建国記念の日(定例挨拶)

 はい。毎年同じフォーミュラでお届けしております。

 2月11日は「建国記念の日」です。
 2月11日を祝日とする前身は「紀元節」と言って、神武天皇即位を祝って紀元節祭などが大々的に催されたそうです。
 だからといって歴史あるイベントかと言えばそうでもなく、明治政府による創設(明治6年,1873)なのでたかだか140年弱です。
 「紀元節」の始まりは、明治政府による天保暦(太陰太陽暦)からグレゴリウス暦(太陽暦)への改暦と機を一にします。
 「次の12月3日が翌明治6年の元旦である」と改暦を定めた明治5年太政官布告第337号(明治5年11月9日)の中で、「日本紀」の"辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年"という記述から「天保暦の元旦(旧正月)」を「グレゴリウス暦の1月29日」に換算して制定されました。(ちなみに皇紀を定めたのは11月15日の明治5年太政官布告第342号。)
 この時は旧正月である1月29日が「紀元節」でしたが、「B.C.660当時の暦は天保暦では無いのだから、天保暦の元旦を太陽暦換算するのは誤りでは無いのか」といった見解や、「折角新暦を導入したのに旧暦の正月に政府が式典を主催しては暦について民衆に間違ったシグナルを送るコトになる」という政治的懸念から、明治6年太政官布告第344号(明治6年10月14日)により「元嘉暦のB.C.660元旦」が「グレゴリウス暦の同年2月11日」に換算され、翌明治7年から2月11日を「紀元節」とすることとなりました。
 その後、二次大戦の敗戦により「国民の祝日に関する法律祝日法)」施行(昭和23年7月20日,A.D.1948)で「紀元節」は姿を消します。正味75年間祝われて姿を消したことになります。
 なお、現行の「建国記念の日」は祝日法の改正により創設されたものですが、「紀元節」復活反対の論調が強かったこともあり、「2月11日」の法定化は見送られ、「別に政令に定める」として政令第376号(昭和41年12月9日,A.D.1966)で規定されました。最初の「建国記念の日」は昭和42年2月11日(A.D.1967)で、現在まで46回祝われています。(A.D.2012現在)

 以上が沿革。

 で、「紀元節」は、上述のように明治政府の西欧暦法導入を契機に制定されたものです。
 私は江戸時代までの宮中行事で「紀元節」に相当するものを寡聞にして知りませんので、恐らく「紀元節」という祝日は米仏等の「独立記念日」や「革命記念日」に模して創設されたものと推察されます。(日本史通のヒト、御意見お待ちしてます。)

 さて、唐突ですが、私は2月11日を「紀元節」や「建国記念の日」とすることに反対しています。
 2月11日を「紀元節」とすることについては二つの理由で反対です。

 一つは、前提となる暦の問題。
 日本最古の太陰太陽暦はA.D.604に大陸から導入した元嘉暦で、大陸の宋(南朝)で元嘉22年(A.D.445)頃に採用されたものです。
 5世紀に大陸で採用された暦が、B.C.660の日本に存在するハズはありません。
 そもそも、大陸に於いてさえ天文学に沿った太陰太陽暦が採用されるのは戦国時代(前5-3世紀)の夏正が最初で、前7世紀(B.C.660)には、こうした暦法は存在すらしていません。(周正、殷正が伝えられるが、これも戦国時代の手によるものです。)
 そも暦法とは、天文学的見地から月の朔望(朔=新月、望=満月)を予見し、未来の天象を予定するコトにこそ神髄があります。「カレンダーの月初は朔日。天を仰げば確かに新月だった。」これが暦法の原点です。暦法以前の暦は「観象授時暦」と呼ばれるもので、「天を仰げば新月であった。あぁ、今日は朔日、新たな月の始まりなのだな。」という世界になります。この時代の暦は過去の記録として連綿と蓄積されるモノであり、未来の月日を正確に確保するものでは無いのです。
 然るに前7世紀(B.C.660)という時代は、中国に於いてすら観象授時暦の時代であり、日本列島にあっては言わずもがなです。
 もし、"辛酉年春正月庚辰朔"を正しくグレゴリウス暦換算するのならば、それこそ現行天文学により月と太陽の運行をシュミレートして、該当日時を弾くしかありません。その結果は辛酉年正月の朔日が庚辰でなければならず、もしかしたら、該当年次はB.C.660ですら無いかも知れません。(B.C.660の正月朔日が庚辰とは限らないのですから。)
 仮に暦日の遡及算出に意味があるとした場合でも、私は2月11日を「紀元節」とすることには、とても賛成できません。
 水戸藩及び徳川家の事業として編纂された「大日本史」(明暦3年〜明治39年/A.D.1657-1906)がA.D.692以前の出来事について元嘉暦を適用したコトから、グレゴリウス暦導入に伴う換算時に「元嘉暦のB.C.660元旦」が用いられています。
 しかしながら「日本紀」を見ると、元嘉暦導入のA.D.604以降は元嘉暦により記載されますが、これ以前の事柄については「日本紀」編纂当時に採用されていた儀鳳暦により記載されているのです。
 つまり、儀鳳暦で遡及して求められるB.C.660年正月庚辰が朔日であるなら、元嘉暦で求められる同年の正月朔日は庚辰ですらありません。
 ならば、2月11日の根拠とは奈辺にあるのでしょう。いや、そもそも根拠があるのでしょうか。
 故に私は2月11日を「紀元節」とすることについては反対です。

 もう一つの理由としては「グレゴリウス暦に換算して紀元節を求めること」それ自体への道義的問題が挙げられます。
 何故「元日」に登位したのか。「即位した日が実は元日でした」と考えるよりは、むしろ「新帝即位は年初元日に合わせてやりましょう」というセレモニーであったハズでしょう。ならば年初を開闢として祝うべきであり、暦法が変わったからと言って適当な平日に祝わせるのは筋が違うように思います。
 孫文グレゴリウス暦1月1日を待って民国を旗揚げし、この時に改暦を同時に果たしました。元日即位は、元日に即位して意味があるのです。A.D.800クリスマスのカール戴冠もまた然りです。
 イベントと暦日の相関にこそ意味が求められる事柄を、何の由来も無い一暦日に敢えて換算するのは、本旨の曲解であるのみならず、道義的な誤謬であるように思えます。
 故に私は2月11日を「紀元節」とすることについては反対です。

 「建国記念の日」というコトであれば、以下の理由で加えて反対します。
 日本国の建国を祝うのに、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ)の即位を以ってするコトが適切であるとは思えません。
 史書に見えるとおり、日本国号が世に出るのはずっと後世の話です。
 即位から「紀元節」を祝うことはまだ理解できますが、同日を「建国記念の日」と定めるのは完全に理解の埒外と言えましょう。



 まったく、何とも微妙な気分にさせる祝日です。旧正月か現元日を祝う方が余程筋が通っています。
 2月11日は、「紀元節」と併せて都合121回祝われている(A.D.1948-1966の18年間が中抜け)ワケですが、皇統千四百余年を祝うに121回の2月11日よりも1400回の1月1日を重視したい今日この頃のアタシ、なのです。

 つか、祝日が土曜日だと少し損した気分になるね。