまずシャブリエの「ハバネラ」。それが終わってステージから下がると、ヴェロはジャケットを脱ぎ、まるで矢沢永吉のようにバスタオルを首に掛けて再びステージに現れた。日本語で聴衆に向かって語りかけようとしたが、間もなくそれをコンサートマスターの神谷さんに任せた。神谷さんは、ヴェロの意を受けて多少のお話をした後、もう1曲、最後の最後のアンコール曲についての説明を始めた。「曲はイヴ・モンタンその他の人が歌って有名な「枯葉」。歌詞の内容は「出会いには、いつか必ず別れがあるのさ」というようなもの。ヴェロさんが歌います。」この瞬間、客席には「オ〜ッ!」という声にならないどよめきのようなものが広がった。それはそうだ。私も長く「聴衆」をやっているけど、指揮者が歌うなんて初めてだからね・・・。

 コントラバス奏者が一人、指揮台の横に出てきた。ヴィオラ首席奏者が譜面台を差し出す。1台のコントラバス伴奏に合わせて、マイクを持ったヴェロが静かに静かに歌い始めた。まず最初に、フランス語の響きの自然な美しさに驚く。これまでも十分に分かっていたつもりだったが、確かにヴェロはフランス人なのだ、という驚きが新鮮だった。

 ヴェロの歌は静かに続く。歌うと言うよりも語りかけるように、多くは最弱音で、正に聞こえるか聞こえないかすれすれの所を行ったり来たりしながら、といった感じだ。マイクの音量調整が上手くできていないわけではない。ヴェロは意識的に呟いているのだ。なんとも親密で、真情に満ちた「歌」。指揮者というのは、「主将でエースで4番」といった存在だから、歌った時にも音楽的であるのは当然なのだが、決して声楽家ではない。ヴェロの歌も、プロのそれではなく、音にもやや不安定な箇所があったりはする。それでも人の心を動かす歌になっていたというのは、田舎の古老の歌う民謡が魅力的だというのと同じ理屈であろう。その曲想なり歌詞なりが、自分と不即不離のものになっているのだ。

 曲が静かに終わると、会場はスタンディング・オベーションとなった。私もこの「枯葉」はよかった。申し訳ないが、あの第300回定期のベルリオーズなんかより、この「枯葉」の方が魅力的だった。

 とは言え、ヴェロがその後も何度かステージに呼び出され、やがて会場が明るくなってオーケストラのメンバーが退席し始めると、拍手は一瞬にして収まってしまった。私は、誰もいなくなったステージにヴェロは呼び出されるのではないか?と、昔の朝比奈隆の「一般参賀」を思い浮かべていたのだが・・・。仙台フィルはヴェロに、楽団史上初めて「桂冠指揮者」の称号を贈り、聴衆は拍手でヴェロを称えているが、実は移り気な存在で、後任が来れば前任はすぐに忘れ去られる・・・そんなことを物語っているような気がした。

2018-03-18

野菜の値段とV・ダンディの交響曲

 1週間ばかり、更新が滞った。その間に、ずいぶん春らしくなった。先週の半ば、20℃くらいまで気温が上がったからだろうか?今日、我が家の水仙が1輪、花を開いた。そういえば、あっと言う間に野菜の値段が下がった。

 今年の冬は本当にひどかった。私は、農産物の値段が他のものと比べて安すぎる、価値を表していない、と文句を言っている人間なので、キャベツレタスが450円となれば、健全な値段に近づいているなぁ、と感じるはずなのだが、いかんせん、450円出してもまともなキャベツが手に入らない、食べるのが気の毒なような、小さくしなびたキャベツしか売っていない、というのは驚きだった。白菜1個800円超というのは、さすがに値段そのものにびっくり。もっとも、それでも丸まま1個売っているのを見られるだけで稀少であり、大抵の店では、葉の密度の甚だお粗末な白菜を、4分の1に割って200円くらいで売っていた。おかげで、せっかくの餃子シーズンに、我が家でさえ餃子を作ることができなかった。近未来の八百屋(スーパー)はそうなるのではなかろうか?と思っているのだけれど・・・。

 それが正に一気に、ほとんど「値崩れ」状態である。しかも、質がいい。気候のせいなのだろう。やっぱり偉大だな、お日様。

 話は変わる。

 昨日は、仙台フィルの第317回定期演奏会に行っていた。首席指揮者パスカル・ヴェロの退任演奏会で、チケットは早々と売り切れ。私は確か、偶然にも、ヴェロの退任が発表される直前だったかに買っていた。

 ところが、私は生まれて初めて、会場でチケットを自宅に忘れてきたことに気付いた。机の上に持って出ようと思っていた本が2冊あって、そのうちの1冊にチケットを挟んだのだが、出発の段になって、重いから1冊だけにしようと思い、うっかり、チケットを挟んでいない方の本だけを持って出てしまったのだ。

 経験がなかったのだが、まさかそれだけで入場拒否はないだろうと思い、窓口でその旨告げると、すぐに確認してくれて、臨時の入場券というのを発行してくれた。ちゃんと「仙台フィル入場券(臨時)」と印刷され、演奏会名や日時、席番などを手で書き込めるようになった定期演奏会の本当のチケットと同じ大きさのチケットが用意されているのだ。今回の私のような人間がけっこういる、ということなのだろう。

 もっとも、私の場合は、年に3回の「オープン会員」ということになっていて、仙台フィル事務局でチケットを発行してもらうので、仙台フィルのPCに、席番まで含めて発券記録が残っている。だから、確認は容易だったわけだ。街のプレイガイドや、チケット・ピアあたりで買った場合、その人が本当にチケットを買ったかどうか、何番の席かは確かめられないだろうから、どうするのかは分からない。ともかく、珍しい体験をさせてもらった。

 さて、ヴェロの退任記念演奏会のプログラムは、サティの「グノシエンヌ」3曲+「ジムノペディ」3曲、ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、「ラ・ヴァルス」、「ボレロ」であった。このうち、「グノシエンヌ」は第1番と第2番がピアノ、第3番はプーランク編曲による管弦楽版、「ジムノペディ」は第2番だけピアノ、第1番と第3番はドビュッシー編曲による管弦楽版での演奏だった。ピアノ独奏は横山幸雄。ヴェロ信奉者(ファン)でも何でもない私が、早くからこの演奏会のチケットを確保していたのは、主にダンディが演奏されるからである。

 ヴァンサン・ダンディ(1851〜1931)については、以前、私が研究対象としていた中国人音楽家の留学先の師匠として、私の論文で触れたことがあるのである。今回のプログラムの解説でも、「近代フランスの重要な作曲家のひとりである」と紹介してあるが、その作品で名前を耳にすることがあるのは、この「フランスの山人の歌による交響曲」だけであろう。作曲家としてよりは、むしろ音楽界の指導者として重要な位置を占めている、というのが私の評価である。フランス人作曲家に作品演奏のチャンスを与えようと「国民音楽協会」なる組織を立ち上げて運営したり、スコラカントルムという音楽学校を作って校長を務め、古典的、基礎的で堅実な音楽教育を提供しようとしたりした。スコラカントルムという学校は今でも存続している。彼の元からは、多くの優れた作曲家演奏家が育った。

 「山人」は、論文を書いていた時に買ったCD(アントニオ・デ・アルメイダ指揮アイルランド国立交響楽団+フランソワ・ジョエルティオリエ独奏)で聴いたことがあった。「交響曲」と名付けられてはいるものの、実際にはピアノ協奏曲である。ところが、何しろ会場が青年文化センターだ。フルオーケストラの演奏会をするには狭く、残響豊かで、音が会場内に飽和してしまう。協奏曲を演奏すると、独奏パートが飽和した音に埋没してしまって聞こえない、という現象がしばしば起きる。昨日も同様であった。ところが、ピアノが聞こえにくくなると、「交響曲」というタイトルが実にふさわしく見えてくる。もしかすると、ダンディが想定していたこの曲の響きというのは、こんな感じだったんじゃないのかな?だから「交響曲」と名付けた?そんな思いが兆してきた。(続く)

2018-03-11

何もかも間違い

 今日は3月11日。東日本大震災から7年目である。我が家からの景色は更に変わった。南浜復興祈念公園の工事が急ピッチで進んでいる。すこし東に歩くと、北上川では堤防工事だ。マリーナとなる予定の場所付近では、何のためなのか、日曜日以外は連日くい打ちが続いている。先日、息子がインフルエンザにかかって寝ていた時、工事の音がうるさいと言ってべそをかいていたくらいだから、本当にうるさい。

 オリンピックが終わって以来、これでもかこれでもかと続く震災関連の報道を見ながら、これいったい何のための報道なのかな?と眉間にしわを寄せていた。何もかもが間違いであると感じる。歴史的大災害が私に見せつけるものは、自然の圧倒的な力と人間のどうしようもない愚かさだ。

 私の震災に関する冷たい発言の数々は、このブログの一番上にある「記事一覧」→「震災」と進んでもらうとずらりと並んでいるので、それを見てもらえばよいのだが、以下に8つを厳選して紹介しておく。

2011年3月26日 震災時、我が家族の記録

2011年10月31日「悲劇」と「英雄」を求める心(報道について)

2011年11月29日「心のケア?」・・・私には分からん

2013年1月28日 被災地の高校生

2016年1月8日「十字架に付けよ!」

2016年2月3日 防潮堤が守るもの(工事について)

2016年5月28日 ちやほやされて育つ

2017年4月5日 震災の教訓継承(新聞投稿記事)

 今月2日の河北新報に、田畑ヨシ(93歳)という人の訃報が載った。見出しに大きく「てんでんこ伝承」とある。昭和33年の昭和三陸津波で母親を失い、1979年以降、手作りの紙芝居「つなみ」で津波の恐ろしさや「命てんでんこ」の教えを伝えようと努力してきたという。私は「てんでんこ」と言えば故・山下文男氏しか知らなかったので、少し新鮮な気分で記事を読んだ。彼女の訴えに耳を傾けた人はどれくらいいたのだろうか?

 今日は日曜日ということもあって、石巻を訪ねる人は例年よりも多いようだ。我が家の下、南浜町にもたくさんの車が押しかけてきている。久しぶりで牧山に走りに行ったら、途中で太鼓を叩き大きな声でお経を唱えながら歩く数人の僧侶とすれ違った。帰路、12時過ぎに日和山に寄った時には、二色餅の店が出ていたくらいで、焼きそばフランクフルトの屋台はなく、イベント用のテントも立てられていなかったが、人は多かった。朝から何度か防災無線で、14:46黙祷の呼びかけが行われていた。勝手にやってよ。私は死んだ2人の教え子と1人の友人のために、そんな大騒ぎとは全然関係のないところで、静かに心の中で手を合わせる。それは3月11日だけのことではない。

2018-03-09

会社を辞めないために

 もう1ヶ月ほど前の話になるが、某有名受験・就職情報産業会社の方を講師に招いて、進路に関する有志向けの研修会を行った。「有志」とは言え、学年の7割近い生徒が参加した。

「進学した人のうち毎年8万人が退学し、高卒後の3年間で、就職した人の4割が離職します。なぜこういうことになるのでしょうか?離職の2大理由は、“仕事が自分に合わない”と“職場の人間関係”だと言われます。後者はともかく、前者は、自分が入る会社について事前によく調べていないからです。進学の場合にも同じ問題があります。だから、高校生は、自分の進路についてもっとしっかり調べなければなりません。」

 翌日、私はあるクラスに授業に行って、申し訳ないが、以下のような話をした。

「最近、進学でも就職でも、学生・社員がすぐに辞めてしまうということが問題になっていて、それについてよく言われるのは、事前の調べが足りない、ということです。昨日の研修会でも同じようなことを言っていたよね。

 しかし、それは違うな。事前にいくら調べたって、実際にやってみないと分からないということなんか山のようにある。むしろ、何もかも実際にやってみないと分からない、と言っていいくらいだ。調べれば調べるほど、現実が違っていた時にギャップに苦しむことにもなるかも知れない。みなさんだって、事前に予想していた塩釜高校と、実際に入学した塩釜高校が完全に一致していたという人がどれくらいいるかな?一致していないという人で、もっとよく調べれば一致したはずだ、と思える人いるかな?そんなことあるわけがないよね。だいたい、私の実感として辞職の最も重要な理由は人間関係だけど、会社に入ってどんな人間関係が待っているか、自分がどんな部署に配属されて、自分の同僚や上司がどんな人かなんて、いくら一生懸命事前に調べたって分かるわけがないよね。皆さんの中で、塩高に入れば、2年生になった時に国語の担当が平居先生になると思っていた人・・・いるわけないでしょ?私だって、まさか今年、塩高で皆さんに出会うなんて思っていなかったよ。就職した時どころか、去年の今頃でさえも、です。

 じゃあ、入ってから「失敗した!」と思わないためにどうしたらいいのか?入ってから「失敗した!」と思った時にどうしたらいいのか?私が思うのは、まず、入ってから失敗したと思わない方法はありません。だいたい、人間というのは必ず他人のやっていることの方が楽で楽しそうに見えるんだから、多かれ少なかれ後悔はするんです。じゃあ、失敗したと思わないための方法は本当にないのか?・・・あえて言えば、自分の責任で決めた、と覚悟することです。人の言いなりになって決めるよりもあきらめがつきます。

 入ってから失敗したと思った時に、まず大切なのは、我慢するということです。次に、その仕事なり学校なりのいいところを探そうと努めること、そして最後に、すっぱり諦めて辞めることです。これは、会社や学校よりも、結婚という人生選択をした時のことを思い浮かべると分かりやすいかもね。あ、これは、今、家の中で私がそういう問題に直面しているということではないから誤解しないでね。

 単純で面白くない、いや苦しい方法だけど、何をする時でも我慢は必要ですよ。相手のいいところを探すことも大切ですよ。だけど、どうしても自分に合わないと思った時には、ある瞬間に、すっぱり諦めて辞めることも必要ですよ。だけど、安易に辞めるのはダメだよ。我慢して乗り越えないと見えてこない面白さとかやり甲斐っていうのは絶対にあるからね。

 じゃあ、どうして、学校でも受験業界の人でも、事前学習の大切さをしつこく言うんだろう?

 ひとつは、何かしらの選択をするわけだから、選択肢について知っていなければ選べない、という当たり前の理由です。この点については、私も異論はない。その作業を通して大学や仕事について知るだけでなく、自分の気持ちを知り、意志を確かめていくことにも大切です。すると、失敗したと思った時の諦めもつきやすい。そしてもうひとつ、事前学習の必要性を訴え、高校生に頑張らせると、もうかる人がいるからですよ。私が言うみたいに、我慢するとか、いいところを探すというのは、入った後にだけ通用する話で、しかも本人の意識の問題ですね。受験業界のお世話になりようがないから、彼らはもうからない。事前のことならいろいろと作業を作り出して、それに価値を生み出せるし、価値を生み出せるっていうのはお金になる、っていうことだからね。

 もう一回言います。調べることは大切だけど、それをしっかりやれば入った後で問題が発生しない、なんて過信しちゃダメさ。そんなことより、進路は自分自身で決める、入った後は我慢する、いいところを探す、諦めるべき時には諦めて辞める・・・私はそれが大切だと思うよ。あ、例によって私の言うことは常に他の人と違うんだから、私の言ったことを素直に信じると、あんたたちが変人になっちゃうから気をつけてね・・・。」

 受験業界の方を悪く言っているようだが、学校の教員もよく似たもの。多忙、多忙と言いつつ、偽りの充実感を得るために仕事をわざわざ増やす人がたくさんいて、そんな人は過剰に生徒の世話を焼きたがり、そんな時には、必ず事前の調べをしっかりやれ、という話になる。私は天の邪鬼なので、常に人と言うことが違う。な〜に、事前に調べることの必要性なんて、しつこく言わなくたって分かるさ、彼らには「スマホ」という強い味方があるんだから、調べ方を学校で手取り足取り教えることもない。教員として一番大切なのは、「哲学」を持ち、それをきちんと語れること、余計な手出しをせず、彼ら自身に苦しませること。この手抜き風こそが、実は意外に難しいのだけれど・・・。

 生徒によっては困ったような顔をしながら聞き、生徒によってはニヤニヤ笑いながら聞き、生徒によっては納得したような顔で聞いている。ま、いいさ。私の言っていることの真偽は知らず、みんなが同じような話をするよりは、彼らの脳を活性化させる刺激になるはずだから、その点についてだけでも価値がある。

2018-03-08

「東」とは何か?

 今週は火曜日が高校入試(後期選抜)で、昨日と今日とが採点日。2キャンパス制の塩釜高校で、入試関連の作業は全て西キャンパスで行われる。私のように東キャンパス所属の職員はけっこう大変。所定の場所で朝から晩までびっしりと仕事があれば、それはそれで問題ないのだが、時々、他の人の作業待ちというような空白の時間というのが生じる。昼食休憩もある。すると、居場所と時間つぶしとが必要になる。ところが、仕事をしようにも、書類や道具は全て東にあるので出来ない。本を読んでいるにしても、食事をしているにしても、そのためには、快適な居場所を確保しなければならない。

 私は進路指導室というところにいることにしている。人が少なく、絨毯フロアになっていて、立派なソファも使っていない机もあり、暖かくて甚だ快適。

 さて、その進路指導室のコピー機の背後の壁に、1枚の世界地図が貼られている。日本で印刷されたメルカトル図法の地図なのだが、南半球が上、北半球が下という変わり種だ。とは言え、見方を変えると世界は印象ががらりと変わる、ということの例としてよく持ち出される地図なので、変わり種ではあっても、特別に珍しいということもない。南半球で売られている世界地図は南北が逆だ、というような紹介をされたりすることもあるが、それはウソである。我が家には、私がかつてニュージーランドで買った南北が逆の世界地図(「ダウン・アンダー」と言う)があるが、わざわざ探してようやく見つけたものである。それが南半球の「普通」では決してない。

 それはともかく、私が進路指導室のその地図を毎日飽かず眺めているのは、東京を起点として非常に不思議な東西南北の線が書かれていて気になるからである。例えば、東京から「E」すなわち「東」と書かれた赤線をたどると、東京から少しの間はいかにも東へ向かって進むが、間もなく左上にカーブし、ハワイ諸島ブエノスアイレスのあたりを通って、少し角度を戻し、対蹠点(たいせきてん=日本から見た地球の真裏=ブラジルサンパウロ沖約1000辧砲忙蠅辰討い襦0貶、「W」すなわち「西」の線をたどると、釜山までは確かに西だが、その後右上にカーブし、コルカタインド)、ダルエスサラームタンザニア)あたりを通り、ナミビアから大西洋に抜けたあたりで角度を戻し、やはり対蹠点に至っている。

 う〜ん、東に行っても西に行っても、やがて南半球に入っていくということを、私の感性が受け付けない。もやもやした違和感に苦しみつつ、ほとんど怖いもの見たさのように、進路指導室に行くとこの地図の前に立って見入ってしまう。そしてふと思ったのは、そもそも「東」って何なんだろう?ということである。

 あれこれ調べてみると、洋の東西を問わず、「東」は太陽と関係する。日本語の語源としては「日頭(ヒガシラ)」、「日串(ヒグシ)」、「日赫(ヒアカシ)」、「日端(ヒノハシ)」などことごとく「日」に関連する(日本国語大辞典・旧版)。漢字においても、太陽が木の高さの中程まで昇った形象だという(大漢和辞典)。一方、英語においても、元はインドヨーロッパ語の「aus(輝く)」から来ていて、太陽の輝く方角が「east」だ。もちろん、「西」はその逆(面倒なので説明省略)。

 だとすれば、地軸を中心として、回転する方向が「東」でなければならない。そもそも東京で北に向いて立ち、右90度の方角が「東」と考えた場合、東京では東向きの線が経線直交するのに、他の場所では直交する必要ない、というのは理解しにくい。北半球から南半球に行くということは、東へ進むことが同時に南へも進むことになっているということであり、実に変な話だ。地軸を中心に回転することで太陽は昇ってくるわけだから、地球上のどこでも、東向きの線は経線直交しなければならない。これは、「等角航路」の考え方だ。北極を上とするごく一般的なメルカトル図法で、東京の右へ向かって赤道と平行に延びる線=緯線こそが「東」へ延びる線である。

 東京を中心とした正距方位図法の地図を見てみると、北極点南極点を結ぶ経線が縦に走り、それから90度右に直線を引くと、ハワイブエノスアイレスを通るので、進路指導室の世界地図の「E」の線になっていることに気づく。もちろん、逆もまた真。すなわち90度左の線は進路指導室の世界地図の「W」の線だ。正距方位図法では、丸い地図の外周が対蹠点になっている。なるほど、東西南北どちらへ向かっても、最後には対蹠点に到達するという考え方に立ってメルカトル図法に東向きの線を引くから、そんな不自然な線を引く必要が生じるのである。

 しかし、対蹠点へ向かう線は「対蹠点へ向かう線」以外の何物でもないのだ。例えば、北極点から対蹠点=南極点へ向かう線は全て南向きである。では、東と西が存在しないかといえば、そんなことはない。白夜の太陽は天空を一周するはずであるが、その太陽の動きは「左から右」であると同時に、「東から西」と表現することが許されるはずだ。北極点からは東向きの線も西向きの線も書けないが、自転の方向が東。その発想を日本に当てはめればいいのだ。

 あと2週間で春分の日。昼と夜の長さが等しい日、というのは、太陽が真東から上がる日、でもある。我が家からだと、牡鹿半島・大六天山の更に少し北のあたりから太陽が昇ってくる。日の出の前に、こちらから太陽を探しに行く。それが東向きに進むということだ。超音速ジェットで日の出の10時間前に太陽を探しに行くとしたら、ハワイブエノスアイレスに向かうことになる?いやいや、地軸の回転に沿ってサンフランシスコワシントンを目指すことになるはずだ。間違い?いや、それでも私の実感はそんな「東」を求める。

2018-03-07

オリンピックの記録雑感(2)

 映像を見ていて、スピードスケートのショート・トラックという種目は、非常に恐ろしい種目だな、と思う。転倒と巻き添えのリスクが非常に大きい。しかも、足には日本刀を付けているようなものだ。が、これの結果がまた奇想天外!!

 女子500mでは、4人で決勝戦を行ったらしいのだが、1〜3位が42秒569から43秒881という1秒あまりの範囲に収まっているのに、4位はなんと1分23秒063、3位に遅れること約40秒、レースが2回できるくらいの時間がかかっている。これは転んでリンクの隅まで滑って行ってしまったが、元の場所に戻って滑り直した、ということであろう。しかし、単にそれだけで40秒も余計にかかるはずがない。壁にぶつかって一時的に起き上がれなかったとか、戻って滑り直せるということを知らず、しばらくあきらめてボーッとしていたとか、そんな状況があったことをうかがわせる。5位は、タイムが書かれていない。欄外に「5位は出場1人のため順位決定戦を実施せず」と注記されている。なぜこんなことが起こるのか意味不明。6位は決勝で失格となった韓国人選手。失格で繰り下がり順位が付いた人たちは皆タイムが書かれていないが、これまた欄外に、その選手が準決勝でオリンピック新記録を出した、と注記されている。五輪新を出して準決勝を1位通過し、決勝に進んだが、失格した結果、順位決定戦に出た選手の下の順位に繰り下がったということだ。失格者というのがやたらとたくさんいて、失格しても順位が付く、というのがこの種目の不思議なところである。

 同じく女子3000mリレーでは、それぞれ4チームで決勝戦と順位決定戦を行った。決勝戦では、韓国イタリアが1位、2位でゴールし、中国カナダが失格した。順位決定戦で失格したチームはなかったので、順位決定戦に出た4チームが、3〜6位となった。決勝で失格した中国カナダには、その下の順位、すなわち7位、8位が与えられた。おそらくは、先に失格した選手が下の順位になっているのだろう。このこと自体はルールなので問題ない。

 驚くのは、金メダルを取った韓国よりも順位決定戦の1位(銅メダル)、2位、銀メダルを取ったイタリアよりも、順位決定戦の3、4位の方がタイムがよかったということである。しかも、順位決定戦1位のオランダなんて世界新記録だ。つまり、この種目の1〜6位は、タイム順に並べると、3、4、1、5、6、2位になる。男子1000mも世界新記録こそ出なかったもののよく似た状況で、順位決定戦の5〜7位は、タイムの上では決勝戦の2位と3位の間だ。つまり、この種目の1〜7位は、タイム順に並べると、1、2、5、6、7、3、4位になる。加えて、入賞者として名前の出ていないカナダ人選手の名前が、予選でオリンピック新記録を出したとして、わざわざ欄外に書いてある。

 これなら、どうしてタイムを計る必要があるのだろう?完全に相対的な勝負にしてしまった方が、よほどスッキリするのに・・・。

 私が小学校の頃に札幌オリンピックがあった。その時代は、フリースタイルスキースノーボードカーリング、スケートのショートトラックといった種目が存在せず、花形はスキー・ジャンプやフィギュアスケートの他、スキーの滑降や大回転といったアルペン種目だったと思う。これこそウィンター・スポーツの王道だ。ところが、これらの種目で優れた成績を収めた日本人は猪谷千春(1956年、コルチナ・ダンペッツォ大会回転銀メダル=もちろん私が生まれる前)まで遡らなければいないと言ってよく、むしろ年々レベルダウンしているとの印象を受ける。そのためか、今やほとんど報道されない。それらの種目が廃止されたのではないか、と思うほどである。

 記録を見てみると、種目としてはまだ残っているが、日本人が全ての種目に出場しているということもなく、出場した種目でも、男子大回転=30位、男子回転=2回目途中棄権、女子大回転=33位、女子回転=1回目途中棄権、これで全てである。転ばずに下まで滑るということが、日本人選手にとっての目標ラインになっているのではないか?と思わせる結果だ。

 スキー場で見ていても、明らかにスノーボーダースキーヤーに比べてチャラい。野球選手とサッカー選手くらいの違いがある。私はもちろんスキー派だ。今回、スノーボード銀メダルを取った平野だって、ピアスをぶら下げていた。オリンピック選手、ましてメダリストともなれば、非常に厳しい努力を積み重ねてきているはずで、うわついた生活をしている人なんているはずはないのだけれど、なかなかそうは見えない。そう言えば、前々回の冬季オリンピックに腰パンで現れて批判されたKという選手も、確かスノーボードだった。というわけで、その点を含めて、日本におけるアルペン種目の衰退はとても残念だ。(完)

2018-03-06

オリンピックの記録雑感(1)

 ピョンチャンオリンピックが終わって、早いもので2週間あまりになる。テレビの番組がオリンピックで埋め尽くされている状態から解放されるか、と思っていたら、今度は3月11日へ向けて、震災関連の番組ばかりやっている。日本人ってほんとに暇だな、と思っていたら、実は国会から目をそらさせるためなのではないか?という疑念が兆してきた。怪しい。

 さて、オリンピック閉幕の翌週、どの新聞にもオリンピックの記録「総集編」なる記事が載っていた。全ての種目の入賞者と日本代表選手について、順位と記録(タイム・得点)が書かれたもので、新聞丸々二面にわたる。始めはなんとなく眺めていただけだったのだが、例によって数字の羅列は、じっと見ていると発見があるので、だんだん面白くなってきた。以下、その発見の一部。

     *    *    *

 タイムレースでは、種目の性質によって10分の1秒まで計っているものと、100分の1秒、更には1000分の1秒まで計ってあるものがある。

 圧巻はリュージュの男子二人乗りで、3位ドイツ人と4位イタリア人のタイム差は1000分の2秒だ。1000分の2秒の違いで、メダルがもらえるかどうかが分かれる。しかも、1回ではない。4回滑って合計タイムが1000分の2秒しか違わないのだ。1回あたりだと10000分の5秒の差に過ぎない。

 そり競技は、概して時間差が小さい。ボブスレー男子4人乗りなんて、時間は100分の1秒単位の計測だが、1位から7位までがほぼ1秒(厳密には1.05秒)の範囲で争っている。この競技リュージュと同じく4回の合計タイムで勝負が決まるので、1回あたりの時間差は、単純に考えてその4分の1。つまり、滑走1回あたり0.26秒の範囲に7チームということだ。スケルトン女子は、1位から5位までが0.7秒の範囲にいる。もちろん、これも4回滑ってのタイム差である。恐るべし。

 ただ、ここで思うのは、現在の精密きわまりない計測技術があるから、このような100分の1秒や1000分の1秒差の勝負が成立するのであって、手動計測なら、運に左右されずに公平に計れるのは、どんなに訓練を積んだとしても、せいぜい10分の2秒か3秒単位が関の山だろう。つまり目で見ていても勝負は分からない。とすれば、それらのチームの差がどこで付いたのかも分からない。このように人間の実感とかけ離れたところで競技が成り立つというのは見ていて面白くない。

 しかしながら、差があまりにも小さく、人間の視覚ではその差が捉えられないとは言っても、だったら、その差は運なのか?というと、どうやら違うらしい。例えば、最初に取り上げたリュージュ男子のメダリストは、国籍で見ると、オーストリアアメリカドイツボブスレー男子4人乗りはドイツB、ドイツC、韓国スケルトン女子はイギリスドイツイギリス。どうやら、強豪と言われる国(チーム)がだいたい順当に勝ったようだ。一方、それらの種目の中で唯一、日本人選手が出場したスケルトン女子で、日本人は1位から6秒半以上という、ほとんど「天文学的」な大差を付けられている。技術の違いがあれば、差ははっきりと付くのである。

 だとすれば、1000分の1秒だろうが、10000分の5秒だろうが、その差についても、それを生む技術の違いというものがあるのであり、その技術を支える身体感覚というものがある、ということになる。私はそんな人間の身体、能力を偉大だと思う。

 計測に関連することをもう少し指摘しておく。スピードスケートは100分の1秒単位の発表だが、実際には1000分の1秒単位で計っているらしく、100分の1秒単位で同タイムになると、1000分の1秒単位の計時が発表されて、順位が確定する。

 今回の例だと、男子500mの6位と7位は、34秒83で同タイムだったため、1000分の1秒計時となり、34秒831と839の1000分の8秒差で日本の加藤が6位になった。1000mも、1分8秒56の2人を1000分の1秒単位で比べて、564と568、すなわち1000分の4秒差で4位と5位の順位が付いた。5000mも6分11秒61の2名が1000分の1計時で616と618、1000分の2秒差で順位が付いた。これは2位と3位だったので、1000分の2秒のためにメダルの色が変わったわけだ。500mを1000分の1秒単位で争うよりも、5000mを1000分の1秒で争うのはすごいことだ。距離の桁が一つ違うのだから、時間の桁も違うはずなので、5000mの1000分の1秒は、500mだと10000分の1秒に相当するのではないか?オリンピックという舞台の厳しさを見せつけられる思いがする。

 不思議なのは、スピードスケートが順位の決着を付けるために、計時のオーダーを上げるのに対して、バイアスロン男子15キロでは、35分47秒3でゴールしたトップの2人が、そのままのタイムで、1位、2位と順位を付けられて載っていることだ。何で順位が決まったかというと、欄外に「写真判定による」と書いてある。写真判定で順位が付けられるということは、差があるということなのに、バイアスロンではなぜ100分の1、1000分の1単位で計測が為されていないのか?技術的には同じことだと思うのだが・・・。(続く)

2018-03-05

北欧的とは?

 3月になったから、というのか、一気に春らしくなってきた。

 先週末は、まず第2回の登山部顧問冬山研修会に出席した。場所は国立花山青少年自然の家。土曜日は前回(→こちら)の続きとして、外部講師から低体温症、ビーコン捜索技術(続)とその際のトリアージについて、といった講話があり、夕食後は、積雪期のプランニングについてのワークショップを行った。少なくとも今の学校にいる限り、幸か不幸か、生徒を雪崩の心配がある場所に連れて行くことなんか絶対にない、と断言できる私としては、この研修会はある意味で無駄である。しかし、面白いからいいや、ということを別にしても、いろいろと応用の可能性がある。低体温症に関する知識は、夏山でも必要なものだと感じた。

 日曜日は、場所を栗原市耕英に移し、前夜プランニング実習で立てた計画に基づき、実際に山を歩く訓練である。前回同様、今回も素晴らしい天気。場所が宮城県の北西の隅っこであるということや、宿泊施設からの移動の時間ロスなどもあって、山中行動がわずか3時間というのはなんとも惜しい。そう思わせるような春山だった。もちろん、栗駒山も完璧に見えている。美しい!

 ところが、3時間でも短すぎるフィールド実習を、若干早めに切り上げて、私は一人で下山してしまった。向かったのは仙台である。15時から、イズミティ21で、イギリスはBBC交響楽団の演奏会があって、早々に稀少なB席のチケットを入手していた。その頃には、3月3〜4日は生徒向けの研修会ということになっていて、私(と塩釜高校の生徒)はまったく参加の意志がなかったのである。

 指揮はサカリ・オラモ、曲目はブリテン歌劇ピーター・グライムズ」から4つの間奏曲とパッサカリアチャイコフスキーヴァイオリン協奏曲(独奏:アリーナ・ポゴストキーナ)、そしてシベリウス交響曲第5番。シベリウス交響曲第5番は、1月の仙台フィル定期で聴いたばかりである。シベリウスなんて、仙台にいると2番しか聴く機会がない。私のそれなりに長いライブ・リスナーとしての歴史の中でも、2番以外では、おそらく、6番と7番の演奏に一度接しただけ。5番だって、今年1月が初めてだったと思う。それが、わずか1ヶ月半後に再びなのだから、「確率」というのは分からないものである。

 私よりも確か3つ若く、ステージの出入りを見ている限り、体調に問題ありそうにも見えない指揮者が、椅子に座って指揮棒を振っているのは不思議だったが、どれもこれも、演奏は立派なものであった。ちなみに、アンコール曲は、ヴァイオリン協奏曲の後が、同じくチャイコフスキーグラズノフ編曲)「なつかしき思い出の場所」からメロディー(オーケストラ伴奏付き)、シベリウスの後が、やはり同じくシベリウスの「ペリアスとメリザンド」間奏曲、更にアンダンテ・フェスティーボ。アンダンテ・フェスティーボというのは、私の知らない曲だったのだが、これはなかなかの佳曲。それをフィンランド出身の指揮者が思い入れたっぷりに演奏する。

 第5番にしても、聴いていると、まるでフィンランドの空気の中にいるような北欧感を感じる。と思ったところで、北欧的とはいったい何であろうか?私はなぜそれを「北欧的」と感じるのであろうか?ということががぜん気になり始めた。

 私は恥ずかしながら、シベリウス以外にフィンランド作曲家を知らない。範囲をスカンジナビア半島、もしくは北欧4国に拡大しても、グリーグノルウェー)、C・ニールセンデンマーク)が知識の範囲に入ってくる、というだけである(ブクステフーデもデンマーク出身だが、彼をデンマーク作曲家と言うのは違和感がある)。シベリウスの作品だって、アンダンテ・フェスティーボを知らなかったとおり、決してよく知っているとは言えない。多少なりとも知っていると言えるレベル(=楽譜を見ながら鼻歌を歌える)にあるのは、ヴァイオリン協奏曲交響曲第2番、交響詩フィンランディア」くらいであろう。だとすれば、私が「北欧的」と感じるのは何によるのか?私にとっての「北欧的」は、実は「シベリウス的」ではないのか・・・?

 だが、思えば、私は「日本的」というイメージをどのように作り上げてきたのだろう?私にとっての「日本的」は、他の人にとっての「日本的」と一致しているのだろうか?

 フィンランド、もしくは北欧についての様々な情報が電気信号で脳に送られた時、それが形であるのか、色であるのか、音であるのか、文学(言語)であるのかに関係なく、北欧の情報として統合する機能が脳にあるとすれば、写真で見る北欧の風景や、よく目にする北欧の家具や器といった視覚情報によって、脳が音楽を「北欧的」と認識することも起こり得る。それはあり得ないことだろうか?いや、私が得たことのある北欧に関する情報のほとんどは視覚によるものだから、そのような現象が起こり得ることを認めないと、シベリウス北欧を感じることの説明は付かないような気がする。

 フィンランド出身の指揮者が奏でるシベリウス北欧的としか言いようのない雰囲気に打たれた私の関心は、音楽に関する感動を離れて、脳の認識機能へと向かったのであった。

2018-03-02

鬱憤晴らしのブーメラン・・・及び腰のJR

 3月になった。宮城県の県立高校では毎年、曜日に関係なく3月1日が卒業式である。その昨日、昨年11月上旬(8日?)から継続していた塩釜神社経由通勤(→説明)の連続記録が途切れてしまった。それでもすごい!ほとんど4ヶ月近く、通勤時間帯に雨が降っていなかったということだからである。

 強い風雨であった。運悪く、卒業式に関する私の係は「駐車場」。朝はかろうじて自転車で駅まで行けたが、その後どのような状況になるのかは予想されたので、用意万端、山に行く時のレインウェア+長靴+傘で学校に行き、強まりつつある風雨の中、学校前の道路で車の誘導に当たった(というより、近所の空き地に無断駐車されないよう見張っていただけ)。

 卒業式の終了とほとんど同時に雨は上がり、午後からは青空となったが、風はどんどん強まる。卒業祝賀会が行われる仙台市内へは、仙石線で出た。なぜか、東北本線よりもよほど軽い車体を使っているように見える仙石線の方が、風に強いことが分かっているからだ。実際、東北本線のダイヤは乱れていたが、仙石線は定刻運転していた。

 祝賀会終了後は、仙石東北ラインに乗り、わずか数分遅れで石巻まで帰り着くことが出来た。夜中、風の音が大きくてたびたび目を覚まし、今朝起きてテレビをつけると、仙石線も仙石東北ラインも運休になっていた。

 とはいえ、比較的風の強い場所に建つ我が家でも、電車が止まるほどの風が吹いているようには思えなかった。強風にさらされていると思われる北上川河口の日和大橋でも、車は普通に走っている。車高の低い自家用車だけではない。風を大きく受けそうなトラックもだ。高速バスも動いているようだ。そんな中で、どうして重厚な鉄道が止まらなければならないのだろう?

 以前にも書いたことがあるかも知れないが、最近のJRは非常に弱気である。すぐに電車を止める。もちろん、何か事故があるとあまりにも激しく批判され、そのたびに「安全軽視!」などと言われるものだから、及び腰なのだ。先日は、新潟で電車が雪のために止まってしまい、乗客を長時間監禁状態に置いてしまって批判されたため、今後は、ますます予防的な運休が増えるだろうな、と予想できる。実際、JR東日本のHP「列車運行状況」を見ると、「仙石東北ラインは、強風が見込まれるため、仙台石巻駅間の上下線で運転を見合わせています。運転再開見込は立っていません。」と書かれている。「見込まれるため」だ。私などは、見込みで列車を止めるなよ、移動できないと困る人がいっぱいて、経済的ダメージも大きいんだから・・・と思うが、これが世間による鬱憤晴らし的な批判の結末というやつである。

 ハイデッカーのバスよりも、鉄道の方が風に弱いなどということがなぜ起こるのだろう?と考えていて、ふと思った。JRの在来線軌間1067个狭軌である。関西地方私鉄はほとんどが(全て?)国際標準軌の1435个任△襦それでいてJR在来線の車体幅(線区によって多少異なる)と、関西私鉄の車体幅はほぼ同じ約2800个澄つまり、JRは車体幅が車輪幅の約2.6倍という頭でっかちになっていて、2倍に満たない関西私鉄に比べると不安定だ。大型バスは車体幅約2500个紡个靴銅嵶愆岾屐兵崋瓦猟垢機砲2050个らい。1.2倍でしかない。JRの2倍以上安定性が高いということである。

 ちなみに、新幹線は関西私鉄と同じ1435个任△襪、軌間を広げた分だけ車体幅も広げ、1列を5人掛けに出来る3400个箸靴拭軌間の2.4倍で、車体の横幅と高さの比も在来線とほぼ同じなので、安定性にほとんど違いはない。しかし、トンネルと防音壁のおかげで風の当たりにくい構造になっていることや、車体が丸みを帯びたデザインになっているおかげで、在来線に比べると遅延や運休が発生しにくいのだと思われる。

 う〜ん、JRの及び腰もともかく、軌間と車体幅の著しいアンバランスを解決しないと、風に関して鉄道はバスに勝てないということだな。ただでさえも、鉄道の経営が苦しい中、この状況はまずい。

 さて、テレビの画面と外の風景とを見ながら、私は悩んだ。とりあえず駅まで行って運転再開を待つ、学校に車で行く、休む・・・。特に3つめの選択肢は魅力的だったのだが、不幸にして成績表の提出期限は迫っている。来週火曜日に高校入試(後期選抜)があって、それが絶対に動かせない以上、そのための作業も動かせず、生徒と会えるチャンスも限られている。今日休めば、ひんしゅくを買う以前の問題として、自分自身が苦しくなってくる。というわけで、いつも家を出るのと同じ時間に車で家を出て、朝のお散歩(塩釜神社)なしで学校に着く時間より5分早く学校に着いた。

 学校は休校(=授業がないというだけ)。入試業務で校長に会った時、「あれ、平居さん今日どうやって学校来たの?」「車です。」「あ、節を曲げた訳ね?」「勤勉ですから・・・(笑)」と、こんな会話があった。校長よく分かっている。何かのために書き留めておこう。