(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

はてなダイアリーからの避難所

ディベートはキモくても、結構意義がありますよ

生理的嫌悪がある。これはよくわかります。しかし、こちらで挙げられている理由こそが、本当はディベートをやる意義なんですよね。

1.ものごとを「二項対立」で捉えるのは、かなり貧しい思考ではないか。

そのとおりです。貧しい思考です。世の中にはいろんな価値観がある。白と黒だけじゃない。その間にはいろいろな色がある。中には見る人によって白であったり、あるいは黒であるような、幅のある色もある。この世の中は二項対立で必ずしもできていない。
しかしそれをディベートではやる。是側・非側に分かれてやる。そういうあえて極端な立場になることで、極端な意見はどちらも正しくないということや、どんな意見にも理があり、そんな意見にも非があると。そういうことを学べるのですよ。
大体においてディベートの場合、どっちかが一方的に有利なテーマはやりません。理由は簡単で、賛成・反対、一方が強ければディベートをやる意味がないのですよ。立場を決めた瞬間に勝敗が決まるから。いわゆる「ジャンケンディベート」。
ということは、基本的に伯仲する論点でするものなんですよ、ディベートって。どっちが有利かわからない。そういうものでないと成り立たない。で、そういうものでディベートをすると、一方の意見がすべて正しくて、一方の意見が全部間違いなんてことはありえない。両者の意見にメリットとデメリットが出る。となると、極端な二項対立の図式でディベートをするものの、最終的には両方とも正しくないし、間違ってもいないという凡庸な答えにたどりつくものなのです。
二項対立で捉えることで、あらゆる考え方に理を認め、同時に非の存在を知る。これは貧しい思考ではなくて、むしろ豊かな思考を身につける技法じゃないでしょうか。

2.議論において、「勝敗」を前提にするところが生理的に受け付けない

ええ、わかりますよ。勝ち負けを決めるのはどうかと。その心理はわかります。ただ、勝敗を決めることで改善ができるんです。反省点が生まれるんです。

議論で、勝ち負けなんてどうでもいい、勉強になるかどうかが重要

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080729/1217271899

その通りなんですが、勝ち負けという意欲付け、いわゆるインセンティブ効果によって、より勉強になる面もあります。勝とうとすることで、より効果的な方法を導き出そうとするもんですしね。
ディベートで勝つことに意味はないのですが、勝とうとすることに意味がある。勝とうとする過程で勉強になるのだと思います。

3.そもそもオーディエンスに勝敗など決められてたまるか

ま、ここはなかなか難しいのですが、見る人に勝敗を決めさせることで、ディベートを実際にする人だけではなく、見る人への教育効果を高めようという狙いがあります。
というのも、勝敗を決めるというのは難しい。大変難しい。それは優劣を判断しなくてはならないからで、優劣の基準がないとそれはできない。ディベートをする人以上の冷静な視点がないとできないことなのです。
もちろん中にはそんなマジメな人ばかりじゃありませんし、そういう人に「勝敗など決められてたまるか」という気持ちはわかります。

オーディエンスが中立だとだれが担保するの?

http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080729/1217271899

こういう問題も当然起こります。
でも、別に中立でなくてもいいのです。中立じゃないとしても、いい議論をした方が勝つであろう。また、それを繰り返すことで、それを見る目が養われるであろう。ディベートをした人に「何故負けたのか」を問うことで、ディベートのやり方もうまくなるでしょうし、ディベートを見た人に「何故負けにしたのか」を問うことで、その人のディベート観が問われることになります。「正しいとはなにか?」という哲学的な思考を身につけるチャンスでもあります。教育現場でのディベートはこういう視点でいいんだと思います。

結局は指導者の問題

とはいえ、ここまでの話は、そういう指導ができる人間がいることを前提にしています。ディベートをある程度わかっている人間がいれば、指導する相手に二項対立の構図をあえてとることで、二項対立の問題点を気付かせたり、勝利を追及する過程での習熟や、ディベートを見る側までも能力を養う。そういう教育効果が期待できます。しかしながら、こういうところをわかっていない人間が教えないと、id:terracaoさんの指摘するキモさが現実化し、キモいどころかもろ刃の剣となります。デメリットになります。

二項対立を正しいと思う

白か黒かの極端な考え方が身につく可能性は否定できません。どちらかで割り切れる。そういう発想になる可能性があります。

他人の考え方を認められなくなる

自分以外の考え方は全部敵。そういう発想に凝り固まるやもしれません。

相手を論破しようと攻撃的になる

ディベートは必ずしも相手を論破する技術を身につけるためにするのではないのですが、勝つ喜びに慣れると相手を論破することに快感を感じ、それをディベート以外の一般的な場面に持ち出してきます。
悪い指導者にあたると、こういう問題点がどうしても出てきます。但し、それを指導監督し、いい方向に持っていくのがまさに指導者の役割で、そういう人間がいるならば問題はありませんし、ディベート本来の教育効果が発揮されると思います。なにもディベートはしゃべる技能だけを身につけるわけではなくて、第三者に対して論証を行うことで、あるものを正しいと言う為にはどうするかという手法を学んだり、統計の使い方、データの出し方を身につけたり、議論の矛盾や論理の飛躍に気付く目を養う。あるいは質問に答えるために、相手の質問を理解しようとする力、聞く力も身につきます。イメージ的には確かにキモいですけどね。
ま、競技ディベートの場合、大学とか名誉とかいろんな余計なものを背負うことになるので、どうしても勝利至上主義になりがちで、それがまたキモさの原因になったりするのですけど。……一般的な世界ではないよなあ確かに。
とはいえ、ディベート教育にはいろいろな効果があると思ったので、ちょっと書いてみました。やってみるとおもしろいもんですよ。自分はなんだかんだで干支ひとまわりやってますが、まだまだ学び足りない。奥深いっす。なかなかに。