お前らは間接的な人殺しだ

  
 このての話はしたくないんですが、id:teraccaoさんのところでメガネのオッサンを支持してしまった手前、一般受けをしなさそうな話を。
  
 女教師ブログ 「人殺し」扱いされるのがそんなに嫌ですか。
 uumin3の日記 詐術2
  
 例えば、食肉業者の人は牛や豚や鶏を殺します。食肉業者とは、牛殺しであり、豚殺しであり、鶏殺しです。これは端的な「事実」です。
 同じく漁師は魚殺しであり、ウィリーは熊殺しであり、teraccaoは後家殺しです。これも端的な「事実」です。
 それだけではなく、医学者や科学者も、血清においても動物に病原菌を感染させたり、医学用や薬学用や生物学用に動物実験をやったり、人類のためにいくらでも動物を殺しています。
 あるいは、死刑執行人は人殺しであり、軍隊にいるものは人殺しの練習をしている。これは端的に「事実」ですね。
  
 最高裁で死刑判決を下す裁判長は、間接的に人殺しであると言えるでしょう。
 ではかたち上、その社会制度を支持している私たちだって、間接的に人殺しであるとも言えるでしょう。
 間接的に人殺しを、あるいは動物殺しをお願いしている立場の私たちが、どの面下げて「実行してくれている人」に対して非難できるのか。もちろん私はteraccaoさん以外は非難する気はありません。
 食肉業者や漁師や死刑執行人や軍人と同じように、私たちも人殺しや牛殺しや豚殺しや鶏殺しや魚殺しであるという事実を認めるべきでしょう。
 私は、他人に殺生をやらせておきながら、自らを人殺しであることを認めない、認めたくないというのは、卑怯な振る舞いであると考えます。
  
 9.11の同時多発飛行機テロが起きたとき、「無辜の市民」「罪の無い一般市民をまきぞえに」という言い方がされました。
 アルカイーダが米国に報復する為にアメリカを攻撃する。
 国民が主権者である民主政治制を布く国家であるなら、当然主権者は全ての国民であるべきだし、その主権者に対して報復することのどこか「まきぞえ」で、どこが「卑怯」なのか。
 国民主権を標榜する国に「罪のない一般市民」なんて存在する訳がないんですね。
 主権者が国民でなく国王や公主にあり、身分制度により「役割」が分業制になっている社会なら、「無辜の」民衆は存在するのですが。まぁその場合にも、国王に叛乱せずに従った責任は議論の余地はありますけど。
 資本主義国家の民主主義国家の成員として、主権者として、抑圧され搾取されあるいは殺される者たちのリアクションに対して、一方的な「被害者面」するというのは、権力者として恥ずかしくないのか、と思います。
 あんな国のあんな戦争を支持した以上は、日本国という「民主主義国家」の主権者としては、無関係とは言えなくなってしまったわけですよ。
 私は無関係であり、私は人殺しにも一切の責任がないというのであれば、それはもう「民主主義者」を名乗ることは出来ないし「民主主義者」をやめるべきです。
 民主主義者が己を主権者として規定し、そう振舞うのであれば、間違ってもあのテロを「無辜の市民に対する卑怯な振るまい」などと言ってはいけないのです。傲然と顔を上げて、己の責としてそれを受け入れるなり、責務として報復するなりするしかない。
  
 世界を覆っている資本主義イデオロギーにより、私たちはインターネットに繋ぎ、くだらない娯楽を享受できています。美味い焼肉を食べて、フランス料理を食べて、デザートにIceBoxを食べています。
 そこには世界資本主義というシステムのおかげで、先進国では非常に恵まれた経済環境にあり、その一方では後進国にて構造的な搾取によって飢餓で死んでいったりしている。
 私が日本の中産階級に生まれる権利があり、アフリカで餓死する子供は餓死するべくして餓死したとは、私は思いません。おそらくは運の差でしょう。もっと富豪のボンボンに生まれたかった。
 しかし、私が享受している無駄な文化的娯楽や美食は、後進国の餓死という人殺しの上に成り立っているものであり、その富を享受する以上は、私は人殺しに加担しているという事実を認めるべきでしょう。
  
 uumin3さん
 私は彼らに、食べなくても死にはしない200円のお菓子のために、私の快楽のために、悪いが餓え死んでくれと思っています。
 そこに私は何の権利も主張する気はありません。私のエゴに過ぎない話です。ロッテガーナチョコレートや森永ダースのホワイトが食べたいというだけの話です。
 自分は美味いものを食べたいけれども、(間接的にであれ)人殺しであることを認めたくないって、それはあまりにもムシがよすぎない?
 自分は焼肉を食べたいけれども、(間接的にであれ)牛殺しであることを認めたくないって、それはあまりにもムシがよすぎない?
 事実は事実として認めればいい話でしょ。
 いたるところでいろんな理由でいろんなものを殺して生きているんですよ。人も動物も。
  
 それをなんか「責められている」と思ってしまうナイーブな人間がいるからといって、その「事実の指摘」をするな、というのは無茶な話であって、「事実の指摘」はドンドンすればいい。
 例えば「私は間接的にも牛殺しには加担していない。ただ牛を殺す人もいて、私の前にその牛肉があるから美味しくいただくだけで、それで私に牛を殺したと責めるのは違う」なんていう人がいるとしたら、積極的に「事実を指摘」してやればいいぐらいに思うけどね。
 事実の提示を前にして「責められている」と感じてしまうナイーブな人間が「傷つくかもしれない」とか「変な宗教に騙されるかもしれない」なんてのは、「事実」とは直接関係のない話です。
 ナイーブな人間の感情を慮って「間接的にも人殺しとは言えない」というのは、「事実」ではなくて、単なる傷つきたくない、傷つけたくないための配慮に過ぎません。
 言われて傷つけたくない人間の背後には、実際に餓えて死んでいる人間がいる、というのが、この世の現実であるにもかかわらず。
  
 これだけ文化的に享受の思うがままにしておきながら、間接的にさえ人殺しであることを認めたくなく、自らだけ身綺麗になろうとするナイーブな人間を、そこまで甘やかす必要が全く感じられないんですけど。なんでそこまで過保護に?
 「責められている」と感じるナイーブな人間が、その責任をどのような取り方をするのかは、その後の問題であって、後で考えればいいことではないですか? 餓えるのも居直るのも祈るのも謝るのも、あるいは責任すら取る気がなくとも。
  
 teraccaoさん
 これはちょっとメガネのオッサンに聞きたいんだけど、話が「アフガンの募金」だったわけですよ。内戦や米軍の攻撃や干ばつで餓えている。
 私はここにアメリカ追従の日本国民としては、間接的な影響を及ぼしているといわざるを得ないと考えるんだけれども、例えばこれが、心臓病で臓器移植手術の費用を集めている寺沢薫ちゃん九歳の募金の場合、「募金できない」と言うのは端的に誤っていて、単に「募金しない」だけであるというのは変わらないと思うのだけれども、募金しないことが「間接的に人殺しである」というのはどう思う?
 私はそっちに関しては「知らんよ」と答えると思うんだけど。