たけみたの脱社会学日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

社会学関係の、ある程度まとまった文章はこちらに移していくことにしました。

2011-01-27

2011-01-20

2011-01-19

Windowsの「メモ帳」で「右端で折り返す」にすると「右端」で勝手に改行される件について

当方Windows Vista を使っておりますが、標題の現象に激しくいらいらして、ググッて調べても、同様の現象が各地で生じていることはわかったものの、どうしたら直るのかが全然わからんかったので、とりあえず実践上はどうしたらいいかについて書いておきまする。

「勝手に改行」は「保存」すると入る

ウェブとかWORDとかの、修飾とか書式がついたテキストを、ただの(プレーンな)テキストに戻すために、いったん「メモ帳」にコピペして、それをまたコピペするというのが、私の主な「メモ帳」利用ですが、ときどき標題のような現象に遭遇していらいらしておったわけです。

で、いつもはWindows特有の摩訶不思議ファンタジー(=仕様)だと思って諦めていたのですが、このたび、思い立ってちょっと発生条件を確認してみました。

その結果ですが、ひとことで言うと、「名前をつけて」でも「上書き」でも、とにかく、

メモ帳の「書式」で「右端で折り返す」にチェックが入っている状態で「保存」すると、その「右端」に改行が入る

ということのようです。

対策(1):「保存」しなければ入らない

なので、メモ帳に入力したテキストも、「保存」しなければいいということになります。上記のような、修飾・書式を外すための一時的なコピペ用なら、まちがって「保存」しない限り問題は生じないということがわかりました。

対策(2):「保存」してしまったら、いったん「右端で折り返す」のチェックを外してまた戻すか、いったん閉じてまた開く

まちがって「保存」してしまったり、作業を中断するためにいったん「保存」した場合は、「右端で折り返す」にチェックが入っていると「右端」に改行が入ってしまいます。

その場合の対処法としては2通りあります。

一つは、「書式」をクリックして「右端で折り返す」のチェックを外すことです。そうすると、右端で折り返されなくなって、一段落が一行になりますが、そうしておいて、また「右端で折り返す」にチェックを入れます。そうすると、「保存」しない限り、「右端」の改行はキャンセルされます。

もう一つは、いったんメモ帳を閉じて、保存されたファイルを開き直すことです。すると、なぜかよくわかりませんが、「勝手に入った改行」は消えています。

要するに、

「右端で折り返す」にチェックが入った状態で「保存」すると、メモ帳が開いているあいだは「右端」に「勝手に改行」が入っているが、この「勝手に改行」は保存されてはいない

ということのようです。なんなんでしょうこれは。実に摩訶不思議ですが、とりあえずこの点を踏まえておけば、いらいらしないでメモ帳を使うことができそうです。。

かってに改蔵 1 (少年サンデーコミックススペシャル)

かってに改蔵 1 (少年サンデーコミックススペシャル)

2011-01-14

人文総合演習B 第11回 高橋洋一『日本経済のウソ』

日本経済のウソ (ちくま新書)

日本経済のウソ (ちくま新書)

ええと、今回の本は、ちょっと失敗だったなと思うところなきにしもあらずでして・・・ 下のコメントにも、わからなかった、難しかった、という声が寄せられていますが、学生のみなさんの勉強不足とか能力不足というよりは、本のつくりが雑すぎるということでしょうかね。なんか最近こういうその場限りで売れたら儲けもんみたいな新書多いよね・・・

同じような話でも、こっち↓にしたらよかったな、と今更ながらに反省です。岩田本は、中身がきちんと整理されていて、論旨が明確でした。今回ので、わからなくて悔しい思いをした人は、是非どうぞ。

日本銀行は信用できるか (講談社現代新書)

日本銀行は信用できるか (講談社現代新書)

さて、そのような苦境でも、きちんとレジュメをつくって報告・コメントが成立し、司会者のもとで会が成り立つというのは素晴らしいなと思います(学生を褒めることで教員責任転嫁をしているように見えるかもしれませんが、たぶん気のせいです・・・)。

報告者の議論ですが、一人はデフレの問題を、大卒就職率の低下の問題に落とし込んで論じました。何かが問題である、というときに、近い将来自分たちが直面することになる危機と絡めて、その問題性を際立たせるというのは、報告として有効戦略です。

もう一人は、現在市場には魅力的な商品が多く出まわっており(商品の魅力が昔よりも低下するなんてことは起こりにくいはずですよね)、魅力的な商品が多いなら需要が高まって物価が上がるはずなのに、実際はデフレであるという事実から出発して、このギャップこそが金融という問題の在り処だと指摘しています。もちろん、その問題の輪郭をきちんと描いたり、ましてや十全な解決を与えるということが、学生のゼミ報告ごときでできるわけはありません(うちなんて人文学部の1年生なわけだし)。しかし、ぼんやりとでも問題の気配を察知すること自体が、非常に重要学問発見だということも事実です。

さて報告者は二人とも、自分たちにできること、やらなければならないこと、を示唆するという方向で議論を締めています。これは、若者の議論として(?)、自分の人生に対して前向きで建設的ではあるように思いますが、しかしそこで議論を止めてしまうと、問題が解決されないことが、あたかも個々人、とくに若い人たちの努力不足、怠惰のせいになってしまいがちです。これは、本来その問題に対して責任を負わなければならない人たちにとって大変に好都合な事態です。若者批判してればいい、ということですから・・・

実のところ、個人にとって前向きで建設的なことが、全体にとっては後ろ向きで非建設的だったりすることがよくあります。議論をこの陥穽にはまらせないためには、自分たちの努力目標を示すと同時に、その限界をも示すべきでしょう。つまり個人の努力では越えがたい壁の存在を示すことです。それが「制度」の問題につながるわけですが、個人の努力の議論を介したことで、その輪郭がより明確に見えてくるはずです。(ここでは「制度」という言葉を、個人の行動の前提になるがゆえに、個人の行動によっては変更できないもの、というような意味で使っています。)

さてここで、この文章の冒頭に戻ってもらえば、私が、今回の文献選択について反省しつつ、それにとどまらずに、近年の新書出版のあり方に対して批判的なコメントをしていることに気づかれるかと思います。これこそが、まさに、個人の努力不足を指摘した上での、制度論的問題領域の開示に当たるわけですね!

以下、出席者のコメント。

続きを読む

2010-12-18

2010年12月17日のツイート

2010-12-16

人文総合演習B 第10回 井上薫『平気で冤罪をつくる人たち』

平気で冤罪をつくる人たち (PHP新書)

平気で冤罪をつくる人たち (PHP新書)

「冤罪」はよくない、という直観的な価値判断を我々はもっており、それはなくすべきものであるということを、当然に考えます。そのとき我々は、そこで問題になっている事件が「冤罪」であることを知っています。つまり犯罪者」として扱われている人が「無実」であることが、絶対確実な事実として前提になっています。「無実」なのに有罪にされて刑罰を科されるなんてひどい、というのが、冤罪=悪という価値判断のもとになっているわけです。このとき我々は、この世に起こっているすべての事実を、間違いなく認識できる「神の視点」に立っています。

ところが、冤罪はなくさないといけないのだから、実際になくせるような仕組みをつくっていこう、という段階になると、もうこの「神の視点」に居続けることはできません。もしすべての真実を知る「神の視点」に立ち続けることができるのであれば、誰が犯人なのかも正しくわかっているわけですから、その視点から直接犯人を名指しして罰(天罰!)を下せばいいだけです。でも、そんな能力を、我々人間ごときはもっていないのです。

そこで、冤罪を防ぐ制度設計というのは、誰が本当に犯人なのか、特に被告人が本当に犯人なのか、それとも「無実」なのかどうかについては、絶対にわからない、ということを前提に進めていかざるをえません。そうなると、「無実なのに罰せられる」という事態は、我々の(それは良くないことだという)価値判断の源泉となる仮説的な想定ではあっても、我々が実際にこの経験世界で遭遇できる事態ではない、ということになります。

我々が経験的にチェックできる事態というのは、裁判でどんな証拠や証言が提出されたか、有罪の判決が出たか無罪の判決が出たか、有罪判決に対して証拠は「合理的な疑い」を容れない程度に十分だったかどうか、といった、司法手続上の、各アクターの動きとその適切性だけです。

「無実なのに罰せられる」という神の視点からしか捉えられない事態ではなく、人間の眼から捉えられる事態のなかに「冤罪」という現象を探すなら、たとえば、「無罪判決のはずなのに有罪判決を下される」といったことがあるでしょう。

刑事裁判は「無罪推定」が原則です。つまり、有罪か無罪かわからないときは無罪になることになっています(わからないので「推定」といいます)。そして、有罪と判断するためには、「合理的な疑いを容れない」ほど確実な立証が必要です。そこで、被告人を有罪とするにはまだ証拠が弱く、「合理的な疑い」を容れる余地があるにもかかわらず、裁判官が有罪の判決を下してしまったとすれば、これは、「無罪判決のはずなのに有罪判決を下される」という事態です。これを「冤罪」と呼んではどうでしょうか。

しかしこの、「本当は無罪なのに」という冤罪は、神の視点からの「本当は無実なのに」という冤罪と較べると、道徳的な直観に訴える力が弱いのもまた明らかでしょう。逆に、検察官無能で、まともな証拠を提出することができず、(本当はやってそうな)被告人が無罪判決を受けたりすると、我々の道徳的直観は、「なんてひどいことだ!」とか「司法は腐ってる!」とか「法律が裁けない悪はオレが裁く!」(平松伸二的な←知らんよね・・・)とかいう方向に働くかもしれません。なぜかといえば、「無実の人が罰せられてはならない」という道徳的直観は、「本当に悪いやつは罰せられなければならない」という道徳的直観と表裏一体だからです。

えーと、例によって長くなりすぎているので、もうこのへんでやめますが、要するに、制度の改善へ向かう動機となる我々の道徳的直観は、現実には知ることのできない仮説的状況から力を得ているが、しかし、そこから実際に制度改善へ向けて踏み出すと、もはやその状況の不可知性を前提にせざるを得ず、その結果、制度の改善が別の道徳的直観に抵触する可能性が出てきてしまうのです。すると、次のステップとしては、その二つの道徳的直観のうち、どちらを優先すべきかという議論になってくるでしょう。

このように、制度の改善は、道徳的直観との微妙なすり合わせをやりながら論じていくしかありません(以上の議論ですらものすごく単純化した話にすぎません)。出席者の多くが「難しい問題」と感じ、報告者たちが議論構築に難儀したのはこのような事情のためだろうと思います。しかし、対象となる現象についての自分の道徳的判断の根拠を反省して捉え、また制度の現状とその改善が道徳的判断に及ぼす影響について、ひとつひとつ丁寧に考えていけば、一足飛びの結論が出ることはないでしょうが、考えるべきことを考えたという足跡は確実に残るでしょう。そして、学問的な議論というのはそれで十分なのです。

 

以下、出席者のコメント

続きを読む

2010-12-10

掛け算の順序のはなし

菊池誠さんがブログエントリをあげていた(掛け算の順序問題について)のを読んで、ちょっと思ったので書いておきますTwitterでもちょっと書きました)。この論争(?)については、存在は知っていたけど中身はチラ見しかしていないので、同様のことは既出かもしれませんが。

話題の発端については、このTogetterかけ算の5×3と3×5って違うの?)とそこからリンクされているアルファルファモザイクの記事(そういえば掛け算にはそんなルールがあったな)を参照していただければいいかと思いますが、要するに、テスト

りんごが3個のった皿が5枚ある。全部で何個?

という問題に対して

5×3=15個

と書いたらバツになる、ということです。


もちろん、数学的には「3×5」も「5×3」も同じことです。

他方、バツにする人の主張は、「3個の皿が5枚」なんだから「3×5」と書くのが正しい、というものです。論争では、この両者の表現をつなぐ理屈について争われている気がします(ちゃんと見てなくてすみません・・・)。

さて、数学的には正しいものを、(算数的には?)間違いだというからには、「3×5」と書いた人は理解しているけど、「5×3」と書いた人は理解していないことがある、ということのはずです。しかし、それが何なのか、私にはよくわかりません。

「りんごが3個のった皿が5枚ある」という文字列、あるいは、もとの設問をそのまま書くなら、

さらが5まいあります。1さらにりんごが3こずつのっています。りんごはぜんぶで何こあるでしょう。

という文字列を読んで、「りんごが3個のった皿が5枚ある」という事態を理解できているかどうかという問題は、掛け算ができるかどうか、式をどう書くかとは独立の、それに先行する問題でしょう。もしこれが理解できない人がいたら、まずは日本語の読解力を身につけさせるべきだと思います。

逆に、掛け算の式の書き方が話題になる場合には、この種の読解力はすでに身についていて、上の文字列を読んでそれが表している事態を理解しているということが前提になっているものと考えてよいと思います。


というわけで、問題は、「りんごが3個のった皿が5枚ある」という事態を理解できている人が、「5×3=15個」と書いた場合に、何が理解できていないのかということになるかと思います。

さて、「りんごが3個のった皿が5枚ある」場合に、りんごの総数はいくつかと訊かれて「15個」と正しく回答し、しかも回答を導くための方法として「掛け算」という(効率的という意味で)「正しい」方法を用いている以上、この人が「5×3」を「りんごが3個のった皿が5枚ある」という意味に理解していることは明らかです。そして、正答を導くのに、ここで述べた以上の事柄を理解する必要がないことも、これまた明らかですし、正答を導くのに理解しなければならないことだけ理解していればいい、ということも、やはり明らかだと思います。

したがって、この設問に正答するために理解していなければならないことで、「3×5」と書く人は理解しているけれど「5×3」と書く人は理解していないこと、というのは何もないと言わざるを得ません。


上の菊池さんも「導入時の論理」という言葉で述べていますが、思うに、「3個が5皿」なら「3個×5皿」としたほうが、教えやすいし、理解しやすいのだろうと思います。実のところ、私もそう習ったし、そうやって理解しました。

しかし、教えやすい、理解しやすいということは、正しいということではありません。テストというのは、正しいかどうか、理解しているかどうかを調べるものであって、その際には、正しいかどうかはもちろん、何を理解していなければいけないか(何を理解していればいいか)も考えなければなりません。「5×3」と書く人が、理解していなければならないことで理解していないことは何もないことは、上に示したとおりです。

「導入時の論理」というのは要するに教育者の側の事情であり、必要なことをすでに正しく理解している人にとっては、そんなこと考慮してあげる義理などはないわけで、それを不正解とされるのは理不尽以外の何ものでもないと思います。

2010年12月09日のツイート

2010-12-09

人文総合演習B 第9回 山脇由貴子『友だち不信社会』

友だち不信社会 (PHP新書)

友だち不信社会 (PHP新書)

ウワサはされた人が嫌に思うので悪いことだ。悪いことはしちゃだめだ。やめさせるために罰を!

もちろん、報告者にしろ、コメンテータにしろ、ここまで単純な議論をしているわけではありませんが、どうしても、不快⇒悪⇒不正⇒禁止⇒罰という連想が、あまりにもするするとスムーズに流れていってしまっているような印象を受けました。道徳哲学的には、と大層なことをいう必要はありませんが、もう少し、各段階で、ごつごつとひっかかってほしい気もしますので、今回は、こういう倫理学的な、それから法哲学的なことについて、ちょっとコメントしておきたいと思います

不快⇒悪について。本人にとって嫌なこと、不快なことが、必ずしも、本人にとって悪いことなわけではないことは、たとえば、泣き叫ぶ子ども注射をするお医者さんのご苦労を思い浮かべればすぐ理解できるかと思います。

悪⇒不正について。「悪」という言葉、「善悪」という区別を、上の続きとして、ここではその人にとって悪いこと、という意味で使います。これに対して、「不正」という言葉、正不正という区別は、誰にとってということのない、客観的な道徳的判断として使うことにします。そうすると、ある人にとって「悪い」ことが、客観的にも「不正」であるとは限らないことは、何かの大会とかでたくさんのライバルを破って自分が優勝、という事例を考えれば、これまた明らかでしょう。自分にとって優勝が「善い」ことである反面、敗退した人たちにとってそれは悪いことでしょうが、だからといって頑張って優勝した自分が「不正」だと言われたら困りますよね。

不正⇒禁止について。不正なことはしてはいけないというのは、自明に思えるかもしれませんが、倫理学的には必ずしも自明ではありません。これは「why be moral」問題と呼ばれますが、極端に過激な言い方をすると、「なぜしてはいけないからといってしてはいけないのか」という問題です。ただこの問いについては、ほとんどセンスの問題、というか、たまたまこの問いが理解できた人にとってのみ問題になるというような種類の問題な気もしますので、ここではさらっと飛ばします。

禁止⇒罰について。実のところ、この両者をきちんと区別することが、学部生レベルでは一番大切だと思っています。大学生ともなれば、この両者は絶対に分けて考えなければいけません。なぜなら、何かが「してはならない」と禁止されているだけでなく、この禁止に違反したら罰を与えるということになれば、そこに、今まで登場しなかった「罰を与える人」が突然現れるからです。

禁止だけなら、それは「してはならない」という観念とその人だけの問題ですが、処罰となると、その禁止/違反関係の外部から突然「罰を与える人」が出てくることになるのです。天罰があれば問題ありませんが、残念なことにそんなものはなく、人間の社会では必ず、罰があるということは、罰を与える権力をもった人間が存在するということを意味します。そして、罰もまた人の行為ですから、実は、その罰を与えるという行為の正不正が、禁止された行為の不正性とは別に問われなければならないはずなのです。

(なお、法律条例のレベルでも、禁止されてはいるが違反しても罰のないきまりというのはいくらでもあります。たとえば、新潟県青少年健全育成条例では、「何人も、青少年に対し、みだらな性行為又はわいせつな行為をしてはならない」(20条1項)と禁止事項を設け、その「規定に違反した者は、2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する」(29条1項)と罰則を設けている一方で、「この条例の罰則は、青少年に対しては適用しない」(31条)として、青少年を罰則の適用から除外しています。ということは、青少年同士で「みだらな性行為」をしても上記の罰則は与えられないということになりますが、しかし禁止されていることには変わりありません。)

ちょっと難しい話になりましたが、とりあえずは、それぞれの移行段階に、ある程度のでこぼこがあってスムーズには移行できないという感じをもっていただければよいかと思います。あとは、事例に応じて、自分で考えることです。

なお、以上の説明は、これでもものすごく単純化したものです。ある行為とか状態に対する(我々が日常的にやっている)道徳的評価というのは、善いか悪いか、正しいか正しくないか、みたいな二項対立には還元できません。しなければならない、したほうがいい、してもしなくてもどっちでもいい、してもいいけどしないほうがいい、してはいけない、といった言葉づかいの違いに見られるニュアンスの差に思いをいたしていただければ、事態の複雑さがよくわかるかと思います。

以下、出席者のコメント。

続きを読む

2010年12月08日のツイート

2010-12-03

Roemerの「機会の平等」メモ

Equality of Opportunity

Equality of Opportunity


T個の「タイプ」の集合。


タイプtの人が全人口のなかで占める割合。


タイプtの人が資源をx単位使い、努力をe単位したときに得られる成功度。


タイプtで、努力をe単位する人にあげる資源の量。つまり

は、タイプtの内部での、努力量に応じた資源配分のルール


タイプごとの資源配分ルールを集めたもの。これが「政策」。


タイプtで資源配分ルール 採用されているとき、そのタイプのなかで努力順位が下からπ%(第π百分位)の人が得る成功度。

努力量に応じた資源配分のルールの存在を加味した上で、 を書きなおしたもの。


タイプtで資源配分ルール が採用されているときの、タイプtのなかの努力量の分布を表す確率密度関数


タイプtで資源配分ルール が採用されているときの、タイプtのなかの努力量の分布のなかで、下から割合πの人の努力量。このπは、おそらく分布を使い出したことが理由で、パーセントではなく割合に変わっているので注意(さっきまでの表記が50%なら、0.5になっている)。

これは、努力量が 下の人の割合がπだということ。該当区間での分布の曲線の下の面積が割合なので、次のように書ける。


ここまでで、努力量eと、配分される資源xが、どちらも、資源配分ルール と分布の中の分位πで表されることになったので、 で書くことができる。


まずは、タイプ内での努力量の相対的位置πを固定した上で、この位置にいる人の成功度をタイプ間で「平等化」するような政策をさがす。なお、ここで「平等化」とは、(「成功度の値を等しくする」ことではなくて)マキシミンのこと。つまり次の問題を解く。

マキシミンなので、解はつねに存在する。この解=政策を と書く。


すべてのπについて、上の問題を解くと、政策の集合ができる。

(πの値を0.01, 0.02, ... 0.99, 1 という100個の数字に限ると、政策はそれに応じて100個。)

この集合の要素がただ1つだけなら、つまり、すべてのπについて「平等化」する政策が同一であるなら、それで話は終わり。しかし、そんなことはまずない。なので、以下のような妥協策が必要。


(注:ここでは、πは1から100までの100個の整数

各タイプで第π百分位にいるの合計は、全人口の何割か。タイプ内の人口を100分割したうちの1つなわけだから、タイプ内人口の1%。で、すべてのタイプで1%なので、全体でも1%。だから、第π百分位にいるひとは、全人口の1%。

そこで、(1から100まで100個ある)各百分位ごとに、その成功度が一番低いタイプをさがし、そうやって見つかった、各百分位ごとの最小成功度の平均をとる。

で、この平均値を最大化する政策を探す。


直前の式のπを、1から100までの100個の整数ではなく、0から1までの(連続実数として書き直すなら、「和」を「積分」に換えればよいだけ。


2010年12月02日のツイート

2010-11-25

人文総合演習B 第8回 加藤隆『歴史の中の『新約聖書』』

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

どうやら、「キリスト教」、あるいはもうすこし一般的に「宗教」という対象について、生活上の実感のある人がいなかったようで、報告者たちは苦労したみたいです。もっとも、かくいう私自身が、宗教団体や宗教活動とは無縁な生活をしていて、宗教というカテゴリーで括られる社会的活動が実際にどんなものなのか、実感としてはほとんど知りません。

他方で、ある対象について論じるというとき、その対象の内部にわけいって詳細を調べるということだけが、唯一の方法なわけではありません。対象の詳細は思い切って切り捨てた上で、その対象の何か一面にだけ着目し、そこから別の対象へと向かう、という議論のやり方もあります。それが、「比較」です。

比較という方法は、抽象抽出)から始まります。抽象によって、別の対象が議論のなかに入ってこれるようになるからです。

たとえば、宗教にはエクスタシー、つまり忘我的な体験がつきものだ、ということを聞きかじったとします。宗教的忘我体験がどんなものかについて、さらに詳しく調べていくというやり方はもちろんありますが、比較という観点からは、むしろ、報告者がよく知っている社会的領域のなかに、宗教的ではないけれども忘我的な体験をもたらすものがないだろうか、と探してみることが大切です。セックス恋愛はどうだろう? ゲームに夢中になって一日中やってたみたいなのは? 音楽は? アルコール麻薬は? という感じです。

あるいは、宗教には聖書コーランのような「正典」がある、ということから出発して、宗教ではないけれども「正典」のようなものがある領域はないだろうか、法律業界憲法はそういう位置づけではないか? ガンヲタいつまでもファーストガンダムの話ばかりするのは、あれは正典扱いということでは? みたいな感じの方向性もありでしょう。

このように、抽象と探索によって、ある点について共通した異なる複数の対象が得られます。たとえば、宗教と恋愛は忘我体験を伴うという点で共通だ、と。さてここから、「だから恋愛も宗教だ」みたいな議論も、ありといえばありです。しかし、忘我体験は共通でも、宗教にはある正典が、恋愛にはありませんから、それでも「恋愛も宗教だ」といえるためには、忘我体験があることは宗教の本質であるが、正典があることは本質ではない、という前提条件が必要です。つまり、「宗教(の本質)とはなにか」という大変難しい議論に入っていかなければならなくなります。これは、はっきり言って無理筋です。

他方で、「宗教は宗教、恋愛は恋愛で別もの」ということは維持した上で、しかし「忘我体験という共通点がある」というのにとどまるなら、上のような困難は生じません。でもこれだけでは、あまり「発見」的な感じがしないのも事実です。つまり、「比較」というのは「共通点の発見」で終わってはおもしろくないのです。おもしろくなるのはむしろここから、「共通点の発見」を出発点とした「相違の探索」です。

宗教と恋愛にはどちらも忘我体験があるとして、しかしそれを引き起こす要因、それに対する意味づけ、それが内外に引き起こす問題、等々はかなり異なっているはずです。この違いを列挙するだけで十分に発見としての価値がありますし、またこの作業を通じて、宗教的な現象としての忘我体験の詳細も、恋愛との差異によって明らかになっていくわけです。

共通点と相違点がセットになって、はじめて比較は完成します。今回の報告者の議論は、一方はキリスト教に親和的な民族そうでない民族(特に日本人)のあいだの相違点を、両者の共通点を軸に設定しないまま指摘し、他方はキリスト教の権威化と現代の環境問題の権威化の共通点を指摘するに留まっていました。いいことがいえそうなのに、どう進んでいいのかわからなくなるのは、上に述べてきた「比較」の基本形式がとれていないからだろうと思います。逆にいうと、比較というのは、対象についてよく知らなくても発見を導くことができる、優れた方法だということです。特に、あらかじめ対象について知識をもっていることの少ない社会科学では有効な方法だといえるでしょう。

長くなりましたのでこのくらいで。

以下、出席者のコメント

続きを読む

2010年11月24日のツイート

2010-11-18

人文総合演習B 第7回 島宗理『人は、なぜ約束の時間に遅れるのか』

本書が示す行動主義的な説明様式に対して、報告者は二人とも、価値観や意志といった概念によって対抗しようとする立場を示しました。

ただこれはなかなか、議論の戦略として厳しいものがあります。というのも、価値観とか意志とか〈自分〉というのは、それが何なのかよくわからないがゆえに、あるいは、自分ではよくわかっているつもりでも言葉で表そうとするとうまくいかないがゆえに、行動主義によって排除されているシロモノだからです。価値観とか意志というのが「何なのか」という問いは、非常に難しい問題なわけです。

他方で、「何なのか」はわからないけれど、それが存在している(と想定している)ことで「何が得られるのか」という議論は、「何なのか」の問いにちゃんと答えなくても可能です。これは、価値観とか意志といったものがなかったら、我々の意味世界から「何が失われるのか」を考えてみることで回答可能だからです。たとえば、意志のない世界で「責任」という概念は成立できるでしょうか(この問いに対する答えは私もわかりませんが)。

そして、そのように問いを立てるならば、一言で、行動の「説明」とか「なぜ」といっても、実はその説明要求やなぜ疑問に込められた意味によって、というか、その疑問が通用する空間によって、求められる答えも変わってくるのだということにも気づくはずです。私たちは様々な意味の空間、様々な文脈の空間に同時に所属しながら生きているのであって、行動主義的な説明が、ある文脈でもっともらしく思えたり、問題解決に役立ったとしても、別の空間でもそうである保証はないわけです。これは、単に正解は一つではない、というだけのことではありません。

あと、ちょっと修正ですが、わたくし、環境決定論を、宇宙の始まりから未来永劫のすべての現象が因果連鎖でつながって全部決まっている、という極端な決定論の話に拡張した際に、その連鎖のすべてを見通して未来を予見できる存在のことを「マックスウェルの悪魔」と口走ってしまいましたが、えーと、これはウソです。正しくは「ラプラスの悪魔」ですので、間違えないでくださいね。

以下、出席者のコメント

続きを読む

2010年11月17日のツイート

2010-11-11

人文総合演習B 第6回 清水真木『これが「教養」だ』

これが「教養」だ (新潮新書)

これが「教養」だ (新潮新書)

本書は、「教養」についた飾り(=読書とか)を削ぎ落として、教養の本来の姿を取り戻すことをテーマにしていました。それが、教養とは問題解決能力のことだという話なのですが、議論の中では、そのような形で定式化された教養に対して、あまり魅力が感じられていなかったように思います。

一つには、「本来だからなんなの?」という So what? 的な疑問があるでしょう。「教養」についていたのは不要な飾りにすぎなかったのかもしれないけど、その飾りが魅力的だったんだよねー、と。そして、削ぎ落とされた飾りは、実は「教養」以外のところではなかなか輝けないんだよねー、と。

もう一つは、問題解決能力という定式化それ自体の味気なさがあるでしょう。これも一つには、「問題が解決できたからなんなの?」という面があるでしょうが、問題解決能力という性質は、問題の発生に対してすごく受動的だという面もある気がしました。

問題というのは、すべての生き方に同様に降りかかってくるものではありません。他人と関わらないようにする、みたいな消極的な生活をしていれば、問題自体があまり発生しないでしょうし、様々なことに手を出し、様々な人とかかわりをもっていこうとすれば、そのぶん生じる問題も多種多様多量になるでしょう。ところが問題解決能力として定義された教養概念は、どのような生き方が好ましいか、潜在的な問題群に対してどのようなスタンスをとるべきなのかを何も教えてくれません。この点が、著者の(「本来の」)教養概念の魅力のなさに通じているように思います。

この人文総合演習自体が「教養科目」であることもあって、私自身も教養についてはいろいろと考えるところがあり、自分なりの定義じみたものも持っているのですが、そろそろ長くなったので(笑)、それは「啓蒙」概念と密接に関わるものだというヒントだけ示しておくことにします。いずれにせよ、大学生のみなさんは、教養とか知識とか能力とか研究とかといったことについて、少なくとも自分の人生と絡めて考え抜くことが望ましいように思います。この望ましさは、私の考える教養概念と関係することなのですが、それについてはこの授業をやっていく中で追い追い。

 

以下、出席者のコメント

続きを読む

2010年11月10日のツイート

2010-11-07

初期ルーマンにおける「経験的研究と規範的研究の架橋」

第83回日本社会学大会(@名古屋大学 11/6-7)のルーマン部会で報告しました。レジュメが足りなくなったそうで、大変申し訳ありません。以下にレジュメの全文を載せておきます。

PDFはこちら

 


 

1. 問題

◯ ルーマン研究というと理論システム理論)の研究が中心。

◯ しかし方法(等価機能主義)は? そして、方法と理論をつなぐ根本的な社会科学観は?

システム理論と機能的方法は、その背後に共通の考え方を持っている。(中略)両者を結び付けているのは次の共通仮定である。すなわち、人間の行動というものは、それを合理化する可能性という観点から解明し理解しなければならない。


「機能的方法とシステム理論」(Luhmann [1964] = [2005: 57])

◯ 合理性/合理化の概念こそが、統一的なルーマン解釈にとって鍵であるはず。

 

2. 『行政学の理論』(Luhmann [1966])という著書

◯ 『目的概念とシステム合理性』(Luhmann [1968] = [1999])の終章のタイトル「経験的研究と規範的研究の分離について」――この「分離」(Trennung)を、より強い「Schisma」という語で表現し、その克服こそを自らの社会科学構想の課題として明示的に設定したのが、『行政学の理論』。

◯ 論じられる内容は『目的概念…』と重複し、また『目的概念…』の方が詳細に論じている論点もあるが、『目的概念…』が目的プログラムという特定対象に限定したモノグラフであるのに対して、『行政学の理論』は、より一般的な、社会学・社会科学構想の概論となっている。

◯ そのため、ルーマンの全体構想の中で、合理性/合理化の占める中核的な意義がきわめて明瞭に論じられている。

 

3. 「行政」という困難

◯ ルーマンの立論上の癖として、まず学界の現状で生じている困難を指摘し、そこから、その困難を生み出している思考前提上の欠陥を剔出し、代替案を示す、という議論が多い。本書もその例。

◯ 本書で「困難」として挙げられるのは、「行政」(Verwaltung)を対象とする社会科学が、統一的な理論を欠き、多様なアプローチの乱立状況にあること。

◯ その原因として指摘されるのが、20世紀の社会科学を支配する「経験的研究と規範的研究の大分裂状態(Schisma)」。なお本書では、「経験的」は「記述的」「説明的」「事実的」とも言い換えられ、「規範的」は「指令的」「合理的」とも言い換えられる。

◯ なぜ両者の分裂が、統一的行政学理論の成立を妨げるのか? それは、「行政」という対象の根幹に、「事実的合理化」(faktische Rationalisierung)という契機があるから。「事実的」は経験的研究の管轄、「合理化」は規範的研究の管轄、と分かれていたのでは、そのような状況の中に、行政学の統一理論が成立する場はない。

◯ 逆に、統一理論が成立するには、「事実的合理化」を扱える理論モデルが必要。それは「大分裂」の克服を伴うはず。

事実的合理化を目指す、したがって経験的・説明的な問題設定と合理的・規範定立的な問題設定の両方を利用しなければならないシステム/環境理論のモデル


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 38])

 

4. ルーマンによる「架橋」(Überbrückung)の試み:経験的研究と規範的研究

◯ (例によって)本書においても、ルーマンの所論は十分明晰とは言えない。そこで、ある程度大胆に図式化してやる必要。

◯ 実は、本書の「架橋」は二つある。一つは、「システム合理性」による、経験的研究と規範的研究のあいだの架橋。もう一つは、「等価機能主義(比較法)」による、研究者と実践者のあいだの架橋(こちらについては本報告では扱わない)。

◯ まずは、システム理論を経験的研究として徹底(パーソンズの分析論的システム理論の否定)。

  → 後の「es gibt Systeme」。

経験的に生じる行為の現実に対する参照を保持するためには、「システム」という言葉は、事実的行為のシステムを指すのでなければならない。つまり、(中略)純粋な概念体系、とりわけ行政学の理論体系であってはならない。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 64])

◯ 次に、システム概念を非「存在論」化(=システムの同一性を、環境からの相対的独立性で定義)することで、「規範性」を対象領域に確保。

行為システム(中略)とは、最高度に複雑で制御不能で多様で激動する環境に対して、相対的な単純性と定常性を保持する、行為の意味連関の同一性である。(中略)[システムの同一性維持の]基礎になるのはシステム構造である。システム構造は一般化した期待でできている。(中略)この意味で、行為システムの構造は必ず、規範的に制度化している。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 65-66])

◯ この意味での「規範性」から、システム理論的な合理化の基準(合理性概念)へ。

近年のシステム理論では、システム/環境関係を中心として、そこからシステム形成の問題性と、システム形成が成功したと言えるための基準、つまり合理化の基準を概念化する道が開けてきている。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 65])

◯ 環境相対的なシステム同一性の概念化から、システム相対的な(理論があらかじめ決めておけない)合理性基準へ。解決不可能な環境の問題を、システム内で解決可能な問題へと単純化=合理化。

システムが合理的であるとは、自らの存続を保障するような形に問題を定式化し、解決することができることをいう。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 92])

◯ 経験的研究/規範的研究の分断を、解決不能な問題/解決可能な問題の区別に応じて、システム理論/決定工学(Systemtheorie/Entscheidungstechnologie)の連携へと読み替え。決定工学には対象システムが採用している決定プログラムのあり方によって、法学(法文解釈学)、経済学(意思決定理論)、コンピュータ論理が挙げられている。

本書が扱っているシステムは、現実世界に存在する行為システムであり、このシステムが問題を解決するというときに意味しているのは、その問題がなくなってしまうということではありえない。(中略)解決可能な問題は問題ではないのである。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 93])

問題が縮小されると、この縮小された問題が、今度はさまざまな決定の計算モデルの始点を提供してくれる。(中略)それらにとっては、問題というのは頭で考えて解決可能なものであり、それゆえ問題というのは未熟者の頭の中に一時的に存在するものにすぎない、というのが前提になる。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 101])

システム理論的な学問と決定工学的な学問、その違いは、この相反する問題概念にこそある(中略)この区別は、学際的な共同作業に対して、記述的な学問と指令的な学問のあいだの「橋渡しできない」対立に較べて、はるかに有意義な前提を与えてくれる。この区別はその対立にとって代わるべきものである。この区別が勧めるのは、システム問題をモデル問題に変換する規則を見つけ、その変換を理解可能な観点のもとにおこうということだ。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 101-102])

◯ システム理論による決定工学(決定モデル)のチェックという非対称関係。

システム理論は、計算モデルが与える「唯一の正解」を、行為の暫定的な基礎として受け入れるのはそのとおりであるが、他方で、自らの「本来の」問題に対する解決としては認めない。本来の問題はあくまでも問題として保持し、それに照らして、特殊な問題解決言語とそれが与える解が本当に適切なものであるのかをチェックするのだ。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 102])

 

5. 「最初の決定」と「事実の規範性」

◯ システムの成立は「決定」による。これは、システムの同一性を、環境からの相対的独立性として非存在論化したことの(つまり複雑性の縮減という作用(Leistung)の結果と捉えたことの)論理的帰結。ところで、ある決定は、それが決定であるがゆえに別の決定可能性があり、それゆえ変更が可能である。では、システムの内部で、そのシステムを成立させた「最初の決定」(erste Entscheidung)を変更することができるか。←原理的にはできる。しかし、実際には無理。

どんな決定も、システム内の個別の決定でしかありえないのであるから、決定に際しては、システムそれ自体は、その問題解決の枠組として前提され、それ自体は問題視されてはならない。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 115])

◯ ということは、システム理論は、特定の対象を研究したり分析したり合理性を判断しているときには、その対象の「最初の決定」に縛られることになる。「システムの先行決定を理論それ自身の前提として受け入れなければならない」(116頁)。「事実(的なもの)の規範性」(Normativität des Faktischen)を尊重しなければならない。

◯ 他方、システム理論それ自身は、特定の「決定」に縛られることはない。それは、システム参照の選択の自由によって保障される。しかし、参照先を上位システムに替えて、下位システムの「最初の決定」を変更する際には、それによって生じる派生問題を考慮しなければならない。

研究対象である行政の問題決定に不満がある場合には、より根本的な問題へと遡っていくことで、その不満を表明することができる。ただしその場合には、それに応じて派生問題の複雑性も増大するので、それを考慮し処理することができなくてはならない。それができてはじめて、理論による実践への貢献は現実的な有効性を得ることになる。それができないかぎりは、行政行為がおこなわれている現実がいかに複雑であるかの理解は得られないまま、理論家が自分のことを実践家よりも賢いと思っているという印象が生まれるだけである。


『行政学の理論』(Luhmann [1966: 117])

 

6. 要約と展望

(1) 「架橋」は、システム/環境理論によって対象世界に「規範」の居場所を与え、存立問題→モデル問題(解決不能問題→解決可能問題)の単純化性能をシステムに設定することで、「規範的研究」として行われている学問活動に、単純化した問題に対する正解を与える「決定工学」としての意義を与え、システム理論が上位からそれをチェックするという非対称関係を設定する、というかたちで試みられた。

(2) 決定工学はモデル問題を扱い、システム理論は存立問題を扱う。「システム合理性」は後者から前者への変換の合理性として定義され、システム理論が決定工学とそれが扱う問題のあり方を評価するための概念としてつくられている。

(3) システム合理性は各システムに相対的に定義されるために、システム理論による評価も、各システムのありかた(最初の決定)に拘束される。他方、システム理論は参照システムを変える自由を行使することで、特定のシステムの拘束からは逃れられる。

(4) 初期ルーマンの仕事を、この「架橋」論でどこまで統一的に整理できるか。後期になると、「架橋」論は明示的な目標としては設定されなくなるが、後期をも含めた統一的再構成は可能か。

(5) 近年の「公共社会学」的関心に対して、初期ルーマンの「架橋」論がどこまで有効か。どこかで破綻するとしたら、それはどこか。どの程度の貢献ができるのか。

 

文献

Luhmann, Niklas, 1966, Theorie der Verwaltungswissenschaft: Bestandsaufnahme und Entwurf, Grote

Luhmann, Niklas, 1999 (1968→1973), Zweckbegriff und Systemrationalität: Über die Funktion von Zwecken in sozialen Systemen, 6th ed., Suhrkamp

Luhmann, Niklas, 2005 (1970), Soziologische Aufklärung 1: Aufsätze zur Theorie sozialer Systeme, 7th ed., VS Verlag

三谷武司,近刊,「機能分析とシステム合理性――公共社会学的観点からのルーマン研究のために」,盛山和夫上野千鶴子武川正吾(編),『グローバル多元社会の公共性――公共社会学の視座I』(仮),東京大学出版会

2010-10-31

おっ、おにいちゃん・・・

f:id:takemita:20101031213113j:image

小学校学級文庫に、担任の先生がもってきた『男一匹ガキ大将』が全巻そろっていて、男子女子もむさぼるように読んだのは、もう20年以上前の話なんですね。まじか・・・

しかし、先生はこんなもん読ませてどうしようというつもりだったのでしょうかw

「ロリコンのヨーコ」における「ロリコン」とは?

f:id:takemita:20101031033819j:image

これは手塚治虫の『七色いんこ』の一場面です。七色いんこ(左)は泥棒なので、刑事の千里万里子さん(中央)いつもつけまわされています。というか、この刑事さんはいんこが好きなんですね。さて上のシーンで、刑事さんは、ホステスになっていた元の子分(右)から、高校時代スケバンだったことをばらされてしまいます。

で、その子分の名前が、「ロリコンのヨーコ」!

かしここでいう「ロリコン」が、成熟した女性ではなく未成熟な少女を対象とする異常性欲、といった現在通常の意味であるようには思えません。そんなの、不良の名乗る称号じゃないですよね。では、いったいこの「ロリコン」の語用にはどんなニュアンスがあるのか、そのへんが知りたくて夜も寝られないのです。

さて、夜も寝られないのです、というのは嘘ですが、もしおわかりになる方がいらっしゃたら教えていただけると幸いです。

七色いんこ(3) (手塚治虫漫画全集)

七色いんこ(3) (手塚治虫漫画全集)

2010年10月30日のツイート

2010-10-30

2010年10月29日のツイート

2010-10-28

人文総合演習B 第4回 福井健策『著作権の世紀』

著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A)

著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A)

何かの「権利」を保護するかどうか、またどのように保護するか、について議論するときは、少なくとも次の二つを区別しておく必要があります。つまり、その権利自体が大切だから保護するのか、それとも、別の大切なものを守るのにその権利を保護することが有効だから保護するのか、の二つの立場です。

その権利自体が大切だ、というふうに考えるのであれば、いかにその権利が大切なものであるのかを、議論相手の道徳的直観に訴えるように論じるのが基本になるでしょう。生きる権利とかそうですよね。

他方で、他に大切なものがあって、それを保護したり促進するのに、ある種の人にある種の権利を付与することが有効である、というふうに考えるのであれば、議論をいくつかの段階に分ける必要があります。議論は目的/手段図式で構成され、権利の保護は、何らかの目的を達成するための手段、という位置づけになります。

そこで、論点としては、権利を保護することによって達成されるべき目的とは何か、なぜそれが目的として設定されるべきなのか、どういうことが起こったらその目的が達成されたと言えるのか、その目的以外の大切なもの(他の権利とか)との兼ね合いをどうするか、その目的を達成するのにその権利付与のありかたが手段として有効かどうか、もっと有効な手段はないのか、権利を定めた時点からの時代変化によって、目的設定の観念に見直しをかける必要はないか、といったことが出てくるでしょう。

さて、こういう原理的な議論をするときは、既存の法律に縛られる必要はありませんが、とりあえず著作権法をみると、その目的は「文化の発展に寄与すること」と書いてあり、また報告者・コメンテータもこの路線で考えていたように思います。

となると、「文化」とはなんなのか、それが「発展」するとはどういうことなのか、なぜ「文化の発展」が大切なのか、「文化の発展」に優るとも劣らないくらい大切な他の権利や目的はないのか、あったらその兼ね合いをどうするのか、といったことを考える必要が出てきます。

また、著作者に著作物の複製や公衆送信の権利を「専有」させることが、達成すべき「文化の発展」とどのような筋道リンクすることになるのか、「専有」させないことによって発展する文化というのもあるのではないか(二次創作の話とかそうですよね)、となると再び文化論に戻って、発展すべき文化と発展すべきとまではいえない文化のあいだに区別があるのかないのか、みたいな感じで、各論点について考えていくことが、すでに考えた論点についての再考を迫るといったループも生じてきますね。

レジュメおよび演習での議論は、これら(本来は論理的に相互に結びついている)様々な論点が、ある面では渾然一体となっていたり、ある面では表面的にのみ扱われていたり、といった事情のために、どうしても隔靴掻痒感が否めませんでした。これは、まあ、初年度としては当たり前のことですし、その感覚を体験してもらうことが演習の目的でもあります。うまくいかなさの体験がなければ、「形式」を学んだときの利得も少ないものです。

ああ、またしても長くなりすぎているのでこのくらいに。

 

以下、レスポンスカードより。

続きを読む

2010年10月27日のツイート

2010年10月28日


2010-10-27

2010年10月26日のツイート

2010年10月27日

2010-10-26

2010年10月25日のツイート

2010-10-25

2010年10月24日のツイート

2010-10-24

2010年10月23日のツイート

Connection: close