この鈍感さも羨ましい

 石巻では、今日、梅雨入りの発表があった。そして、昨日25.7℃だった最高気温がで、今日は17.1℃。本当に久しぶりで肌寒いほどの涼しさになった。昨日の最高気温は7月23日の平年値と同じで、今日の最高気温は5月5日(子どもの日)の平年値と同じである。たった1日で、2ヶ月と2週間以上時間が遡ったのだから、体も驚いて当然だ。
 昨日から今日にかけての気温の変化は例外的に大きいとは言え、3月半ば以来、ずっと暑かったような気がする。1ヶ月くらい季節が早まっている感じだ。これを直ちに「温暖化だ!」などと大騒ぎする気はないけれど、どうしても不吉な感じがするのは否定できない。
 昨日の河北新報に、北極海の海氷が2030年代末に消えるかも知れない、という記事が出た。夏の北極海の海氷面積が異常に小さくなっているという話は、今に始まったことではないので、さほどびっくりしないのだが、それに対する人間の反応は、これまた分かっているつもりとは言ってもびっくりする。
 記事には「進む温暖化 期待と懸念」という中見出しもついている。これを見た時点で、「期待」が存在するということにまず驚く。その「期待」の中身とは、新たな商業航路の開設や原油天然ガスなどの地下資源の開発可能性なのだそうだ。スエズ運河経由よりもアジアからヨーロッパへの航路が短縮され、エネルギーの大幅節約が期待できる、という発想には読めない。単に商機として歓迎しているようだ。原油天然ガスのような温暖化の元凶を更に採掘するなんて、正に狂気の沙汰だ。北極海の海氷がゼロになるという超異常事態を前に、まだもうけることを考えていられる神経が、私には羨ましい。一方、「懸念」の中身としては、海洋汚染の拡大、異常気象、野生生物への影響であり、その中で野生生物への影響を最も深刻視している。
 北極海の海氷が消滅して広大な海水面が露出すれば、それによる気候への影響は想像を絶するレベルになると、私は思う。それは、野生生物への影響、すなわちホッキョクグマが生き残れるかどうかなどと心配する余裕すら失われるほど、人類にとっての脅威となるはずだ。
 自然というのは非常にデリケートなものである。先日問題にしたイノシシだって、この40年で平均気温が1℃ほど変化しただけなのに、宮城県の中部まで生息域を拡大してくるのである。かつて、山菜の採れる場所がいかに限られた標高の範囲に限られるか、ということを話題にしたこともある(→こちら)。なにしろ、「史上最高」やそれに準じる値が続出するような暑い夏でも、平年値に比べてせいぜい1℃か1.5℃高いというだけなのである。それらの現象は当然と言ってよいだろう。
 温暖化に関して、これだけ様々な現象が観測され予測され警告されているのに、圧倒的多数の人々が現時点で決定的な危機感を持てないというのは、驚くべきことである。そして、数日前にはホンダが小型ジェット機を国内販売始めるニュースが、さも明るい話題であるかのように新聞紙上を飾り、宮城県では外国人観光客呼び込みのための対策会議が開かれていた。
 最低限、私用で利用する自家用車と飛行機を手放せなければ、おそらく人類は生き残れない、というのが私の見立てだ。誰もまともに取り合ってなんかくれない。だけどやっぱりそうなる。私が現時点での平均寿命を生きることが出来たとしたら(あと約25年)、かなり厳しい状況を目撃することになりそうだ。だが、今の人間を見る限り、環境がいくら悪化しても、それを原因のレベルで解決させようとはせずに、力業で強引にねじ伏せることで乗り越えようとし続けるのだろうな。破滅の直前(瞬間?)まで。