孫堅の歿年

標題見て辿り着いた方に注意!
正史ネタではありません(笑)

特に理由もなく柴錬三国志なんぞを読み返しているのですが、そこで気になった記述あり。
まず、「巨星、墜つ」の章から引用。

孫堅は、頭蓋をみじんに砕かれ、脳漿を八方に散らして、仆れた。
初平三年辛未十一月七日夜。後年三十七歳であった。
柴田錬三郎『英雄三国志 一 義軍立つ』[集英社文庫、2004.2]p.404)

続いて「董卓討たる」の章から。

董卓は眼球がとび出さんばかりにひき剥いて、何やら絶叫したが、言葉の代りに、血汐を、どっと噴かせて、のけぞった。
董卓行年五十四歳。
初平三年壬申四月二十二日であった。
(同上、pp.455-6)

干支の問題はひとまず置いておいて、この記述をそのまま見るのならば、孫堅が死んだのは初平三年の十一月、董卓が死んだのは同年四月だから、董卓の方が早いことになる。しかし、物語上は孫堅の死の方が先に描かれる。
別に物語が時間通りに進まなければならない謂われはないのだが、ここで時間を遡る理由もあまりない。
ちなみに、横山三国志も同じで、孫堅の死が先に描かれるけど、日付は董卓の方が先。しかも、横山三国志の場合、董卓孫堅の死を知っていることになっているので、なおさら拙い(たぶん原作である吉川三国志も同じだろう。裏取ってないけど)。
んでは、何故、こんな不自然な記述が出てくるのか。
実は、そんな勿体をつける話ではなくて、みんな根拠としてるテキストに従っているだけではある。
すなわち、『通俗三国志』巻之三「孫堅浮江戦劉表」には、

此に至つて忽ち敵の行衛を見失ひ、馬を打つて、真平地に上らんとする時、大石を投下すること蝗の飛が如く、四方の林の陰より、矢を射ること雨よりも繁ければ、憐むべし孫堅、大石に打たれて頭を微塵に砕かれ、身に立つ矢は簑の毛の如く、三十騎の兵と、みな一処にて滅びにける、その年三十七歳、時に初平三年辛未十一月七日なり。(『通俗二十一史 三国志(上)』[早稲田大学出版部、1911.5]pp.70-71)

とあり、同じく巻之三「王允定計誅董卓」には、

呂布後より跳り出で、勅命を受けて逆賊を討と高らかに呼はり、戟を取つて董卓が喉を突洞しければ、李粛その首を斬て指挙たり、呂布右の手に戟を持ち、左の手に詔書を開き、大音声を挙げて、天子の詔に依て逆臣董卓を誅し畢れり、其餘は罪なし、悉く宥し玉ふと呼はりければ、内外の将吏、同音に万歳を唱えて拝伏す、董卓この時年五十四歳、漢の初平三年壬申四月二十二日なり、(同上、p.83)

と見える。
細かい継承関係は置いといて、柴錬三国志にしろ横山三国志、吉川三国志にしろ、『通俗三国志』に従ったゆえに、孫堅の死を語った後、時間を遡って董卓の死を語っているわけである。
更に言えば、『通俗三国志』は『三国志演義』の翻訳なのだから、この現象は『三国志演義』から存在しているはず。
では、何故こんな奇妙なことになったのか。(この項続く)

崔州平の父

ボチボチ再開します。

何となく気になったのでメモ。

諸葛亮の数少ない友人(笑)として、『三国志』蜀書・諸葛亮伝には崔州平が登場します。諸葛亮伝の本文では、博陵の出身であることしか判りませんが、その裴註には、

按崔氏譜。州平。太尉烈子。均之弟也。

とあり、崔州平の父親が崔烈なる人物で、三公である太尉を務めていたことが判ります。
魏書・武帝紀裴註所引『続漢書』に拠れば、この崔烈は曹操の父、曹嵩の前の太尉であったことが判って興味深いのですが、さらに興味深いのが魏書・董卓伝裴註が引く『傅子』。

靈帝時牓門賣官。於是太尉段熲・司徒崔烈・太尉樊陵・司空張溫之徒。皆入錢上千萬下五百萬以買三公。熲數征伐有大功。烈有北州重名。溫有傑才。陵能偶時。皆一時顯士。猶以貨取位。而況于劉囂・唐珍・張邕之黨乎。

崔烈が五百萬から千萬という大金で三公の位を買ったことが判ります(まァ、政治的手腕はあったようですが)。つまり、曹操の父である曹嵩なんかと同じですな。というか、崔烈の前の太尉が張温、崔烈の後の太尉が曹嵩なので、この時期の太尉はみんな位をカネで買った人間ばかりということに……

さて、もう一つ興味深いこと。
三国志』において、崔烈の名は、魏書の武帝紀(1例)および董卓伝(3例)、蜀書・諸葛亮伝(1例)確認できますが、いずれも裴註であり、陳寿の本文には一度も出てきません。つまり、陳寿の本文だけ見てると、崔州平というのは、出自のよく判らない人物になってしまいます(諸葛亮伝の他には、蜀書・董和伝中に記される諸葛亮の述懐で名が見えるのみ)。となると、陳寿としては、諸葛亮を認めていた崔州平の父が位をカネで買ったことに触れたくなかったのかな、という邪推もできそうです。

「睡眠」の出典

昨日参加した研究会で興味深い話は聞いたのでメモ。

「睡眠」は、元来、仏教語であり、今日広く使われる意味とは異なる。
例えば、『文選』巻十一の孫綽「遊天台山賦」の「発五蓋之遊蒙」という句の李善註に「大智度論曰、五蓋貪欲・瞋恚・睡眠・調戯・疑悔」と見える。「五蓋」は仏道修行の妨げとなる5つの障碍。ここでの「睡眠」は仏教辞典などに拠ると、「心が不活発で体の動かないこと」を言うらしい。

ちなみに「睡」は、「坐して寝る。居眠り」が本来の字義、「眠」は所謂「ねむる」。

仏教語ゆえ、例えば詩には「睡眠」の語はなかなか現れない。唐詩には2例のみ。時代が下がって宋に至り、ようやく頻出するようになる。
唐詩の例として、最も古いのは杜甫の「茅屋為秋風所破歌(茅屋秋風の破る所と為る歌)」。七言24句の長詩だが、その第17・18句に云う。

自経喪乱少睡眠   喪乱を経し自り睡眠少なし
長夜霑湿何由徹   長夜 霑湿 何に由りてか徹せん

この例では確かに現在の「睡眠」に近いように見える。また、詩に限らずとも、仏教語から脱した「睡眠」の例としては、最も早い可能性が高いとの由。

ちなみに唐詩のもう一例は、晩唐の李咸用「謝僧寄茶」の冒頭二句。

空門少年初志堅   空門 少年 初志 堅く
摘芳為薬除睡眠   芳を摘みて薬と為し睡眠を除く

こちらは詩題からも推察される通り、仏教語の匂いが濃い。