(旧姓)タケルンバ卿日記避難所

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言葉よりも背景を知れ

今日の「とくダネ!」で渋谷語辞典の特集やってた。

渋谷語事典 2008 (TWJ books)

渋谷語事典 2008 (TWJ books)

へー、こんなもんがあるのね。いろいろなものがあるもんだ。
ま、実際自分も20歳前後の大学生とはよく話すので、こういう渋谷語があるのは知ってる。そういうのを使われることもあるし、???ってなることもある。
でも、それと「辞典読んで学ぶ」は違う気がしてる。

単語を覚えてもしょうがない

この辞典に収録されている単語を覚えてもしょうがないし、その意味を把握してもしょうがない。こう思っているのですよ。その理由は簡単でして。

渋谷語は常に変化しているから

この辞典は、編纂された当時の言葉であって、今を反映したものじゃない。言葉は常に変化しております。今、まさに経過している時のなかで、ちょっとした拍子に言葉が生まれ、広まり流行していく。その一方で使われなくなる言葉が出る。言葉の栄枯盛衰。進化と退化が同時に行われている。

渋谷語に互換性はない

それに、その渋谷語というのは実態がないのですよ。あちこちで若い子が使っている言葉の総称と考えればいいと思うけど、グループ間の渋谷語に互換性があるかというと、実はない。
あるグループで生まれた言葉は、そのグループでのみ通用する言葉。ひとたびヨソのグループに行けば、自分たちの言葉は通用しないし、逆に聞いたことがない言葉が出てくる。それも渋谷語の実態。

専門用語に近い存在

そういう意味で、専門用語に近い言葉。約束事を知らないとわからない。2ch用語とも近いね。「日本語でおk」とかだって、ネットを使わない人にとっては意味がわからない。「爆発しろ!」だって真に受けるでしょ。「死ねばいいのに」とかもね。
こういう性格があるので、渋谷語辞典を言葉の意味を知るために読むのはどうも。丸暗記して知識化する話じゃない。知識化してもすぐ変わっちゃうし、通用する場所と通用しない場所の見極めがまた困難。というわけなんで、これは言葉がつくられた背景を知るための本として使うのが吉かな?と。

言葉はつくられる

若い人ってのはとにかく言葉をつくります。新しい言葉をつくります。略す。縮める。くっつける。足す。語感だけ。リズム感だけ。手法はいろいろありますが、気分で、勢いで、何となくでつくります。

言葉をつくるのはおもしろい

しかも、それを楽しんでやっています。おもしろがってやっています。これまでにあった言葉をいじって新しいものをつくるよろこび。大げさに言えばそういうことですね。

意味合いよりも上辺の楽しさ

楽しんでやっているので、深いところはどうでもいいのです。細かいところはどうでもいいのです。本来の意味合いなんて関係なし。極端に言えば、言葉の響きさえ良ければおk。言葉をただの音としてとらえる面すらある。

語彙力がないからこその遊び

大人はこれをバカにする。「言葉をもてあそびおって」みたいな。でもそれは実に狭いとらえ方で、大きく考えれば、これが彼ら流の言葉のとらえ方。難しい言葉はわからない。意味わかんない。バリエーションも少ない。しかし、ある事象を表現する言葉を持っておきたい。レパートリーを増やしたい。外へ表現したい、伝えたいという気持ちはある。それが渋谷語につながってるのですよ。「難しいから、とりあえず略しちゃえ」「これって、こういう意味で良くね?」みたいな。彼ら流の理解の方法論。

言葉の共有による一体感

あと、言葉を共有することで、グループとしての一体感とか、つながりを感じる面があるんだな。1対1の友だち関係じゃなくて、グループとしての意識。ある言葉の意味がわかる仲間がいる。その仲間にしかわからない言葉がある。この連帯感って意外とある。

異文化コミュニケーション?

こういういろいろな背景があるわけです。大人はここを学ぶべき。杓子定規的に知識を得ても、世代が変われば言葉も変わる。そのときに自分が変わらなければ、どれだけ新しい知識を仕入れていても、常に時代遅れ。時代が変わり続ける以上は、変わり続けない人は常に遅れる。
ならば変化することを前提に、ここに挙げた教訓を念頭において、場面場面に合わせた方がいい。目の前の人間が話す言葉を理解する。その人間たちと接するときのルールと理解する。異文化コミュニケーションのコツと一緒だよね。海外に行ったら海外の言葉を話せ。「郷に入りては郷に従え」というだけのこと。
それに「それって、どんな意味なの?」って相手の使う言葉を尋ね、理解しようとする姿勢も大事でありまして。そういう繰り返しから相互理解は深まるんだよね。過程が有益なわけで、そこをショートカットして、辞典で得た知識をひけらかして「これって、こういう意味なんだろ」とやっても理解は深まらないのであります。コミュニケーションってそういうものなのです。手間をかけ、時間をかけるから、その手間と時間分だけ相互の理解が深まるのですよ。言葉への理解だけ進んでも仕方ないのです。
杓子定規的な言葉の把握じゃなく、その背景の把握こそが肝要であると思いますな。以上、いまだに大学生とはタメ口で陽気に話して飲めるタケルンバでした。