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Tr,平居の月曜プリント

2018-05-20

やっぱり大嫌い

 昨日の補足めいたことを書いておく。

 今日の毎日新聞「クローズアップ」欄は、日大アメフト部の問題を取り上げていたが、その中に、ある日大OBの言葉が取り上げられていた。「内田監督は何に対する責任か語っていない。選手を救うためにも、彼らに責任はないことをはっきりとしてほしい」というものだ。

 要するに、「自分が指示した」とはっきり語ってほしいということなのだろうが、「彼らに責任がない」などということがあり得るのだろうか?監督が具体的に悪質なタックルを命じていたとしたら、選手に責任はないことになるのだろうか?あのタックルも異常だが、OBの発言もまた異常だと思う。監督を批判しているからと言って、このOBを縦の序列から自由だ、などと思ってはいけない。監督が絶対だから、責任も全て監督にあると考えるだけである。「同じ穴の狢(むじな)」というやつだ。

 昨日も書いたとおり、選手は「大人」である。仮に1〜2年生で未成年だったとしても、だからといって倫理的な判断力が「無」もしくはそれに近い状態であったなどと言っていいわけもない。人を殺せと言われたら殺すのか?

 先週のNHK「プロフェッショナル」は、プロサッカー選手・本田圭佑を取り上げていた。私は何についても単純素朴が大好きで、茶髪を見ているだけで具合が悪くなる人間だし、本田という選手は向上心を「売り」にしているようなところがあって(本人の問題ではなく、マスコミがそのように報道するだけかも知れない)、あまり好きではない。プロは結果だけを売ればいいのだ、と思う。しかし、番組を見ながらひどく感心したところがある。

 それは、最近の日本代表ヨーロッパ遠征の試合で、彼が監督の指示に反するプレースタイルを取った、という場面だ。本田は、前監督の指示に不満があった。そして、「ここで監督に服従して自分の意に反するプレーをするよりは、自分が信じたやり方をした方がいい。それによって、たとえワールドカップの代表から外されることがあっても、自分自身で納得できる」というようなことを語る。これが「大人」であり、たいへんいい意味での「個人」というものである。(代表に選ばれるまでは監督に服従し、ワールドカップ本番で監督に反旗を翻すというのは単なる背信であり、わがままである。そこを誤解なきように・・・。)

 昨日、柳瀬元首相秘書官のことに触れた。氏は、中学校時代の不条理な部活動体験から、権威と秩序という貴重なものを学んだと考えていた。その不条理な部活動体験とは、「先輩」による一方的な指示に服することである。これが、「先生」ではなく「先輩」であったことは注目に値する。「先生」よりも「先輩」である方が救いがある。

 このことは、柳瀬氏が中学時代を過ごした約50年前は、部活動が生徒主体で行われていたことを窺わせる。部員はたいていの場合、やがて「先生」になるわけではないが、活動を続けている限り必ず「先輩」にはなる。後輩−先輩の関係は、生徒−教員の関係ほど固定的ではない。不条理は自分たち自身の問題であり、反省も改善もチャンスと可能性が自分たちの中にある。ただ、柳瀬氏は反省も改善もせずに、自分たちがやられたのと同じ不条理を後輩に押しつけたクチだ。それは、そこから権威と秩序を学んだなどと言っていることや、今の国会対応からよく分かる。

 それはさておき、おそらく日大に限らず、アメフトにも限らず、大学の部活動における監督−選手の関係は、中学や高校の部活動における先生−生徒の関係と同じだ。私が、部活動(スポ少も同じ)に大人が介入することを嫌う理由はここにあるのだ。それは間違いなく子どもたちの批判的精神を封じ込め、自立を阻害する。

 日大アメフト部の選手が、彼らにとっての巨大な利害関係の中で、監督の意向に逆らえず、もしくは忖度し、悪質な反則を犯したのと同様、監督自身も、部活動の実績によって学内やアメフト界での自分の立場が決まるという利害関係の中で、学生に反則を実質的に強いる形になっていったのだろう。利害はもともと真偽と相性が悪い(→参考記事)。スポーツは結果が非常に明瞭に目に見える。そのことが、利害との結び付きをも強めることになり、怪しげな問題を引き起こすことにもなる。やっぱり私はスポーツが大嫌いなのだな。

 さて、天気もいいことだし、久しぶりで牧山(→とは?)にでも走りに行こう、っと。