Hatena::ブログ(Diary)

Tr,平居の月曜プリント

2018-05-30

京大のタテカン

 今年に入ってから、京都大学の「タテカン問題」というのを少し気にしていた。 きっかけは2月21日の天声人語なのだが、今月に入って大学が実力行使を始めたものだから、新聞でも大きく取り上げられるようになって、一気にヒートアップした感じがする。

 問題に気付いていない人には分からない話だろうが、「タテカン」というのは立て看板である。京都市の景観保護条例に反するとして、市が大学に対して、キャンパスの周囲に設置されたタテカンを撤去させるよう指導し、それを受けた大学が学内規則を作り、今月に入って強制撤去に乗り出した、というものだ。現場の状況がよく分からないので少しコメントしにくいのだが、強制撤去の対象は「周囲の看板」らしい。しかし、大学は構内のタテカンについても、大学が認めた団体のみ、所定の場所に一定期間だけ設置を認めることを規則に盛り込んだという。(5月23日付け朝日新聞「ニュースQ³」欄に詳細)

 ずいぶん窮屈な話である。いくら学外とは言え、四条河原町や京都駅前のような繁華な場所、あるいは奥ゆかしい古寺の門前に無粋なタテカンを置くならともかく、学校の周囲だけの話であり、タテカンの大きさも新聞の写真を見るに2〜3m四方のものに過ぎない。

 しかも、場所は学問の府、天下の京都大学である。タテカン設置の自由を奪うという管理的なやり方は、間違いなく学問にも悪影響を与えるだろう。唯々諾々と学生がタテカンを撤去するようなことになれば、それこそ問題である。今のところ、強制撤去に走る大学当局と反発する学生とのせめぎ合いが続いているようだが、やがて権力は押し切るだろうし、それは「抵抗することは無駄」という無気力を生む。これは私にとって「日の丸君が代の教訓」だ。

 「抵抗することが無駄」であれば、「権力のすることを疑うことも無駄」である。疑わない対象は権力から既成の権威、偏見、先入観へと拡大し、そうなると学問はもはや成り立たない。

 「何を大袈裟な!」と言ってはいけない。問題が発生した時に原因を探せない、すなわち、因果関係を明らかに出来ないほど遠くに原因がある、ということは少なくない。私がよく言う「利益は目前に。より大きな不利益が将来に」というやつである(→こちら)。

 私は新聞という古典的なメディアが好きである。何よりも、色々な話題が自然と目に入ってくるというのがよい。それを「一覧性」とか「俯瞰性」と言う。それらの性質において、新聞は他のメディアを凌駕する。タテカンもいくつか並ぶと、同じ性質を持つ。また、新聞には紙の手触り、インクのにおい、字体のバラエティーといった情緒的要素も大きい。これまた同じことがタテカンについて言える。タテカンは壁新聞の一種だから、当たり前と言えば当たり前だ。

 どのような環境から豊かな学問(文化)が生まれるかということを考えた時、タテカンを力尽くで撤去することは明らかにデメリットが大きい。京都市ならともかく、大学当局がそのような価値観に鈍感で、市の指導に素直に従うというのは残念だ。京都大学なんてその程度のものか・・・私ならそう言って舌打ちをしたくなる。

2018-05-28

大人による技術指導

 戦々恐々学校に行ったら、1日でわずか数人から「読んだよ」みたいなことを言われただけだった。ふと思い出した。そういえば、最近は教員も新聞なんて読まないんだっけ・・・。案外、部活動よりもそちらの方が深刻な問題だったりして。

 それはともかく、予告していた「続き」である。部活動において大人による技術指導はどうあるべきか?

 私は最近、何事につけても子どもに対する大人の過干渉・過剰サービスが気になり、それらを苦々しく思いながら見ている。部活動についても、子どもたちに勝手にやらせればいいのに、どうして親や顧問が車で試合の送迎までしてやらなければいけないのか?バカじゃなかろうか?と思っている。しかし、実は、大人による技術指導まで禁止すべきだと考えているわけではない。何事においても、レベルの高いことをしようと思えば「指導」は必要なのである。

 「子どもたち自身による部活動」と「大人による技術指導」の両立を可能にするのは、「子どもたちの依頼による大人による技術指導」である。指導が出来る大人に、週に何回何時間とお願いをする(この時間内に関して言えば、指導者である大人が子どもの安全に責任を持たないわけにはいかない)。内容は技術面に限り、主導権はあくまでも子どもにあるべきだ。しかし、ああしろ、こうしろと言っているうちに、命令の範囲が「技術」を逸脱する可能性は大いにあり得る。その場合、限度としてわきまえるべき絶対ラインは「人事」である、と私は思っている。

 「人事」とは、主に試合の出場メンバー決定、更には主将の選出、である。安倍政権だって、暴走の出発点に内閣法制局長官の更迭、内閣人事局の創設といったものがあったのだし、日大アメフト部事件だって、試合に出す出さないという問題があってこそ起こった。それらの例を見ていてつくづく思うのは、人事(人の処遇)というものは、あらゆる意味で人を意のままに操るための根本だ、ということだ。

 しかしながら、子どもたち同士で出場メンバーを決めるのは、なかなかに難しい。大人だって、同じ立場の人間同士だと利害の調整に関わる結論はなかなか出せないものである。最後はじゃんけんという情けない方法に頼ることにもなりかねない。図々しい人間が得をする、という現象も起こりがちである。

 適切なメンバー決定をするためには、部員が対等・平等な関係で議論をするのではなく、自分たちでリーダーを選び、ある程度の権限を委任する必要が出てくるだろう。権力発生のオリジナルな姿だ。そのプロセス体験することは、民主的な人間形成の上では重要なことで、大人が絶対者となって指図をするのでは分からない社会の仕組みのようなものを学ぶ重要な機会になるはずだ。

 そもそも民主主義とは面倒なものである。だから、部活動で私が言うような自治を目指そうとした場合、生徒の側が、大人の監督がいて指示してくれた方が楽でいい、と言い出す可能性は非常に高い。しかし、楽とか簡単とか便利とかは常に落とし穴である。楽な方がいい、便利だからいい、などというのは間違い。そういう価値観に飛びつくと、人間は本当に大切なものを見失い、自分の内側に眠っている能力を引き出せないまま錆び付かせてしまうのだ。

 もっとも、楽とか簡単とか便利だというのが無条件で「善」だからこそ、ほとんど全ての高校生がスマホなんかを持つことになるのである。私の意見なんて、ただの奇人変人による妄言でおしまい。お粗末様でした。

2018-05-27

部活動の制限 本来の意義考え解決を(河北新報持論時論)

 今朝の河北新報「持論時論」欄にに、拙文が載ったので紹介しておく。4月10日、11日に書いた「急激な変化は『吉』と出るか?」という本ブログ記事の内容を圧縮したようなものだが、投稿のいきさつは後回しにし、まずは、掲載された拙論を紹介しておく。新聞社が付けたタイトル(見出し)が、「部活動の制限 本来の意義考え解決を」である。可もなく不可もなし、といったところであろう。


「中学・高校の運動部活動を厳しく制限するスポーツ庁の指針を巡り、戸惑いが広がっていると4日の本紙で報じられた。私もこの指針には問題が大きいと感じている。

 そもそも、なぜ部活動が「過熱」するのか?宮城教育大の神谷拓先生によれば、対外試合の増加と広域化、就職や進学に当たっての評価、教員の採用や勤務評価での考慮などが、オリンピックで勝てる選手を生むという国策や競技団体の思惑と絡み合いながら進められた結果である。だとすれば、根底の問題を放置したままで活動時間という末端にだけ制限を加えるのは、無理のある解決策だ。

 部活動時間についてにわかに強力な指導が入った背景としては、過熱対策よりも教員の多忙解消という側面が大きいだろう。確かに教員の多忙解消は急務だ。だが、その多忙は部活動に関して言えば、生徒・保護者の要求とともに、事故が起きた時に責任が厳しく問われるため、教員が常に活動に立ち会うことが求められることによっているのではないだろうか?

◇   ◆   ◇

 過熱も解消も、部活動の問題は全て大人の事情によっているように見える。教員の中には部活指導をするために教員になったという人が一定数いるようだ。学校宣伝への利用は露骨である。指導がひとえに自分の楽しみや評価のための場合もあるだろう。大人による部活動は「生徒のため」という大義名分を掲げつつ、生徒の自立を妨げ、管理的体質をつくる契機として機能する場合が少なくない。

 だが、指針にもある通り、部活動は本来、生徒たちの自主的・自発的なものであるはずだ。今、文科省教育委員会がすべきことは、部活動をそのような本来の姿に戻していくことではないだろうか?

 対外試合の制限は必要だ。その増加を可能にし、授業と部活動の本末転倒を引き起こす「公認欠席」は認めるべきでない。部活動を推薦材料にすることの是非については検討を始める必要がある。

 だが、何より必要なのは、学校が部活動によって生じた事故の責任を問われないようにすることだ。責任と管理とは表裏一体である。

 教育委員会は部活動が生徒による自主的な任意の活動であることを明確にし、学校は場所を貸すが部活指導は教員の職務ではなく、せいぜい運営に関する相談に乗るだけ、施設の不備に起因しない限り事故に責任は持たない、と世間に向かって宣言すべきなのだ。

◇   ◆   ◇

 子どもが自分たちのニーズに基づき、自立的にのびのびと部活動に取り組む。大人が管理するほどうまく活動できなくても、学ぶことは大きいはずだ。そんな部活動なら「過熱」も構わない。青春の一時期にのめり込めるものがあるのはいいことではないか。それで勉強がおろそかになれば、部活動を制限するのではなく、勉強がおろそかになっていることを問題にし、解決策を考えさせればいい。

 とにかく、大切なのは大人が子どもを利用しないことであり、学校が何もかも丸抱えにしないことである。残念ながら、今回の指針は逆の方向を向いている。」


 4日の河北新報記事社会面に「中高の部活動指針 スポーツの現場困惑」という大きな見出しのついた記事が出た。見出しも記事も大きい割に大切なことに触れていない。単に「今までどおり練習が出来なくて困った!」というだけの記事である。今回の指針をこういうレベルで受け止めるだけというのはまずいぞ、と思い、私見をまとめて河北新報社に原案を送ったのは、翌5月5日のことである。

 そのころは、日大アメフト部の問題はまだ発生していなかった。翌6日にその事件が起こり、15日頃から急激に社会問題化した。偶然ではあるが、その事件は、「大人による部活動は(中略)生徒の自立を妨げ、管理的体質をつくる契機として機能する場合が少なくない」という拙論の内容に重なった。

 当初は、偽名で出せないかと考えていた。拙論はスポーツ庁の指針を問題としているが、宮城県はそれに沿った内容の指針を既に策定し、現場に下ろしているので、県の指針に対する批判でもある。よって、県立高校職員である私がこのような投稿をしていいかどうか、コンプライアンスとの関係で多少悩んだからである。新聞社からは、内容的にはぜひ掲載したいが実名で、との回答があった。

 そこで、県でそれなりの地位にある知り合いに原稿を見せ、内々に意見を聞いたところ、全然問題あるまいと言われた。県が問題視するよりは、職場で冷たい視線を浴びたり、競技団体から恨まれたりする可能性の方が高いかも知れない、と思った。だがやはり、指針の問題が、理念哲学)との整合性ではなく、今までのやり方との齟齬や、「やりたい・やりたくない」という感情論だけで語られる状況はまずいという思いが勝った。多少格好を付けていえば、義侠心あるいは義憤に近い心情である。私は実名による掲載を了承した。

 投稿規定に「1300字程度」とあったので、当初の原稿は1309字であった。ところが、掲載までに100字も削られた。「15字×81行」なのだそうだ。段落頭の一字下げを考慮すると、最大で1200字ではないか!だったら、最初からそう書いてくれればいいのに・・・。おかげで、主に表現に関して不本意になったところが多々ある。元々の文章との異同を紹介するのは煩瑣なのでしない。元々の原稿でも字数の都合で、本当は書いておきたいが書けない、ということがあった。特に重要な、大人による技術指導はどうあるべきか、という問題については、明日にでもまた触れることにしたい。

2018-05-25

モーツァルトって何者?

 理由はさておき、今更ながらの話、ゴールデンウィーク前半の中日である4月29日、名取市文化会館で行われた仙台フィルの演奏会に行った。もともと別の予定があって行けないはずだったのだが、そちらがキャンセルになってしまったため、これ幸いとのこのこ出かけて行ったのである。

 「特別演奏会 マイタウンコンサートin名取」と題されてはいるものの、実質は、ウィーンフィルの元コンサートマスター・ライナー・キュッヒルのオーケストラ伴奏付きリサイタルである。キュッヒルが指揮者なしで、少人数編制の仙台フィルとともに、シューベルトのロンド・イ長調モーツァルト協奏曲第4番、ハイドン協奏曲第1番、そして再びモーツァルト協奏曲第5番を演奏するという、とても贅沢な演奏会だ。子どもたちを何百人か招待します、という話があったと思うが、もったいないことに、半分以上空席であった。ただし、拍手の様子を見ていると、客の質はとても高かったと思う。

 キュッヒルの演奏は、ムジークフェライン弦楽四重奏団ウィーン・リング・アンサンブルでのべ3回聴いたことがあり、毎回圧倒された。名人の中の名人であると思う。しかも、余計なことかも知れないが、キュッヒルというのは見た目の本当に美しい人でもある。すらりとした長身で、知的かつ気品に満ちた風貌だ。ハゲも美の一部であり、燕尾服がとてもよく似合う。見ているだけでほれぼれするほどだ。全然知らない人だったとして、「オーストリア国王」だと紹介されても違和感がない。それでいてヴァイオリンが超一流なのだから羨ましい。

 ただ、この日は、終始音が安定しなかったように思えた。こんなことは初めてである。若い頃からヴァイオリニストとしてあらゆる栄誉を手にしてきたキュッヒルも、御年68歳。さすがに衰えはあるのかな、とも思ったが、なかなかどうして。アンコール(クライスラーレチタティーヴォスケルツォカプリース」、J・S・バッハ「パルティータ第2番のサラバンド」)は圧巻だった。クライスラーがこれほど技巧的で凝った曲を書いていた、というのも驚きだった。

 ところで、モーツァルトヴァイオリン協奏曲を聴いたのはとても久しぶりだったが、プログラムを読んでいて、それらがともに1775年、19歳の時の作品だということを知った驚きは大きかった。ルードヴィヒ・フォン・ケッヒェルによる作品番号(K)でいうと、第4番が218で第5番が219。となると、私が大好きな交響曲第29番はK201だからそれより前で、モテット「エクスルターテ・ユビラーテ」はK165だから、それより更に前だ。確認してみると、29番は18歳、「エクスルターテ・ユビラーテ」は17歳の時の作品だ。今私が相手にしている高校生と同じ年齢である。いくらモーツァルトが早熟であるということくらい分かりきっているとは言っても、これらの曲の完成度というものを考えると、やはり驚異だなと思う。

 というわけで、1ヶ月も前の演奏会の話をなぜ今頃になって書いているかと言えば、この間、我が家にあったモーツァルト関係の本を読んだり、若干の曲を聴き直したりしながら、モーツァルトって何者?ということを今更ながらに思い巡らせていたからである。

 ちょっとした作曲技法を持つ人なら誰でも書けそうな曲ばかり。それでいて、どうも真似のできない作品らしい。私も決して嫌いではなく、「フィガロの結婚」、ミサ曲ハ短調、第20番以降のピアノ協奏曲クラリネット協奏曲や五重奏曲などなど・・・何かにつけて繰り返し聴いてきた曲も少なくない。しかし、ベートーヴェンマーラーバッハブルックナーのように熱中したということはない。このブログでも、過去に正面からモーツァルトを取り上げた記事はないと思う。ないと寂しいし、「フィガロ」をBGMとして聞き流すなどというのはひどく気持ちのいいことではあるのだけれど、さほど真面目な聴き方はしてきていないようだ。いかにも簡単そうに見えて、高度なテクニックをアピールしにくいからか、演奏会プログラムとしてお目にかかる機会も意外に少ない。

 もちろん、まだ読み直していない本も多いし、改めて聴くことができた曲なんて、我が家のCDレベルで考えても、せいぜい数%に過ぎない。だが、これから先、もっと多くの本を読み音楽を聴けば、自分なりのモーツァルト観をまとめることが出来るかといわれたら、おそらく無理。なんだかそのことがよく分かったからこそ、今日、多少の感想のようなものを書いて私の「モーツァルト月間」を終わりにしよう、という気になったのだ。

 私がつくづく感じたのは、音楽は正に作曲家の個性そのもの、ということ。モーツァルトのように音を扱う高度な技術を持っていればいるほど、その個性が正確に表現されるわけだし、人間がどんな人をも完全には理解しきれないとおり、その個性はますます理解しがたいものとして変幻し、目の前に表れてくる、というわけだ。驚くべき35年の人生、驚くべき多種多様な作品群である。ただそれだけ。それ以上のことを言うのはやっぱり無理。

2018-05-22

加藤文太郎の足跡

 先日、船形山の麓で昔の小学校の校庭がイノシシに掘り返されて大変なことになっている、という話を書いた(→こちら)。そうしたところ、19日の河北新報に、3〜4月の2ヶ月間に石巻市内で5件のイノシシ目撃情報があった、という記事が出た。「イノシシ東へ猛進」「生息域拡大止まず・・・石巻で目撃」などと、大きな見出しがついている。市と県は、猟友会を交えて対応を協議し、駆除に乗り出すという。なーに、いくら頑張って石巻で駆除に成功したとしたって、イノシシが生息域を拡大している原因は何も解決しないのだから、いろいろな歪みが後から後から表面化してくるさ、と、例によって私は冷めた目で見ている。

 話は変わる。

 3月に、念願かなって六甲山地の全山縦走をすることが出来た話は既に書いた(→こちら)。そのために神戸に行ったついでに、JR和田岬線を乗りに行った話も書いた(→こちら)。実はその時、加藤文太郎という昭和初期に活躍した登山家のことが絶えず念頭にあった。

 加藤文太郎(1905〜1936年)とは、新田次郎孤高の人』の主人公と言った方が分かりやすい。和田岬にあった三菱内燃機製作所(現三菱重工神戸造船所)で設計技師として仕事をする一方、一人で山に登った。彼自身の出身地でもあった兵庫県内と北アルプスを中心に、ほとんど全て単独で、驚異的な山行記録を積み重ねた。歩くスピードの速さでも知られる。まるで走るように歩いたらしい。

 神戸に出かける直前にバタバタしていたこともあって、さしたる予習も出来なかったのだが、5月の連休に実家に戻った時に、書架に突っ込んであった『孤高の人』を持ち帰り、加藤文太郎の遺文集『単独行』(我が家にあるのは1958年刊の朋文堂版)も合わせて、本当に久しぶりで読み直してみた。加藤についての資料は、『単独行』以外にはほとんど残されていないはずだ。ごく限られた情報を膨らませて、陰影に富んだドラマを組み立てて行く作家の力は偉大である。それはさておき・・・

 Wikipediaには「現在ではポピュラーとなった、六甲全山縦走を始めたのが、加藤文太郎である」とあるが、『単独行』巻末の後記(遠山豊三郎筆)では「当時にあっては珍しい塩屋から宝塚まで完全縦走を成し遂げた」と書かれている。全山縦走の創始者が加藤であるかどうかは確かめられない。神戸市街の裏山だから、道は元々たくさんついていたのだろうが、それを一貫した縦走路として認識し、最初期に踏破したのが加藤であることは間違いないようだ。和田岬を早朝に出発して宝塚に縦走し、そのままそこから歩いて和田岬に戻ったという逸話は特に有名である。ちなみにそのコースの総距離は100劼箸覆襦

 『孤高の人』には、加藤のお気に入りの場所として高取山が何度か登場する。六甲山の縦走コースを歩いた後に読むと、とても身近に感じられ、往事がしのばれる。

 新田次郎の長編『孤高の人』『銀嶺の人』『栄光の岸壁』は、人がなぜ山に登るのかを追求した三部作と言われる。いずれも実在の人物をモデルとした山岳小説だ。私にとって最も愛着があるのは『栄光の岸壁』であるが、いずれも小学校時代以来の愛読書である。しかし、今回あらためて『孤高の人』を読んでみて、あまりにも救いのない悲劇であると胸を衝かれた。おそらく、昔は、その悲劇的結末よりも、超人的な山行歴の方に意識が向いていたのだろう。

 単独行をもっぱらとした加藤が、初めて他人とパーティーを組んで山に行った結果、遭難死する。1月、槍ヶ岳の北鎌尾根でのことである。後には結婚して1年にしかならない若い妻と、生まれて2ヶ月にもならない娘とが残された。『孤高の人』はそこで終わる。一方、『銀嶺の人』も『栄光の岸壁』も主人公は死なない。それどころか、前者はグランドジョラス北壁の、後者はマッターホルン北壁の初登攀に成功した栄光の場面で終わる。

 加藤が遭難死した後の若い母娘は、その後どのような人生を送ったのだろう?『孤高の人』を読み終えると、人の夫であり親である身として、そのことがいたたまれないような「哀れ」をもって迫ってくる。自分自身の生活環境の変化によって、作品の印象はがらりと変わるのだ。

 『銀嶺の人』や『栄光の岸壁』では主人公が偽名で書かれているのに、このような暗い結末をもつ小説が、主人公を実名にして書かれたのは不思議である。

 加藤文太郎の生地・兵庫県浜坂町(現・新温泉町浜坂)の澄風荘という旅館のホームページには、「加藤文太郎のこと」といういささかマニアックな、16回にも及ぶ連載がアップされている。その第15回によれば、加藤文太郎を実名にするよう作家に強く求めたのは、他ならぬ花子夫人だった。その意図は書かれていない。しかし、ご本人を直接知るらしい主人が、「いかなる状況であろうと、彼女は加藤文太郎の妻、加藤花子のままで生涯を送られたと、わたしは堅く思っております」と書くのを見ると、自身が加藤文太郎の妻であり、加藤文太郎加藤文太郎以外ではあり得ないというある種の誇りが、新田次郎にそのような要求を突き付けることになったのだろうと思われる。

 昔、4年半あまり兵庫県民であったにも関わらず、居所の都合もあって、兵庫県庁がどこにあるかすら知らなかった私である。日本海側には行ったことがない。六甲山の縦走路から外れた山々や、加藤の故郷である浜坂などにも行ってみたくなってきた。

2018-05-20

やっぱり大嫌い

 昨日の補足めいたことを書いておく。

 今日の毎日新聞「クローズアップ」欄は、日大アメフト部の問題を取り上げていたが、その中に、ある日大OBの言葉が取り上げられていた。「内田監督は何に対する責任か語っていない。選手を救うためにも、彼らに責任はないことをはっきりとしてほしい」というものだ。

 要するに、「自分が指示した」とはっきり語ってほしいということなのだろうが、「彼らに責任がない」などということがあり得るのだろうか?監督が具体的に悪質なタックルを命じていたとしたら、選手に責任はないことになるのだろうか?あのタックルも異常だが、OBの発言もまた異常だと思う。監督を批判しているからと言って、このOBを縦の序列から自由だ、などと思ってはいけない。監督が絶対だから、責任も全て監督にあると考えるだけである。「同じ穴の狢(むじな)」というやつだ。

 昨日も書いたとおり、選手は「大人」である。仮に1〜2年生で未成年だったとしても、だからといって倫理的な判断力が「無」もしくはそれに近い状態であったなどと言っていいわけもない。人を殺せと言われたら殺すのか?

 先週のNHK「プロフェッショナル」は、プロサッカー選手・本田圭佑を取り上げていた。私は何についても単純素朴が大好きで、茶髪を見ているだけで具合が悪くなる人間だし、本田という選手は向上心を「売り」にしているようなところがあって(本人の問題ではなく、マスコミがそのように報道するだけかも知れない)、あまり好きではない。プロは結果だけを売ればいいのだ、と思う。しかし、番組を見ながらひどく感心したところがある。

 それは、最近の日本代表ヨーロッパ遠征の試合で、彼が監督の指示に反するプレースタイルを取った、という場面だ。本田は、前監督の指示に不満があった。そして、「ここで監督に服従して自分の意に反するプレーをするよりは、自分が信じたやり方をした方がいい。それによって、たとえワールドカップの代表から外されることがあっても、自分自身で納得できる」というようなことを語る。これが「大人」であり、たいへんいい意味での「個人」というものである。(代表に選ばれるまでは監督に服従し、ワールドカップ本番で監督に反旗を翻すというのは単なる背信であり、わがままである。そこを誤解なきように・・・。)

 昨日、柳瀬元首相秘書官のことに触れた。氏は、中学校時代の不条理な部活動体験から、権威と秩序という貴重なものを学んだと考えていた。その不条理な部活動体験とは、「先輩」による一方的な指示に服することである。これが、「先生」ではなく「先輩」であったことは注目に値する。「先生」よりも「先輩」である方が救いがある。

 このことは、柳瀬氏が中学時代を過ごした約50年前は、部活動が生徒主体で行われていたことを窺わせる。部員はたいていの場合、やがて「先生」になるわけではないが、活動を続けている限り必ず「先輩」にはなる。後輩−先輩の関係は、生徒−教員の関係ほど固定的ではない。不条理は自分たち自身の問題であり、反省も改善もチャンスと可能性が自分たちの中にある。ただ、柳瀬氏は反省も改善もせずに、自分たちがやられたのと同じ不条理を後輩に押しつけたクチだ。それは、そこから権威と秩序を学んだなどと言っていることや、今の国会対応からよく分かる。

 それはさておき、おそらく日大に限らず、アメフトにも限らず、大学の部活動における監督−選手の関係は、中学や高校の部活動における先生−生徒の関係と同じだ。私が、部活動(スポ少も同じ)に大人が介入することを嫌う理由はここにあるのだ。それは間違いなく子どもたちの批判的精神を封じ込め、自立を阻害する。

 日大アメフト部の選手が、彼らにとっての巨大な利害関係の中で、監督の意向に逆らえず、もしくは忖度し、悪質な反則を犯したのと同様、監督自身も、部活動の実績によって学内やアメフト界での自分の立場が決まるという利害関係の中で、学生に反則を実質的に強いる形になっていったのだろう。利害はもともと真偽と相性が悪い(→参考記事)。スポーツは結果が非常に明瞭に目に見える。そのことが、利害との結び付きをも強めることになり、怪しげな問題を引き起こすことにもなる。やっぱり私はスポーツが大嫌いなのだな。

 さて、天気もいいことだし、久しぶりで牧山(→とは?)にでも走りに行こう、っと。 

2018-05-19

スポーツ大好きで大嫌い

 私は見た目ほど(?)運動神経が悪くない。そのおかげもあって、スポーツは見るのもするのも基本的に大好きである。汗を流すのは気持ちがいいし、ひとつの目標に向かって頭と体を使うのは楽しい。しかし、同時に、大嫌いでもある。人々のスポーツに対する熱狂を見た時に、大きな不愉快と不安とを感じてしまうのだ。

 スポーツは勝つか負けるか、結果がはっきりと見える。その勝負は努力に基づいた実力で決まるとは言っても、運の要素も大きい。次のプレーによって試合の流れや勝負がどうなるか、そのわくわく感は博打的でもある。これらの結果として、スポーツは人を狂気に追い込み、真偽や価値を見誤らせ、商業主義に利用される。そして、現在の世の中はあまりにもスポーツの価値が肥大しすぎだ。楽しいや便利に無批判に飛びつく、つまりは哲学的にものを考えることの出来ない人が多い社会において、スポーツは危険きわまりない劇薬である。

 スポーツのそれらの問題点は、学校の部活動にもよく表れている。教科学習を出発点とする学校において、課外活動である部活は「末」だったはずだが、本末転倒を起こそうと作用する力は非常に大きい。

 日本大学アメフト部の悪質反則問題が大きな問題となっている。それだって、少々極端な例ではあるけれども、スポーツの勝利至上主義が行き着く先だ。監督の指示があったかどうかが問題になっているが、映像を見る限り、繰り返される反則を指導者が問題にしている風はなく、だとすれば、あの反則に対して肯定的な立場を取っていたことに疑いはないように思われる。

 指導者はルールに基づく厳しさを求めたが、選手の受け取り方との間に乖離があった、と日大は説明している。仮にそれが本当だったとして、ここには国会で問題になっている「忖度」と同じ作用が働いているのではあるまいか?

 監督が絶対的な権限を持ち、試合に出られるかどうかは監督次第、すると卒業後に部活実績で就職できるかどうかも監督次第、そんな絶対的な力関係の中で選手が監督の思いを「忖度」するようになるのは当然である。「忖度」への意志は権力の大きさに比例することに気付かされる。それが、予防は過剰になるという法則と相乗効果を起こす中で、「大人」と言われる年齢に達している選手たちが、監督の考え方や姿勢に疑問を持ったり批判をしたりする力を失っているのは恐ろしいことである。

 そうだ。私がスポーツ大嫌いなのは、スポーツ界で活躍している人に極めて敏感な縦の序列への意識を感じるからである。一見爽やかで屈強なスポーツマンでありながら、上位の人間に対しては卑屈きわまりないという例を、今までの人生でたくさん見てきたような気がする。体育の先生に組合員が少ない、というのもおそらく事実であり、同じ問題だ。

 5月10日に、国会で柳瀬唯夫元首相秘書官参考人質疑が行われた。翌日の毎日新聞は、社会面に「柳瀬氏とは」という囲み記事を載せ、「権威と秩序 運動部で学ぶ」と見出しを付けている。それによれば、柳瀬氏は1997年3月に旧通産省の広報誌『通産ジャーナル』の書評コーナーで心理学者林道義『父性の復権』(中公新書)を取り上げた。そこで氏は、自らの中学時代の運動部体験に触れ、次のように書いているという。

「有無を言わさず一方的に指示を出す『先輩』に、はじめて権威と秩序を認識させられた。当時はずいぶん無茶苦茶な話だ、と思っていたが、いまにして思うと自分には大きな修得であったし、転換点であった。」

 記者によれば、柳瀬氏はそのような部活動の体験肯定的にとらえていて、「対話批判」が尊重される現代をこそ批判しているらしい。世の中を動かす人間にとって部活動やスポーツ界が好都合な、歓迎すべき存在であり、学校の部活動に関する指針でも、活動時間の制限といった上っ面だけの改革でお茶を濁そうとする理由がよく分かるではないか。

 日大アメフト部の反則問題は、極端であり例外的な事件だと思う。だが、間違いなく普遍とつながるものがある。冷静に、スポーツとは何か、どうあるべきかと哲学するきっかけにしなければならない。そうでなければ、結局、日大もしくはその監督だけを悪者にして一件落着となってしまうだろう。

2018-05-17

見える人には見えていた・・・MOTTAINAIの源流

 先日、南極観測隊の教員派遣プログラムというのに応募した顛末を書いた(→こちら)。その中で、私が南極に特別な興味関心を持つようになったきっかけは、初代南極越冬隊長・西堀栄三郎氏の著書『石橋を叩けば渡れない』であり、その本を読んで以来、私は西堀教徒になったということを書いた。

 確かに、以来40年以上、私は何かにつけて西堀氏の体験や考え方を思い出しながら、それを指針として生きてきたように思うのだが、それはほんのいくつかの基本的原則に過ぎず、氏の思想を詳細に理解し、身に付けていたというわけではない。読んだ本はと言えば、『石橋を叩けば渡れない』と『南極越冬記』だけ、やや遅れて『五分の虫にも一寸の魂』くらいであって、西堀哲学の全貌というものを意識したことはなかった。その結果、うかつにも『西堀栄三郎選集 全4巻』(悠々社、1991年)なる本が出ていることも知らずに来た。

 今回、南極についてあれこれ調べている最中、その本の存在に気付き、慌てて購入して読んでみた。そして、常識を超越した偉人であると改めて感銘を受けた。

 ご本人は、自分は10年ごとに違う分野で仕事をしてきた、と言う。その根っこにあるのは「探検家的精神だ」とも・・・。理学部化学科の卒業生で、京都大学助教授にまでなりながら、東芝に移って画期的な真空管の開発を成功させ、技術コンサルタントとして全国の工場を駆け巡り、南極越冬隊長を務め、それが終わると日本原子力研究所理事、日本原子力船開発事業団理事として、原子力発電所原子力船「むつ」の開発に関わった。確かに、何が本当の専門か分からない。それでいて、どの分野でも一流の結果を残したのだから恐れ入る。また一方で、京都大学学士山岳会ヤルン・カン(カンチェンジュンガ西峰)登山隊長、日本山岳会会長としてチョモランマ登山隊総隊長なども務めた。ユニークな発想と柔軟性、目標に向かって進む時の推進力の強さは正に比類がない。その上、いかにも関西人らしいユーモアと、人を見る目の温かさ!

 選集を買った時、一番興味を持てそうになかったのが、工業技術コンサルタントとしての仕事についてまとめた第3巻である。ところが、通読してみると、結局いちばん面白かったのはその巻であった。どうして、何を作っているかに関係なくどんな工場でも問題を解決しますよ、などということが可能なのか?選集第3巻を読めば分かる、とまで言い切る自信はないが、読んでいて痛快なのは間違いない。とりあえずは第3巻の解説「西堀流品質管理」(唐津一・東海大学教授筆)を読むことをお勧めする。

 選集別巻所収の三村啓一氏の文章には、次のような話が見える。おそらくは1980年頃の話である。日米環境会議における座長としての西堀氏の発言だ。

「古来日本には“もったいない”という言葉がある。“もったいない”とは単に無駄を省くというとか節約するという意味だけではなく、もっと積極的な自然の恵みに対する畏敬の念がある。この概念が、これからの環境問題を解く鍵になる。」

 なるほど、自然に対する畏れの気持ちがないから無駄遣いが激しくなる。無駄遣いというのは、使い捨てのように、便利だ簡単だということによってだけ引き起こされる問題ではないのだな。また、上の引用の後の部分には、この時の通訳が「もったいない」を訳すことが出来ず、「もったいない」のままで通したことが書かれている。三村氏は、「もったいない」がやがて「MOTTAINAI」として英語の辞書に載る日が来るのではないか?との期待を示している。

 「もったいない」と言えば、ケニアの環境運動家でノーベル平和賞受賞者・ワンガリ・マータイ女史が思い浮かぶ。彼女は2005年に来日した際、「もったいない」という日本語を知って感銘を受け、「MOTTAINAI」を世界に広めようと運動を始めた。これは西堀氏が亡くなってから16年目のことである。果たして、西堀氏が「もったいない」に着目したことと、マータイ女史の運動との間に関係はないのだろうか?「MOTTAINAI」が既に英語の辞書に載ったかどうかは知らないが、西堀氏が「もったいない」という言葉=思想に価値を認めてから半世紀近くを経て、それは確かに国際語として認められつつあるのかも知れない。

 環境問題が深刻化することについての指摘も、それが1980年頃に為されていることに意味がある。

 「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が設立されたのは1988年、その第1次報告書が出たのは1990年である。日本人が温暖化問題に目を向け始めたのは、せいぜいこのあたりからではないだろうか?だから、日米環境会議(民間)が開かれ、海外で「2050年頃には〜」などという試算が行われていたとしても、おそらくその深刻な意味を理解していた人は少なかった。

 もちろん、西堀氏は科学者であるから、一般市民と同レベルで見るわけにはいかない。それでもやはり、温暖化を中心とする環境問題が深刻化することへの危惧と、それを乗り越えるための「もったいない」という思想の発見・・・私は西堀氏の先駆性と着眼点の確かさに舌を巻く。あぁ、分かる人には分かっていた、見える人には見えていたのだ。畑の違う様々な工場で問題点を見つけ出し、飛躍的な生産性の向上を実現させた目には、あらゆるものがよく見えていたのであろう。

2018-05-15

月謝袋を持たせよ

 大学生の不勉強、学力低下は今に始まったことではない。岡部恒治他『分数ができない大学生』(東洋経済新報社)が衝撃を与えたのは、既に20年近く前、前世紀も末の話であるが、その後、改善傾向があると指摘した人を一人として見たことがない。高校も含めて、事態はむしろ一層深刻化している。

 全国大学生協組合連合会が毎年行っている大学生の生活実態調査の昨年の結果によると、読書時間ゼロの大学生は過半数に上る(私が憶えている最も早い一般紙報道は、今年1月13日の読売新聞)。これはイコール、勉強を全くしない大学生が過半数に上るということである。本を読むだけが勉強ではない、というのは屁理屈というものである。本を読むだけで勉強が出来るわけではないが、本を読まずに勉強することもまた不可能だ。

 一方で、半数近くの大学生において、スマホの利用が1日に3時間を超え、1時間以上となると9割を超える。当然、書籍費ゼロの学生が過半数である一方、スマホには1万円前後、或いはそれ以上のお金をかけていることになる。高校生でも、月に数千円のスマホ代は気にならないのに、1冊2500円の辞書は高くて買えない、もしくは買う気にならないとぼやいている生徒がいくらでもいる(学校によってその%は大きく異なるだろう)。

 生活が困窮していて授業料が払えない大学生が少なからずいる、返済不要の奨学金を拡充しろ、授業料を大学も無償化しろ、いや、出世払いだみたいな議論はよく耳にするが、私は基本的に必要ないと考える。優秀な、あるいは向学心に満ちた一部の学生のための枠があれば十分だ。人手不足と言われるご時世に、勉強しないこれだけ多くの若者が、大学生という地位にあって惚けていることの方が問題だ。

 先日、勤務先の高校で授業を担当しているクラスの生徒に対して、ちょっとしたきっかけから、高校と大学の授業料の話をした。大雑把なところで県立高校が年に約12万円、国立大学が約65万円、私立大学文系が約100万円、理系が約150万円、医学部だと約500万円(授業料ではなく、在学中に納付する総額を年数で割ったもの)・・・みたいな話だ。生徒の目に驚きの色が浮かぶ。そして、彼らに、年12万円の授業料を払っている実感があるか?と尋ねると、一様に首を横に振る。いや、そもそも、自分たちの授業料がいくらかを知っている生徒が一人もいない。それはそうだろう。一応、生徒の手を経て文書が親に行くわけだから、その数字を目にする機会があるとは言え、親の口座から自動的に引き落とされるか、親が銀行に振り込みに行くかだとすれば、お金を払っているという実感を生徒が持てないのは当然である。

 ふと思った。これは大学生でも同じことだろう。彼らが勉強しないことの背景として、自分たちの大学生活の価値を実感できないことがあるのではないか?何事も価値を金銭に還元しないと考えられない、というのは困ったことだが、ひとまず、自分の学生生活にどれだけの授業料が支払われているか、いや国や自治体補助金も含めて、どれだけの経費がかかっているかを実感することを通して、大学生活の価値を考えることは大切なのではないだろうか?そのためには、親の口座から自動的に授業料を引き落とすのではなく、「月謝袋」を持たせて、毎月、現金を学生が大学の窓口に納付する制度にすればよいのではないか?私立理系で月10万円。これを毎月窓口に持って行けば、学生の意識は変わると思う。

 更に、納付の際に発行する領収書には、学生から受け取った金額だけではなく、総額(大学を経営するのにかかっている総額を月数12と学生数で割った額)と補助金助成金の額も書いた方がいい。例えば、次のような形だ(金額はあくまでも例)。

「領収書 金10万円也(ただし、5月分授業料の自己負担金として。26万円から国の補助金16万円を除いた額)」

 つまり、公的助成も含めて経費を自覚させ、自分の学生生活を支えてくれている社会に対する感謝の念をも育てていくべきなのだ。それが、卒業後、必ずしも自分の利益のためではなく、社会のために働くという公共心・使命感を育てることにもなるだろう。

 もちろん、滞納は増えるだろうし、大学として集金事務に人手を割かれるというデメリットはある。しかし、滞納を続ければ進級、卒業を保留→不認定すればいいのだし、どっちみち低学力、不勉強対策に教員が頭を悩ませ、無駄なエネルギーを費やしているわけだから、集金業務エネルギーを費やすことで、そちらを減らすことができる可能性を探ってみるのは、決して悪いことにも思われない。

 根本的解決は、本当に勉強したい人だけが大学に進む、既に社会人になっていても、大学で学びたいと思った時には大学に進める、ということなのだけれど、現時点では理想論机上の空論とバカにされるのがオチだろう。それよりは、「月謝袋」がはるかに簡単。どこかの大学で、一度試してみないかなぁ?

2018-05-13

恐ろしいイノシシ

 金曜日の夜から昨日にかけて、県総体登山競技コース調査(主催者としての下見)で山に行っていた。今年の会場は船形連峰(旗坂〜蛇が岳〜北泉が岳〜水神)である。

 もともと登山の大会(競技化)に非常に批判的な態度を取っている私は、大会にできるだけ関わらないように身を処してきた。自分が嫌いだ、というだけでなく、積極的に参加しようとしている人の邪魔をしないためでもある。それはそれで、私なりの気配りなのだ。他の顧問たちも、私のそのような姿勢を知ってか知らずか、私には何かをさせようとせず、それでいて私を仲間はずれにしないように、実にほどよく扱ってくれていた。

 そんなわけで、25年も登山専門部に関わっていながら、実は県総体準備の最大イベント言えるコース調査に参加したことが1度もなかった。ところが、なぜか今年、メールで回ってくる登山専門部の文書で、コース調査のメンバーに私の名前が入っていたのである。私は、彼らが彼らと私との間に成り立っていた暗黙の了解を逸脱した、などとは全然思わなかったが、塩釜高校山岳部の活動予定があったため断った。ところが、それがキャンセルになったので、せっかく誘われたことだし、一度行ってみるか、と出かけることにしたのである。

 麓の温泉旅館での夕食時、登山専門部の顧問体制が危ない、という話題になった。なんとびっくり、某先生が現在の顧問の平均年齢を計算してみたところ、51歳を超えたという。何人かの定年退職した人が、コーチを務めていたりするので、それも合わせると平均年齢は更に上がる。今回、私がコース調査に呼ばれたのも、もしかするとそんな人材の枯渇が事情としてあったかも知れない。

 10人あまりのメンバーが、全コース踏査、エスケープルート調査、通信状況確認などのグループに分かれて山に入る。私は「全コース踏査」だ。歩行8時間を超えるルートを歩き通し、問題箇所をチェックする最も過酷なこの係も、(多分)57歳、55歳、53歳、49歳、38歳という具合。

 幸い、天気は上々。新緑と残雪コントラストも美しく、コシアブラもたくさん採れた。生徒を連れていなかったこともあって、仕事意識のほとんど無い楽しい休日レクリエーションとなった(ごめんなさい)。

 長倉尾根の東端のあたりが笹に覆われ、登山道が不明瞭になっていたのがコースに関する唯一の問題だというくらいで、他に問題はなかったのだが、1日目の宿泊地となっている「森の学び舎」(旧大和町立吉田小学校升沢分校→について)には大きな問題があった。なんとびっくり、イノシシが校庭を掘り返してしまい、テントが張れる状況ではないのである。ミミズのような生き物を捕るためらしい。芝生が生えていて快適そのものだった校庭は、芝生が根こそぎ掘り返されてボコボコ。かろうじて、校庭の端っこの方にテント10張り分あまりの多少マシな場所が残されているだけ、という状況であった。

 私は大阪生まれであるが、1歳半から14歳の8月まで宮城県で過ごし、その後、兵庫県に引っ越した。私は、父親の影響で幼い頃から野山を歩き回るのが好きだったが、兵庫県に引っ越した時、父から「宮城の山と違ってここの山にはイノシシが出るから気をつけろ」と言われた。当時、イノシシが何物か、私にはよく分かっていなかったのだが、鋭い牙を持っていて、山の中で出会うと猪突猛進で襲いかかって来る恐ろしい生き物だと想像し、恐れた。

 そのイノシシ宮城県でも見られるという話を耳にしたのは、果たして何年前だったか。最初は宮城県の最南端丸森町での話としてだったと思う。それがいつの間にか、相当短期間で、宮城県のちょうど真ん中、大和町(たいわちょう)の山間部でもたくさん生息するようになっているのだ。気にしながら見れば、麓の畑にも周囲に柵を張り巡らせているところが目に付く。

 これは温暖化の影響以外にあり得ないだろう。恐ろしいことだ、と思った。イノシシという元々宮城県にはいなかったはずの生き物がこれだけ勢力を拡大しているということは、逆に、元々宮城にいた生き物で、宮城に住むことができなくなった生き物もまたいることを意味するだろう。人間が人工環境を作って、環境に適応する努力をせずにいる間に、生き物たちは着々と対策を取っている。恐ろしいのはイノシシの牙ではない。それがいること自体である。

2018-05-10

「逆接」の働き

 国語の授業をしていて、いつも気になっていることがある。私にとってはごく当たり前のことなのだが、どうやら他の人にとっては全然当たり前のことではないらしいぞ、ということをいよいよもって強く感じるので、書いておこうかと思うようになった。それは、「逆接」とは何か?ということである。

 授業中、たとえば「しかし」という言葉が出て来たとして、その性質を生徒に尋ねると、「逆接」だと言う。確かにその通り。では「逆接」って一体何なの?と尋ねると、「内容的に逆のものをつなぎ合わせる言葉」と答える。誰に聞いても似たり寄ったり。言葉は多少違うが、ほぼ同じことを答える。どうやら小学校以来、そのように教えられてきたらしい。あながち間違いとは言えない。例えば、権威ある辞書の「逆接」についての記述を見てみよう。生徒の答えより小難しい言葉で、基本的には同じことが書いてある。

「一個の文、または連文節を、矛盾、対立する要素があるものとして結び付ける形式。」(小学館日本国語大辞典』新版)

「文または句の接続の仕方の一つ。後続する句または文の内容が、先行する句または文から予想・推論される内容と異なっているような場合の接続」(岩波書店広辞苑』第七版)

 申し訳ないけど、私は生徒の答えについて「そんなのはデタラメだ!」と声を荒げた上で(笑)、次のような例文を黒板に書く。

 A)○○君は全く勉強が出来ない。しかし、とてもいい人だ。

 B)○○君はとてもいい人だ。しかし、全く勉強が出来ない。

 「AとBがまったく同じ内容だと思う人手を挙げて」と言うと、まず間違いなく、誰も手を挙げない。次に、「自分が○○君だとして、人から言われるとしたらこちらがいいな、と思う方に手を挙げて」と言うと、ほとんどの生徒はAに手を挙げる。

 逆接続詞「しかし」を挟んで、否定的なことと肯定的なことが書かれている。その意味で、確かに「しかし」は「内容的に逆のものをつな」いでいる。だが、単に「つなぐ」というのであれば、1+3=3+1のように前後を入れ替えても、内容的には変化しないはずである。ところが、AとBが同じ内容の日本語には見えない、ということは、「しかし」の働きが、単に「つなぐ」というだけではないことを意味するだろう。

 自分が言われるとしたら、という質問で、ほとんどの生徒がAに手を挙げるということは、Aの方が「全く勉強が出来ない」よりも「とてもいい人だ」がよりいっそう聞き手に伝わるからである。人間は誰しもほめられるのが大好き。そう、「しかし」の働きは、後を強調するということなのだ。文章を読む上でこれはとても便利な知識であり、大切なことなのではないだろうか?それに比べれば、内容的に逆のものを結び付けるという働きなど些細であり、「しかし」の機能として意識する必要などないほどのものである。

 文章は前から後に向かってスムーズに流れるのが基本である。その基本に逆らって、あえて矛盾・対立する要素を持ち出すためにはエネルギーが必要だ。それだけのエネルギーを費やしてでもそれらを持ち出そうとし、その前触れとして「しかし」を使う。そのエネルギーこそが、強調の作用を生む。それが「逆接」の働きであり、論理だ。

 少なくとも、私は「逆接の働きは後を強調することだ」とばかり教えている。それがニッコクやコージエンに書いていないから間違いだと言うのなら、平居は国語教師失格。「やっぱりな・・・」でおしまい。ちゃんちゃん。

 

2018-05-08

やむを得ない決定である

 大川小学校裁判における2審、仙台高裁判決について、今日の夕方、石巻市議会最高裁判所への上告を決めた。何かにつけて私の考えと政治的決定は相反するが、この件については私も同じ判断だ。2審判決は1審判決に比べて、津波予見可能性を認めた分、より一層たちが悪い。1審で控訴したのなら、2審で上告しないのはおかしい。

 私の考えは、基本的に1審判決の時と変わっていないので、かつての記事(→こちら)を読んで欲しい。裁判は、あまりにも結果を出発点として感情に流された考え方をしすぎている。ハザードマップ津波浸水域になかったも関わらず、津波を想定した危機管理マニュアルを作っていなかったことを過失と認めるのは、事後法によって人を裁くに近い。

 くれぐれも誤解して欲しくないのだが、私は大川小学校の事故について、人並み以上に心を痛めているつもりなのである。だがやはりどうしても、それはそれ、これはこれ、だ。

2018-05-06

遠い南極(8)

 3月14日は、高校入試合格発表だった。16時に無事発表が済み、16時半から職員の最終打ち合わせが行われることになっていた。会議室に入ると、校長が慌てたように私を手招きする。校長は私を外に連れ出した。もちろん、手招きをされた瞬間に、回答が来たことは分かった。校長は外に出ると、他の職員から見えない方向を向いて、胸の前で腕をクロスさせ「×」を作った。

 ああ、終わったな、と思った。私は、「仕方ありませんね。ご面倒お掛けしました」とだけ言った。ショックはもちろんあった。しかし、待つことにすっかり疲れていた私は、×でも○でもいいから早くはっきりさせてくれ、という気分になっていた。震災後のPTSDと同様、発生した問題が大きければ大きいほど、その瞬間ではなく、時間が経ってからダメージが大きくなってくる、という人間の心理もある。だから、校長から結果を知らされた時のショックはさほど大きくなかった。

 数日後、極地研から県教委に届いた選考結果通知の文書(コピー)が、県から転送されてきた。「選考の結果、ご推薦いただきました下記の応募者については、残念ながらご希望に添うことが出来ない結果となりましたのでお知らせします。」という決まり文句だ。私が南極に対する未練と、不採用の悔しさを激しく感じるようになったのは、それを目の前にした頃からである。今年は11月から南極と心の中で決めていたこともあって、1年間学校にいるんだよ、と言われても、仕事の意欲が湧いてこない。県で門前払いは願い下げだが、極地研に落とされるのはまだ諦めがつく、という思いは予め持っていたつもりだが、頭で分かっているというのと、心がそれを受け入れられるのとはまた別の話である。

 考えても仕方がないと思いつつ、自分はなぜ不採用になったのだろう?と考えてしまう。もちろん、募集要項を読む限り、あの南極授業案が合格水準に達していなかったのだ、ということになる。しかし、南極に行く前に書いた授業案で採否を決めるというのは、どうしても信じられない。年齢も性別も教科も不問と言いつつ、やはり年齢は不利に働いたのではないか?いや、昨年、運営母体が違うとはいえ、宮城県国立)から採用者が出ていたことの方が逆風として大きかっただろう・・・。

 「募集要項」によれば、採用通知を受け取った人は、3月中旬以降に身体検査を行い、問題が無ければ同行者候補者として文科省に推薦され、6月中旬に同行者として最終決定されることになっている。公表されるのはその後だ。果たしてどんな人が選ばれるのか知らないが、案外、簡単に推薦書に印を押してくれる県に住んでいて、ほとんど思いつきのように応募した人が採用されるような気がする。この世は常に不条理である。

 というわけで、本来は、ここから出発までのいきさつも含めて、もしかすると別のブログホームページを立ち上げて大々的な「南極シリーズ」が始まる予定だったし、事前に応援や励ましを下さった方、今回の連載を読んで下さっていた方にはたいへん申し訳ないのだが、結末はこのように情けないものであった。

 南極に行く方法は、観測隊に参加するだけではない。半月ほど前にも、日本発着のツアーの広告が新聞に出ていた。一般的な南極ツアーはほとんど全て、アルゼンチンから豪華客船に乗って南極半島を往復してくるというものだ。若干の上陸時間がある。だいたい日本から往復2週間で150万円くらい。『地球の歩き方 GEM STONE』というシリーズで、「南極大陸完全旅行ガイド」なる本まで出ている。しかし、お金の問題ではなく、私はそれに参加してみたいと思ったことはない。

 南極半島を豪華客船で往復するのは、江戸時代南蛮人が、日本に行くといって長崎出島に入港するのと同じことだと思っている。それが本当に南極に行ったことになるだろうか?ツアーの目的地は、南極条約による管理区域(南緯60度以南)ではあるけれども南極圏(南緯66度以南)外だ。なんといっても時間が短すぎる。氷海を砕氷航行するということもない。1年を南極に暮らす(暮らした)各分野の最前線にいる研究者たちから耳学問をするチャンスもない。極地観測の舞台裏を見る機会もない。大氷原を目にすることも、そこを雪上車で走ることもない。オーロラも見られない。教員派遣に落ちた今でも、だったらツアーで、などという気は微塵も起こってこないのである。飛行機による数百万円の南極点到達ツアーでも同じである。

 落ちない、と信じていたためでもあるが、落ちたらどうしよう、ということは考えていなかった。県には、とにかく今年1回だけ推薦して欲しい、とお願いをした。だから、普通に考えれば2回目はない。落選通知を受け取って1ヶ月半がたち、こんな文章を書くことができるところまでは平静を取り戻したが、南極を諦め切れているかといえば、とてもそうとは言えない。では、何か方法があるかと聞かれれば、なんとも答えられない。宮城県職員という立場がなく、自分で自由に動けるなら、越冬隊の観測補助員でも応募できるが、残念ながら立場上の制約は厳しい。何をするにしてもマイナス評価を受けるであろう年齢は、自分の努力で改善することができない。

 西堀栄三郎氏は『石橋を叩けば渡れない』で、「やるかやらないかを決心する前に、こまごまと調査すればするほど、やめておいた方がいいんじゃないかということになる。」「決心してから実行案を考えるのでなければ、新しいことはできません。」と書いている。同『五分の虫にも一寸の魂』(生産性出版、1984年)には、1972年に西堀氏他がネパールヒマラヤのヤルン・カン(=カンチェンジュンガ西峰、8505m)の登山許可を取得した時の話が出てくる。10月末になって突然、翌年の登山を許可するという通知が国王から届いた。翌年、モンスーン期に入る前の5月20日までに登山行動を終えるためには、12月末までに荷物を発送する必要がある。そんなことは絶対に不可能だと言う隊員を、西堀氏は「先程から聞いとると、不可能じゃ不可能じゃとばかり言うとるけど、不可能を可能にする方法を君は知らんのか?」「先程から君の言うてるのは常識的に考えたらできません、と言うとんのやから非常識にやればええんや。非常識にやりたまえ。」と叱り飛ばす。その結果、彼らは12月末までの荷物発送、翌年の初登頂に成功した。

 西堀教徒である私は、さてここでどうすべきか。ここからこそが考えどころかも知れない。南極は「常識」の範囲にはなく、果てしなく遠いのであった。(完)

2018-05-05

遠い南極(7)

 私も半世紀以上生きているからには、高校入試以来、選抜試験や資格審査といったものを受ける機会が何回となくあった。しかし、今回の南極派遣選考ほど、結果を待つ時間が長く感じられたことはなかった。それはやはり、自分の南極に対する執着の反映なのだろうと思う。同時に、自分の履歴や情報発信能力から、私が不採用になることなんてあり得ない、という尊大な自信を持ちつつ、少なくとも10倍や20倍にはなるであろう競争率(過去の選考についても非公表)、55歳という年齢、昨年も宮城県の教員(宮城教育大学附属中学校)が参加しているという逆風を意識しては、不採用をおびえる気持ちがあったためでもある。

 募集要項に書かれた「今後のスケジュール(予定)」によれば、「2月14日(水)応募締め切り、審査開始」「3月初旬 書類選考結果通知を郵送」と書かれている。「初旬」というのは「10日までに」ということだろう。県から「書類を発送した」という電話がかかってきた2月2日から、結果を受け取るまでには1ヶ月あまりある。頭がボーッとしてくるほど長い時間に思われた。

 締め切り日である2月14日になった。17時。時計を見ながら、応募者は何人になっただろうか?と思った。

 出願の件は、今回の連載を始めるまでこのブログに書いていない。それは、私の記事を読んで教員派遣枠の存在を知り、私の競争相手として応募に乗り出す人が現れると困るからである(笑)。仕事に目が向いていないみたいで気恥ずかしいので、学校内で公言したりもしていなかった。しかし、仲間内ではさほど隠していなかった。まだ県の推薦がとれるかどうかさえ分からなかった年末、一部の人宛の年賀状には、今年の抱負として南極派遣への挑戦を書いたし、酒の席で近況を語り合ったりしている時の話題にもした。そして、多くの人から「お前は適役だよ」とか、「また『それゆけ、水産高校!』みたいな本でも書いてよ」とか、いろいろな励ましをもらった。

 じりじりとした緊張感は、3月に入ると更に高まった。結果通知はいつ届いてもおかしくない。「郵送」が3月初旬ということは、10、11日が土日なので、9日までに届く可能性が高い。仮に「郵送」が「発送」だとしても、最悪で12日には結果が分かる。結果は推薦者である教育委員会に通知されることになっている。県教委はそれを校長に、おそらく電話で知らせてくる。連絡が来れば、校長からすぐに呼び出しがかかるだろう。私は、職員室で電話の音がするたびに、ビクッとするようになった。県は本当に書類を提出してくれたのだろうか?という疑念も、繰り返し胸に湧き起こってきた。この状態があと1週間も続けば、精神的に参ってしまう。本当にそう思った。

 一方、選考結果については教頭も気を揉んでいた。教頭の大仕事である次年度の校内人事の調整が、大詰めを迎えていたからである。私が11月からいるかいないか分からない、というのは職員の配置を決める上で困ったことである。教頭は「余計なことしやがって」というような顔は全然しなかったけれど、時々「来ませんねぇ」と言いながら顔を見合わせると、申し訳ない気分になった。極地研もそのような学校内の事情は分かっているはずである。だから、通知の時期が「初旬」になっているのだし、だとすれば、「初旬」に発送すればよいというのではなく、「初旬」に届くように発送してくれるのではないか?勝手にそんな想像をしていた。

 3月7日の夜に夢を見た。校長が渋い顔をして目を伏せている。「寝癖の付いているやつじゃないと駄目なんだそうだ」と言う。私には意味が分からなかった。一瞬間をおいて、私は「どういう意味ですか?」と尋ねた。校長は「要するに、若くないと駄目だっていうことさ」と答えた。夢にうなされて目を覚ましたりはしなかったけれども、翌朝目が覚めてから、それを思い出して嫌な気分になった。これは正夢というやつではないだろうか?この日に極地研内部での会議によって、私の不採用が決まった、もしくはその旨の通知を発送した、ということではないだろうか?と思った。

 結局、3月9日にも電話はかかってこなかった。週が明けて12日になっても連絡は無い。4時過ぎになってから、私は思いあまって校長室に確認に行った。確かに、県からの電話はまだ来ていなかった。校長は、私の目の前で問い合わせの電話をかけてくれた。県にも通知は届いていなかった。南極は本当に遠い。(続く)

2018-05-04

遠い南極(6)

 さて、最大の問題は「『南極授業』計画案2回分」というものである。私は、提出書類としてこれがあることを初めて知った時、目を疑った。なぜなら、まだ南極に行っていない段階で、授業案なんて作れるわけがない、いや、むしろ、そんなものを作って本当にそのとおり授業をするとすれば、わざわざ新鮮な発見のないつまらない授業をすることになるだろう、いくら事前に周到に予習をし想像を膨らませて行っても、必ず新しい発見と驚きがあるからこそ、現地に実際に行くことには意味があるはずだ、と思うからだ。実際、このブログの「旅行」というカテゴリーに分類してある記事を見ても、ただの記録というだけではなく、多くは何かしらの新鮮な発見によって書こうという衝動が起こった結果のものである。事前に記事のプランを考えてみろ、と言われても、絶対に無理。実際に南極に行けば、2回どころか、現地で見つけたネタで授業を行うことくらい、30回でも40回でも容易であると思える。しかし、どうしても、「事前」は無理なのである。

 もうひとつ私が悩んだのは、教員が南極に行くのは、報道機関の人が南極に行くのとどう違うのか?という問題である。南極観測隊には「報道関係者」という枠も2名分ある。今回の連載(2)で紹介したとおり、教員派遣の募集要項には「国内の小・中・高等学校等の児童生徒や一般国民に向けての、南極に関する理解向上につながる様々な情報発信をしていただくことを期待しています」と趣旨説明が為されている。だが、「一般国民に向けて」「南極に関する様々な情報発信」をするなら、報道関係者の方が圧倒的にパワフルであろう。私は、教員を南極に連れて行く価値があるとすれば、そのような体験をした人間が学校にいること自体に価値がある、と考えている。だから、自分としては教員と報道関係者の違いなんて意識する必要はない。しかし、いざ「南極授業」というテレビ番組もどきのプランを考えようとすると、教員とマスコミとは何が違うの?という問題に当面して、悩んでしまうのだ。

 ところが、募集要項を見ると「7.選考基準」として、「提出された『南極授業』計画案の実現性、実効性、着眼点等から総合的に判断します。」とだけ書かれている。つまり、少なくとも表向き、選考はほとんど全て、この「『南極授業』計画案」の善し悪しによることになっている。となると、いくらこちらが文句を言っても始まらない。選考のために被選考者が何を提出するかは選考する側が一方的に指定するものだというのは、あらゆる選考試験の常識である。

 私は、授業の内容そのものではなく、授業案の行間を読む形で適性を見極めようとしているのではないか?などと疑ったのだが、ともかくも、授業案を書かなければならない。そこで私は、10月くらいからお正月までかけて、今回購入したものも含めて30冊あまりある我が家の南極関係書籍を丁寧に読み直すことから始めた。同時に、昨夏知り合った教員派遣経験者M君に頼んで、彼が合格した時の授業案=模範解答を見せてもらった。M君の指導案を見ても、私にはまったく特別なものに見えなかった。「実現性」なんて、現地を知らない人間には判断できるわけがない。そこで、自分が現時点で伝えたいと思うことを正直にまとめてみるしかないと腹をくくった。

 正月明けの数日で、とにもかくにも「授業案」というものを2回分作った。第1回は、導入として、私と南極との関係(今回の連載第1回に書いたようなこと)を述べた上で、南極がどのような場所かを理解してもらうために、世界地図の中で南極がどのように扱われているかに触れ、昭和基地生活環境(特にエネルギー食糧)をレポートして、日本国内での生活の過剰を考えさせる、というもの、第2回は、自然観測地としての南極の特長を確認した上で、環境変動、宇宙研究、生物研究という3つのテーマで、それぞれに関わる研究者にインタビューする、というもの、である。1コマ45分程度という制約からすると、詰め込み気味であったことは認めるが、私の問題意識と関係する範囲で、まあこの辺かな?というあたりを狙って書いた。

 「上手く出来た」などとは思わなかった。そもそも「上手く」がどのような状態なのか見当がつかない。多くの情報を仕入れれば仕入れるほど、たった45分×2という限られた枠の中では、妙に受け売りの解説臭いことをする方向に流されてしまう。何も予習なんかせずに、出来るだけ無邪気な思いつきっぽい授業にした方が評価されるのではないか?とも思ったが、なまじ知識があり、しかも現地へ行く前となると、かえってそういう授業を計画するのは難しい。選考者の意図や心理が分からないのはつくづく悩ましいものである。授業案なる課題が選考者の心の琴線に触れるかどうかは「運」だな、と思った。やっぱり南極は遠い。(続く)

 

2018-05-03

遠い南極(5)

(4月28日から続く)

 私が県庁を訪ねて3日後の1月25日、2時間目の授業が終わって職員室に戻ると、教頭から「校長がお呼びですよ」と言われた。急いで校長室に行くと、「あ、平居さん、おめでとう。県から電話があって推薦出すってよ。粘り勝ちだね。」と言われた。

 これは嬉しかった。南極に一気に近づいた、と感じた。私が熱弁を振るった結果であるのは当然だが、それでも、県が私の話のどの部分に説得力を感じ、過去9年間の内部決定を覆してまで印を押す気になったのかは見当がつかなかった。ただ、自分の権限では出来ないと言いつつも、T先生が真面目に課長(文科相から出向してきているキャリア官僚)らを説得してくれたからに違いない、と想像は出来た。私はすぐにT先生に電話をかけた。T先生は「私にはこんなことしか出来ません」と、さりげなく言った。「こんなこと」以上にどんな出来ることがあり得るのだ?

 校長は、その場で自分自身の推薦状を書き、許可証と合わせて職印を押すと、私が準備した書類と合わせ、「明日、県に行く用事があるので、出してくる」と言ってくれた。県からは、2月2日に書類を発送した旨、連絡が来た。

       *

 さて、ここで一度時間を戻し、自分が準備する書類のことを書いておこう。所定様式について興味のある方は、極地研のホームページを開くと、実物が簡単に手に入るので、それを参照して欲しい。

 「申込書」は、本当にただの「申込書」である。

 「履歴書」には「応募動機」を書く欄があるが、わずか5行ほどしか書けないので、自分を売り込むには難しい。多少なりとも特徴があるとすれば、「寒冷地及び積雪期の経験」「海外旅行及び海外生活の経験」「スポーツ歴」「パワーポイント、word、Excelや簡単な動画編集などのPCの操作スキルの有無、経験等」という欄があるくらいだろうか。しかし、これらとてせいぜい5行分くらいの小さな欄だし、南の方の県からでも採用はあり得るだろう、海外旅行経験やスポーツ歴の有無が南極へ行くことと関係するとは思えない、などと考えると、選考の材料にするのではなく、採用が決まった後で参考にする、という程度の位置付けではないかと想像した。あるいは、4ページのうち最後の1ページが、丸々「その他」となっているので、ここに自己アピールを作文すべきなのだろうか?私は、著書や論文ブログについてのデータを簡単に書いただけである。

 「健康状況の分かる書類」とは、「所属先等での直近の健康診断結果」と南極派遣プログラム用の「健康調書」であるが、前者には問題があった。10月2日に受診した人間ドックで、今までにない異常値が出たことである。昨年来、ダイエットや健康維持に関する記事を何度かこのブログに書いたが(→生活改善宣言)、それは、今にして白状すれば、健康上の問題で南極派遣不採用になることだけは絶対に避けなければならない、という危機感に基づいたものである。単に体重が増えたとか、脂肪肝らしきデータだとかいうだけで、真っ青になって生活改善に取り組んだわけではない。

 生活改善運動は驚くほどの成果を上げ、年明けに掛かり付け医で行った検査では、理想的な数値が並んだ(→こちら)。募集要項には、「所属先等での直近の健康診断結果(無い場合はお手数ですが、受診医療機関での再発行をお願いします。)」と書かれている。「等」と書いてあるのをいいことに、私はその年明けの結果表のコピーを送った。

 南極派遣プログラム用の「健康調書」は、なんと9ページにも及ぶ詳細なものだ。なにしろ昭和基地にいる医師は2名。しらせには歯科医も含めて何人かの医官が乗船しているらしいが、それでも、日本国内にいる時と同じ医療が受けられるわけがない。従って、事前の健康チェックはどうしても厳しくなるのだ。

 とは言え、初めて血圧を測定したのはいつで、その時の値は幾つだったかなどという、どう考えても答えられる人がいるとは思えないような問いを含むアンケートのようなものである。分からないものは分からないとし、分かる範囲で淡々と回答した。「既往歴」の欄に「C型肝炎」を書き、「経過」欄に「治癒」と書いたものの、問題とされることを恐れて、1月に掛かり付け医に行った際、改めてC型肝炎のウィルスチェックをしてもらい、「陰性」であるとの結果票を添付した。(続く)

2018-05-01

雑草あらため野草

 ゴールデンウィークである。我が塩釜高校は暦どおりなので、この2日間は普通に授業。おそらくほとんど全ての大学と専門学校が休講で、一般の会社にも休みの所はあるだろうから、朝の電車もさぞかし空いているだろうと思って期待していたら、普段の平日とほとんど変わらなかった。案外、みんな忙しいものなのだな。

 暖かい、いや、暑い4月が終わった。仙台では、平均気温も最高気温も過去最高となったそうだ。「ほら見ろ、温暖化だ」とは軽率に言えないけれど、なんだか嫌な予感はする。

 その影響かどうかは知らないが、例年になくウグイスがよく鳴くような気がする。朝なんか、枕元で鳴いているのかと思って驚く時がある。我が家の南側斜面の藪で鳴いているはずなので、少なくとも5mは離れているはずなのに・・・。ありふれた鳥であるにもかかわらず、本当に美しい声だ。

 桜の季節が終わった。一部の山桜だけが満開状態で、あとはほとんど葉桜である。替わって新緑。毎朝15分の塩釜神社経由通勤(→こちら)は継続中だ。杉花粉の季節が終わったので、安心して歩ける。建物が立派で、境内の整備が行き届いていることもあり、この15分だけは京都散策している気分である。庭園越しに松島湾が見える分だけ、京都よりも上かも知れない。裏参道モミジアーケードをくぐって歩く時間帯は、ちょうど太陽が正面にある。日に透けて見えるモミジの新緑は絶品。時間のある休日、牧山へと走りに行くのも継続中だ(→こちら)。以前書いた時には1時間半コースだったが、今は1時間20分弱だ。人間、この歳でも鍛えれば強くなる。山の中にさりげなく花を残している桜は趣深い。鮮やかな山ツツジもちらほら見える。

 我が家では、桜が散った瞬間から庭の雑草との戦いが始まる。ゴールデンウィーク前半の3連休は、それをどうしようか、悩みながら過ごした。というのも、水仙は球根に養分を蓄えさせるため、葉を切るべきではない。ところが、我が家の庭は広くて手作業では追いつかないので、電動の草刈り機で草刈りをする。無秩序に生えている水仙だけを避けて刈るのは難しい。その上、更に問題なのは、後から後から生えてくる雑草が花を咲かせ、これがなかなか美しいということだ。こうなると「雑草」は「野草」に昇格する。

 だったら、草刈りなんかする必要はまったくないではないか、と言われるかも知れない。ところが、そうではないのである。草というのも、人間と同じで、若いほど柔らかい。種類によっては、若いうちに刈れば、ナイロン紐の草刈り機で簡単に美しく刈れるが、すっかり成長しきってしまうと繊維が固くなり、金属の刃を使わないとなぎ倒すだけのようになってしまう。金属刃を使うと、刈れる範囲が狭くなり、同じ面積を刈るのに2倍くらい時間がかかる。しかも危ない。刈るなら早く、花を愛でるなら刈りにくくなることを覚悟する・・・この葛藤!

 結局、咲いている色とりどりの花がもったいなくて、草刈りはしないままに終わってしまった。わずかに、昨日、玄関脇の雑草と家の北側にたくさん繁り始めたドクダミだけ、手作業で抜いた。根がぷつぷつ切れて、取れたのは葉ばかり。除草をしたという充実感がない。1週間でまた葉が出て来るだろう。自然の力は際限がない。