仕事をつくる


東京をはなれて、関西へ。


じぶんのフットワークが軽いとは思っていなかったけれど
一応のリミットと決めていた時期をすぎても
関西での仕事はみつからなくて、
はっきり言ってしまえば、
まじめに仕事を探すところまでもいかなかった。
グラウンドに、白い石灰でスタートラインを引いて
それをじっと見つめていた気分だ。


それで、ここにきて、
一歩も動けないままのぼくは、
とりあえず東京でフリーになって、
関西での(長期的でも安定的でもない)単発の仕事を探すほうが
リアリティーがあるんじゃないか、
という結論に落ち着いている。


「とりあえずフリー」に、
とは言ったものの、
居酒屋での「とりあえずビール」のようには簡単にはいかない。

ここでまた、腰の重さが発揮されてしまいそうだったのだけど
(運がいいのか悪いのかは、もう少し時間がたってからでないとわからないものの)
見計らったかのようなタイミングで
ふたつの出来事があった。


ひとつは、先に事務所を辞めていた先輩から
「仕事が忙しくなったから、手伝ってほしい」との申し出。
ぼくがいまもらっている月給の半分を出すから、
いまの仕事場に籍を半ばおきつつ、
半分フリーになればいいじゃないか、と。


ありがたい申し出なのだけど
いまの仕事場のボスが、
そんな都合のいい話を通してくれるものだろうか。


話してみたところ、あっさり大丈夫だった。
パソコンも、複合機も、住所も、自由につかっていい、と。
応援するよと。
これはちょっと泣けた。


もうひとつは、
友だちのウェブデザイナーが、独立するというはなし。

彼のいた会社の経営がむずかしくなって、
条件が悪くなるならと、ひとりでやることになったそうだ。
「一緒にやろうよ」とぼくは誘った。
「いいよ」と言われた。

ひとりで悶々とするより、
ふたりでミライをイメージするほうが、なぜか明るかった。


そんなおり、
青山ブックセンターで手に取った本が
西村佳哲の『自分の仕事をつくる』。


「仕事というものは、『就く』ものではなく、
自分で『つくる』ものだったんだ、と分かった」


こんな原研哉の帯コピーも目にまぶしかった。

なかを読んでいて、腑に落ちる文章にも出会えた。

ファシリテーター10カ条


1 主体的にその場に存在している。
2 柔軟性と決断する勇気がある。
3 他者の枠組みで把握する努力ができる。
4 表現力の豊かさ、参加者の反応への明解さがある。
5 評価的な言動はつつしむべきとわきまえている。
6 プロセスへの介入を理解し、必要に応じて実行できる。
7 相互理解のための自己開示を率先できる、開放性がある。
8 親密性、楽天性がある。
9 自己の間違いや知らないことを認めることに素直である。
10 参加者を信頼し、尊重する。


人が力を引き出される環境づくりが、仕事の第一歩。

友人とのオフィスづくりが、いまは楽しみだ。
といっても、
どこそこに場所を借りて、という話ではない。


それぞれが、場所と時間にかんして自由でありながら、
しかも、連携する。そのためには、具体的なオフィスを持たずに
どこでも即席のミーティングルームになり、仕事場になるようなシステムをつくりたい。
そのことも、『自分の仕事をつくる』を読みながら、なんとなく思い浮かべていたことだ。


このへんは、また話がすすんでから書いていこう。


ここでいきなり話は
『恋空』みたいな展開になるのだけど、
ぼくがフリーになるにさいして、
仕事環境を気前よく提供してくれると言ったボスは、
いま、体がわるい。
とてもわるい。

今日も、職場にでてこられない。

状況が刻々と変わっていって、
好むと好まざるとにかかわりなく、
ぼくが仕事を変える日は近づいている。

すこしさまよう

前回の更新のあと、
空間と時間、アーキテクチャーというキーワードに導かれるままに
物理と建築の本を読んでいた。


物理の本。
わたしたちが生きているこの世界のほんとうの像は、3次元なのか4次元なのか、それとも10次元なのか、はたまた47次元なのか……。
よくわからない。
というか、どうでもいいような気がするんです。
たとえば映画の『マトリックス』を見たときには
「そうか、なんとなく違和感があると思ったら、
 この世界はリアルなものじゃなかったんだ」
という気づきのような感覚が、
たとえ一瞬でもあったものだけど(そして3回つづけて劇場に通ったけれども)
物理の本を読んでいても、
「やっぱりね、10次元だとおもってたよ、うすうす」
というふうにはならなくて、
読んでいる内容とじぶんとが、どんどん乖離していくばかり。



建築の本。
ぼくはグンナール・アスプルンドという人の建築が好きだ、
ということがわかっただけでも収穫。
まだ少し読んでいくつもり。
ルイス・カーンと、ヴェンチューリを、
わけもわからないまま、通読してみようか、
と妄想中。

映画を観ることと哲学することはどのように似ているか

東浩紀の『文学環境論journal』を読んだのは、
早稲田文学新人賞」の審査員を東浩紀がやる、しかも一人でやる、
というニュースを聞いて、
さらにフリーマガジン『WB』のインタビューでは
「オレの考える文学は、いまぜったい勝てる自信がある!」
みたいなことを東さんが言っているのを読んで
「どんな文学観のひとだったっけ」と
興味をもったから。



東浩紀×文学といえば、
『新潮』誌上での、東浩紀高橋源一郎田中和生とのあいだで行われた鼎談が記憶にあたらしい。
あの記事の、ぼくにとっての最大の読みどころは、
東さんの話術だった。
鼎談のきっかけになった
「小説のことは小説家にしかわからない(評論家いらないかも)」
という問題提起はあまりにありふれていて*1、そのうえ、このフレームのなかに許容される言論の幅がひろいものだから
レトリック次第でどうとでも話をころがせるところがある。
話はまさにディベート的な展開に。
東浩紀は、相手の主張を、じぶんの話の都合に沿うように変換する技術におそろしく長けている。天才的、とおもった。
「要するに田中さんが言いたいのはこういうことでしょ」
というコトバにつづいてなされる要約は
田中和生の話をコンパクトに圧縮するのはもちろん(つまり正しく「要約」でありながら)、相手の主張を狭量で愚かに見せるエフェクトが巧みにかかっているから
あの鼎談を通して読むと、田中和生がコマッタチャンにしか見えない。
その印象はほとんどすべて東浩紀の言い換え術によっている。
はたして田中さんはほんとは何を主張したかったのか……などという検証をする気をなくさせるほど、完膚無きにまでピエロにされる田中さん。



だから田中さんのことはもうどうでもよくて
ついでに、東さんの文学観というのも
とくにここでまとめたいとはおもわない*2

時評系の短文、中文が掻き集められた『文学環境論journal』を読んで強烈に印象にのこるのは
ここでもやはり東浩紀の変換能力の高さなのだ。
「新潮」の鼎談で見せた東さんの刃が現代思想に向いたときにも、
同種のスキルが発揮されるんだということ。
エピステーメーとか対象aとか現象界とかの現代思想ジャーゴン
東浩紀の話のなかにおそろしいわかりやすさで吸収される。


白眉は、ネットで配信されていた「波状言論」連載の「crypto-survival noteZ」。
その後半の展開がすごく面白かった。


東さんの連載は、たいていエンジンがかかる前に
論旨が迷走したり、長すぎる前置きだけになったり、
その言い訳をしたり、
とかなんとかやっているうちに連載自体が打ち切りになったりしているようなのだけど、
自身が主宰した「波状言論」内の「crypto-survival noteZ」では、
各回の話が連結しながら太いうねりとなって
しだいに結論部にむかっていくときの高揚感がある。


ラカンの考えでは、
人間は想像的同一化(ベタ)と象徴的同一化(メタ)に切り裂かれた
二重性で特徴づけられる。
(中略)
想像的同一化と象徴的同一化に切り裂かれた人間、というこのイメージは、
何よりもまず、近代社会に生きる人々が自己理解のために必要とした
「歴史的生産物」として捉えなければならないのだ。
そのように理解すれば、ラカン精神分析の理論は
ほかの思想家の直観とまったく矛盾しない。


近代における人間がつねに二重性を抱えていること、
フーコーはそれを「経験的=超越論的二重性」と呼び、
ギデンズは「再帰性」と呼んだ。


このへんの要約。接続されっぷり。


上の二重性のはなしは、「映画を観る行為」を喩えとして持ち出すことで、
ぐっと理解しやすくなる。
ということで、先回の日記からのつづきで、
映画とフレームについて、東さんが触れているところを
長くなるけど引用する。


僕の理解では、近代的な主体が映画の隠喩で説明されるのは、
そもそも映画を観るという行為が、画面のなかに同一化しつつ、
その外側もつねに意識するという二重の経験を強いるものだからである。


私たちは、スクリーンの内部と外部、
コンテンツとフレーム、
虚構と現実、
オブジェクトレベルとメタレベルをつねに同時に意識しながら、
しかし矛盾を感じずに〈ひとつの〉映画を楽しんでいる。
そして、その二つのレベルを縫合するのが、
スクリーンの彼方に存在し、コンテンツとフレームを同時に決定している「カメラ」「視線」、すなわち作者=他者の存在である。
オブジェクトレベルとメタレベルは、作者=他者という「崇高な対象」をフックとし結合する。

「崇高な対象」はスラヴォイ・ジジェクの用語。
これも簡潔に説明される。


映画における演出家や監督に相当するその存在を、
ラカンの孫弟子にあたるスラヴォイ・ジジェクは「イデオロギーの崇高な対象」と呼んだ。
(中略)
 ジジェクの考えによれば、イデオロギーとは、
人々に信じこまれている単なる「虚偽意識」ではない。
そうであれば、スターリニズムでもチュチェ思想でもグローバリズムでも、
間違いを指摘すればすぐに消え去るはずである。
そうではなく、イデオロギーが厄介なのは、それがすでに自己批判を含みこんでいるからなのだ。


裏返せば、そのようなイデオロギーの「二重性」は、
同じく二重的な主体である近代人のツッコミ能力を
適当に飼い慣らす役割を果たしてきたと言える。
ベタとメタに引き裂かれた近代人は、
放っておけば、あらゆる価値観を疑い、解体しかねない(「神は死んだ」というやつだ)。
しかし、その近代人もイデオロギーを乗り越えることはできない。
なぜならば、イデオロギーとは、
まさに、そのように疑われ、解体され、ネタにされることで生き残り、
コミュニケーションを安定化する装置だからである。
ポストモダン論で言う「大きな物語」とは、この安定化装置のことを指している。

近代とは
「映画を観ることと哲学することが似ていると思われるような時代」であり、
ポストモダンとは
「コンピュータを触ることと哲学することが似ていると思われるような時代」だと東さんは言いたい。
つまり、ポストモダン社会を説明するのには、
「映画」よりも「コンピュータ」がベターでしょ、ということなのだけど、
「crypto-survival noteZ」を読むかぎりでは、
なぜコンピュータの喩でポストモダン社会が説明できるかは、まだ直感レベルのはなしで、
説明がこなれていない気がする。
逆に、近代までは有効だった、「映画を観る行為と哲学すること」の関連を説明する手際は、洗練されているし、とりあえずぼくは、その部分に感化された。
ここで展開された映画のモデルは、小説を語るときにも適用できるのだろうか?
あるいは東浩紀が求めているのは、コンピュータ的な喩が可能な小説ということなのかもしれないけれど。

*1:批評家の仕事は、いま新しく生まれてくる小説の形を、過去の小説群との連続体して語るためのパースペクティブを創造することだ。とおもう。
その視座を提出できないなら、そういう評論家はいらない。
村上龍のデビューがきっかけだろうけど、江藤淳が文学のサブカルチャー化に逆ギレして文芸時評をやめちゃった段落で、ちゃんと時評をやる文芸評論家がいなくなってしまったでしょう。目の前に次々出て来る小説を歴史の軸に接ぎ木していくのが時評なのに、それを義務として引き受けようとする人っていないんじゃない」とは、東浩紀との共著『リアルのゆくえ』のなかで、大塚英志が言っていたこと。

*2:たとえば雑誌『ファウスト』について、こんなことは言っている。「ライトノベルライトノベルの方法論のなかに安住し、安定した評価を得られる世界を作るためならば、別に小説誌を創刊する必要はなかっただろう。私たちにいま必要なのは、よくできたライトノベルやよくできたミステリではなく、まんが・アニメ的リアリズムを用いてしか描けない現実を極限まで追究し、その反照として私たち自身の歪さに切り込んでくる、そのような過剰さに満ちた作品だ」。ひねた見方をするようだけど、ライトノベルとかまんが・アニメ的リアリズムということは措いて、東さんはある定まったルールがある世界のなかで、そのルールを遵守するかに見えて、最後に根本的であざやかなちゃぶ台返しをする――という物語が好きなのだろう。『文学環境論journal』におさめられた『批評空間』についての文章は、同型の物語をなぞりながら、この本のなかでもっともこころふるえた部分だ。
「『批評空間』は、『季刊思潮』のころから終刊まで一貫して、
「批評史」に記されること、「遠い他者」に判断されることに怯え続けた雑誌だった。
そしてその「遠い他者」の像は、ある時点であまりに抽象化され、結局、
その穴は編集委員たちの鏡像で埋められるほかなくなったように思われる。
柄谷氏と浅田氏がいま恐れているのは、正確には他者ですらない。
彼らはいまや、具体的な「遠い他者」(近くにいる遠い他者)が
どこにいてなにを考えているのか、その方向感覚を決定的に失ったまま、
ただ自分の似姿に自分が判断されることだけを怯えている。
それゆえ彼らは終刊号の共同討議でも、結局は自分たちの美学を主張しあうほかないのだ。
『批評空間』の長い歩みがそのような不毛な会話で締めくくられたことを、僕は率直に残念に思う。
だから僕は、柄谷氏と浅田氏をそのような袋小路に追い込んだ物語、
あの一九九〇年の批評史的な整理をいっさい信じない。
僕が先行世代を「終わらせる」ことにもはや関心を抱かないのも、
『批評空間』から離れて思考を展開したいと望んでいるのも、以上のような理由からである。
浅田氏はさまざまな言論人を否定し、終わらせる(あるいは終わらせたと主張する)ことで
批評活動を展開してきた。しかし僕は浅田氏を否定しない。
また彼を終わらせようとも思わない。それは彼に敬意があるからでも、敵意があるからでもない。
僕はただ単純に、彼が陥った罠に陥りたくないだけである」

杉本博司 シャッター、フレーム、虚像

人間の眼を写真機という機械になぞらえてみると、
水晶体がレンズ、網膜がフィルム、瞳が絞りということになる。
ではシャッターは眼の何にあたるのだろう。



原稿の締め切りになんとか間に合ったので、
じぶんへのご褒美もかねて
『白鯨』を読むという読書プランからいったん離れ
(ずっと離れっぱなしだけど)
ここ数日、杉本博司の『苔のむすまで』を読んだりしていた。



『苔のむすまで』を手に取ったのは、
先日読んだ斎藤環の『アーティストは境界線上で踊る』のインタビューでの
杉本さんの発言が気に掛かったからなのだけど、
ちょうど金沢21世紀美術館での展覧会もはじまり
それにタイミングを合わせて『ブルータス』で
過去の特集に追加取材した杉本博司特別号が出たりと、
なんとなくタイムリーになってしまった。


杉本さんは意外にも、手慣れた文体をもっていて、
じぶんの作品を枕にして、つらつらと3000字程度の
長めの文章がつづく。


作品のなかでとりわけ惹かれていた「theater」シリーズも
エッセイに取り上げられていた。
映画館でスクリーンを見つめる行為が
杉本さんにとって重要なモチーフであることがわかる。
とはいえ
テレビのなかった子供時代、
映画館に行くのが特別な体験だったというような思い出話には落ちずに
映画を見ることは、原初の宗教儀式と似ている、と杉本さんは指摘する。
そのイメージの射程はひろくてふかい。
「theater」のあの静謐な佇まいは、
現代の祭壇に向き合う宗教的な厳粛さを写し取ろうとしたものなのだ。


古代、という未知なる時間帯への憧憬が
杉本さんになかにはあるみたいだ。
かつて、たとえば国家の黎明期、あるいは文明のあけぼのに
人間たちのメンタリティはどんなものだったのか。
世界をどんな眼でみていたのか。
彼らはどれほど神と親しかったのか。


正直なところ、杉本さんの文章からは
「なにを見ても、古代をおもう」というような恣意性が強くて
にわかファンのぼくがそのオブセッションにすなおに同調するのは難しいのだけど、ひとつ得心したこととして
彼が写真表現を試みる理由には
歴史の知識や想像力だけでは古代に接近しきれないという
諦めがどこかにあって
だから写真という詐術でもって、
古代をありありと現前のものとしたいという強い動機があるような気がした。(たとえそれがフィクションであったとしても)。


はなしはふたたび「theater」に。
あの作品群の光源は、映画のフィルムを通してスクリーンに映る光のみだ。
つまりもし映画の上映時間が2時間なら、2時間分の発光を、
1回のシャッターにおさめていることになる。
映画のフィルムから、写真のフィルムへ、光がやりとりされる。
写真のフィルムには劇場を満たした2時間分の光と空間が切り取られる。その変換には、カメラがもつシャッターという機能が大きく関わる。


シャッターはカメラにとって重要な装置である。
刻々と変化していく現実、とらえどころなく流れていく時間、
に対して毅然とした態度で時間に線を引き、
見るものを決定する。
漠然と存在していた実像としての現実は、
この事によってはっきりとした方向性と意味を与えられた虚像として
フィルムに定着される。



ところで「theater」には劇場があるばかりで
人の姿はないのだけれど、
では「theater」を見ているのは、誰なのか。
劇場にいるはずに観客という「見る主体」が消されることで、
視線の問題がかえってクリアーに浮かび上がる。

シャッターを持たない人間の眼は必然的に長時間露光となる。
母体から生まれ落ちて、
はじめて眼を開いた時に露光は始まり、
臨終の床で眼を閉じるまでが、人間の眼の1回の露光時間である。
網膜上に倒立しながら一生を通じて映し出される虚ろな像をたよりに、
人間は世界と自分との距離を測り続けるのだろう。


杉本さんはエッセイにこうオチをつけるのだけど
ぼくとしては、もう少し解釈をねじりながらこのテーマをかんがえてみたい。


おなじ時期に読んでいた東浩紀の本に、映画を観ることについて触れられている文章があったので、引いてみたい。(つづく)

『白鯨』を読む13 こわいもの

よくある話なのかもしれない。



小室哲哉の逮捕を機に、
globeの動画をネットでさがしてみたりして
「Anytime smokin' cigarette」(リンク
のなかでKEIKOの歌う姿をみているうちに、
熱が出て、ねこんだ。



何年か前、ヴィスコンティの『ルードヴィヒ 神々の黄昏』のリバイバルを見たときも、
映画の前にはなんともなかったのに、有楽町の映画館を出るときには体が熱くなっていて、
壁という壁をつたいながら
ふらつく足取りでなんとか家に帰ったことを思い出す。


食中毒的な、
なにか悪いものにあたってしまったときの気分があのときと共通している。
『ルードヴィヒ』では、
ヘルムート・バーガーが物語の進行とともにあらゆる希望を断たれて
暗く鈍くひかる狂気に蝕まれていく。
その狂気の深度と同調するように
バーガーの歯がどんどん黒くなっていくのが怖くてしかたなかった。
あれって虫歯? と思いたいけど、たぶんぜったいちがう。
たんに歯をみがかなかったじゃんみたいな因果関係がみえればよいのだけど
なんだかよくわからないけど歯が黒い
というのが怖い。
しかも、どんどん黒くなっていく。


青山真治の『ユリイカ』でも、
役所広司が映画の後半、咳をこじらせていく。
体の様子がおかしい。
どうしてかはわからない。
わからないまま、咳は止むことなく、ノイズとしてしだいに映画全部を覆い尽くしていく。
「あ、バスの長旅で体がつかれちゃったんだね」
などという安易な理由づけを拒むなんだかわからなさが、ここでも怖い。


はなしは戻ってglobeなのだけど、
KEIKOが歌っていたときの瞳の開き方は、なにかに憑依されている人のそれで
たとえばヴォルフガング・ティルマンスの写真がそうであるように
破滅の予感に震えているみたいにぼくには見える。

I don’t want GOAL
I don’t want SOUL
I don’t want ROLL
落ちてる石でいいよ


KEIKOがどうしてあんなに切羽詰まっているように見えるのか、よくわからない。
もしかすると彼女はあのとき
「世界はもうすぐ終わる」と本気で信じていたのかもしれない。



たぶん人が生きていくときに、なんだかわからない悪いこと
あたり前のような顔をして偏在しているものなんだろう。
『ルードヴィヒ』の歯も、『ユリイカ』の咳も、
「Anytime smokin' cigarette」の眼の見開きも
とかく映像表現は
そのなんだかわからない悪いことを、なんだかわからないまま見せることができてしまう。
ところが、文字言語によって世界をフレーミングする表現=小説は
映像と比較するときに、なんだかわからないことをそのままに見せるのが苦手みたいだ。
たぶん言語というものが、ロジックにくっつきやすいからだろう。
書くということは、考えるということに、とても似ている。


などとつれづれに書いているうちに、
フィリップ・K・ディックの『死の迷宮』のことを思い出す。
デルマク・Oという名前の惑星で
脱出不可能な状況におかれた14人の男女が、ひとりまたひとりと死んでいく。
なんだかわからなさが満ちたドラッキーな世界で
個人的にすごい怖かった。さいごまで読み通したかも定かでない……。
謎に種明かしはないし、
人が生きてることにだって理由なんてないんだ、という匂い。
おまけに「破綻なんて大したことじゃないよね」と図々しく同調を求められる感じがある。
読んでると熱が出てくる。


熱が出るというのは、もちろんある種の拒否反応なのだけど
かといって、
ウェルメイドなものにばかり惹かれるわけではなくて
「なんだかわからないけど悪いこと」がフィクションのなかに埋め込まれる必要は
あるのだろうし、その破調のあり方には、美学的な関心だってある。
ただ、それはそれとして
物語をつむぐ人に、シニシズムと闘ってほしいということは
いつも、期待している。
たしかに世界は終わるかもしれない。
デルマク・Oではみんな殺されてしまうかもしれない。
それでもあなたには生きのびてほしいと誰かはねがう。


こんなふうに、怖いもの連想をつづけていると
また熱がぶりかえしてきそうだから、このへんにしておこう。

『白鯨』を読む12 斎藤環と境界線上の人々

残された時間がすくなくなっている。


こんなときは、抱え込んだ課題をとっかえひっかえ確認することで時間を費やしてしまいがちだけど
一定の集中力をなにかに傾ける以外に、まえにすすむ道はない。
と、いうようなことは、
急がば回れ」と、とてもコンパクトな格言になっているので
わすれないように胸ポケットにしのばせておこうとおもった。


淡々と斎藤環の『アーティストは境界線上で踊る』を読んだ。


美術手帖』の連載がベースになっているようで、
現代美術の作家へのインタビュー+批評が23人分。
さいしょにくる草間彌生は別格にして
(たぶん草間のインタビューの面白さって、叶姉妹のインタビューを読む面白さに近いとおもうのだ)
印象にのこったのは、
会田誠、木本圭子、岡崎乾二郎杉本博司の4人。


以下、順に4人の記事の感想を。



会田誠


さいしょはインタビューだけ拾い読みするつもりだったのだけど
チラチラと目に入る批評部分も読み出すとおもしろくなってきて
会田誠がインタビューでこたえた
「『犬も歩けば棒に当たる』という言葉に惹かれる」、
との発言を斎藤が詳細に分析しているあたり、
なるほどとおもったり。


犬と棒については、これまでまともに考えたことなかったけれど、
そういえばずいぶん奇妙なコトバのつなぎをしている。
かんがえればかんがえるほど妙だ。
犬も棒も、なにかのメタファーに還元しがたいようなコトバで
それを順接で繋ぐのは、あまりにシュール。
「犬も歩けば棒に当たる」ってなんなんだ。



木本圭子


彼女の作品の制作過程はよく理解できていないのだけど
コンピュータにつくったラインを構成して絵画化するうえでの
道具と自意識のあり方がおもしろかった。
ただし、おもしろかったなんていいながら、
インタビューで木本がどんなふうに答えていたかは忘れてしまっていて
ただただ、
作品「Imaginary Numbers」にぶっとぶ。
みていて背筋にくる。


作品はココで。(リンク
とくに動画。いい。



岡崎乾二郎


斎藤はこの本のなかで、ほとんどのインタビュー原稿を
みずからの質問部分を消して、
アーティストによる独白調に編集しているのだけど
インタビューとしてのじぶんが登場せざるを得なかったものも
なかにはある。
草間彌生と、もうひとりが岡崎乾二郎だ。


岡崎乾二郎へのインタビューはスリリングだ。
それは、ふたりが話すなかで岡崎が斎藤を分析しはじめるからで
アートを巡るトピックに、斎藤のこれまでの著作での発言やアイデア
ヒュッともちこんで話をシフトさせる岡崎に
斎藤自身、ぞっとしている感じがギョウカンから伝わってくる。
するどい知性を感じさせる岡崎のコトバはどれも刺激的で
これまでまったく目にしたことのない名前だったので
すかさずamazonで著書を検索してしまった。


これはネットでひろった文章の孫引きで、
岡崎による「制作のための12の注意事項」(リンク

  1. あたかも虫が飛んできて、そのままそこに止まったかような心の動き。
  2. 作業にはけっしてしばられない。
  3. 近づくと、視野が広がる。
  4. はじめからそこに在ったかのような、もしくは瞬間に出来上がったような。
  5. 色、そこから光はそこに残る。
  6. 壁に静止している虫は重さを壁に委ねていない。
  7. 小さくて小さくて大きい大きくて大きい小さい、そんな。
  8. そこがどこから始まるのか、わからない。
  9. 測られることを拒む。
  10. こわそうと思えばこわせる、あるいは保存しようと思えば保存できる。
  11. 見ると見つけられてしまう。
  12. 見るたびに忘れてしまう。

岡崎乾二郎美術手帖」1983年3月号p.33)



杉本博司

“Theaters”(シリーズ)では、杉本の手つきは
さらに確信にあふれたものになる。
ここに映し出されるのは、まさにフレームそのものだ。


フレームが時間を切り取るというゴダールのコトバに
不思議な符号をみせるのが杉本博司の作品(「ブルータス」の杉本特集へのリンク)。

この一見静謐な画面は、一本の映画の光だけで撮影されたものであり、
そこに観客は存在するにもかかわらず、写らない。
してみると真っ白のスクリーンは
無数のフレームの痕跡にほかならず、
一方で人間の存在は
この画面に痕跡を残し得ないのだ。


光と、時間と、空間と。
もともとそれら三つは、概念として分けて考えてはいけないもののような気がする。
杉本の写真は、フレームを見るものに明示することで
光と時間と空間を、もういちどひとつのものとして結びつけようとする。
その三つがひとつになったもの、それを名指すコトバは、いまのところ、ぼくのなかにはないのだけれど。

『白鯨』を読む11 私は要約が下手だという人

先週末、仕事で京都に出張することになって、
行き帰りの新幹線のなかで、
まとまった読書の時間がつくれたのだから
ここぞと『白鯨』を読めばいいものの
ぼくがカバンに入れていったのは保坂和志の『小説の誕生』だった。



これは「新潮」で延々つづいている、
小説的な思考についての(「小説についての思考」とは、たぶん少しちがう)連載の
第二期をまとめたもので、
こないだ、第三期をまとめた続編の『小説 世界の奏でる音楽』が出たばかりだ。


ゴールに向かって組み立てられていない、
あてどなさに満ちた文章が、
かろうじて「新潮」の連載時に区切られるチャプター毎の
便宜的な完結性を担保にすることによって
(とても偉そうな言い方にも聞こえるけれど、みくだした意味ではなく)
読むに耐える強度をもった文章になる。


最初に出版された『小説の自由』を読んだときには
「もうこの先はつき合わなくていいな」とおもったものだけど
こうして手にとってしまった。
そして、溺れるように読んでいる。



ぼくが保坂さんのこのシリーズを読むのは、
興味深い、とか、勉強になるからではなくて(ならないわけではないけど)
なによりも、気持ちいいからだ。
ほかの本ではあまり体験できない、快感がある。


ぼく自身も、小説についてあれこれ考えるのが好きで
保坂さんのほとんどのコトバに頷きながら読める。
というのは、前提としてあるのだけど
読みながら、グラスの底から泡が滾々とでてくるみたいに、
本の内容とは離れたいろんな考えを巡らせられることが、気持ちいい。


いってみれば、ぼんやり考え事をしながら読んでいるのだけど
保坂さんのこのシリーズには、そういう思いつきを誘発する芽のようなものが
たくさんばらまかれている。
そして、保坂さんの思考を追いかけるのと併走するみたいに、
誘い出されたじぶんの思念をもてあそびながら、頁をめくっていける。
そんなゆとりというか、懐の広さというかがある。


そんな思惟の芽といえる数々のコトバのひとつに、
たとえば引用されるゴダールのコトバがある。


つくられている映画の四分の三は、
フレームとカメラの窓(ファインダー)を混同している始末です。
フレームというのは実際は、
カットをどこで始め、どこで終わらせるのかというところにあるのです。
フレームというのは、時間のなかにあるのです。


保坂さんがする引用は、たいてい、常軌を逸して長い。
上のゴダールのコトバも、こんなものではすまなくて、
この10倍くらいのボリュームがある引用が、注釈も解説もなしにつづき、
そして補足なしにその章が終わったりする。
言及する小説の引用も、千文字くらいのブロックでなされる。


その引用のやたらな長さ=効率の悪さに、頓着しないで
うんと遠まわりしていくことが、スナワチ
小説的思考なのだと、保坂さんは繰り返し読者を諭すのだけど、
かとおもえば
じぶんは要約が下手だということをところどころで吐露していて
国語のテストでお決まりの「以下の分を要約せよ」というのを解いていたら
もとの文章より長くなったという話なんかには、おもわず吹きだしてしまう。
こういう実直さが、あるいは本に流れるゆとりとして感じられるのかもしれない。



上に孫引きしたゴダールのコトバを読みながら、
保坂さんの書く内容とは別に、ぼくがおもったのは、
フレーミングこそ、ストーリーの原形なのだろう、ということだ。


保坂さんは、一貫して
小説がいかに物語から自由になれるかを考えているけれど
たぶんぼくの考えている物語と、保坂さんのいう物語というのは
違う定義の仕方が必要だ。


保坂さんは言う。

考えてみればガルシア=マルケス百年の孤独』も
全体をまとめているのは“筋”ではなくて、“場”だ。
ドン・キホーテ』もまとめているのは“筋”ではない。
この場合は“場”ではなくて、ドン・キホーテという人物ということになるだろうか。
カフカの『城』では、“城への関心”だろう。


“筋”は、「時間を追って話が進んでいくこと」
と、そのあとで言い換えられていて、
ストーリー以外のものに導かれて、小説は書かれうると
保坂さんはここで言っているのだけど
小説をまとめるものは、ある場合は、“場”であったり、べつのときは“人物”で、
ときには“場への関心”だったりする。でも、その諸々は
要するに“フレーミング”と、大きく言い換えていいのではないだろうか。


無限定にひろがっている世界の
その一部を、フレームによって切り取る。
一般的な意味としての視覚として空間を切り取るばかりでなく、
ゴダールが言うように、フレーミングとは、時間を切り取ることをも、意味している。
いや、これだけでは言い足りてないので、もう少しコトバを探そう。
フレーミングとは、ある眼差しで、世界を限定的に見ることだとしよう。


切り取られた途端に、その小さな世界は蓋然性を主張する
(なぜだろう? 部分だったものは、フレーミングされた瞬間に、全体であることを目指しはじめる)。
切り取られた世界それ自体の要請にしたがって、フレームのなかを、整理していくと
情報が編集されるなかで、時間軸に沿った道筋がみえたりして、ある場合には、ストーリーと呼ばれるものが生成される。


だから、小説は、ストーリーが先行してあるのではなく
世界のどこをどうフレームに切り取るかということが、ある。
小説を書くことは、フレーミングすることと、かぎりなく近い行為だ。


黒沢清の撮影台本を、役者のだれか(役所広司だったか)が覗いたとき
その台本には、余白にたくさん落書きがあって、
よく見れば枠線でフレームが書かれていて、
そのフレームのなかで人間をふくめたあらゆるオブジェがどう動くかという動線が、
まるで幾何学紋様のようなパターンとして書かれているのを見つけてギョッとした、
というエピソードが忘れられなくて、ずっと引っかかっていたのだけど、
映画とかなにか、という問いに対して
「それはフレーミングです」と解答するのは、
即物的で味気ないものではなく、かぎりなく正しいという気がする
黒沢清がそういう答え方をしたというわけではないのだけれど)。


おなじように、小説とはなんだろうという問いにも、
「それは世界をフレーミングする作業だ」という答え方が、
とりあえずいま、ぼくのなかではしっくりしている。


諧謔のつもりで言うのではないけれど、そもそも『小説の誕生』で、
保坂さんの文章をあやういところでなりたたせ、
文章の強度を保障しているものも
「小説について、私が考えていること」というフレームなのだし、
『さようなら、ギャングたち』について
高橋源一郎
「愛と詩についてだけ、書こうと思った」とどこかで言っていたけれど
これも、「愛と詩で世界をフレーミングした」と言い換えられる。
それらは、ストーリーと呼ばれるものと等価に、
書かれるものを規定する。
というより、ストーリーは、フレーミングのあとに、結果的に立ち現れるものだという感触がある。
思いつきの範囲では、いまぼくのなかだけではとても腑に落ちているのだけど
もしかしたらぼくは、フレーミングというコトバを大きい意味にとりすぎていて
結果的にはなにも言えてない状態になっているかもしれない。


ともあれ、
『小説の誕生』は、まだ半分くらいまでしか読んでなくて
このさき保坂さんが
どんなコトバで小説を説明していくのか、楽しみなのだけれど
そのいちいちをぼくは、「フレーム」というタームで言い換えて検証しながら
読んでいくのだとおもう。