わさっきhb

大学(教育研究)とか ,親馬鹿とか,和歌山とか,とか,とか.

手がける,手を広げる

ツイートで,解説記事の存在を知り,Amazonで取り寄せて読みました.「水からの伝言」と「EM菌」を取り上げ,学校教育にもニセ科学が入り込んでいるんだよ,ニセ科学にひっかからないよう,正しい科学リテラシーを持とうね,という内容になっています.
それらについて,異論を唱えるのが本記事の主旨ではありません.この4ページの中に,教育管理職を目指すわけではない自分が読んで,違和感を覚えた記述がいくつか,あったのです.抜き出します.

こんな馬鹿げた主張の本はすぐに世の中で無視されると思っていましたが、『水からの伝言』や『水は答えを知っている』などは何十万部も売れていきました。
(p.78)

ニセ科学というのは巧妙で、分かりやすいストーリーと一見科学的な雰囲気を示します。
(p.79)

なお、科学者側などから『水からの伝言』授業への批判がWEBサイトやメディアでも出てきたことからだと思いますが、現在は、その授業の指導案は、何の説明もなくTOSSの正式なサイトからは一斉に削除されています。
(同)

EMは有用微生物群の英語名の頭文字です。本当に有用かどうかははっきりしません。そう名づけただけだからです。中身は乳酸菌、酵母光合成細菌などの微生物が一緒になっている共生体ということです。何がどのくらいあるかという組成がはっきりしていません。(略)
(同)

(略)比嘉照夫氏もしばしば訪れて指導をし、「北朝鮮はEMモデル国家。21世紀には食糧輸出国になる」と宣言していました。しかし、今は比嘉氏は北朝鮮のことを言いません。
(同)

EM菌を河川や湖、海の投入するような活動が、環境負荷を高めてしまう可能性が強いのに行われています。私が編集長をしている『理科の探検(RikaTan)』誌2014年春号は、「ニセ科学を斬る!」を特集しました。(略)本号は発行元のSAMA企画に在庫があります。
(p.80)

斎藤貴男氏は、「EMを超能力だと教える向山のやり方の本質を表現するのに、多くの言葉は必要ないと思った。わずか一言で足りる。愚民教育」と喝破しています。
“愚民教育”は、子どもを効率的に管理し、教祖の思うことを効率的に注入する教育しかできないのです。学校は、この根本的な問題を改善すべきだというのが、私の願いです。
(同)

ここで仮説を立ててみました.最後の引用の「教祖」は,文脈に即するなら学校の教師であり,EM菌に関してであれば比嘉照夫氏に対応づけることも可能ですが,解説の著者・左巻健男氏もまた,理科教育をバックグラウンドとして,学校教育へ自説持論の浸透を図ろうとする,教祖になり得るのではないか,と.


「教祖説」は,今回読んだ解説だけで思い浮かんだのではありません.教職研修と同時に,購入した雑誌があります.

季刊 理科の探検 (RikaTan) 2015年 01月号

季刊 理科の探検 (RikaTan) 2015年 01月号

気になったところの前に,ぱらぱらめくった印象を書いておくと,まず,星座,雲,雷,地球シミュレータなどのカラー写真は,雄大さとともに緻密さを感じさせてくれます.水を入れたコップに画用紙でフタをし,逆さまにしても落ちないのは,小学校のときに試したことがありますが,画用紙に替えて穴あきの金網でも同じようにできる(pp.104-105)こと,そしてその原理と注意点には,なるほどと思いました.
それで,「教祖」に思い至った箇所はというと,RikaTan広場という読者交流の見開きページです.開けるといやでも目立つのが,右側ページ(p.139)の右カラム,「左巻健男」から始まる*1,太字で書かれた著書の並びです.「左巻編集長からのプレゼント」とのこと*2.氏のファンであれば多分買い揃えているだろうから,このプレゼントに応募する人はどんな人なのか,信者なのだろうか一見さんなのだろうか,と気にもなります.
RikaTan広場では,秋号の特別寄稿3つのうち,「タバコ」「STAP細胞」について,「論理的で分かり易く、たいへん参考になりました」「とても興味深い内容でした」と肯定的な感想が載っています.特別寄稿の残り一つ*3,「かけ算の順序強制問題」はというと,肯定も否定も,読者コメントが見当たりませんでした.
秋号を手に取り,「かけ算の順序強制問題」を読み直したのですが,教育現場の現状について「よくわかっていない」と書き,一つの事例をもとに自説を展開してありました.これは上で引用した,EM菌に対する2回の「はっきりしません」と重なってきます.
「EM菌」そして「かけ算の順序強制教育」について,学識者から見ても,はっきりしていないのかという印象を読者に与え,それからは著者のペースで話を進めていきます.話し言葉・書き言葉の違いはあれど,そこでも教祖の振る舞いが,思い浮かぶのです.
「教祖説」はここまでにして,それらが書かれた,経緯を推測してみます.言い換えると,本日のタイトルに記した「手がける」「手を広げる」の背景にあるものを,探っていくことにします.
本やWebを読み,また会話をして「それはおかしい」と感じることがあります.この時点では個人的な印象です.多くの人はそれでおしまいだけれど,生じた問題意識を,科学的な常識や,他の本など信頼できる情報と突き合わせることで,そのおかしさの正体を確信し,自分の言葉で文章にする人々もいます.私もその一人です.そういったメッセージを,無料あるいは低コストで不特定多数に発信するのが容易な世の中です.具体的にはWebやTwitterです.著書・雑誌の刊行や,記事の寄稿を通じて,文字でも読めるようになっています*4.単発では済まず,練ったり周囲の批評や新情報,時事の話題を取り入れたりしながら,主張は成長していきます.
これらが組み合わさって行われる,メッセージ発信の実態は,「手がける」「手を広げる」の2つで表現できそうだ,と感じました.
そうは言っても,おのおのの執筆者は人間であり,誌面の制約や読者への配慮もありますので,執筆にあたり取捨選択が必要となります.水からの伝言とEM菌については,十分な知識を持ち合わせていませんので,「かけ算の順序」に対象を絞って,書くと,ニセ科学に乗じた,かけ算の順序批判で,十分に配慮され,学校教師が安心して読める文章は皆無です.
文体や,語句の選択といった問題というよりも,テクニカルなところに要因がありそうです.和書や洋書と照合し,そして数学や教材論では軽視されがちな教育評価論を重ねると,批判は,理論面でも実践面でも不十分に見えるのです.
かいつまんで指摘すると,「被乗数×乗数」による式の表現は,明治時代の算術の本にも載っています.「順序のあるかけ算」と呼べるものから学習し,かけ算の適用範囲を広げていくのは,古くは『筆算訓蒙』,そして現在でも学習指導要領や多数の書籍を通じて確認ができます.「順序のないかけ算」で指導することの問題点や,かけ算の文章題に対してどのような方略を用いているか(そしてそこに長方形的配置やトランプ配りが見当たらないこと)は,外国の論文・著書・事例のほうが明快です*5.算数教育は,1960〜70年代の「現代化」の影響を受け,現在に至っており,かけ算(あるいは,乗法の意味の拡張)に関する指導も含まれます.ミカンの問題に対し,机の配置を根拠の一つにして,4×6でも6×4でもいいと1972年に記事を書いた遠山啓も,晩年にはかけ算のシェーマについて見解を変えています.
『かけ算には順序があるのか』「かけ算の順序強制問題」の各著者は,ここまで挙げた研究や実践(の一端)から知ることのできる,雄大さも緻密さも,自説を論じるための取捨選択によって,取り除いているように思えてなりません.「かけ算の順序」でいくらか*6記事を書いてきた,自身を突き動かす情熱は何なのかというと,一つは,そういった雄大さ・緻密さです*7
2点,補足しておきます.「かけ算の順序が教育上良いというエビデンスがない」といった主張に賛同するのは,教祖の教えを無批判に受け入れているのと同じです.実状はというと,授業や指導の工夫,教科書や出題などの配慮によって,2年生の導入時において,被乗数と乗数を明確に区別して扱うのが確立しています*8ので,言ってみればこの通説に反する側に,それは不適切であることをエビデンスとして示す責任があります*9.「順序のないかけ算」に対しては教育上の問題点が複数,指摘されていること*10も,踏まえておきたいところです.
また上の引用で「ニセ科学というのは巧妙で、分かりやすいストーリーと一見科学的な雰囲気を示します」を挙げましたが,私自身は「かけ算ではかける順序はどちらでもよい」(『かけ算には順序があるのか』まえがき*11)が該当するように思っています.小学校の算数では,その意味で「順序」という言葉を用いていませんし*12,その意味の順序を受け入れたとしても,「順序のあるかけ算」と「順序のないかけ算」の存在・分類や,交換すると異なるものを表すという子どもの発言が,国内外の著書から容易に見つけられます.そこには,「2×5と5×2は違う(5人に2個ずつと2人に5個ずつ)」と対比して一方の式を退けるだけでなく,被乗数・乗数を交換した式もまた,場面を表しているという授業も見られます*13.そういった実態・実践と,「どちらでもよい」という主張との比較は,ここまで読んでくださった皆様にお任せいたしましょう.


今年は,執筆者の「手を広げる」行為が「かけ算の順序論争」におよんでおり,紙媒体に載った文章を読んで,こちらは疑問符をつけることが3件,ありました.2件はリンクのみとします.

あともう一つは『数学をいかに教えるか (ちくま学芸文庫)』で,「3. 掛け算の順序」と題する文章がpp.45-48にあります.「1950年代に一部の教育家が「乗数」と「被乗数」という言葉を発明して」とありますが歴史的にはhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/827357/23で読めるとおり,被乗数と乗数の違いは明治時代にも見ることができますし,緑表紙教科書で採用された「被乗数先唱」も大事なところです.緑表紙教科書には,出現する2つの数をひっくり返すことが意図された,かけ算の文章題も入っています.
またp.46に例示されている円柱やトラックの件は,先人による,面積を含むさまざまなかけ算・わり算のモデル化なり分類なり*14を知らずに書いたっぽいなあという印象を持っています.

(最終更新:2014-12-06 朝)

*1:続くのは,「編著」「著」「他著」「監修」とさまざまですが.

*2:2014秋号もp.139が同様となっています.ただし,太字がやや控えめで,筆頭の名前が異なるものもありました.

*3:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141004/1412352292

*4:論者や,「ニセ科学」などに対する人々の成熟も,無視できません.

*5:日本の算数が閉ざされているだとか,ローカルルールだとかいったわけではありません.例えば:http://togetter.com/li/448252, http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130615/1371274369

*6:集計してみたところ,「5×3」と「OoM」のカテゴリーで合計482記事,はてなダイアリー記法で約290万文字でした.

*7:雄大な・緻密なものを目にするだけでなく,自分も飛び込んでみよう,そこから面白いものを見つけて,日常生活に活用していこう,といった意識もあります.http://togetter.com/li/751670に入れたhttps://twitter.com/takehikom/status/537728230224973825は,その意識のもとでのツイートです.

*8:「導入はいいんだ,高学年までずっと,その順序でいいのかが問われているのだ」というのであれば,http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20140228/1393537997に挙げた程度の,算数の状況把握はあってもいいのではと思うし,また別に,前々から気になっているのですが,http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/edu/student/teacher/TKY201101160133.htmlで多数の批判がついていることと,その問題意識との摺り合わせを試みてほしいとも願っています.

*9:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20121219/1355868481

*10:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130324/1364071092

*11:原文でもカギカッコで囲まれており,「という社会の常識が,次の世代に伝わっていないようです.これは,由々しきことでしょう」と続きます.

*12:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20140810/1407660260

*13:http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20141023/1414014081

*14:例えばhttp://www.corestandards.org/assets/CCSSI_Math%20Standards.pdf#page=89, http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20131226/1387983600