「空気を読め」と「スルー力」の同調圧力

  
 スルー力とは、自らが身に付けたら便利な能力に過ぎないのであって、他者に安易に強要してはいけないものではないかと思う。
  
 今話題の「スルー力」というのは、完全に身に着けてしまったら、ただの「他人の話を聞かない奴」であって、使われている「スルー力」の語彙のニュアンス的な意味としては「大事なことには興味を持ち、不要なものに対しては気に止めずに流す能力」ということになります。
 この定義による「スルー力」は必要かどうかと問うことは、あまり意味がない。というのも、最初から「必要なものと不必要なものをフィルタリングする能力」という絶対的価値観が付帯されているからだ。そりゃ有った方が良いに決まっている。
 で、そのフィルタリング能力があった上で「不要なものに対しては気に止めずに流す」という能力も、有ったほうが有益であるわけだけれども、精神衛生上の問題として「気に止めず」が可能かどうか。気に病みながらスルーしているぐらいだったら、言及した方が余程マシなんじゃないか。
  
 「奢られ慣れていない女性」の話のときに、奢られるということに対して「気にしなきゃいいじゃん」という意見があったりするわけだが、問題はどうしたら「気にせずにいられるのか」という、スタート地点から一歩も動いていない、別の言い方で同じ問題が横たわっている。
 それに対してsho_taさんは「女子力をあげてください」と言うわけだが、それだって別の言い方で同じ問題の繰り返しです。どうやったら女子力をあげられるのかといえば「気にせずに奢られ慣れる」しかないわけで。
  
 例えば、友達から合コンに誘われて、合コンはあまり好きではないけれど付き合いで参加した女性がいます。それなりに楽しく過ごしていたんだけれども、途中で王様ゲームが始まってしまった。場の雰囲気を壊すのが嫌で途中まで参加していたけれど、だんだんと激しくなってきて王様の命令に「キス」とかが入ってきました。
 そこで女性が抜けたいと言い出すと、仕切っていた男がキレました。「俺がせっかく盛り上げてるのにシラケさせるなよ」 「キスぐらいで場の空気を壊すなよ。空気を読め」 「だったら最初から合コンに来るなよ」 しっかり場の空気を壊すようなキレ具合です。
 女性は別に「空気が読めない」のではなくて、空気を読んだ上で、その場の空気を壊してでも、キスをしたくないという選択をしたわけです。
 「合コンとは最初から王様ゲームでキスさせられる覚悟が必要なものなのか?」とか「お前こそ空気を壊してるじゃん」という突っ込みどころは満載なのですが、その男は「和田さんだよ」みたいなもので、仕切り役として絶対的な立場にあったため、また友達への遠慮のために帰ることも出来ず、罵りの言葉を受け続け、針の筵のような時間を過ごしてきました。
 その場においては「キスするのが嫌だな、と思うぐらいはスルーしてしちゃえよ」という「空気読め」の同調圧力が発生していたわけです。
 これについて「空気を読め」とか「スルー力が足りない」とか、私は思わないですし、これを読んでいる人の多くは思わないでしょう。ただ現場では同調圧力が凄くて居た堪れないわけですわ。
  
 この女性に「空気を読め」とか「スルー力が足りない」とか「女子力をあげてください」と言ってしまう場合、それはもう完全に全体主義的というか、個々の信条は完全に塗り潰されるほどの同調圧力であるわけです。同調圧力は極めて暴力的なもので、凄まじい暴力として働きます。
 他者にとっては取るに足らないくだらない事柄であっても、個人にとっては心の拠り所であったり親の形見である可能性だってあるわけで、同調圧力をかけるならば、その暴力性に自覚的であることが望ましいのに、あまりに安易に無自覚にされすぎているのではなかろうか。自覚しながらやるべしです。
  
 日本は、他国に比べて同調圧力が強いと言われています。これは他国が「神の前において」という行動規範が働くのに対して、日本では「世間様に申し訳がない」という規範であるからだと、日系ユダヤ人のイザヤ・ベンダさんが言っています。で、その『世間』とは何かというと、それが同調圧力であるわけです。
 「世間」というのは、日本にとってモラルの拠り所として有益であり必要であるのでしょう。その暴力性は、すべからくもう少し意識しながら為される必要が有ると思われます。そうすれば圧力をかける際に、多少は用心深くなり、「女子力をあげてください」などと安易に言わなくなるのではないかと思うのです。