「間髪をいれず」が殺された日
最近、マイナビウーマンが「日本語を貧しくしようキャンペーン」を展開しているようです。
間違っている読み方が定着していると知らずに使っていた日本語1位「輸入(ゆにゅう)【正】しゅにゅう」
「正しい日本語」ネタはPVが稼げるのでしかたないのでしょうが、日本語が金儲けのネタにされるのを見ると悲しくてなりません。
この中で、見逃せないのは次の部分です。
■番外編:これは明らかな間違いです
・間髪を容れず(かんぱつをいれず)【正】かん、はつをいれず「これだけは知っていた」(26歳男性/学校・教育関連/事務系専門職)
■間髪をいれず(×かんぱつをいれず→○かんはつをいれず)
こういうのは、いい大人が見たらあきれてしまうところです。
「何をバカなことを言っているんだ、『かん、はつをいれず』なんて聞いたことないよ」と。
もちろん、中国語や漢文をやっている人であれば、この言い方は中国語の「間不容髮」、すなわち「あいだに髪の毛を入れるすきまもない」というものから来ているので、日本語でも昔は「かん、はつをいれず」だったという知識はあるかもしれません。
でも、実際にそう発音する人はとっくの昔に死に絶えていて、今は誰でも「かんぱつをいれず」と言っているということも、いい大人ならみんな知っているところです。
記事を書いた人間のゴミどもも、そのことを知らないわけはないと思うんですけどね。
どのくらい昔から「かんぱつをいれず」が使われていたかというと、もう100年も前の本にも出てくるほどです。
非常に見にくいですが、拡大して、右上の「廢刀(はいたう)」や右下の「傍(かたは)ら」と比べると、違うのがわかると思います。
さらに、そのころにはこの「間髪」は一語として認識されていて、「此の間髪の機に乘じ」などのようなものも見られます。
Google Books「世界大戦史: 一九一四年. 後篇」
そういうわけで、100年前にはすでに一語となっていた「間髪」ですが、その後単独での用法はすたれたものの、「すかさず」という意味での「カンパツをいれず」は残りました。
国語辞典などは保守的なものが多いので、「『カン、ハツをいれず』が正しい」と書かれていたりしたのですが、もちろん人は国語辞典を読みながら話すわけではないので、国語辞典と話し言葉の間にずれがあるまま、共存状態が続いていたわけです。
しかしそれは、薄っぺらい知識で「正しい日本語オナニー」を始める輩が出てくるまでのことでした。
上に挙げたマイナビウーマンの二つの記事は、それだけでは影響力は限られていますが、すでに2chやまとめサイトに波及して、手がつけられないほど拡散しています。
こうやって「『カン、ハツをいれず』が正しい」というミームが広がってしまうと、もうどうしようもありません。
「『カン、ハツをいれず』が正しい」というミームが広がると、何が問題なのか。
それは、「間髪をいれず」という言い回し自体が死んでしまうからです。
人は、聞いたことのない言葉を書くことはできても、話すことはなかなかできません。
頭の弱い人が「そうか、『カン、ハツをいれず』が正しいんだ」と思ったとしても、明日から「そこで、カン、ハツをいれずこう言ってやったんだよ」のように言うということはなかなかできません。
そんな風にしゃべると、そもそも通じないですから。
聞く側に「昔は『カン、ハツをいれず』だった」という知識があれば、3 秒ぐらいたってから理解できるかもしれないですが、私なら「え、今の何? カン、ハツをいれずって言った? ごめん、面白いからもう一回言ってみて(笑)」と返してしまいそうです。
こうなると、「カンパツをいれず」が間違っていると言われる一方で「カン、ハツをいれず」と言うこともできないので、話し言葉からだんだんと消えていくことになります。
文章の上では、上の記事を書いたような輩が「間髪(かんはつ)をいれず」なんて書きながら「正しい日本語書くのギンモヂイイイイイィィィィィィ」とオナニーにふけるのがしばらく続くかもしれないですが、話し言葉から消えてしまえば、見せつける相手もいなくなるのでオナニーもおしまいです。
言語純粋主義者からしたら、「間違った日本語なんて消えてもかまわない」というところかもしれないですが、これまで実際に話されてきた生きた日本語を愛してきた自分としては、とてもそういうふうには思えません。
今後「『カンパツをいれず』は間違っている」ミームが増えるようなら別の言い方をせざるを得なくなりますが、「間髪をいれず」が殺されたという恨みはずっと持ち続けると思います。
しかし、こういうことはこれが初めてではありません。
ネット以前の時代ですが、「的を得る」が血祭りに上げられたときのことをよく覚えています。
そのころ、話し言葉ではみんな「マトオエタことを言う」というように言っていた*1のに、どこかのバカが「『的を得る』というのは理屈に合わない」とか「伝統的ではない」とか言い出して、実質的に「的を得る」が禁止されてしまいました*2。
まあ、今となっては「みんな『マトオエタ』と言っていた」という証拠なんてない*3ですが、少なくとも私の実感としては「マトオエタ」「マトオイタ」のどちらが正しいのか迷ったということはなく、「マトオエタ」が一方的に禁止されたというものです。
それ以来、私は「マトオエタ」とも「マトオイタ」とも言っていません。前者を言えば、知ったかぶりのバカにくだらないことを言われるのが目に見えてますし、かといって誰からも聞いたことのない後者を使う気にもなれません。
そういうときには適当に言い換えていますが、語彙からひとつの単語が「消された」恨みは今でも残っています。
こうした「言語純化」みたいなものは、多くの場合は失敗して単純に言語が貧しくなるだけで終わりますが、「重複」は最近純化が成功して、チョウフクが主流になりつつあるようです*4。
この場合は、ジュウフクが一般的だったものの、チョウフク派も少し生き残っていたからですね。
ちなみに、平成15年の文化庁の調査では「じゅうふく」が76%だったので、この10年で「じゅうふく」の言葉狩りが進んだということのようです。
しかし、成功したからといって、良くなったことは何一つありません。
中国語では「重い」という意味と「重なる」という意味で発音が違うのですが、日本語のジュウ・チョウはただの呉音と漢音の違いなので、「重箱」「五重塔」は重ねるのにジュウだったり、「貴重」「尊重」は「重要」という意味なのにチョウだったりと、法則がありません。
法則がない中で、「重複」という一語をジュウフクと読もうがチョウフクと読もうが、どうでもいい話です。
ちなみに今後は、「依存」「既存」「共存」などのイゾン・キゾン・キョウゾンという読みに対する言葉狩りが進むんじゃないかと思っています。
私は今はまだそれらを使っているのですが、これもいつ知ったかぶり野郎どもに「間違った読み」扱いされるかと不安です。
ところで、「間髪を『いれず』」の漢字ですが、「容れず」と書くこともできますし、「入れず」と書くこともできます。
前者は中国語的な書き方で、後者は日本語的な書き方というだけのことで、昔からどちらもあります。
日本語が中国語と肩を並べるれっきとしたひとつの言語だという考え方は、今でこそ当たり前ですが、120年ほど前に日本初の近代的国語辞典といわれる「言海」ができた時代にも、そうした考え方はまったく一般的ではありませんでした。
「言海」の序文は漢文で書かれていますが、これは「俗な言葉」である日本語の辞書を出版するにあたって、「正しい言葉」である漢文による権威付けが必要だったからですね。
その後、日本語がまともな言語であるという考え方はだんだんと受け入れられるようになったものの、漢文の呪縛から脱するようなはっきりしたイベントがあったわけではないので、「間髪をいれず」のように、「漢文の理屈では…」のようなことを言う輩が絶えないわけです。
そんなに中国様が好きなら、中国に帰化したらいいと思うんですけどね。中国語ではちゃんと「間不容髮」と言っていて、(彼らの目には)愚かな夷狄の国である日本みたいに、たとえば「不容間髮」とか「間不入髮」とか間違った言い方はしないので、オナニー野郎が身につけてひけらかすにはぴったりだと思います。
ところで、最近「アスペ日記」というタイトルに絡めたコメントをされることが時々あります。
そういうのを見ると、「アスペ*5」というものに変なイメージを持った人が多い気がします。
辞書を暗記したり、現実から離れた言語を使っていたりとかしているように思われていそうです。
でも、実際のところは、アスペというのは「権威に従う」「雰囲気を読む」といった人間的な能力が欠けているだけです。
「間髪をいれず」の例のように、国語辞典といった権威にへつらって、自分や父母や祖父母が使ってきた言葉を否定したり、「重複」の例のように、「みんなこっちが正しいって言ってる」という雰囲気を読んで、それまで多くの人が使ってきた読み方を間違っていると言ったり、そういう人間的な、あまりに人間的な営みを見るにつけ、とてもアスペにはついていけない*6と思わざるを得ません。