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『天気の子』を見て 感想

 

あの頃のエロゲだの、セカイ系だの不穏な言葉が飛び交ってるので「天気の子」を見てきた。何よりも恋愛優先だよねっていう映画だった。

面白いなと思ったのが、「セカイ系」という言葉が、「彼と彼女の恋愛があって、彼/彼女を取り巻くセカイの崩壊や危機がそこに関係させられて、それでもセカイの安定より恋愛を選び取る」という風に対比的に恋愛の重大さや唯一性を際立たせる物語、という意味であることを分かりやすく示す作品だったこと。

そして、天気の子では、世界を救うために女の子が犠牲になるのではなく、世界が崩れても恋愛をとろう、それでもほら幸せっしょ、という結末を描くので、ちょっと新鮮味があったのかもしれない。世界の崩壊が、隕石の落下みたいな現実的なものではなく、もっとフィクショナルであったのも、新鮮味に寄与したのではないかと。

いわゆるセカイ系のイメージは、最後女の子が犠牲になることがなんとなくの定型でした。単純なハッピーエンドではなく、何かささくれ立った印象を読者やプレイヤーに残すぞみたいな。

余談、「雨」、「エロゲ」というキーワードで、かってあった名作『シンフォニック=レイン』(正確にはギャルゲーで非18禁)を連想したけどそれとは全然違った。

さて、話は戻って、重要なのが主人公の男で、女の子の抱える傷をすべて無条件で肯定して癒やす、という「あの頃」よく見たカウンセラー系の主人公。女の子を癒やしてぞっこんにさせてセカイの崩壊より君の存在が大事みたいな。そういうカウンセラー系は今も普通に息づいているかもしれないけど最近のは分からない。

エロゲ、セカイ系という評判はそのあたりにあったんじゃないかなと思います。ただ、だから逆に本作はゲームでは無いとも言える。

ノベルゲームにおけるゲーム性とはつまり選択肢であり、それはありえたかもしれない他の可能性が亡霊のようにつきまとうことを指す。

選択肢のないアニメで、選択肢を感じられるか? というのは選択肢があり得る指標があるかどうかということで、一つは攻略可能ヒロインが複数人いるかどうか。登場する女性キャラのデザインが脇役っぽくないかどうか。

今回の「天気の子」で言うと、探偵事務所のお姉さん。1人しか該当しないので、少しつらい。三四人は欲しいところ。

もう一つは、そのメイン以外のヒロインの物語の断片が書き込まれているかどうか。共通ルートでちらっと各ヒロインの話の断片が示され、個別ルートでその物語に入っていくとすると、探偵事務所のお姉さんは、就職活動で困っている、ということが描かれている。そこに主人公が絡んでいくとすると、、、なかなか面白そうな展開にするのは難しそうだ。

そうしたことから、「ありえたかもしれない別の可能性」みたいなところに想像力は及ばない気がした。そもそも、ゲームはシステム的にそれが要請されるわけで…、それをゲーム以外に適用すると、そうしたゲーム脳で作品を見るかという話になり、ほとんどかなりざっくりした印象論になっちゃよねという感じ。

以上

あ、今回はフリクリビバップ推しという感じで、恥ずかしげもなく影響を反映させる姿に恥ずかしさを覚えるストロングスタイルが復活して良かったなと思いました。

それに伴い評価もいまいちっぽいですが、そらまぁそうでしょうとも。

 

『なつぞら』もしくは『ブルーウォーター』

みなさん。


NHKの『なつぞら』見てますか? なんだかアニメ関連ということでひとまず見始めましたが、挫折しました。毎日は無理。週1にしてくれ…。


このドラマ、ストーリーとかはまぁどうでも良いとして、見ていて気になるのが、内村光良のナレーションです。といってもウッチャンに思うところがあるわけではありません。


朝ドラに慣れてないので、普通の人はこんなものと思っているのかも知れませんが、ナレーションが入るたびに「おまえいきなり誰やねん」と思っちゃうんです。


ナレーションが状況の説明とか「頑張れ、なつ!」とかなんかコメントを入れてくるんですが、本当に「誰?」と思います。視聴者の心の代弁者なのでしょうか。それいるか?と。
さらにときには「なつ」の心内語で状況の説明がされることもあるので、なんだか劇中に登場人物が直接発話していない声が溢れていてカオスです。朝ドラとはこんなものなのですかね。


思わず『まつぞら』からはじめましたが、今回書きたかったのは同じNHKでも過去作『ふしぎの海のナディア』です。


1990年放映開始なので、当時私は8歳くらいですかね。
すごく好きでしたが親にあまり見せてもらえませんでした。少年少女の淡い恋的な、甘酸っぱい印象とともに思い出に残っているアニメです。


で、OPテーマの『ブルーウォーター』も名曲だと思います。とても爽やかであり、気分が盛り上がる、耳に残り、OPのアニメーションもあいまって名作OPの一つに数えて良いと思います。


いまだに何かふとした弾みにこの曲が頭に流れるのですが(仕事中にふと湧いてきたので今これを書いている)、よく考えるとこの曲の歌詞、意味を汲み取るのがすごく難しいんです。


●Aメロ
弱気な人はキライ 青空裏切らない
夢見る前に私 飛んで行きたい
●Bメロ
心のオルゴールが 開いてく響いてく
少しずつのしあわせ 勇気も奏で出すの
●サビ
今君の目に いっぱいの未来
言葉は 永遠のシグナル
Don't forget to try in mind
愛はジュエルより
すべてを輝かす


Aメロはまぁ、女の子のポエム的な感じですかね。
「弱気な人はキライ」と「青空裏切らない」の文のつながりが良く分かりませんが。深読みすると、「弱気な人」に裏切られた過去があり、青空しか信頼できないほど傷ついているのでしょうか。ただし、青空が裏切らないという根拠はわかりません。


「夢見る前に私 飛んで行きたい」も意味不明です。
夢見る前に飛ぶとは、、、いやいや、どうがんばっても解釈不能です。まだ「芋掘る前に私飛んで行きたい」としてくれた方が解釈ができそうです。


まぁ意味は分かりませんが、Aメロは変な子のポエムということで、片づけても良いでしょう。


で、Bメロ。「心のオルゴールが 開いてく響いてく」と、何かイメージを喚起させる描写が入って来ます。意味不明の「私」のポエムから、ナレーションの担当に交代したのでしょうか。
相変わらず「心のオルゴール」は何か分かりませんが何かの隠喩なのでしょう。心のオルゴールが開いて響くことで幸せや勇気を貰えると。はい。


ここまでをまとめると、Aメロが「私」のポエム、Bメロは心のオルゴールの説明になると。なんにせ全体の意味は不明ですが。
 

そして、サビ。「君の目に」と出てきますが、君って誰やねんとなります。流れ的にはAメロの「私」なのかなと思うんですがね。そうすると、ここで第三の人物が登場ですよ。その人が「私」に向けて格言らしきことを述べて、励ましている感じでしょうか? 

感覚的にはこの「ナディア」を見る視聴者に「君」と呼びかけているようにも感じますが、そうするとAメロの内容がますます意味不明になってきます。


とまぁそんな感じで、文ごとの繋がりもよくわからないし、視点がころころ変わるので二重に意味不明なので、何を考えて作ったん?と思わせる、名曲なのでした。


はてなダイアリーが、はてなブログに強制的に移行されたので、何か適当に書いてみました。

『フリクリ オルタナ』を観て

OVAシリーズを「フリクリ」、今回の劇場版を「オルタナ」と表記するとして。

フリクリ」ではハル子は「海賊王アトムスク」の力を手に入れるために、「N.O」の力を持つナオ太に近づき、利用しようとする。しかし、ただ利用しているというだけではなくて、6話の二人でバイクに乗っての旅や、最後アトムスクを逃した後にナオ太に一瞬問いかける「一緒に行く?」という台詞が、ハル子の微細な揺れを示して最後のシーンの情感をかき立てる。

翻って、「オルタナ」。舞台は「フリクリ」と同じ「マバセ」。ただし火星へ行くロケットがバンバンとんでいるそうでナオ太がいた時代より後の時代であるように思われる。そしてやはり「フリクリ」で排除したメディカルメカニカのアイロンがまた鎮座しており、近々動き出そうとしていることが流れから分かる。メディカルメカニカはただ理由もなく宇宙中の星をアイロンで真っ平らにしている組織(?)である。

主要キャラの女子高生四人組の内の一人がやはり「N.O」の力に目覚めるが、ここでのハル子は、「海賊王アトムスク」の力を追い求めるのでは無く(一言もその単語は出てこない)、純粋にアイロンを排除するために行動し、挑発的な振る舞いをしたりもし、「N.O」からの力を引き出そうとする。アイロンを破壊しようとし、ブラックカンチみたいなのと闘ったりと孤軍奮闘しているがアイロンの破壊までには力が足りず、「N.O」の助力を必要としている。

しかし、なんでかな、と思う。ハル子は「フリクリ」6話で、「私はさぁ。アトムスクが欲しいだけなんだ。こんな星なんてどうなっても知らんもーん」と言っている。なぜ「オルタナ」ではこんなに必死になってアイロンを破壊しようとしているのか。

ハル子は何を守ろうとしているのか。言うまでも無く、ナオ太亡き(恐らく)あとのマバセなのだろう。劇中でハル子の「宇宙人は年をとらない」という冗談めかした台詞が、深みを帯びてくる。

フリクリ」では、ハル子はナオ太に「一緒に行く?」と聞きながらも、ナオ太の逡巡の間を埋めるように「やっぱダメ」と答えを封じ去ってしまう。「オルタナ」での様子をみるに結局ハル子はアトムスクの力を手に入れることはできていないようである。そして恐らく情をうつしたナオ太はマバセにはもういない。何も手に入れられなかったハル子は、それでもナオ太との思い出の地を守ろうと必死に闘うのである。もちろん最後、無事地球を守ったハル子の前に、ナオ太は現れない。

オルタナ」は4人の女子高生のそれぞれの話を中心に物語はすすむ。ハル子はむしろ脇役に近い位置におりハル子にスポットがあたることはない。あえて語られないハル子の物語が、語られないが故に逆に深みを帯びてくる。女子高生達の物語がステレオタイプで陳腐なお話と観るか、ハル子の孤独な闘いと観るか、alternativeな映画である。

パソコン構成覚書4

パソコンを起動すると30秒くらいでブルースクリーンになったり、再起動したりというトラブルが半年ほど続いているので、重い腰を挙げて手を入れてみる。

とりあえず怪しい順としては、マザーボード、グラボ、電源。手軽なところでグラボを交換。おそらく9600GTの半分くらいの電源消費量になったのではないか。ベンチはとっていないが性能もアップしているかと。

改善されたかはしばらく使ってみないとなんとも。マザーボード交換となったら、CPUやらメモリやら総とっかえなので、おとなしく新しいのを買うかな…。


ケース:ANTEC Sonata III

OS :Windows 10 Professional 64bit

マザーボード:GA-EP45-UD3R Rev.1.0

CPU:Intel Core 2 Duo E8400

CPUクーラー:SHURIKEN リビジョンB SCSK-1100

SSD:S501 V2 128GB (AS501V2-128GM-C) 【128GB/SATA/SSD】(Cドライブ)

HD: SEAGATE ST2000DM006 [2TB SATA600 7200](Eドライブ)

電源:abee AS Power Silentist S-450E

グラフィックボード:GF-GT710-E1GB/LP

VGAクーラー:VF900CU

HDクーラー:ITAKAZE

スピーカー:ローランド MA-7A

キーボード:Apple keyboard 有線

DuBois(2007)のスタンストライアングルを使って小説を読めるか

もうだいぶ前のこととなってしまいましたが、『絶対移動中 Vol.17 悪い人』に寄稿しました。

「お主も悪よのう。っていうこのスタンス」志方尊志

内容はDuBois(2007)で論じられている「Stance Triangle」を使って小説の読み方のモデルを考えてみるというもの。

スタンストライアングルとは何かというと、二者間である対象について話しているときに、対象をどう思っているのか(評価)をAさんがしたときに、Bさんも同様に評価をする、それは必ずしもAさんとBさんの評価は異なるかも知れないが、コミュニケーションにおいてはそれをすりあわせることによってなりたちすすんでいくというもの。

このモデルを、典型的には小説の一人称の語り手が物事について語ったときに、読者が受け取る反応に当てはめてみるというものです。

時間がなかなかとれなかったので論自体はまったく練れておらず読んでも説得力がありませんが、その後に読んだ読者論系の文献を色々と観てみても筋としては面白いのではないかと思っています。

これ、目的としては、心内語バリバリの小説に読者が感情移入するときとそうでないときの仕組みを探りたいためだった。忘れていた。

まぁまだどこかで買えるか分かりませんがぜひ。

『カウボーイビバップ』の食事風景

 『カウボーイビバップ』の第1話は、トレーニングをするスパイクと、中華鍋を振るジェットのカットが交互に挿入されるシーンから始まる。肉無しのチンジャオロースに不満を言うスパイクから、裕福な生活ではないことが示唆される。カウボーイビバップにおいて、仕事がうまくいかない=収入がない状態であることはこの後常に食事の不足と繋がって表象されることとなる。
 スパイクとジェットの2人で始まる『カウボーイビバップ』は、その後記憶を失いギャンブルに明け暮れ借金にまみれた生活を送るフェイと、特異なハッカーの腕前を持つエドを主要人物として加え、4人それぞれの過去と向き合っていく物語が主軸としてつづられる。
 前編と後編に分けられた最終回の一つ手前の第24話「ハード・ラック・ウーマン」では、後から加わったフェイとエドが自分の居場所を見つけ=探しにビバップ号を離れることになる。様子のおかしい2人を見かねて、ジェットはろくな物を食べていないからだと賞金首を探す。
 5千万ウーロンの賞金首として手配されていた人物を探し当てたところ、それは実はエドが50ウーロンとして賞金をかけた自分の父親であり、賞金は得られずその父親からは山盛りの卵を渡される。父親はそのまま去るが、ビバップ号で記憶を取り戻したフェイはエドへ「自分のいるべき場所へ戻るべき」と告げて自分の生まれ故郷へ出発し、エドも父親を追いビバップ号を去る。
 食卓では、スパイクとジェットの2人が無言で向かい合って座り、2人が出て行ったことに気付かずに作られた大盛のゆで卵のボウルが4つ、並べられている。黙々と目の前のゆで卵を食べるスパイクとジェット。そこに、もはや跡地となった生家で寝転がるフェイと、道を行くエドのカットが挿入される。無言で目の前のボウルを空にしたスパイクとジェットは、そのまま横に手を伸ばしフェイとエドの分として用意されたゆで卵を争うように口の中に放り込んでいく。言葉で告げられなかった別れは、食事風景に挿入される出て行った先のフェイとエドの様子と、4人分として準備された食事を2人で消化するという行為が描かれることで観る者に告げられることになる。
 収入がない=食事の不足はここでさらに、いるべき人間の不足という欠落感につなげられ相乗的にもの悲しさを浮き立たせるのだった。