(旧姓)タケルンバ卿日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2008-09-21

「オチ」で考える現代性

先日の西伊豆合宿に同行したとき、後輩の女の子が何気なくこう言った。

文学にはオチがない」

「昔の小説とかって難しいよねー」「名作って小学校とか中学校のときに読まされたよねー」という流れで出てきた一言。おお、そう言われるとそうだなあ。確かにそうだ。そういうところあるよ。

と、同時に現代を理解する話であるなあと思った。

オチを求める

小説映画ドラマお笑い、そして日常会話に至るまで、最近はオチを求める傾向があるように思うのです。区切りの文化。区切りをつけて次へ行く。そういう段取りが好まれる気がするのです。

逆にオチがないもの、区切りがないものは好まれない。「オチは?」という問いが代表例だけど、オチがないと、それこそ落ち着かない。明確な区切りが欲しい。結末を知りたい。

答えが知りたい

そしてそれは答えを求める心理だと思うのですな。答えが欲しい。過程もさることながら、結果を知りたい。話が行き着く終末を知りたい。あるひとつの物語に区切りをつけるためには答えを知る。それではじめて物語が終わる。ひとつの区切りがつく。

そしてこれまた逆を言えば、区切りがない限り物語は終わらない。終わった気にはならない。小説で言えばページが終わるし、映画で言えば次のシーンはない。でも終わってない。終わったと思えない。そこに不満がある。納得ができない。だから「オチは?」という問いになる。「これで終わりなの?」と。「終わったつもりなの?」と。

ワタシ聞く人、アナタ話す人

こう考えて思ったのは、ある区切りに対し完全な受け手になっているのだなあと。ある話が始まる。このとき、オチがついて区切りがつくまでは、話をしているヤツのターン。ワタシ聞く人、アナタ話す人。オチをつけるのはアナタ。オチがついた話を聞くのがワタシ。

小説映画ドラマお笑いすべてそう。ワタシ受け手。出し手はアナタ。楽しませるのがアナタで、ワタシは楽しむ人。なのでちゃんと落としてよ。きちんと落としてよ。落として終わりにしてよ。

悪く言えば他人事。話に参加してない。また小説映画なんかの関わりで言えば、時に読解力不足にも見える。ただ、それは誤解で、見方を変えると、それは話を一歩引いて見えるようになったということ。人にターンを明け渡すことができるようになったということ。また、客観視できているということであるかも知れない。物語に自分を重ねない。自分の主観を加えず、与えられたものをまず受け止める。そういう「誰のターンか?」というところにも区切りの意識があるのかも。

曖昧なオチでよかった

昔の物語にはオチがいらなかったわけです。「浦島太郎」みたいに「玉手箱をあけたらボンヨヨーン、煙が出てきておじいちゃんになっちゃいました」みたいな、冷静に考えるとよくわからんオチでもアリだったわけです。

そしてオチが曖昧であればあるほど、好都合だった面すらありました。何故なら、それは最終的には受け手が自分に問いかけ、自分で探し出すものだから。その物語を自分に置き換え、その中で発見するもの。自分を物語投影させることで答えを得る。受け手が自分自身を物語に登場させる必要があった。その中で明確なオチがない方が、受け手自由度は増すので、かえって良かったのです。想像できる余地が大きいので。「浦島太郎」だって、よくわからんオチだから、いろいろ考えられる。「これ、どんな意味?」と。わかったら考える必要ないもんな。

物語との関係性が変わった

しかし今は答えは出し手が発信するもので、受け手はそれを受信する側。関係性としては一方通行。出す人・受ける人。役割が明確なのですよ。物語に対して自分は他人。物語に自分を投影しない。物語世界を読んだり見たり聞いたりはするけれど、その完成された世界を受け取る。自分の主観は混ぜない。

そのために、物語が最終的にもたらす答えとの関係性も変わってきます。自分を投影させた場合、自分自身の考えである以上、その過程で得られる答えは常に正しい。自分の考えである以上、自分の中で正しいのは当たり前ですな。

一方、自分を投影させず、一方的な受け手である場合、その答えが正しいかどうかまで含めて受け手が判断できます。オチまで聞いて「それっておかしくね?」と言えるわけですよ。最後まで相手にゲタを預け、最終的な判断は自分でくだす。こういう関係性をより持てるわけですな。

Googleブログとの和合性

で、こういう関係性って、Googleブログなんかの関係と似ている気がしますよ。気になる単語で検索する。ブログ記事というあるオチのついた文章の区切りがいくつも引っかかる。引っかかった記事を見る。数ある記事の中から、自分が正しいと思う記事を選別する。こういう流れに近い。

また、こうした流れはより多くの情報を処理するには不可欠なんですよね。いちいち自分を投影して処理してちゃキリがない。面倒なんですよ、ズバリ言って。オチが明確になっているものを読んで、そのオチがいいと判断できたものをクリップする。その方が効率いいし、より多くの情報を処理できるんですよ。自分を投影する手間が省けるし、投影して何も得られないというそれこそヒドイオチを回避できますので。

オチがないのを楽しみたい

けれども、昭和人間としてはそれじゃつまらない面もあるような。情報処理の観点で言えば、自分を投影しない方がてっとり早いし、効率的なんだけど、非効率でもいい分野もあると思うんだよね。日常のおしゃべりなんか正にそう。何かを常に得ようとガツガツしてたら疲れる。何でもオチを求めるのってどうかなあと。

物語なんかもそうだよね。小説で言えば行間、映画なんかで言えば風景。こういうのってときにムダなんだけど、ムダな行間、ムダな風景から生み出されるものもあるわけで。非効率なオチのなさから生まれる楽しさもあると思うので、オチがないのもいいと思うんだよね。

ダラダラと雑文を垂れ流す楽しさだってあるだろうし、それを読む楽しさもある。区切りがないゆるさを楽しむ贅沢だって許されてもいい。非効率を楽しむ余裕もあっていい。

というわけで、この記事もこんな感じでオチなしで終わりたいと思います。答えはそれぞれ考えるように。もっとも、考えなくてもいいんだけどね。はい、オチなし!