雑感

N-gram かな漢字変換 をアップデート。
内部の Unicode 化、未知の文字への対応。
これまでは未知の文字があると結果を返さなかったので、特に漢字かな変換では致命的だったが、今回の変更で大丈夫になったかもしれない。
まだ漢字かなでは試してないけど。


昨日、Twitter@zzzelch 先生に、学生と協力してWTIM 2011 に出してみないかというお誘いをいただいた。
期限は今日の 19:59 なので、現実的には無理だったけど、それでもそう言っていただけたのはうれしい。


こういうことは重なるものなのか、今日は会社で Variable Order Linear-Chain CRFs(可変長 CRF、修論で研究して NLP2011 でも発表した)について聞いてくれる人がいた。
誰も興味ないかと思っていたので、意外な喜び。


その時、「国際学会には出さないんですか」と言われた。
うーん。
どうなんだろう。


可変長 CRF にせよ、可変長 N-gram デコードにせよ、主観的には自分のやっていることに自信はある。
もし実際はたいしたことなかったとなったら恥をかくが、そのリスクを冒して言うと、何か新しい、役に立つことをしたつもり。
だって、高次の CRF や N-gram を、指数的に遅くならないように DP でできたらうれしいじゃん。


そう思ってはいるのだが、不安な面もある。
もしも自分のしていることが、自分が思っているぐらい役に立つことなら、どうして誰もそう言わないんだろう?
もし 2年前の自分が、高次の CRF や N-gram の DP による解き方があると聞いていたら、それだけで興奮したと思うし、それができたらうれしいと思ったからそれなりに頑張ったのだ。


しかし、実際には反応はほとんどない。
となると、役に立つことをしたと思っている自分が間違っているか、得るべき評価を得ていないかのどちらかだ。
みんな知っているように、「得るべき評価を得ていない」なんていう考えはたいてい危ない。
「いつも誰かに見張られている」とかいうのと同じぐらい危険信号だ。
だから、まあ自分のほうが間違っているんだろうということにはしているが、ちょっともやもやしている。


それなら、それをすっきりさせるためにもちゃんと研究にして発表すればいいじゃん!と言われそうだし、そういう考えもないでもない。


だが、もし自分のしていることが役に立つことだとしたら、「人の役に立つために、好きでもないこと(論文を書いたり)をする」ということに対して、心のどこかで納得ができない。


自分がしたいことをする傍ら、それを他の人にも使えるように、使いやすいようにすることを心がけるといったレベルの利他性なら自分も持っている。
でも、それ以上となるとちょっと。
英語で論文を書くなんて、ちょっとやそっとの面倒ではない。
利他性が十分じゃないのだろうか?
経験上、他の人類もそこまで利他的ではないと思うんだけど。
もちろん、世の中には素晴らしい人格を備えた人もいることは知っているし、自分もそうなれたらいいと思ってはいるが、現時点で自分はそうではないし、それをごまかしてもろくなことにはならない。


どうするのがいいんだろうなぁ。
まあ、自分のやっていることが正しい方向性のことならきっと他の人がそのうち同じことをするだろうし、もしそうじゃなかったら元々必要なかったってことだし、どちらにしても特に何もしなくても大丈夫だろう。


しかし、「もやもやする」という感覚は残るので、「面白い」とか「つまらない」とか思った人は教えてください。
どちらなのかわからないという状態が一番もやもやするので。