身の振り方再訪
どうもぼくはパソコンで文字を打たないと(さらに、それをどこかにアップロードしないと)考えがまとまらないタイプの人間のようなので、もう一度身の振り方を真面目に考えてみる。
以前いろいろ考えたあげく、日本語入力に関わる仕事がしたいという結論を出したことはあるんだけど…。
人生思うにまかせないもので、どうもそのルートはなさそうだということになった。
それで、ほかに仕方がないということで、以前勤めていた K社*1に戻るしかないと思った。
特に深い考えがあったというよりも、A・B・C というドアがあって、A と B が開かないから C に行くしかないかという程度の考え。
以前 K社に勤めていたときは、それなりに満足して働いていた。
日中韓の言語を扱う自然言語処理(レベルは高くないにせよ)という、ぼくの興味と強みが生きる仕事だったし、人間関係もよかった。それに、中韓語の入力・翻訳という分野では K社は確かな地歩を占めていた。
だが、今では状況がかなり違う。当時の多くの人は辞めてしまっている。それに、OS の国際化に伴って中韓語の入力は現地のものがそのまま使えるようになり、翻訳も大量のデータを持った大企業が手を出しているため、今後の見通しは厳しい。
また、社内の雰囲気もどこか沈滞気味で、技術レベルも低い。
だから、K社に帰ると決めたときは、「自分のエンジニアとしての人生は閉じた ここから先は悲惨の一語」という言葉が頭をよぎった。
「都落ち」の記事を書いたのはその時期。
でも、それから少し落ち着いてみると、そこまで悲観したものじゃないかもしれないとも思うようになった。
死ぬわけじゃないんだから、それなりにエンジニア人生は続いていくわけだし。
カイジだって、ビールに焼き鳥とか豪遊しちゃって、全然人生閉じてなかったし…。
と思っていたところで、(中略)という流れによって、都内の某有名 IT 企業を受けるという選択肢が浮上した。
すっかり頭がビールと焼き鳥(比喩)モードになっていたところだったんだけど。
ある人といろいろ話をするうちに、いろいろと自己分析をすることになった。
根本的に、ぼくは人生をなめているところがある。
それがいいと思っているわけではないけれど、自分で自分を観察して。
前職を辞めてから、時間の半分はかな漢字変換作り、半分はイタリア語の勉強といった感じで過ごしていた。
まず、イタリア語。
これには言語に対する興味という側面もあるんだけど、あえてその側面を抜いて考えると、逃げという面もある。
イタリア語は(今の状況では)役に立たないから、できてもできなくても評価の対象になることはない。
そんなことに時間の半分を注ぎ込んで、エンジニアとしての技能を磨くのをおろそかにしているのは、試験勉強をしないでテストに臨んで、悪い点を取ってしまっても「勉強しなかったからしかたない(自分はやればできる)」と自分を慰めるような態度じゃないんだろうか?
かな漢字変換のほうは…。
これは、一人でやっても実用的なレベルにはならないのはわかっているが、ある程度のものを作れば、自分の考えたアルゴリズム(N-gram デコード)の有用性を示せるんじゃないかという考えもある。
もっとも、そういうこと(アルゴリズムの有用性を示す)は論文を通してやるべきなのかもしれないが、先行研究を調べたり、データで有用性が示せるようなタスクを考えたり、実験をしたりといった、論文を書くうえで必須になるようなことがめんどくさくて避けてしまっている。
要するに、人生に真面目に向き合っていないところがある。人生設計? 何それおいしいの?
ぼくが今こうやって人生をなめてしまっているのは、はっきり言うと「頭がいいから」というところがある。
いや、自分よりも頭がいい人が数多くいるのは知っているけれど、ぼくはほかの面がダメなので、環境上それを実感しやすい。
たぶん、ぼくよりもずっと頭のいい人でも、進学校→東大→一流企業という人は自分の頭の良さをあんまり実感していないと思う。
たとえると、NBA の身長 200cm の選手より、草バスケチームで身長 190cm のほうが、自分が背が高いと実感しやすいというような感じ。
だから、「好きなことをやっていても何とかなるんじゃないか」という慢心が生まれる。
今の状況でも、K社に戻れば、生きていけるという意味ではそれなりに「何とかなる」わけだし。
でも、この生き方を今後続けていけるのかどうかという問題はある。K社もいつまであるかわからないし。
まあ、人生をなめているというのは心構えの問題なので、今後できるだけ役に立つ勉強をするようにしようと決めたら、できないこともないかもしれない。
で、都内の有名 IT 企業を受けるかどうか。
まず、「受ける前から悩むことはない、取らぬ狸の皮算用だ」という考え方について。
それは一理あるけれど、入って幸せになれないとしたら、確率的にでもその選択肢に向かうのは良くないんじゃないかと。
だから、受ける前から、やっぱりその後のことは考えておきたい。
入って幸せになれるかどうか。
まず、自分の能力について。
ぼくはエンジニアとしてはあまり能力が高くないと考えている。
「そんなぁ〜またまたぁ〜」と言われそうだけど、これは実感としてある。
いわゆるクイックハック・ダーティーハックのようなものや、アルゴリズムを実装するための小さいプログラムを作るのはそれなりに得意だけど、まとまった思考がなかなかできない(パソコンで文字を打たないと考えられないというところからもその一端がうかがえる)から、ある程度以上の大きさのソフトウェアを一人で設計して作るのは難しい。
さらに、これまでの蓄積がないというのもある。好きなことを好きなときに好きなだけやってきたので、体系的なスキルの積み上げがない。慢心・環境の違い…。
Unix 系の知識も全然ないし、Web 周りもあんまりだし…。
さらに、ぼくにはいろいろと精神的な弱点がある。
まず、やるべきことがある程度単純じゃないと何もできない。
大学時代、「レポートを書く」ということがまったくできなかった。
求められたテーマに沿って文章を書くということを人間は難なくこなしている(ように見える)けれど、ぼくにはどうやっても無理だ。
一般的なレポートは自由度が高すぎて、何をどうしたらいいかわからなくなる。
たとえば、「人体における脳の働きについてレポートを書く」というとき、それはどうやってプログラミングしたらいいか見当もつかない。
「あああああ…」から「熙熙熙熙熙…」(Shift-JIS)の間のどの文字列を出したらいいのかわからない。
アルゴリズムのレポートなら簡単なんだけど。
問題が与えられて、それを解いて、その途中経過のログを出せばいい。
何というか、CRF とか LOUDS とかウェーブレット行列なんて、レポートを書くのに比べたらずっとコンピュータ的には簡単だ。
こう言うと「お前はコンピュータじゃなくて人間だろ」と言われるけれど、まあ、その中間のどこかというか。
(かといって、コンピュータ的な性能面でも自分より優れている人はいっぱいいるという)
そんなわけで、人間的に、探索的に仕事をしないといけないとなるとぼくは何もできなくなる。
K社ではどうして何とかなっていたかというと、まあ仕事内容(中韓語の処理)と自分の興味とのマッチ、相対的な頭の良さといった要因があったから、それでいろいろと大目に見てもらえたというか。
そのほかにも、いろいろと弱点がある。
自分のやることにとても自信がないので、人と相談しないとプログラミングがなかなか進まない(ペアプログラミングをすると 5倍ぐらい効率が上がる)とか。
本当にダメダメすぎて悲しくなるけど、それが現状であって、どうにかできる短期的な見通しもない。
そう考えると、ちゃんとした会社で普通に働ける気がしない…。
いろいろ*3考えてみたけれど、目の前の問題よりも、長期的な問題がより深刻な気がしてきた。
リスト形式(適当)で考えてみた。
- 人生なめるのやめる。
- 知能それ自体に換金価値はない。
- 自分には弱点が数多くある。
- 好きなことをやってそれを強みにできたらいいのだが、実際は:
- PC用日本語入力は落ち目。仕事にできない。趣味でやっても実用レベルにならない。
- アルゴリズムやデータ構造も、それを専門にするのでなければあまり役に立たない。
- イタリア語等はもちろん論外。これも、専門でやっている人にはかなわないというのもある。
- 自分の強みを生かし、かつ世の中に必要とされる技術を意識的に身につける必要がある。
- でも、それって何?
- 考えてみたら、「自分の強みを生かし、かつ世の中に必要とされる技術を探す」ってすごく人間的なタスクで、それってぼくにはできないのでは?
- 鬱
- …人生なめるのやめたいけど、やめられないのでは?
- とりあえず K社に戻る?
- K社がつぶれたらどうする?
- ホームレス
- 一家心中
- いやいや…
- K社がつぶれたらどうする?
なんか悲惨な結果になった。
でも本当に、自分の生存戦略が見えてこない…。
校正はどうかなぁ。
訓練を受けたわけではないけど、強みであるのは確か。
この記事の「
でも、それはやっぱり自分の持っている強みのごく一部という感はあるし…。
はぁ。