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Tr,平居の月曜プリント

2018-04-07

任光「彩雲追月」または「南の花嫁さん」(2)

 任光は1900年11月9日に浙江省の越劇の故郷・嵊県の石工の家に生まれた。小学校の頃から、越劇に触れることで音楽的才能を表すようになり、笛やラッパ類の演奏技術を身に付けた。1917年、中学校を卒業すると上海のミッション系大学・震旦大学に進んだ。当時は「勤工倹学」という、フランスで働きながら学ぶ運動が盛んだった時期である。任光もフランスに渡った。リヨン大学音楽系で学ぶとともに、ヤフォ(原語:亜仏)ピアノ工場で調律技術を学んだ。ヴェトナムハノイに招かれ、4年間にわたりヤフォのヴェトナム工場で技術指導と経営とに当たった。

 1928年に上海に戻ると間もなく、田漢と知り合った。田漢とは左翼系の劇作家で、南国社という文化団体を主宰していた。現在では、中華人民共和国国歌義勇軍行進曲」の作詞者として広くその名を知られる。田漢や南国社を通して、任光は左翼文芸界に大きな人脈を作り、自ら党員とはならなかったものの、その協力者として大きな役割を果たすことになってゆく。

 同じ時期、任光は生活の糧を得るため、百代レコード会社(百代唱片公司)に自分を売り込んだ。すると、その音楽に関する知識フランス語の能力を評価され、音楽部主任として採用された。百代に入る上で、なぜフランス語の能力が重要だったかというと、それがフランスの会社「パテー」だったからである(「百代」は「パテー」の漢訳)。1915年に中国で初めてのレコード会社としてフランス人によって作られ、後にイギリス人に引き継がれた。

 百代は国内外に広大な流通ルートを持っていた上、国民党が西洋人を憚って手を出さないので、共産党の支持者である任光が入社したことは、国民党による弾圧に苦しむ左翼陣営にとって好都合だった。その後、百代は左翼音楽家の重要な根拠地となっていく。任光は、自らも盛んに救亡歌曲抗日戦争のための情報伝達、戦意昂揚を目指す歌曲)や左翼系の映画音楽を作るとともに、1934年には聶耳を音楽部の副主任として招いた。聶耳は「義勇軍行進曲」の作曲者である。1933年以降、任光は聶耳と映画音楽の合作を重ねるなど、親密な関係を持った。中でも、聶耳が音楽を総括した映画「漁光曲」で任光が作曲した主題歌は、任光の代表作として現在もその名が知られている。この映画は、1935年2月にソ連で開かれたソ連映画国有化15周年記念国際映画祭で栄誉賞を受賞し、海外で賞を受けた中国初の映画となった。

 日中戦争が始まる直前、任光は再びフランスに渡る。この時、彼はロマン・ロランと会っている。1938年秋に帰国すると、当時実質的な首都であった武漢で救亡運動に従事したが、間もなく武漢が日本の手に落ちそうになると脱出し、重慶、さらにシンガポール、そして再び重慶と、各地を転々としながら救亡音楽の指導に尽力した。1940年秋、新四軍軍長・葉挺の招きによって従軍し、音楽による抗日宣伝運動に邁進するようになったが、昨日も書いたとおり、1941年1月6日に始まった皖南事変で13日に被弾し、没した。

 さて、このような生涯を送った任光であるが、楊玫「楽曲《彩雲追月》的原型与流変」(『黄河之声』2014年第15期)という論文によれば、1935年の夏から秋にかけて「彩雲追月」を書いた。任光と聶耳の合作という説も強かったようだが、それを証明するものは何もなく、現在では任光の曲と認められている。百代国楽隊という民族楽器オーケストラのための作品である。楊はこの楽隊を「左翼音楽工作者の実験楽隊であった」と評する。従って、もちろん、原曲には歌詞がない。曲想は広東風。優美叙情的であり、穏やかで上品なので、発表直後から広く流行した。

 アレンジがたくさん行われるのは、名曲の証である。飽きが来ない上、普遍的な何か、いろいろな形態で演じてみたくなる何らかの魅力を持っているということだからである。「彩雲追月」が、発表後どのようなアレンジを生み出したかについては、上の楊玫を始めとして何人かの音楽史家が論文を書いている。楊玫が取り上げているのは、1960年の新しいオーケストレーション版、1975年のピアノ版、1950年以降の声楽版である。50年以降の声楽版には、「幾度花落時」「紅尖」といったタイトルが付けられた独唱用や、「彩雲追月」のまま、或いは「彩雲追月−昐帰」と題した合唱用がある。いちいち具体的な言及はしていないが、You Tubeで見ることができるように、実際には更におびただしい数のバリエーションが存在する。

 中国論文で「南の花嫁さん」についての言及を見出すことは出来ないけれど、その曲想の魅力に触発されてアレンジが行われたという点において、「南の花嫁さん」はそれら中国のアレンジと同じ流れの中にあり、しかも、中国でのアレンジに10年近く先んじた先行事例だということになる。

 昨日も書いたとおり、任光自身は自分の曲が形を変えて受け継がれたことを知らないし、現在の中国では救亡歌曲作曲者としての評価しかない。救亡歌曲作曲者というのは愛国主義者ということである。救亡歌曲作曲者を愛国主義者として評価するのは、抗日戦争にどのような姿勢で臨んだかという政治的姿勢の反映でもあり、「国を愛する」ということをどれくらい尊重するかということの反映でもある。

 共産党国民党よりも抗日戦争に真摯に取り組んだ。比較の問題ではなく、絶対値として愛国主義的な傾向も強い(一党独裁を支える求心力を作り出すために好都合だからだろう)。したがって、共産党政権が倒れることがあれば、救亡歌曲作曲者としての評価はすぐに消えてしまうだろう。しかし、そのメロディーを愛するが故の継承は容易に絶えることはない。もちろん、音楽の価値についての本当の評価は後者である。原曲の作曲から80年以上、様々にアレンジされながら愛され続けてきたことは驚異である。送別会の余興として聴いたK先生の「南の花嫁さん」は楽しかった。(完)