力士の小躍り このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-10-14

[] 亀田家の最大の失敗を考える 22:52  亀田家の最大の失敗を考えるを含むブックマーク  亀田家の最大の失敗を考えるのブックマークコメント

  

 これまで、全戦全勝、相手を問わず全くの無敗街道を歩んできた亀田一家。

 TBSと二人三脚で富も名声も手に入れて、飛ぶ鳥も落とす勢いの勝ち組だった亀田家に凄まじい逆風が吹いている。

  

 亀田史郎トレーナーは、「大毅は一からの出直しや」と言っている。

 これは、亀田大毅選手が有限実行、切腹して果てた上で、輪廻転生で生まれ変わって、来世で世界チャンピオンになるという悲壮な決意の表れだろう。

 来世に意気込む大毅は来世で頑張ってもらうとして、影響は父親である史郎や兄の亀田興毅にも今世で及んでいる。

 あれほどのこの世の春を謳歌していた亀田家が、一家揃って、何故ここまでの凋落を味わう羽目になったのか。これはどう考えても神の逆鱗に触れたとしか思えないような状況だ。

  

 それで思い出すのがこの事件だ。

 大毅の試合の四日前の日曜日、TBSテレビ系「サンデー・ジャポン」で興毅が沢尻エリカ様を批判していたと言うではないか。これは単なる偶然と考えていいものだろうか?

 私はエリカ様の歌を聞いて持病の癩病が完治したことがある。これはもうエリカ様には、人智では計り知れない何かがあると思わないではいられない。

 エリカ様がなんか凄いという評判は前から聞いていたが、日曜日のことを、早速にも木曜日には神罰を与えているとなると、その御稜威は畏るべきものだ。

  

 荒ぶる神としてのエリカ様に不敬な態度を示した有名人は他にもいる。

 和田アキ子、勝谷誠彦、ジャガー横田などにも、神罰が下されるのか、それとも寛大にも赦されるのか、私は心配でならない。

まなえまなえ 2007/10/13 06:28 だから増田に書けばいいのに。

terracaoterracao 2007/10/17 00:31 翔太の名字おしえて!

takisawatakisawa 2007/10/17 06:19 おっさんの弟なんだから寺岡だろ。

terracaoterracao 2007/10/17 17:14 ああ、そうだったのか。あいつは、弟だったのか。うちの親父、若いころは東京で遊びまくってたらしいからな、さもありなん。

terracaoterracao 2007/10/17 17:15 つうか、てめー、「おっさん」て言うなよおおおおお!!!

takisawatakisawa 2007/11/03 20:45 てらっかおっさん、ごめん

2007-10-13

[] 亀田大毅を罵るような批判に思う 05:13  亀田大毅を罵るような批判に思うを含むブックマーク  亀田大毅を罵るような批判に思うのブックマークコメント

  

 ネットにおいて、WBC世界フライ級タイトルマッチでチャンピオンの内藤大助選手に敗れた亀田大毅選手を、罵ったり侮辱したりしたような批判を多く見かけた。

 たしかに亀田は、その兄弟はおろか、父親まで一緒になって、みっともない挑発をしたり、相手を侮辱したり、酷い振る舞いをしてきたのは事実である。その点は批判されて当然だ。

 しかし、私としては、亀田をそこまで悪し様にボロクソに貶す人たちに、どうしても眉を顰めて見てしまう感情も隠せない。

  

 男が命を懸けて戦って、それに敗れて責任をとって腹を切ろうというのに、死者に鞭を撃つようなことをするなよ。

 これから彼は、十八歳という若さで、自らの死という恐怖と、そして、腹に刃を突き立てるという痛みと、戦わなくてはならない。

 三分十二回を戦った末、これからまた、死の恐怖と、さらには切腹の恐怖と、戦おうという。

 その男に対し、これから潔く散ろうという男に対し、いまさら罵倒の言葉など投げかけるべきではない、と思ってしまう。

  

 これまでのビッグマウスが祟って、あるいはこれまでの言動によって、非難を浴びせられるというのはわかるのだが、しかし、死を目前にしてもなお侮辱をもって叩かれるのは、私はどうにも不憫でならない。

 たかだかボクシングの試合に負けただけで、それに自分の命を懸けようというのは、たしかにそれはそれで愚かな振る舞いだったかもしれない。

 しかし、彼はその約束に対して、誇りを持って挑むはずである。敗れた以上は武士に二言はなく全うするしかないのだが、せめて、潔く逝こうとする彼を、罵りの言葉で送るのではなく、静粛な気持ちで見届けてやりたいではないかと、願わずにはいられない。

  

 人が一人死ぬというのに、その命を、しかも、日本人の情緒に少なからぬ厳粛な気持ちを与える切腹という儀式を迎えようという彼に、もう少し礼節を持てないものだろうか?

 これを「日本人の感覚」と呼んでしまうのは、あらゆる意味でセンチメンタリズムに過ぎるのかもしれないが、私は、命を懸けて戦った男の最期を、それに相応しい礼節を持って見送りたいと思っている。

失望でしょ失望でしょ 2007/10/12 05:22 http://jp.youtube.com/watch?v=WUV-OcmF5U0

これ見てから言いなさい。

おいおいおいおい 2007/10/12 07:21 皮肉もわかんねーのかゆとり。

まなえまなえ 2007/10/12 13:54 増田に書けばいいのに。

ああああああ 2007/10/12 15:12 ボクシングに全人生をかけた亀田大毅君の冥福を祈りましょう。
できそうなことはすべてやった試合だけに悔いはないのではないでしょうか。

たろうたろう 2007/10/12 20:43 マナー違反者は徹底的に叩いてこそ社会秩序が保たれるんだよ。
血祭りに挙げることで、他への見せしめになり、後へ続く者を出さぬようにする。
社会人になってるんならそれぐらいはわかるよね。
それに亀田大毅は死人ではない。生きてる。反則行為を幾度と行い、負けただけ。
まだ亀田大毅及び亀田一家への叩きは甘いぐらいだ。
変な同情は付け上がらせるだけで百害あって一理無しだということは明白。

ああああ 2007/10/12 21:58 切腹すると決めてかかってる流れを読んでやれよ…

ただのななしのようだただのななしのようだ 2007/10/12 22:02 皮肉が通じてない管理人涙目w

ふ 2007/10/12 22:08 何もわかっていないのに勝負の礼儀を語らないでほしい

channel-sevenchannel-seven 2007/10/12 22:35 管理人さんの真意が理解できず、
間違ったコメントを書いている上の方々に失望した。

じろうじろう 2007/10/12 22:56 マナーとか社会秩序とか言いたがる人は、なんでこう低学歴丸出しで残念な感じなんでしょうか

ウラウラ 2007/10/12 23:25 絶望した!ネタにマジレスするゆとりに絶望した!!

わらたわらた 2007/10/12 23:37 面白いwwwwwwwwwwww
こういう文章かける人ステキw

通りすがり通りすがり 2007/10/13 00:20 彼が命を賭けて、正々堂々と勝負したなら、ここまで批判はないのでは?

ゆとりゆとり 2007/10/13 01:00 ↑釣れますか?

ふらぺちふらぺち 2007/10/13 01:04 亀田一家はへたこいた〜ぐらいしか思ってないよ。
「調子こいて〜切腹するって〜公言しちゃった〜
でもそんなの関係ね〜はい!おっぱっぴー」

ワロタワロタ 2007/10/13 07:13 あんた、試合見てないね

ワラワラ 2007/10/13 08:22 潔く腹切ろうってんだから、静かに見守るべきだよねwww
しかしいい皮肉だなこれ。

sousou 2007/10/13 15:25 最初から最後までセンスのあふれる文章ですね!

こういう素敵なエントリを書ける人尊敬します(´・ω・`)

zazazaza 2007/10/14 00:47 コメント欄のゆとりぶりに涙 亀2殺す気まんまんの管理人おもしろす

2007-10-12

[] 亀田大毅切腹! 20:58  亀田大毅切腹!を含むブックマーク  亀田大毅切腹!のブックマークコメント

  

 『WBC世界フライ級タイトルマッチで、チャンピオンの内藤大助選手に大差の判定で負けた亀田大毅選手は、試合前に負けたら切腹すると言っていた公約どおり、まもなく切腹するもよう。』

  

 という新聞記事を四大紙で書いて欲しいな。

  

  

 リアル切腹かぁ〜

 何年振りだろう? 有名どころからだと三十七年振りか。

 介錯は誰がやるんだろう? 自殺幇助に問われないのかな?

 まだ十八歳なのに。もったいないなぁ。でも仕方がないか。

 内藤大助チャンピオンには、亀田大毅の分も活躍して欲しいですね。

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2007-10-11

[] id:torlyさんへ質問 00:00  id:torlyさんへ質問を含むブックマーク  id:torlyさんへ質問のブックマークコメント

  

 torlyさんからトラックバックをいただきました。

 私の書いたことをきちんと踏まえて返答をしていただいた唯一のエントリで非常に面白うございました。

 ポストモダンを経た現在、踏まえたうえで、多数並列に提示されている「宗教」の中から、どれを「自覚的」に選び取るのか、という作業が重要になってくるわけで、その中で結局は「人権」とか「民主主義」とか「科学」とか「リベラル」という「宗教」をまた選び直す人も出てくるだろうけれども、そこには落とし穴があるわけです。

 少なくとも建前上であれ実質的であれ、現在の「価値観」として覆っているパラダイムを信仰する場合は、その信仰が自覚的であるのか無自覚であるのか、常に確認をしないといけないわけです。

 「体制的」ではない信仰であれば、ことあるごとに信仰を試される機会にぶち当たり「自動的」に再確認させられるわけです。

 まぁ、もっとも、現在の「価値観」として覆っているパラダイムに流されそうになるのはお互い様ではあるんですが。

 ともあれ、torlyさんは「自覚的」に「リベラル(と言ってしまっていいよね?)」を選んでの宗教対立の話にて返答をくれたわけです。

  

 宗教対立ですから、どっちの「神様」が現世利益に適っているのか、とか、どちらが極楽浄土に近いのか、とか、こっちの楽園のほうが綺麗だ、とか、こっちの水のほうが甘いぞ、という争いをするわけです。

 そのうえで、相手の矛盾を突付き合うのが「安土宗論」です。

  

 私が先のエントリにて、インテリは不用意なことは書かないという話を書いたわけですが、torlyさんは「マイノリティ(笑)差別反対(笑)」にて、きちんと腐れインテリ病を発揮されて、保険を掛けまくりのエクスキューズ満載です。

 「かもしれません」の連呼はやり過ぎなほどですが、これは私も他人の事は言えないことをしていそうなので、結構なお手前で、と申しておきます。

  

 さて、torlyさんが以下の問題をどう処理をしているのかを教えていただきたいので質問します。気が向いたらお教えください。

  

1. 「自我」とは何によって形成されるのか?

「DQNの子はDQN」という世間知て、そりゃそもそも科学ですらないし、「人間」は環境が作るが真理などというと増田だったら釣り記事扱いというのが真理。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070926#1190823223

 前半部分の「世間知」については、そもそも誰も「科学」と言っていないのはお互いに了解済みのことだと思うので置いておくとして、後半部分。

 ここでもtorlyさんは、自分の意見ではなくて「増田だったら釣り記事扱い」というエクスキューズが利く書き方をされているわけですが、torlyさん自身は如何にお考えなのでしょう?

 私は「人間」は環境が作る、という真理と、ここだけは断言で書いているわけですが、さらにはこちらでも人間が環境によって形成されるとわかっていると再度断言しています。

 何故に私が、ここに関してはしつこく断言しているのかというと、他の要因が思い付かないからです。

 逆に言えば、「生来的」な影響などは「遺伝」などの形質以外は思い付かないし、その差異も、「環境」に比べればほとんど無視をして差し支えない程度のものと思えます。

 さらに言えば、「近代的」な「人格」もしくは「個人」というものの「自我」の「本質論」を、その「精神」や「魂」という架空のものに預けるならば、その精神が、その遺伝を持つ身体に宿るのは、その精神の「理性的」な選択による(自己責任)と見做すのかどうか。

発言上人間性は生得的であるとしてもぼかしても、あんまり人々の下す判断は変わらないようです。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070929/1191083053

 というかたちで、この部分に関してはtorlyさんは「ぼかして」いらっしゃいますが、その言説の効果がどうであるかではなく、torlyさんの認識がどういうものなのかに興味があります。

  

2. 「民主主義」の特殊性から生まれる問題

さらに複雑なことに、武器として統計を積極的に援用すべきだと思っており、今のところ統計は大半「宗教」を裏付けるものであり、統計に表れるかもしれない傾向故にアンチ「宗教」格好悪いと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/torly/20070929/1191083053

 ここでいう「アンチ宗教」は、今現在日本社会で建前上支配している「アンチリベラル」であると認識して話を続けます。

 ここで「統計」が味方をするのは「現在の支配的なパラダイムであるから」ということだと思います。

 「民主主義」というのは「啓蒙」を建前上は必須にしています。

 しかし、現状として、「現在の支配的なパラダイム」という「自覚」がある人間というのは極少数です。

 「民主的」な言い方をするのであれば、大衆は「体制のパラダイム」に「洗脳」されている状態です。

 全ての「価値観」を同じ地表に並べて、其々が各々の「理性」で選び取ったのであれば、それは「民主的」に意味のあるものになるでしょうが、そういう必要と思われる選択のための「情報」が無いままで多数支持を集めるのは、「啓蒙」の観点から「リベラリスト」はどう考えるのでしょうか?

  

 次に、政治的な実務作業として、ブラジル人排斥を支持する「世間知」で身を守ろうとする者を、坑儒焚書しようとされるわけですよね。

 「民主主義」的に、torlyさんが「脳がお花畑」とするNIMBYの連中を排除するのは、論理的な内部矛盾をどう解決するのでしょう?

 「民主主義」は多様な思想を許容するという建前が重要なポイントの一つですが、その「反民主主義」という立場に対しては、多様な思想を許さないというのであれば、他の「宗教」と同じであるし、そもそもの「理念」が吹っ飛んじゃってます。

 言ってみれば、ブラジル人を全て排斥どころか殺害した上で「私たちの地域ではブラジル人差別はありません」と言っているのに等しいわけです。ブラジル人が全滅していていないんだから、差別しようがありません。

 まぁ「リベラル」の大元が、ヴァンデに地獄部隊を派遣したわけですから、兄弟分の「宗教」が行ったホロコーストも粛清も同じ道でなんでもござれと言うことなのかもしれませんが。

  

 このあたりの整合性について、どのような処理をしていらっしゃるのか、よろしければ教えてください。

 「異教徒は殺せ。莫迦は騙せ。理念なんぞは糞喰らへ」という、「民主主義」を根底から覆す立場であるとするなら、その「反民主主義者」の異教徒認定は如何な扱いになるのでしょうか?

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2007-10-10

[] はい、菊池です 23:40  はい、菊池ですを含むブックマーク  はい、菊池ですのブックマークコメント

  

 id:ululunさんよりこちらのエントリに対してトラックバックが来たる。

id:ululunはid:takisawaさん「だけ」が言った事を即座には信じられません

  

「自分の目で見たものしか信用しない」という言い方が適切ではないのなら「あなたが書いた事」より「私が確証を得られたと私が確信出来る方法」で確認したいというように訂正します。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20071008/1191838601

 はいはい。了解しました。

地動説より天動説が「正しい」と私が確証を得られているのは複数の角度から検証しうるからですよね。

 検証し得るとしても、「多くの人間がそう言っている」というのは、「自分の目で見た」事にはなりませんから、私が書いたように

地動説を信じるためにいちいち惑星の運動を観察して、ケプラーの法則から計算して、それから「よし、俺は自分の目で見たから地動説を信じるぞ」なんて、効率が悪過ぎる。

http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20071003#1191833699

 という工程は必要でしょうね。

  

私はあなたが一人で主張した事を即座に「正しい」と受け入れなければならないとは思っていません。

もしあなたの「言う事」があなたという人間から出ただけで「信じなければならない」だけの担保があるのだとするのなら、まずそれを示すべきです。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20071008/1191838601

 はてさて。誰が「私の証言を受け入れろ」という不遜な主張をしているのでしょうか? この「信じなければならない」というのはどこから出てきたのでしょう?

 「あるのだとするのなら」もなにも、存在していない主張を相手にシャドーボクシングをされて、それをあたかも私と関係があるかのように書かれても、私は知ったこっちゃありませんよ。

内容自体は私宛ではないのと、私はただ知っている情報を証言しているだけであるから、それはともかくとして、以下のような記述を見た。

http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20071003#1191833699

 ここで思いっ切り「私はただ知っている情報を証言しているだけ」と書いているではありませんか。

 これを読んで「私の証言を受け入れろ」とか「信じなければならない」と言っているかのような文章を読み取ったのだとしたら、そのうえ一人相撲を私に向かって取っているのだとしたら、ululunさんは極端に議論に向かない人なのでしょう。向いている必要はひとつもありませんがね。

  

私は現時点に於いてあなた「だけ」が言った(書いた)というだけで「信じなければならない」とは思っていません。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20071008/1191838601

 当たり前でしょう。私だって、私が、たまたま立場上知った情報を参考に証言しただけのものを、「信じなければならない」なんて思ってなどいないのですから。

 というか、そんな不遜な人など居やしないでしょう。

あなたの言説が「真実である」事を裏付けられるだけのものを提示してください。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20071008/1191838601

 意味がわかりません。つくづくululunさんは極端に議論に向かない人なのでしょうね。

 なんで裏付けられるものの提示を求めるのでしょう?

 私は、私と肖像者の判断で、私の恋人の写真を見せても良いと思う相手*1が、見ようと思うならば見せるだけのことであり、提示を求められるものでもないでしょう。私は知っている情報を証言しただけですから。

 複数人が確認して、納得するならば、情報の確度としてはあがるから、誰かが疑っていても疑うほうが虚しくなるだけで、それで充分だと考えます。

 あと「言説」と言うほどのものはしてませんよ。私は「nanaは驚くほど可愛かった」と言っただけですから、別に「発言」や「言表」でいいんじゃないですか。極端に議論に向かない人なら「言ったこと」で充分ですよ。

  

天動説が「信頼出来る」のは裏付けがあるからですよ。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20071008/1191838601

 だから、その「裏付け」は「自分の目で見た」からではないんでしょ? 複数の学者が言っていて正しそうだから、なんでしょ? 「裏付け」はケプラー法則から全て自分で確認したわけではないんでしょ?

 自分の目で見なくても、信用することがあるんでしょ? それは私のしていた主張じゃない。つまりあのエントリの意図は「私が間違ってましたね」というものなの? そのわりには妙に反論口調なんだけど。

 自分で冒頭で『「自分の目で見たものしか信用しない」という言い方が適切ではないのなら「あなたが書いた事」より「私が確証を得られたと私が確信出来る方法」で確認したいというように訂正します』と訂正しておいて、訂正前に書かれたことを、訂正した状態で批判しても仕方がないでしょう。ululunさんが訂正したんだから。

 誤りを指摘されて、それを訂正しておきながら、訂正した後を根拠に言い返されても、極端に議論に向かない人なんだなという感想しか出ませんよ。

  

 それに私は、ululunさんだけに対して言っているわけではなく、「自分の目で見たものしか信用しない」ということを、なにか自分が頭が良いことを言っていると思っているか、あるいは何か格好良いことを言っているつもりのような感じで使っている人を全て対象にしての話をしています。

 「自分の目で見たものしか信用しない」というのは言葉のあやで、そんなことはなかった、というだけの話でしょ?

 私はその「自分の目で見たものしか信用しない」というスタイルの背後に「周りに左右されない格好良い生き様だと思わない?」という勘違いがあるのではないか、との印象を持っているという話をしたのです。

  

追記:ガリレオが「それでも地球は回っている」と言ったのもガリレオが「ガリレオ自身が見たものを信じたから」ですよね。違うんですか?

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20071008/1191838601

 本当に議論に向かない人ですね。これを私に確認させてどうしたいんですか?

 私が「ガリレオは自分が見たものを一切信用しない人だった」とでも主張しているのならば、ululunさんの反論は意味があるのですが、私がそんな発言をしているわけがないし。

 ガリレオは、自分の目で見たもの『も』信じるというだけの話ではないですか。そんなん当たり前のことでしょう。

 自分の目で見たものも信じるし、時には、自分の目で見たものも疑うし、そして、自分の目で見ていないものだって信じる。それだけのことで別に難しい話でもないと思うんですけど。

  

 なお、先のタイトルの「丘の上の莫迦」は、歴史的にも有数な音楽家の作品タイトルからの引用で、ululunさんはもちろん、特定の誰かを当てたものではありません。強いて言えばガリレオ・ガリレイのことか。

*1:現時点では草さんとヘボメガネさんと大野さんとぬっふぃと翔太

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20071010

2007-10-09

[] 「頭の良い人は難しい概念も簡単に説明できるはずだ」問題に見える思想性 23:39  「頭の良い人は難しい概念も簡単に説明できるはずだ」問題に見える思想性を含むブックマーク  「頭の良い人は難しい概念も簡単に説明できるはずだ」問題に見える思想性のブックマークコメント

  

 別の話のコメント欄での発言で『「世界にたったひとつの花」教。「人はいろいろです」教。「頑張れば未来が」教(←全部繋がってる)』というのがあって、そもそも頭の良い人なら、もう既にここで内容の察しはついていることでしょう。

  

 この件に関するブックマークコメントやエントリの中で「わかりやすい説明をする能力と、難しい概念を理解する能力とは関係がない」とか「説明したい相手のレベルに合わせた説明を云々」という意見が結構出ています。

 私はそれに対して「莫迦と言うのは理解力に乏しいから莫迦なのであって、理解力が著しく欠ける者にはどれだけ説明しても理解はできない」と書いているわけです。

  

 「『頭のいい人は、難しい概念も簡単に説明できるはずだ』問題 の解説」の追記にて、「足し算すら知らない人に割り算まで理解させるとなると、教育方法としてはある程度のラインであると考えられる義務教育ですら、割り算を教える所まで到達するのに270時間程掛けてい」る現状の話が出ています。

 もちろんこれは授業の時間数だけの数字であって、授業だけでは理解できない子供などは、家や塾で勉強したりが必要ですし、宿題の時間などもあるでしょう。

 しかもこれは、税金を使って専門?の大人が職務として教えてくれるものであって、これだけの時間をかけているわけです。たかが整数の割り算に。

 たとえば、足し算もわからない、数の概念もわからない人間に対して、高等数学を理解させようと考えたら、どれだけの時間がかかるのか。人によっては簡単に寿命との競争という話になりそうです。

  

 私はどうもこの「説明する側の説明する能力」とか「頭の悪い人にも、その人に合った説明の仕方をする」とかという主張の背後には、どうも民主主義的な欺瞞が付きまとっているように思えてしまう。「頑張れば未来が」教ね。

 万人に理解する能力は備わっているんだけれども、その作業をしていないだけであって、手順を追ってわかるように説明すれば、必ず誰もが理解できるはずだ、という「希望」が含まれているような気がしてならない。

  

 受け取り側の問題にもきちんと言及しているエントリもあった。かなり同意できるないようだったんだけれども、重要なところで一点大きく違う。

 優しいものだから「興味の有無」によって「理解の程度」を見ているわけです。そしてそれには「環境」が大きく左右する、と。

 これに関しては私はほとんど概ね同意で、ほぼ異論はないし、私の元来の主張にもマッチしているのですが、私がほんの少し留保する部分があって、それが「才能」ひいては「遺伝」です。

  

 100mの距離を10秒かからずに走りきる人間が存在します。

 たとえば私が生まれてすぐに100mを走る訓練ばかりつんだとしたら、私も10秒を切ることができたのだろうか?

 おそらくそんなことはないだろうと思われるわけです。幼児の頃からそのためのトレーニングを積んだとしたら、かなり早く走れるようにはなるでしょう。私が「環境」説にほとんど概ね同意するのはこれが理由です。

 しかしだからといって、それが100m走で10秒を切るかというと、それは無理だと思われるわけです。というか無理です。

 肉体的なものに関しては「遺伝で無理だな」とか比較的に簡単に思ってしまえるのに、頭の良さという問題になると誰でもつい「やれば誰でも」という「希望」を持ちたくなってしまうのは、民主主義思想に毒されて「平等」で「啓蒙」という建前を感じてしまうからなのでしょう。

  

 オリンピックでは、0.01秒が大きな違いになりますが、日常において100mを走るのに1秒余計にかかろうが、2秒遅かろうが、それは大した問題ではありません。30秒かかったとしても、人生において別に困りません。

 しかし、惜しむらくは、私が今、速く走りたいと思ってトレーニングをしたとしても、トレーニングしたなりに速くはなるでしょうが、10秒近くで走れるようになることはないでしょう。というか無いです。

 どれだけ教えるのが上手い素晴らしいコーチの指導を受けても、もう無理でしょう。というか無理です。100mを12秒で走れるようになるのも厳しいのではないか。

 10秒なんて「頑張れば可能性が云々」よりも「無理です」と教えてあげたほうが親切だと思います。

  

 たとえばtorlyさんの文章を例に取れば、理解する難易度は、100mを12秒ぐらいでしょうかね? レベル的には。よく知らんけど。

 「生まれつきの才能で無理」な人もいれば、「今更練習しても無理」な人もいれば、「練習すればなんとかなるだろうけど練習する気はないでしょ?」という人もいます。酷いのになると、コースを外れているのに自己認識で10秒でゴールしたつもりになっている奴もいます。

 それなりの練習で何とかなる可能性のある人でも、「なんでそこまで付き合わされなきゃならないの?」と、教える側は当然思うわけです。自分でトレーニングしろよ。「何故に本を買って読まないのか」と。積極的にトレーニングをする気がない人間は、良いコーチが付いたって速くは走れないよ。

 「やればできるのかもしれないけど、やらない」というのは、もはや「やれない」と一緒でしょ。

  

 それぞれの事情で「理解ができない」人というのはいるわけで、「万人に理解ができる易しい説明」というものがあるとは限らない。

 しかし何故か、頑張ればなんとかなるんじゃないか、と思わずにはいられない。

 それが「良い説明が無いからだ」とか「その人に合った説明があるはずだ」とか「環境さえ整っていたら誰だって」という考え方には、近代的な民主主義臭がプンプンとしています。まるで着飾ったオバサンの香水のように。

 人は誰にでも可能性があるんだ。君にも超能力があるんだ。

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/11 01:18 「全部繋がっている」と書いたのは、「世界にたったひとつの花」と「人はいろいろです」は、ほぼ同じことを前者は個性重視思想から後者は平等思想から言っているもので、「頑張れば未来が」あるとは限らないとわかった時に慰めとして働く言葉だからです。

(ある件について)「頑張れば未来が」あると思ったけど無理だった
→君は世界にたったひとつのかけがえのない花だ。ナンバー1よりオンリー1でいいじゃないか。
→人には適性というものがあって、それは人によっていろいろです。そういう意味でみんな同じ、平等なのです。

私も専門学校の授業の時は、最初に「頑張れば未来が」的なことを言って「希望」をもたせ、いくら頑張っても人と比較してあまりの惨憺たる結果に落ち込んでいる生徒には、上記のどちらかに近い言葉で慰めたことがある。

2007-10-08

[] 芸術の飽き 18:39  芸術の飽きを含むブックマーク  芸術の飽きのブックマークコメント

  

 ずいぶんと前に美術館に行ったのだが、特別展はとにかくべらぼうに面白かったにもかかわらず、常設点はさっぱり面白いと思わなかった。

 私は美術について全くわからず、ほとんど画盲と言って差支えがない。

 それでも緻密であったり迫力があったり細微であったり大胆であったりエキセントリックであったりサイケデリックであったり侘び寂び風であったりするのは、それなりに趣を感じたつもりになれるのであるが、どうにも理解不可能な分野がある。

 近代美術というのだろうか? 現代美術というのだろうか? シュールレアリズムになるのか?

 素人ながらの具体的な説明を試みると、大きなキャンパスに五センチ幅の白と緑のストライプが交互に並んでいるだけのものや、キャンバスを三本ナイフで切り裂いてあるだけのものが「芸術でござい」と展示してある。

 何が面白いのかがさっぱりわからない

 そこには独創性も芸術性も感じられない。奇を衒って外したようにしか思えない。キャンバスをカッターで三本切り裂くなんてね、私がもう一本増やしてやろうか、という気にさえなった。

 こんなもの、私が今からカッターでもう一本切り裂いたところで、この芸術性に変化はあるのだろうか?

 どうも私の見た美術館では、アメリカの1940年代あたりの作品を中心に、悉くつまらないの極致を極めに極めまくったものがあった。私は大東亜戦争前後のアメリカの芸術を「糞美術の時代」と勝手に名付けたいほどにつまらなかった。

 何も楽しめない。ただただ飽き飽きするだけの芸術である。

  

 私は特別展の面白さと、常設展のつまらなさ*1の落差に驚き、美術部の部長に解説を求めた。

 美術部の部長は次のように言い放った。

「あれはね、ある程度は美術史を通して包括的に理解していないとわからない部分があるんだよね」

 なんだよ。知の独占かよ。

  

 昔「俳句というのは芸としてどうなの?」という文学論争があった。

 「解説がつかないと意味も味もわからないものが芸術と言えるのか?」という視点から、「俳句は作者の名前を隠して見せられたら、名人作も素人作も違いがわからないのではないか」とか「解説もなしで単独で見せられたら意味がわからない俳句が名作とされているが、それは単独で芸術と呼んでいいのか?」とか言われた論争だ。

 これはある種の専門的な文脈を読む上での理解が必要であって、それはある意味では高尚であると同時に、莫迦は置いてきぼりという状態も生む。

 莫迦をどこまで掬い上げるかという問題というのは、高尚のインフレ競争によって引き起こされる面が大きい。

 その「解説がないと意味がわからない」というどうしようもない状態というのは、この「糞美術」にこそ当てはまるのではないか。

  

 とりあえず、わからないなりに解説を聞いてみたのだが、それでもやはりわからなかったので、全く理解できないまま私なりの解釈で解説をし直してみるが、何しろ私が理解できていないので間違っている可能性が極めて高いが、私はこう理解した。

  

 「芸術というのは、ずっと神に捧げるものであった。音楽然り、美術然り。しかし近代に入り、芸術は神から切り離されることとなった。神から自由になった美術は、その神の文脈から切り離され自由になったという、その自由を謳歌するために、それまでの文脈から如何に離れたことをやるか、というのがテーマになった。神から美術を人間の手に取り戻した凱歌が、近代美術だ」

  

 それはつまり、神にささげなくなったら、とたんにつまらなくなったということ?

 それまでのテーマから離れるのがテーマという、メタなものって、やっぱりつまんなくなってしまうというか、テーマから逃走するのがテーマというのは、意味があるのは一発目だけであって、後追いはことごとく二番煎じで面白くないというか、手を変えて同じことをしているだけというか、そういうことなのだろうか?

 文脈から外れることが新しい文脈、みたいな、結局は如何に文脈から離れるかという作業を全員でやってしまったら、そもそもの文脈自体を喪失してしまって、本来の目的自体が見えなくなってしまったということなのだろうか?

  

 この私の解釈が正しいとするならば、美術史を通して包括的に理解していると面白くなるというよりも、文脈を逸脱するためにメタ的に自家中毒を起こしている時代の刻印であり、歴史的な意味合いは残っているけれども、美術の作品としてはスカだった、としか思えない。

 キャンバスをカッターで三本切り裂くなんてのが芸術として認められているのならば、おそらく買ったばかりの白いキャンバスに、そのまま「心の中の修羅」だかの適当なタイトルをつけて「芸術だ」と言い張っている奴もいそうな気がする。

 買ったばかりの白いキャンバスだって芸術作品と言える、のか?

  

 私があまりにも芸術に疎いためか、結局はどうしても理解できなかった。

 こういうことを専門家に訊いていいものかどうか、逡巡しないことはないのだけれども、普段からデリカシーには定評があるのだし、聞いてしまおう。

 大野さん、近代美術?がつまらないのは、知の独占で莫迦にはわからないからですか? それとも作品がつまらないからですか?

 どのような文脈で読み取ったら、面白くなるのですか? 御教授いただけたら幸いです。

*1:一部を除く

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/08 22:39 呼ばれたんで来ましたよ。

近代以降の美術がわかりにくいのは、写真の登場によって再現性を手放したこと(絵画の場合)と、その時代の支配的美術様式や方法や考え方のパラダイムシフトを旨としたゲームに突入したためです。瀧澤さんの理解でだいたい合ってます。

再現性は復活していますのでパラダイムシフトについて、(ご存知かもしれませんが)一つ有名な例を挙げて説明します。
前世紀の始め頃、便器にサインをして美術館に置いた(今そんなことやったら中二病と言われます)デュシャンという人は、現代美術の父として奉られていますが、その便器をいくら「鑑賞」しても面白くも何ともありません。
その「作品」の意味は、「美術館に展示されていれば、みんな有り難がって鑑賞するんだね。それ、美術館って場所の特権性に騙されてるってことだよね。何で誰もそれに気づかないの? 」ということだったからです。
意地悪な人ですが、このくらい底意地が悪くないと美術史に名は残せませんので。

「何で誰もそれに気づかないの?王様は裸だ!」をいかに言うかを競っているのが、近・現代美術の歴史です。まあそれも70年代でだいたい終わったんですけど。

乱暴に言ってしまいますと、近・現代美術は莫迦=一般大衆にわからなくても一向に構わないです。
面白いと思えるようになるには、たくさん見ることと美術史とその近隣分野の勉強が必要ですが、最近は必要ないものも多いですね。だから見て「おお」とか「きれい」とか「おぞましい」とか思えればそれでいいんじゃないですか。つきつめていくとほとんど趣味の領域ですし、アートなんてものは基本的に、知的変態のゲームだと思っておけば、ほぼ間違いないです。

しかし民主主義というのは罪深いものですね。美術館は大衆への啓蒙を課せられ、キャンバスを初めて切り裂いた(今そんなことやっても中二病)というだけで美術史に登録された人の作品を、税金で買って見せているわけですから。

ここだけの話ですが、あれは私が昔、搬入作業のどさくさに紛れてこっそりすり替えといたものです。あれ私が作ったの。誰も気づかないけども。

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/08 23:04 読み返したら、あまりにもつっけんどんな説明だったような気がしました。
改めて伺うと、瀧澤さんの訊きたかったのは「抽象絵画がつまらな過ぎるのだが、どう見たら面白くなるのか」ということだったんでしょうか。

私見では、最初に見て「つまらーん」と思ったものは、どんな説明を受けて意味を理解しても、そのつまらん印象を拭い去ることは難しいです。説明せよと言われるならしますが‥‥、長くなります。抽象絵画も、ヨーロッパとアメリカとだけ比べてもコンテキストが違うんで。

takisawatakisawa 2007/10/09 04:52 なるほど。ありがとうございます。
概ね理解が正しいと確認できれば満足です。

>「何で誰もそれに気づかないの?王様は裸だ!」をいかに言うかを競っているのが、近・現代美術の歴史です。

結局は「美術」から如何に乖離するかの競争そのものが「美術」であったということでしょうかね。

>乱暴に言ってしまいますと、近・現代美術は莫迦=一般大衆にわからなくても一向に構わないです。

完全に蛸壺の中の政治ですよね。
まぁ、もっとも、今の純文学にしても近い部分はあるわけですが、綿矢などあるだけ、若干は外にも向いているし、裾野の違いもあるのでしょうが。
岡本太郎や棟方志功みたいな、エキセントリックで興味深い人もそれなりにいたりするんですかね? 山下清とか。
最近で、綿矢みたいなかたちで話題になる人とかっていたんでしょうか?
音楽に関しては、原則的には新しい作品はほとんどが「大衆芸能」に当たるわけで、一般大衆=莫迦向けではない音楽というと、なんだろ?
私は足萎えのいざりだったのですが、エリカ様の歌を聴いたら自分の足で歩けるようになったので、エリカ様だけは大衆芸能とは思っていませんが。

J-POPや大衆文学、漫画などが盛隆であるとするならば、美術の大衆カルチャーは「フィギュア」とかになるんでしょうかね? 村上隆しか知りませんが。
「近・現代美術は莫迦=一般大衆にわからなくて結構」と言った後に残るのは、モダンポップアートや、それこそ、他に目的のある「プロダクトアート」が「美術」としてあるんですかね? デザインとしてのブランドバッグとか。
考えるだけ休むに似たりなのでやめます。

>民主主義というのは罪深いものですね。美術館は大衆への啓蒙を課せられ、キャンバスを初めて切り裂いた(今そんなことやっても中二病)というだけで美術史に登録された人の作品を、税金で買って見せているわけですから。

たとえば、911テロや原爆投下を芸術パフォーマンスだと言ったり、表現の一種だという声明を出すと、論理的な扱いとしてはどうなるんでしょうね? もちろん政治的には抹殺されるわけですが。

>ここだけの話ですが、あれは私が昔、搬入作業のどさくさに紛れてこっそりすり替えといたものです。あれ私が作ったの。誰も気づかないけども。

もうちょっと真面目に作ってください。あれでは子供の工作や塗り絵ですよ。

>抽象絵画も、ヨーロッパとアメリカとだけ比べてもコンテキストが違うんで。

抽象絵画は、筒井の「家族八景」に出てくる知識が私の全てです。
それだけで特に不自由してないし、抽象画では擦り傷も治らないと思うので、長い解説は結構です。

takisawatakisawa 2007/10/09 04:54 >完全に蛸壺の中の政治ですよね。

「政治」といっては失礼ですね。いくらなんでも。
せめて「自慰」のほうが良かったですが、それも違うか。

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/09 17:06 >岡本太郎や棟方志功みたいな、エキセントリックで興味深い人もそれなりにいたりするんですかね? 山下清とか。
最近で綿矢みたいなかたちで話題になる人とかっていたんでしょうか?

綿矢って綿矢りさ? 奈良美智とか村上隆くらいですかね。でもエキセントリックじゃないし。
アーティストではない人の作ったものをアートだって持ち上げるのは、かなり前から流行ってます。最近ではヘンリー・ダーガーって人が有名になりました。

>で、音楽に関しては、原則的には新しい作品はほとんどが「大衆芸能」に当たるわけで、一般大衆=莫迦向けではない音楽というと、なんだろ?

現代音楽。でもジョン・ケージまで行ったあとはポップ化していってますね。「大衆芸能」とは言えないのもあるでしょうけど。

>J-POPや大衆文学、漫画などが盛隆であるとするならば、美術の大衆カルチャーは「フィギュア」とかになるんでしょうかね? 村上隆しか知りませんが。

村上隆は大衆カルチャー(というかサブカル)の文脈を取り入れた「高級アート」ですよ。何十万ドルもする「フィギュア」をアメリカの成金が買って自宅のサロンに飾って知的変態どもにみせびらかす、そういうアート。貴族の時代にしていたことと同じです。

>「近・現代美術は莫迦=一般大衆にわからなくて結構」と言った後に残るのは、モダンポップアートや、それこそ、他に目的のある「プロダクトアート」が「美術」としてあるんですかね? デザインとしてのブランドバッグとか。

何でもアートだっていう言い方は蔓延してますね。もうグズグズでいいということなんでしょう。

>たとえば、911テロや原爆投下を芸術パフォーマンスだと言ったり、表現の一種だという声明を出すと、論理的な扱いとしてはどうなるんでしょうね? もちろん政治的には抹殺されるわけですが。

論理的な扱いとは? 大量殺人を芸術とする論理ですか? 芸術の定義が曖昧な状態で、共有しうる論理自体が成立しないという状況なので、倫理的な判断しか問題にされないでしょうね。

>もうちょっと真面目に作ってください。あれでは子供の工作や塗り絵ですよ。

元の作者に言ってください。

>「政治」といっては失礼ですね。いくらなんでも。
せめて「自慰」のほうが良かったですが、それも違うか。

自慰としての政治ってとこかもしれません。このあたりのことを含んで来年アート関連本出しますので、御期待下さいませ(今度はちゃんと差し上げます)。

takisawatakisawa 2007/10/10 02:14 >綿矢って綿矢りさ? 奈良美智とか村上隆くらいですかね。

奈良美智を綿矢レベルで可愛いのか検索してしまいました。

>現代音楽。でもジョン・ケージまで行ったあとはポップ化していってますね。「大衆芸能」とは言えないのもあるでしょうけど。

無音などの前衛芸術がありましたね。

>何でもアートだっていう言い方は蔓延してますね。もうグズグズでいいということなんでしょう。

知的であるからわからないという次元ではなくなっている気がしますね。

>芸術の定義が曖昧な状態で、共有しうる論理自体が成立しないという状況なので、倫理的な判断しか問題にされないでしょうね。

大学の校舎にペンキで書き殴ったアジテーションが「表現の自由」になる可能性があるならば、911テロや原爆投下も芸術と言える可能性はないですかね?

>自慰としての政治ってとこかもしれません。このあたりのことを含んで来年アート関連本出しますので、御期待下さいませ(今度はちゃんと差し上げます)。

お、それは結構なお話で、おめでとうございます。
また、下手な字でサインをお願いしますね。
ただ、いくらなんでも政治だけで決まるわけではないですからねぇ。

takisawatakisawa 2007/10/10 03:51 草さん@ぶっくまーく
>だけど、プレモダンな俳句とモダンの徹底としての「現代美術」はぜんぜんちゃうよね。たぶん。

知の独占として、プレモダンとモダンと関係あるの? どう違うの?
プレモダンとモダンの違いが出るとしたならば、モダンのほうに内在する啓蒙思想に表れるだけであって、モダンのほうがそれを不徹底にしている現状で、違いがあるとも思えないんだけど。
作り手側の意識として、プレモダンは最初から百姓など意識していないのに対して、モダンは「百姓どもにはわかるめぇ」と、そのうえで一周まわって「百姓どもを見下している芸術ヲタには『ソーカル』を喰らわしてやれ」みたいな違い?

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/10 13:43 >奈良美智を綿矢レベルで可愛いのか検索してしまいました。

週刊誌に取り上げられる程度のポピュラリティって意味だと思ったのに。
奈良氏は昔は爽やかな美少年でモテモテでしたよ。

>大学の校舎にペンキで書き殴ったアジテーションが「表現の自由」になる可能性があるならば、911テロや原爆投下も芸術と言える可能性はないですかね?

911テロを偉大な芸術と看做すことを提案した作曲家のシュトックハウゼンは、猛烈な世論の非難にあって発言を取り消し謝罪しました。しかし芸術とは本来反社会性を含んだもの、常識の外にあるものだという近代芸術の観点に立てば、シュトックハウゼンの見方は当然出てくるものだと思います。

「本人が芸術と言えば芸術になる」という狭い意味では何でも芸術だと言えますが、芸術作品として社会的に認知、評価されるかどうかは、それとは別です。つまり「芸術と言える」のは、「誰が言うのか」にかかってきます。
平たく言えば何らかの権威(有名批評家、ギャラリスト、美術館、美術ジャーナリズムなど)がそう言わないことには、芸術にならないでゴミ扱い、あるいは犯罪行為扱いされて終わる可能性が高いということです。これはどこの世界でもある程度言えることでしょうが。

昔、美術館に生ゴミを作品として展示しようとして拒否され、「芸術かゴミか」裁判を争って負けた人がいましたが、自分のウンコの缶詰を作って売った人http://www.kanshin.com/keyword/216473は有名アーティストになり、缶詰も美術作品として売買されています。
まあ生ゴミそのままでは匂いが迷惑ですけど、ウンコの缶詰はその点安心ですからね(それに、缶詰にするという一手間かけているところは評価できるかもしれません)。
結局、人に直接的な被害を与えていないかどうかという公共道徳が優先されるわけですが、これも判断が難しいところはあるでしょうね。

>また、下手な字でサインをお願いしますね。

あれは酔っぱらってたからだってばー。

2007-10-07

[] DQNとストレス 18:34  DQNとストレスを含むブックマーク  DQNとストレスのブックマークコメント

  

 知り合いから聞いた話。

 知り合いの従姉妹には小学二年生の男の子がいるそうなのだが、その従姉妹は二年生の子供を寝せてから、大人だけで外に遊びに行ったそうなのだ。

 夜中に知り合いの従姉妹が家に帰ると、二年生の男の子は目が覚めていて、怒り泣きしながら母親を出迎えたそうだ。

 怒っている子供を宥めるために夜中にファミレスに連れて行ったところ、子供はファミレスでこう怒ったそうだ。

「目が覚めたらお母さんがいなくて、探してもいなくて、待ってて凄くストレスが溜まった」

  

 以前ならば「お母さんがいなくて寂しかったんだよぅ!」とか言ったものだ。

 男のガキの特有の強がりもあるのだろう。「寂しかった」という弱みを見せたくはなかったのかもしれない。

 しかし、どこまで行ってもこれは「寂しくさせられて腹が立った」としか言いようがない。小学校の低学年が「ストレスが溜まった」とは片腹痛い。

  

 子供が、親がいなくて寂しくて、その寂しい思いをさせた親に腹を立てるけれども、しかし親が恋しくて待っているんだけれどもやっぱり「なんで居てくれないんだ」と当たりたくなる気持ちを表現したいのに出る言葉が「ストレスが溜まる」。

 普段から大人が使っている言葉が子供に移っていくことは良くあることで、以前は大人だけが使っていた「ストレス」という言葉を子供が使うのも当たり前の流れではあるのだが、それでも「何を偉そうに」という気はしてしまう。

  

 id:gyu-sanさんの過去のエントリに『便利な言葉』というものがある。

 ほぼ日常語と化している『DQN』という言葉について書いている。

 日常生活において、特に運転中など「あーもぅ、あいつDQNだよ」とか「あっぶねーなー。DQNかよ」という言葉がつい口をついて出そうになる場合があるほどに、DQNは汎用性のある言葉である。

 私も親と話しているときに何度か「あのー、だからあれだよ、あいつら、いわゆるDQNなんだよね」と言いたくて、他に代替の言葉が当てはまりにくいし、見つけられなかったり、置き換えるのが面倒くさかったりすることがある。

  

 新語であれスラングであれ、定着するものとは、大凡の場合、その概念に合致するような適当な言葉がなく、それをお誂え向きのようにカバーする言葉が定着する。

 DQNなんて、言葉を一度認識してしまったが最後、どうして今までこの言葉がなかったのだろうかと不思議に思うほど、時代にマッチしている。

 マミー石田で初めて見たときには、そんなことになろうとは予想もしていなかったほど、便利な言葉として成り上がっていると言っても過言であろうがとにかく便利だ。

  

 新しい言葉を使いこなすようになったとき、それはあたかも、それまでは意図する概念に合う丁度良い言葉がなかったように思ってしまうし、事実そういう面もあるのだが、実はその逆も考えられる。

 DQNという言葉を手に入れたら、その言葉に当てはまる概念が形作られるのだ。

 「概念があるから、それを名付ける言葉が生まれるのだ」というのは、あたかも「人間が集まるから社会ができる」と同じぐらいに自明のように思えるが、実はどちらも相互的であって、漠然とした「新しい言葉」に伝えたかった概念を全て押し被せる作用が働く。言葉に後から概念が固まり作り上げられていく。

  

 夜中に目が覚めたら母親が居なくて、寂しくて泣けて、泣くほどの状況にした母親に怒れて、母親が恋しいのに怒りの矛先を向けたくなるアンビバレンツな感情を「ストレスが溜まる」と表すとき。

 そこには、母親が居なくて寂しいという弱みは微妙に隠され、そして同時に、怒りの対象者も微妙に隠され、ただただ発言者の心の内部にのみ「ストレス」というものが「溜まる」という状態が表されている。

 概念に合う丁度良い言葉と思えるような言葉であっても、そこから切り落とされている感情や情報はいっぱいある。

 その一方で、多くを切り落とすことによって、わかった気になれる言葉の便利さは手放せない。

 ただ、もともと言葉というのは、伝えたいそのほとんどを取り零すものであるということだけは意識の隅にでも置いておきたいものだと知り合いが言ってました。

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2007-10-06

[] 謙遜は災いの元 18:00  謙遜は災いの元を含むブックマーク  謙遜は災いの元のブックマークコメント

  

 私の兄は大学の准教授をやっている。大学と言っても泡沫の四流私大で、本来ならば大学と呼べるような代物ではないが、肩書きは大学の准教授だ。

  

 先日、兄が来てお袋に言った。

「このあいだ電車でトリスのお母さんが一緒だったよ」

 トリスとは私の中学校時代の同級生だ。話を聞いてみると以下のようなことだった。

 電車に乗っていると、トリスのお母さんが兄貴に気がついて話しかけてきた。トリスのお母さんの横には、トリスの弟が付き添うように立っていた。兄貴はトリスがどうしているかを聞くと、高校卒業後どっかの工場で働いているらしいとのこと。

 今度はトリスのお母さんが兄貴に今どうしているかを聞いたそうだ。

「今は大学で教えています」

「ほう。どちらの大学ですか?」

「いや、しょーもない大学ですよ」

「でも先生なんでしょ? 立派になられて」

「頭の悪い大学ですからねぇ」

「でも教授でいらっしゃるんでしょう?」

「まだ准教授ですよ。昔の助教授です」

「それでも立派ですよねぇ」

「大学とは言えないような大学ですから」

「どちらの大学なんですか?」

「え? ○○学院大学なんですけど、ご存じないでしょう?」

「えっ? あ、あぁ、知ってますよ」

 トリスのお母さんとトリスの弟は顔を見合わせて困った顔をしていたらしい。

  

 兄貴は「なんか二人とも知らなかったみたいでバツが悪かったよ」と私とお袋に言った。

 お袋は兄貴に言った。

「そりゃ知ってるよ。トリスの弟は○○学院大学の学生だもん」

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2007-10-05

[] プチプチブル 17:59  プチプチブルを含むブックマーク  プチプチブルのブックマークコメント

  

 私が小学生のとき、家を新築した。

 祖父が地主であったため、上物だけを建てれば良いので、普通に土地ごと一軒家を買う人に比べたら、上物にかける金額に余裕があるため、お袋は自分の気に入ったように間取りを考え、建築家に注文をした。

 当時、私の友達で私の家よりも新しくて広くて立派な家に住んでいる者はいなくて、私は普通にプチブルであった。

 駅の反対側には大きな集合住宅地があり、いわゆる団地妻がいっぱい生息していた。その団地妻の子供たちが多く同じ学校に来ていた。

 団地住まいの親は家に子供を呼ぶのを嫌がる傾向があり、必然的に私の家に遊びに来ることが少なくなかった。

 そして、親の威を借る私は、私の家を見て「いいなぁ〜」と羨ましがる友達に対して、プチブル根性丸出しにも「そう?」などと答えたりした。嫌なガキだ。

  

 もう少し思春期になると、親の経済力というのは、ある種の諦観が芽生えるのと時を同じくして、受け入れるが故の恥ずかしさも発生する。

 給食費がみんなよりも少ない友達が、デリカシーに定評のある男に「生活保護を受けてるんだ?」などと訊かれると、そこまで訊いていないのに「うちのお父さんは、規定にほんの少しだけ満たないだけなんだって。ほんのちょっとだけなんだよ」と必死に強調していたのが思い出される。親からそう説明されていたのだろう。

 親の経済力が親の価値を判断する要素になるという、強ち全否定まではできないけれども、必ずしもそうでは全くない「真理」を気にせずにはいられなかった。

  

 いつも私の家に遊びに来ていた小川君に私は言った。

「今度、栄作(小川君のこと)の家に遊びに行こうよ」

「ウチは駄目だよ」

 にべもないとはこのことか。

「なんでダメなの?」 

「ウチはアパートだからさ、お母さんが嫌がるんだよね」

「たまにはいいぢゃん」

「隣との壁が薄いからさ、大騒ぎして遊ぶと隣に迷惑なんだよ」

「静かに遊べば良いんぢゃん」

「でも狭いし」

「ならトランプでもやろうよ」

「トランプなら瀧澤君の家でやればいいじゃん」

「だって栄作の家だって見たいぢゃん」

「ウチは駄目なんだよ」

 ここまで頑なに拒否されると私の真性ドSの魂が疼く。意地でも行ってやろうと決意した瞬間、小川君はポツリと呟いた。

「すごくボロいんだよ。ウチのアパート。だからさ、見られるの、恥ずかしいんだよね」

 私はこういうのにとにかく弱い。

 でもだからと言って「ボロいのは恥ずかしいよな。なら見るのも可哀想だからやめておくか。あっはっはー」と言うわけにもいかない。

 私はなけなしのデリカシーを発揮してインチキ臭く爽やかに答えた。

「別に恥ずかしくなんかないよ。良い家で遊びたいんじゃなくて、栄作の家で遊びたいんだよ」

 プチブルの余裕がなせる技である。

  

 あれほど頑なに嫌がっていた小川君が何故か突然折れて、早速その日、私と井本君と小川君の家に行くことになった。

 学校からの帰りの道すがら、小川君は何度も私と井本君に繰り返して言った。同じようなことを何度も繰り返して言っていた。

「本当にウチはボロいから」

「むちゃくちゃ汚いアパートだから笑うなよ」

「貧乏だから嫌なんだよね」

「汚いボロアパートが嫌だったら、すぐに外で遊ぼうな」

  

 直前まで来て、小川君は少し卑屈そうな笑みを浮かべて、私と井本君に言った。

「本当に嫌なんだよなぁ」

 まだ気にしている様子なので私は敢えて軽く返した。

「別にいいぢゃん」

「だって、絶対に想像以上のボロ家なんだぜ。本当に汚くて酷いんだよ」

「気にしないよ」

「うーん。あれだよ。想像以上にボロいだろ。いいよ、笑ってくれよ」

  

 照れくさそうに小川君が指した指の先には、私の祖父が経営していたアパートがあった。

 私はどんな家でも笑わないでおこうと心に決めていたのだが、素で笑えなかった。

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2007-10-04

[] 貧乏長屋 17:58  貧乏長屋を含むブックマーク  貧乏長屋のブックマークコメント

  

 親父は五軒のアパートを持っている。うち二軒は上物については既に兄と姉の名義になっている。

 土地も建物も親父のものは三軒になるわけだが、これがちっとも儲からない。

 というのも、そのうちの二軒が祖父の代からのものであり、築三十年以上も昔の木造アパートで、駅から徒歩五分のところなのだが、3DKという間取りで家賃が四万円弱というアパートだ。いわゆる下層レベルの生活水準の人のための物件だ。

 私が生まれる前から建っているアパートなのだが、駅から近く、3DKという間取りであるため、車を持たない貧乏な子供の多い家族が入居する。

  

 五世帯のアパートと四世帯のアパートであるので、二軒の合計で九世帯なのだが、そのうちの四世帯が家賃を滞納している。無茶苦茶だ。

 しかもこれまで家賃が払えなくなって二年以上滞納した挙句に夜逃げしたり、退去させたりしたケースが私が知るだけで五件をくだらない。

 そして、建物自体が古く、子供が多い家庭が多いので汚したり破損したりして、それを次の人に貸すためにリフォームや清掃を頼むと、いろいろで六十万円はかかる。お金がない人たちだから、費用はこっち持ちになる。

 もとの家賃が四万円しないので、一年半分の家賃が全て飛ぶことになる。

 駅から五分の土地なので固定資産税もそれなりには取られる。

 しかも、夜逃げなんかされようものなら、残していった家具などを一定期間、預かって管理せねばならなく、その倉庫を借りる費用もこちら持ちとなる。

 それで家賃が未払いの世帯が半分あるわけだから、普通に持ち出しの慈善事業になっている。

 他のアパートや分譲マンションの賃貸との合算で計算してなんとかなっているが、この古い木造の二件だけではしっかり赤字だ。

  

 しかしまぁ、確かに、古くて汚い。

 私が物心ついたころだから、二十一の頃だったと思うが、休みの日に親父に頼まれて、ずっと空き室だった部屋の掃除を手伝いに行った。このアパートに入るのは久し振りだった。

 リフォームされ、清掃されていたのだが、数ヶ月ほど次の入居者がなくて、それで掃除に行ったのだと思う。

 私は、友達から『豪邸』とか言われていた家に住んでいたので、そのアパートを掃除するために中に入ったときには、自分の家との違いにただただ驚いた。

 あまりのショッキングさに私は心神喪失状態に陥り、思わず「いやー、しかし、よくこんなところに住んでいる人がいるもんだなぁ」と呟いてしまった。

 貸している家主側が言っていいセリフではない。

 まぁ、しかし、それだけボロい。古い。汚い。

  

 そのボロアパートしか借りられない人がいるわけで、しかもそういう人は滞納するわけで、夜逃げしたりするわけで、こういう人には貸したくなくて、こういう人は余計に借りるところがなくなって、というスパイラルに陥るため、慈善事業感覚で赤字経営を続けていたのだが、さすがに半数の世帯が家賃を滞納するとどうにもならない。

 そのうえ、古い木造建築なので、耐震構造が云々という問題ではなく地震に危ない。

 こういう人たちというのは、権利系にはうるさい人たちが多かったりするので、地震で被害があったときには訴えられかねない。

 そうなってくるともう、莫迦のお人好しの如く慈善事業の赤字経営でアパートを貸しているのも考え物だという真っ当な結論に向かっていて、家賃滞納者から退去してもらって、新しいアパートを建て直そうという話が、また何度目かで出ている。

 店子に無礼な物言いだという批判も出るだろうが、うちのことだけを考えれば、本当は出て行ってもらって壊して建て直したいのだが、うちを出て行ったら他に借りられるのだろうか? という心配もあるので、新規を取らないという消極的な方法しかないだろう。

 そう思っているのだが、管理会社が家賃の催促に行くと、どっちが債務者かわからないような対応をされることも多いらしい。

 死んだ祖父の意向もあって今まで続けてきたわけだが、どうも仇で返されているようにしか思えない。

 私としては、周辺住民にも迷惑だと思うから出て行ってもらったほうがいいと思うのだが、そうは簡単にはいかないようだ。

  

 その中で、圧倒的に金払いの良い世帯がある。

 子沢山の母子家庭だ。

 子供が六人が一世帯。子供が五人が一世帯。子供が三人が二世帯。この四世帯は滞納がない。母子家庭にもかかわらず。

  

 子供が六人と五人の世帯は、入居時は両方とも子供は四人だった。母子家庭にもかかわらず、入居してから子供が一人と二人増えた。

 管理会社の説明によると、二世帯とも、旦那とは離婚していて、四人の子供を全て引き取って母子家庭であり、生活保護を受けているという。

 そして、管理会社に出した報告では、月額四十万円ほどお金が入るということらしい。それが全て生活保護によるものか、旦那からの養育費とかも含むのか詳しくは聞いていないが、ワーキングプアーには鼻血が出そうな話だ。

 私はその話を聞いたとき、管理会社の人に「それなら偽装離婚して、女は母子家庭で生活保護を受けて、旦那は旦那で扶養家族を諦めて収入を得たほうが賢いですね」と言ったら、管理会社の人は慣れているのだろうか「それでしょうね」と言った。

 そして事実、なんか男の出入りがあると聞いていたら、何故か子供が増えていたりした。

  

 なんとも納得のいかない話なのだが、生活保護家庭は、家賃の支払いが一番優先されるらしい。

 だから、この四世帯は、支払い状況は極めて良い。

 母子家庭が四世帯で、家賃滞納が四世帯で、普通に収入から支払いをしているのは一世帯しかない。

 もう、どうにもならんな。

 どこをどう考えても建て直したほうがいいような気がする。

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2007-10-03

[] 丘の上の莫迦は沈む太陽に回る地球を見ている 17:54  丘の上の莫迦は沈む太陽に回る地球を見ているを含むブックマーク  丘の上の莫迦は沈む太陽に回る地球を見ているのブックマークコメント

  

 id:ululunさんからトラックバックがきた。

 内容自体は私宛ではないのと、私はただ知っている情報を証言しているだけであるから、それはともかくとして、以下のような記述を見た。

私は瀧澤達也このはなさくや姫さんと違って、私の目で見たものしか信じません。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070926/1190775019

 この「自分の目で見たものしか信用しない」というのは、いわば言葉のあやではあるのだろうが、なにか自分が頭が良いことを言っていると思っているか、あるいは何か格好良いことを言っているつもりのような感じで使われることが多い。

 「自分の目で見たものしか信用しない」っていう私は周りに左右されない格好良い生き様だと思わない? という空気を醸し出しながら言う人が性別問わず多い印象だ。印度象だ。

  

 自分の目で見たものしか信用しないって、どんな狭い世界だけで生きてるんだよ。

 江戸時代の百姓だってもっと広い世界で生きてただろ。

  

 太陽のほうが空を動いているのを、昨日も見たし今日も見た。太陽は東の地平から昇り、てっぺんを通って、西の地平に沈んでいく。

 お日様のほうこそ動くんだよ。それをこの目で見てるんだよ。見たことないの?

  

 私は「自分の目で見たものしか信用しない」という人を『天動説の人』と呼んでいる。これが意外に多い。

 その生き様を徹底するのであれば格好良いのだが、残念ながら、自分の目で見たものしか信用しないで生きていくのは殊の外難しい。当たり前だ。

 地動説を信じるためにいちいち惑星の運動を観察して、ケプラーの法則から計算して、それから「よし、俺は自分の目で見たから地動説を信じるぞ」なんて、効率が悪過ぎる。

  

 「それでも地球は回っている」の言葉が有名なガリレオは、地動説を唱えたことで異端審問を受け、終身刑を言い渡された後、軟禁生活を余儀なくされたと言われている。

 ガリレオは晩年、両目を失明している。失明した後も、口頭筆記で執筆活動をしている。

  

 地動説の支持者だったガリレオが両眼失明しているのに対して、「自分の目で見たものしか信用しない」と言いながら、太陽が沈むのを毎日のように見ているのに、なんとなくその地動説が正しいと思っている人がいるというのは、なんとも皮肉な話だ。

  

 少なくとも、自分で自分を見れば、自分の目で見たもの以外を信じている自分が見えるだろうに。

 自分で見たものは信じるとするならば、マギー審司もミスターマリックもナポレオンズもみんな超能力者だ。

 自分の目なんかを、そこまで信じられるということは、ちょっとだけ羨ましい気もしないでもない。

ululunululun 2007/10/08 18:55 じゃあ言い方を変えてやるよ。「あんたの言う事は信じない」

takisawatakisawa 2007/10/09 04:04 なら最初からそう言えばいいのに。
ululunさんは、オッサンでありながら子供らしさをいつまでも失わない人ですね。
でも、私はマザコンなので「お前のかーちゃんでーべそ!」とかは言わないように。

2007-10-02

[] 俺に理解ができないような難しい文章を書いている奴はみんな莫迦 17:53  俺に理解ができないような難しい文章を書いている奴はみんな莫迦を含むブックマーク  俺に理解ができないような難しい文章を書いている奴はみんな莫迦のブックマークコメント

  

難しい話はよく分かりませんが id:aozora21さん 

せつないエントリ群(元記事は削除)

  

 「内容がわからないけれども」という宣言をした上で批判するというやり方を、私が言及されているところで連続して見かけた。*1

 これを専門的には「バカの開き直り」問題と言うのであるが、開き直って「私は莫迦ですから」と言えば許されるとでも思っているかのような杜撰な批判をしたりする。

 自分が理解できない文章に反発を感じて「俺に理解ができないような文章を書いている奴はみんな雑魚」みたいな逆切れをする人は、多くはないけど少なからず存在する。

 あるいは「教養のある人はもっと別な有意義なことを率先してやれ。私には難しくてできないんだから」みたいな皮肉を言ったりする。

  

 それに対してインテリがいやらしい皮肉と言うか、正道で逆に追い詰めていたりする。

フタエノキワミで半径ワクが埋まる夢を見て疲れる

エートス・パトス対ロゴス

 インテリならではの酷い指摘なのだが、その指摘の意味を掴むにも理解が必要で、その理解をするにはまた難しいのであって、皮肉であることはわかるんだけど、どう皮肉であるのか難しい話はよく分かりませんが、という皮肉になっていたりする。ほとんどいぢめだ。いい意味で。

 私がやられるとしたら、それこそ保険の掛け合いの空中戦で、腐れインテリ病の極みになりそうで嫌だなぁ。楽しいとしても疲れそう。

 とっとと「彼女には酷いかもしれないけど、筋の通った良い指摘だろ」と胸を張って主張しちゃったほうがよほど楽だと思うんだけどなぁ。

 もっとも、その「良い指摘」は「酷いいじめ」極まりないものであって、私は誰かを傷付けてでも指摘する意義はそれなりに認めるけれど、torlyさんが「言論で(隠微な)いじめっぽい構造が生まれることに気を配る必要性」について、どのようなことを書くのかわからないので、期待と不安でいっぱいになった状態で待たなきゃならなくなるわけだけれども。

 それでも少なくとも今のような明らかに不自然な詭弁で嘘っぽい言い逃れを続けるよりは傷口が浅いと思うのだが。あるいはそれをするほど強くないのならば「指摘されて酷いと気付きました。傷付けてしまってごめんなさい」と言ったほうが、今みたいに嘘に嘘を重ねているように見られるよりはマシなんじゃないかな。

 なお、「そういう意図ではないと言ってるじゃないか」という本人の主観は参考意見にはなれども、逆に言えば、参考意見にしかならないので注意が必要。言表内容は唇を離れた瞬間から(以下省略)。

  

 『せつないエントリ群』にて「本当に頭のいい人は、めっちゃくちゃ難しいことをわかりやすく書くことがふつうにできる」と最後の二行に書かれていた。

本当に頭のいい人は、めっちゃくちゃ難しいことをわかりやすく書くことがふつうにできる。

君たちはそういう意味ではアタマワルイよ。そのへんもせつないが。

http://72.14.235.104/search?q=cache:8Mz9dvM37NUJ:anond.hatelabo.jp/20071002155959+%E4%B8%89%E6%B5%81%E7%A7%81%E5%A4%A7%E3%80%80%E6%88%B8%E5%B1%B1&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp

 このエントリに対してインテリ二人が否定のエントリをあげている。

何処から突っ込めばいいのか

「頭のいい人は、難しい概念も簡単に説明できるはずだ」問題

 id:torlyさんは「頭のいい人は分かりやすく書けるというのは甘い考え」だと言い、id:teraccaoさんは「頭が良い人は頭が良い時点で頭が良い(大意)」と言っている。

 ここでは「頭がいい」というのは「理解力」という意味に特化して差し支えないだろう。社会生活を円滑に行えるという話とかは誰もしてないだろうし。

 「本当に頭のいい人は、めっちゃくちゃ難しいことをわかりやすく書くことがふつうにできる」という俗説を未だに信じちゃっている人がいるようだが、残念ながら「できません」。

 こちらのブックマークコメントでは、説明する側の意識の問題として「優しく説明する気がない」という場合や「理解する知能と説明する表現力の違い」として受け取ったりする人が多いが、それも大きな影響を与えるのだけれども、一番大きな要因は「受け取り手の知能」の問題である。東大元総長の蓮實なら「わからないのは、あなたが莫迦だからです」で終わらせる話だ。

  

 そもそも論として、自分がその概念を「わからない」人間が、自分が理解できていないのに、その説明が「わかりやすい」のか「わかりにくい」のか、判断ができるはずがない。

 莫迦と言うのは理解力に乏しいから莫迦なのであって、理解力が著しく欠ける者にはどれだけ説明しても理解はできないのだし、最下層の莫迦にまで理解を促進させるように書こうとするならば、普通程度の莫迦にさえ回りくど過ぎて余計に理解ができなくなる説明になったりする。最底辺の莫迦にわかりやすい説明は、他の人にはわかりにくい説明になるわけだ。

 これでは、自分が理解できた説明は「わかりやすい説明」であり、自分が理解できない説明は「わかりにくい説明」と言っているに過ぎなくなる。

 つまりこれは、自分が理解できない莫迦であることを、説明者の責任にしているだけで、なんともみっともない。

 結局は、「わかりやすい説明」か「わかりにくい説明」かは、概念を理解できている人間のみが判断可能な事柄であり、「私にはさっぱりわからなかったんだけど、この説明はわかりやすかった」と言うことがないのと同様に、「私にはさっぱりわからなかったんだけど、この説明はわかりにくかった」ということも、原則的には有り得ない。*2

  

 しかも、この人は情けないことに、自称三流私大の出身だと仄めかしている。

 読んでわからない文章に出会ったときの、そのどうにもならない悔しさを「俺は三流私大を出てるんだ。決して世間的に莫迦ってわけぢゃないんだ」というプライドの担保の仕方が救いようがないほど情けない。みみっちい自意識を抑えられない悲しさが滲み出ている。三流私大(戸山)の恥さらしである。三流私大が事実ならば、校風を守り、三流私大の矜持ぐらい持てよ。

せっかく少々の頭脳と親の経済力に恵まれて三流私大(戸山?)までおいでになって、そのテクニカルターム操れるだけの学問身に着けたんだから、もっと社会的に問題になっている現象とか分析して処方箋考えてみるとか自分なりに悩むとか外部からみて有益な情報をブログで提供せんかい!

http://72.14.235.104/search?q=cache:8Mz9dvM37NUJ:anond.hatelabo.jp/20071002155959+%E4%B8%89%E6%B5%81%E7%A7%81%E5%A4%A7%E3%80%80%E6%88%B8%E5%B1%B1&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp

 私には普通に、親の経済力に恵まれて自称三流私大(戸山)まで行っておきながら、id:torlyさんの文章すら「ほとんどまったく意味不明。かろうじて誰かを馬鹿にするために書かれたものらしいとわかるのみ」という親の金の無駄遣いこそ心配すべきだろうと思う。三流私大は昔の校名の○○専門学校に戻して大学を名乗るのをやめたほうがいいんじゃないか。ほんとせつないよ。

 そもそも三流私大(戸山)で社会的に役に立つ有益なことなんか学ぶはずもないだろう。四年間、何を学んできたんだか。

馬鹿で結構。こんなものわからんでもよろしい。

 その通り。こんなものわからなくても日常生活に影響はない。量子力学が理解できなくても日常生活に影響はないのと同様に。だからわかる必要はない。ただ黙っていればいいだけの話だ。しかし莫迦とは、黙っていられないから厄介なのだ。

  

 id:torlyさんの文章は、確かに莫迦にはわかりにくい。つまり私にはわかりにくい。二三回読み返したり普通にする。しかし、ishさんに比べたらよほどマシだ。

 私はishさんのエントリを解読するために、目から血を流しながら一億回以上読み込んで、丸一日かけて血尿を垂れ流しながらなんとか理解したことがある。もうちょっと莫迦にも優しくして欲しいのだが、それを根拠にしてishさんに「ishさんはそういう意味ではアタマワルイよ」と言う度胸はないな。

  

  

 あと私見ながら、一番最初のパラダイムシフトを伴う概念の理解については、どれだけ上手い説明をもってしても、受け取り側のタイミングが合わない限り、難しいように思う。

 少なくとも反発心を持って聞いていれば手前の部分で反発して終わってしまうし、逆に全てを受け入れて聞いていては、言葉の表面上だけ個別に理解して、他の同様のケースにも応用のできない理解になりそうだ。

 反発心もなく、程よく自分で考えながら、破壊し再構築する工程を受け入れられる状態でなければ、どれだけ説明が上手くても理解はできない気がする。

 そういうのは、説明を聞いているタイミングではなく、後になって一人で説明を反芻しているとかに「気付き」が訪れるのではないかというイメージだ。

 説明を受け入れるには、思考の枠組みの中で理解をしようとするものであり、思考の枠組みを解体する説明を既存の思考の枠組みで理解しようとする自家撞着というか自家中毒によるものと思われる。

*1:「言及した箇所はわかっている」とか「姿勢を問題にしている」という言い逃れはそれぞれ「自分的」にはあるのでしょうがタイミング的に重なったという話です

*2:てらっかおが書いている「矛盾」ね

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/21 12:47 関連記事あげました。
「知っていると想定される主体」への抵抗
http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20071021

2007-10-01

[] 『子どもが育つ魔法の言葉』の「詩」について 18:23  『子どもが育つ魔法の言葉』の「詩」についてを含むブックマーク  『子どもが育つ魔法の言葉』の「詩」についてのブックマークコメント

  

 昨日付けからの続きです。

  

 元の「詩」の個人的な感想については、事情もあって詳しく書く気はなかったのですが、書きますと、私は以下のように評しています。

綺麗事の詩に綺麗事を返して、それを皮肉る人が現れたら、最後に出たのは「人間性を疑う」だった。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062

 この「詩」は「綺麗事の詩」です。

 草さんは、「こうした認識に立ってみれば」という仮定の前提条件に限定した上でですが「奇麗事のウンコポエム」と書き、価値が無いと書いています。

こうした認識に立ってみれば、「こう育てればこう育つ」というような教育マニュアルや奇麗事のウンコポエムに、たいした価値が無いことは明らかだろう。

http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20070925/p1

 繰り返しますが草さんの発言は、仮定の前提条件に限定した話ですからね。誤読しないように。

 私はこれを「綺麗事の詩」だとは思いますが、ウンコだとも思わなければ、価値が無いとも思わないんですね。前提条件が違うので。

 「綺麗事」には綺麗事の価値があるからです。

  

 私は、俗流道徳には、俗流道徳の良い点もあれば、悪い点もあると考えます。

 「人を見て法を説け」「嘘も方便」であって、俗流道徳はモラルを生むこともあるし、生活の知恵としての世間知になることもある。

 その一方で、俗流道徳は、俗流であるが故の生臭い説教臭はするし、俗流である限界をすぐに露呈する。わかり易さ故に意図的に歪められて流通させられるなどの弊害も生む。

 しかしそれでも、モラルとしての価値規範になることは、非常に多い。

  

 元の「詩」が、どういう意図で、なんの目的で書かれているのか?

 あの「詩」は、「標語」だと考えればいいのです。

 「子供を殴るな」「愛情を持って育てよう」

 そういう「標語」なのです。

  

 たとえば交通安全の標語があります。

 「注意一秒、ケガ一生」

 この標語を読んで、「たった一秒の注意を怠ったがために、一生治らないケガをすると脅迫されているようで嫌いだ」と言う人はいないでしょう。

 この標語は「事故に気をつけろ」と言っているわけです。

 道路を歩くときにビクビクさせる目的ではなく、今そこで起きる交通事故に喚起を促す目的で書かれているわけです。

  

 あの「詩」は、今、ここで殴ろうとしている親の拳を止めるために書かれたものです。たぶん。

 あの「詩」が厳密な意味で事実かどうか、などということは極めてどうでもいいことであって、親に殴られそうになっている子供が殴られないように手を差し伸べるならば、嘘であれ、後ろからの羽交い絞めであれ、手段は何でも良いわけです。

 「子供を殴るな、っつー要旨はわかるけど、そのダシに『殴られて育った子供』を使うなよ。殴られて育った子供が傷つくぢゃんか」というのは理解できるわけですが、あの「詩」で、これから殴られる子供が減るのならば、それはこれから殴られる子供が減るほうにプライオリティを置けばいいんぢゃないか。

 まして、すでに大人になっている「殴られて育ったかつての子供」が古傷で傷つくかどうかよりも、今殴られるのを防いで、同じ経験をする子供を減らすことのほうが大事ではないのか?

そう思われるんでしたら今すぐ子供に手を差し伸べてください。救ってください。

http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070915/1189870062#c1189957170

 この「詩」によって、殴ろうとしたのを思いとどまる親が一人でもいるならば、この「詩」こそが、今すぐ子供に差し伸べられた手であり、救うための「綺麗事」だと言えるわけです。

 本当に今殴られている子供を救いたいのならば、今子供に差し伸べられている手に「嫌いだ」とか「非科学的だ」とか言っている場合ではないわけです。

  

 「子供を殴るな」「愛情を持って育てよう」「事故に気をつけろ」

 これらのメッセージを伝えるために、手を変え品を変えて注意を心に留め置かせようとするならば、より効果的な言葉を選んで使おうとすることは当然のことです。

 ただ「子供を殴るな」とか「愛情を持って育てよう」とか「事故に気をつけろ」というよりも、別の視点からも心に残そうとする努力の一環です。

 「注意一秒、ケガ一生」という標語に対して、「交通事故に遭う際の『不注意』である時間が一秒であると言うのは統計的に有り得ず非科学的である」とか「交通事故における被害が一生治らないという統計は出ていないし、嘘である」とかケチをつけてもしょうがない。子供じゃないんだから。

  

 まず手を差し伸べて救うべきは、「こう育てられたらこうなるかも」と言われて不安になるかもしれない子供や、まして「大人」などではなく、今から殴られようという「子供」でしょう。

 この「詩」が綺麗事だろうが、嘘だろうが、非科学的だろうが、今殴ってる親が思い止まり、殴られている子供が助かるなら、その「標語」として「差し伸べられた手」にケチをつけても始まりません。

 そして、この「詩」を読んだ、今殴られている「子供」がもし傷ついたならば、精神分析という胡散臭い疑似科学っぽい認識に小首を傾げて立ってみれば、傷が癒されるかもよ、と手を差し伸べるのも一つの手でしょう。

なまえーなまえー 2007/09/27 21:38 おわ、偽物がリンク先の米欄にいる・・・

takisawatakisawa 2007/09/28 15:38 なまえーさん
どっぺるげんがーですね。


ふぇざえんさん@ぶっくまーくこめんと
>この記事には同意だが草さんを「前提条件に限定した話だから誤解するな」というなら、びーさんも同じ条件では。びーさんのような背景を持った人が書いた記事なんだから誤読するなとなる/

そうじゃなくてね、もっと「論理」の話で、つまりは意見表明の「主体」の問題なの。
書いた人の「属性」の話ではなくて、その発言者を「主体」とする意見表明かどうかということ。
誰がその考え方をしているのか、という「主体」の違いね。意見の「主体」の持ち主は誰か。本人か、それとも第三者なのか。
つまり、たとえば、「私はユダヤ人に恨みがあるから、ユダヤ人を皆殺しにすべきだ」という場合、これは境遇や所属がどうであれ、この発言者が「主体的に思って」言っているわけです。
これに対して、「エルンスト・リュディンの優生学の立場に立てば、ユダヤ人を皆殺しにすべきだということになる」という場合、その内容の是非はともかく、この発言者が「主体的に思って」いるかどうかはわかりません。
ユダヤ人に恨みがあって「ユダヤ人を皆殺しにすべきだ」と思って言っている人に、「あなたの考え方は間違っている」とか「せめて半分にしておけ」とか反論する意味があります。本人が主体的に思って言ったことですから。
しかし、「ある視点から見ると」という前提の場合、その人がその視点の考え方であるかどうかわからない以上、その人に「あなたの考えは間違っている」とか「皆殺しにしようなんてとんでもない」と言っても意味はありません。その人自身が、その視点にいるとは限らないからです。

怒りに任せてだろうが、感極まってだろうが、自分の「主体的」な考えの表明で発言する場合、その「前提」を考慮するかどうかは「政治的」な判断になります。
「気持ちはわかる」とか「まぁ、あのときは取り乱していたからね」とか「可哀想といえば可哀想だから仕方がないよ」とか、発言者と受け手の「政治的判断」で処理する問題です。
しかし、草さんは「こういう主張をしている人もいるよ」という紹介しかしていない。自分の意見を「主体的」にそれだと表明しているわけではない。これは「政治的」以前に「論理」として、そうなるのです。
草さんが、紹介した主張と「私も全く同意見です」とか「主体性」を持って表現しているわけではないですからね。

だから、全くの別物ですよ。

takisawatakisawa 2007/09/28 16:24 ふぇざえんさん
ごめんなさい。「こっちを先に読んだ」って、そういう意味か。了解しました。

ohnosakikoohnosakiko 2007/09/29 00:34 前日の記事に書かれていたことと関連しますが、とりあえずこっちで。

「統計的事実」を否定して瀧澤さんの論に反論しているかに見える人ですが、「統計の扱い方についてつっこみたい人」(とりあえず部分反論?)の他に、瀧澤さんの示した「世間知」という宗教への反論があったように見えます。それはあの詩の示す世間知が「差別」を招くという認識の元での反論で、重要なのはこっちです。たぶんb_say_soさんの言いたいこともそれです。

詩の内容が「事実かどうか」はそこでは問題にされていません。論文ではなく詩なんですから。その言説効果の負の部分、自分を傷つけた部分に着目し、問題だと言ってるわけです。そして「弱者」や「差別」に敏感な人は多いから、彼女の記事は共感を呼んだのです。文章に当事者の苦しみや不安が見え隠れしていれば、一層です。

「差別イクナイ!」はまず当事者問題、PCの問題で、そこに世間知をぶつけて反論者を説得するのは(説得しようとしているように見えるんだ)、なかなか大変だと思います。http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070923#c1190978789で「コンサバ/リベラル」て話だとつまんねと書いたのは、どうもそういう構図に見えてきそうだと思ったからです。

>「注意一秒、ケガ一生」
この標語を読んで、「たった一秒の注意を怠ったがために、一生治らないケガをすると脅迫されているようで嫌いだ」と言う人はいないでしょう。

この標語をあの詩と同じものとして挙げるのは、ちょっと不適当でしょう。だってここに「差別」は絡んでこないもの。‥‥というツッコミはあるでしょう。

もともと特に興味も持てない詩ですが、bさんの読み方は理解した上で私の意見を言えば、悪いのはその詩ではなく、詩を利用、曲解して「差別」を助長したり、他人の親や子を貶める「人」の方です。まあ瀧澤さんは差別は必ずしも悪くないと言うわけですが、そこはとりあえず置いといて。
詩に罪はない。そんなこと言ったら、どんな文学作品も映画も「私を傷つけたから、差別に繋がるから嫌い」て切って捨てることができます。

で、その反対にもってこられるのが、「人はいつでもかわれる、間違いはいつでも挽回できる」http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070920/1190301287です。凡庸な世間知(環境は人を作る)に凡庸な言説(人にはさまざまな可能性がある)で返しているだけなのに、平等思想や人権主義や民主主義信仰と一体化したそういう「希望の言説」が何の疑いもなく賞揚されてるような空気が、個人的にはひたすら気持ち悪いです。

takisawatakisawa 2007/09/29 23:53 大野さん
>「統計的事実」を否定して瀧澤さんの論に反論しているかに見える人ですが、「統計の扱い方についてつっこみたい人」(とりあえず部分反論?)の他に、瀧澤さんの示した「世間知」という宗教への反論があったように見えます。

部分反論も何も、私は「統計」の是非については全く言及してないんですけどね。

>その言説効果の負の部分、自分を傷つけた部分に着目し、問題だと言ってるわけです。

そうです。だからこそそこには「統計的事実」を取るのか、「反差別という宗教」を取るのか、という問いが発生したわけですよね。
自分の「宗教」に自覚がないと気付きにくいので、なかなかわからないのでしょう。
ただ、そのうえで言えば私は「宗教」や「理念」の説得力ではなく「効果」の比較をしてしまっているわけですが。だから「反論」があるとするならば、「効果」の比較がされるべきなんですけどね。「非科学」とか「差別」とか「偏見」とかに沿っているかどうかじゃなくてね。
それこそ「超高偏差値の美人が傷つくほうが、子供が虐待されるよりも重大だ」という主張こそ出てきたら喜んじゃうんですが。

>「差別イクナイ!」はまず当事者問題、PCの問題で、そこに世間知をぶつけて反論者を説得するのは(説得しようとしているように見えるんだ)、なかなか大変だと思います。

そうでしょうか? 
「差別的な世間知」を認めないという人がいるのならば、本人が、恋人が、子供が、母親が、世間知で「危険地帯」と判別されて差別されているスラム街を一人歩きをすれば、させればいいんですよ。
嫌がらずに一人歩きするなら莫迦だし、しなかったり嫌がるくせに「差別じゃないもん。危ない所に行かないって世間知は非科学的だもん」とか言ってたら、こちらはアルカイクスマイルを返すしかないでしょう。
「私の恋人や娘や母親が売春婦になると言ったら反対するが、売春婦差別には反対だ」みたいなね。「私は売春婦を差別しますよ」と言えばいいのに。

>「コンサバ/リベラル」て話だとつまんねと書いたのは、どうもそういう構図に見えてきそうだと思ったからです。

あの詩の示す世間知が「差別」を招くというのであれば、その「差別」の被害者の大人よりも、さらに「弱者」である「虐待を受けている子供」を守ろうという詩なのですから、ここに「リベラル/コンサバ」という図式であるならば、「それ、リベラル的にどうなのよ?」という問題がある、と思うんだけどどうなの? と髪と声が掛布の人が言っていますが如何でしょうか?
「あのですねぇ〜。弱者や差別に敏感ならばぁ、よりいっそう相対的な弱者であり相対的に差別である児童虐待を第一に考えろって話ですねぇ、えぇ〜」

>この標語をあの詩と同じものとして挙げるのは、ちょっと不適当でしょう。だってここに「差別」は絡んでこないもの。‥‥というツッコミはあるでしょう。

いや無いでしょう。
交通事故による身体障碍者になった人は、思いっ切り「差別」を感じるし、「傷つく」でしょ?
「お前が一秒以上も不注意だったから、お前は交通事故に遭って、不具者になって他人の世話になって生きることになったんだ」
そう言われている気になる「交通事故による身障者」は、あの詩には比較にならないぐらいに「差別」を感じて「傷つく」でしょ。

>詩に罪はない。そんなこと言ったら、どんな文学作品も映画も「私を傷つけたから、差別に繋がるから嫌い」て切って捨てることができます。

根底は「表現の自由」ですか?

>平等思想や人権主義や民主主義信仰と一体化したそういう「希望の言説」が何の疑いもなく賞揚されてるような空気が、個人的にはひたすら気持ち悪いです。

いやー、庶民はこんな感じでしょう? 大衆というべきか。逆にそうでなければ困るし。

ぶっくまーくこめんとのaozora21さんは、「迷いながら答えを探しているのが愛しいですが」というのは、賞揚されてるような空気を作る人々ですかね?
それとも、びせいそさん個人のことをおっしゃっているのでしょうか?
あの詩への批判について「私は幼児虐待についてトラウマを持っている。だからこの詩を批判する。それは“瀧澤のようにはこの詩を受け取れない”という、構造的無知(原因について目を反らし続ける)を作り出す。ほらほら、私自身のこの批判態度が、その証拠であり実例だ」という訴えだという認識をaozora21さんはされていると私は認識していますが、正しいですか?
「トラウマ」概念自体が事実であると仮定して、そうであるからといって、周りが気を遣って口を噤まねばならない、という完全な理由にはならないんですよね。まして「人間性を疑う」と書くと。まぁ、政治的(暴力的)にある程度は封じることはできるんですがね。
ふぇざえんさんの言うとおり(?)、人間性を疑わなければ、私も言及しなかったわけですが、まぁ「人間性を疑う」と書くこと自体が「トラウマ」のなせること、という解釈もできますけどね。もうね、なんでもありで。

ohnosakikoohnosakiko 2007/09/30 20:49 瀧澤さん、以下は別に反論ではございません。また瀧澤さんの意見に反論する人を代弁しようとしているのでも(全然)ないです。コメント返されると返したくなるという性と、やりとりしないとうまく整理できないという個人的事情に従って書いています。なので「どうでもいいじゃん」とか「わかりきってることをgdgdと‥‥めんどくせ」と思われるところは無視して頂いて結構です。

>ただ、そのうえで言えば私は「宗教」や「理念」の説得力ではなく「効果」の比較をしてしまっているわけですが。だから「反論」があるとするならば、「効果」の比較がされるべきなんですけどね。「非科学」とか「差別」とか「偏見」とかに沿っているかどうかじゃなくてね。

単に推測で言えば、あの詩を良いものとして受け止める人の方がずっと多いだろうとは思います。ただ個人的感情として「嫌い」と言う人に、その立場を相対化して「効果」の比較を求めてもなかなか難しいでしょう。「どういう良い効果があったって、私は嫌いなんだ」で終わりになる可能性があります。
批判に共感する人が一定数いて、「あれ?「負」の効果って結構あるのかねぇ」と思ったわけですが、それも彼らが最初からそういう読みをしていたのか、b_say_soさんの心の叫びに共感したからなのか、はたまた何でも穿って読む人がはてなには多いのか、痛ましい背景が感じられる言説には無条件降伏なのか、はわかりません。「反論」以前に、そこんところを知りたいな。

>それこそ「超高偏差値の美人が傷つくほうが、子供が虐待されるよりも重大だ」という主張こそ出てきたら喜んじゃうんですが。

そのうちインテリメガネさんが主張してくれると思います。ペダンティックな言説を捨ててど真ん中勝負するんだ!

>「差別的な世間知」を認めないという人がいるのならば、本人が、恋人が、子供が、母親が、世間知で「危険地帯」と判別されて差別されているスラム街を一人歩きをすれば、させればいいんですよ。

いや「差別的な世間知」ではなく、世間知が運用される際に起こる差別でしょ。世間知そのものが否定されているわけではないと思います。

>あの詩の示す世間知が「差別」を招くというのであれば、その「差別」の被害者の大人よりも、さらに「弱者」である「虐待を受けている子供」を守ろうという詩なのですから、ここに「リベラル/コンサバ」という図式であるならば、「それ、リベラル的にどうなのよ?」という問題がある、と思うんだけどどうなの? と髪と声が掛布の人が言っていますが如何でしょうか?

まあそれが妥当な落としどころだと思います。でも最底辺の弱者以外は何か言ってはいかんのか?という切り返しもありますわね。
念のために言っておきますが、私が「リベラル/コンサバ」図式で捉えているということではありませんし、誰かがはっきりそう書いたということでもありません。ただ「空気」を先取りして読んでみただけ。なぜかというと、瀧澤さんがはてな女子に絡む度に「セクハラの好きな保守的男性」説をしつこく流したがっている人がいるということとは別に、世間知より個人の実感重視、マジョリティよりマイノリティ尊重(というか感情移入)という傾向がそこはかとなくあって、それを図式に当てはめて捉え、図式を裏返したりその外を考えることのできない人が多いような気がするからです。私がそう感じているだけの話ですが。
あと「髪と声が掛布の人」はめんどくさがって出てこないのですか? 

>交通事故による身体障碍者になった人は、思いっ切り「差別」を感じるし、「傷つく」でしょ?

それは読み方が違うためだと思います。
まず、暴力を振るう人は差別、非難されていいという社会常識はありますが、身体障碍者が差別、非難されていいという社会常識はありません。ただ重大な結果を引き起こすかもしれないことを知っていて不注意な人間は、時として非難の対象となるということは言えるでしょう。だから警告が発せられます。事故に遭わない(起こさない)ような注意は自分の意志できるし、力に頼るような子供を作り出さない配慮は自分の意志でできると。どっちも「自分次第だから気をつけなよ」と言っています。
しかしある種の読み手は、子供の立場、つまり「自分の意志で災難を回避できない立場」から読み取りをします。そして、その子が将来「力に頼ることを覚える」暴力的な人間になると決めつけられていると受け取り、その読みは他人の家庭環境をあざ笑い自分の教育を肯定したい人々に悪用されるものだから、そこに「差別」が生まれるとする。どうしても選び取れない環境や運命を根拠にされるのが、もっとも本質的な差別ですから。交通標語にそのような二重の読み取りをする余地はありません。だって自分が注意すれば避けられることだもん。

そういうツッコミが、読み方の違いで生じるんじゃないかということです。
従って、なぜ読み方が違ってくるのか、単にb_say_soさんと瀧澤さんの背景が違うだけの問題なのか、書き手の意図と異なる読みをした上での批判に賛同が集まったのは何故か?は考察に値する問題だと思います。

>根底は「表現の自由」ですか?

いやそういうことを言いたいんじゃなくて、「物語」には不特定多数に伝えるべき何らかの知見があるわけだから、批判を書くならそれをひっくり返すくらいの強度は必要だろうという話です。難しいんですけどね。書き手の意図と異なる読みをするのは自由だし、面白い誤読は大賛成です。別に必ずしも論理的である必要もなくて、感情を込めて説得的に書くということはあるわけですし。

>ぶっくまーくこめんとのaozora21さんは、「迷いながら答えを探しているのが愛しいですが」というのは、賞揚されてるような空気を作る人々ですかね?

よくわかりませんが、無条件賞揚とはちょっと違うのかなという感触です。それより「愛しい」ってのがひっかかりました。「彼女は今迷いながら答えを探している。私も若い頃はそうだった。かつての自分を見るようで愛しい」みたいな(違ったらごめんなさい>aozora21さん)。そんなこと私が書いたらbさんには「何を上から目線で。人の気も知らないくせに」と思われそうで書けません。

>それとも、びせいそさん個人のことをおっしゃっているのでしょうか?

びせいそさん個人というよりは、「弱者」(とそこでは看做される者)の発する「可能性」の言説、「希望」の言説への付和雷同現象です。そこに行くくらいなら「希望は、戦争」に賛同する方がまだ若干はマシに思えます。
もちろん日常の様々な局面では、私も「もう少し仕事内容が評価される可能性」や「50過ぎても女性と看做される希望」や「知人の子供のがんが治って知人が元気になる希望」や「福田が安倍や小泉よりマシである可能性」を考えます。ただ本の後書きに「希望はない。だからこそ勇気がある」とカッコつけて書いた立場からはですね、あえて違和を表明したいですね。

>ふぇざえんさんの言うとおり(?)、人間性を疑わなければ、私も言及しなかったわけですが、まぁ「人間性を疑う」と書くこと自体が「トラウマ」のなせること、という解釈もできますけどね。

だから最初から言ってるでしょ、書き方、対応の問題ですって。で、それをも「『トラウマ』のなせること、という解釈もでき」るのなら、「ルール」なんか関係なくなってしまうわけです。
でもそれっていいよね。私もあんなに「ほのめかしは卑怯」って言われるなら、「まともに反論するとこっぴどくぶたれてはっきりものが言えなくなった」というトラウマのなせることで仕方なかったと同情を買えばよかったよ。。

takisawatakisawa 2007/10/09 04:01 >その立場を相対化して「効果」の比較を求めてもなかなか難しいでしょう。「どういう良い効果があったって、私は嫌いなんだ」で終わりになる可能性があります。

「嫌いなものは嫌いだ」に対しては、個人的な感想を言えば、子供っぽいとは思いますが、それでいいんですよね。「あっそ」ですから。私も基本的には「あっそ」のスタンスですから。

>「反論」以前に、そこんところを知りたいな。

なるほどね。

>そのうちインテリメガネさんが主張してくれると思います。ペダンティックな言説を捨ててど真ん中勝負するんだ!

私は沢尻エリカ様で主張することにしました。

>いや「差別的な世間知」ではなく、世間知が運用される際に起こる差別でしょ。世間知そのものが否定されているわけではないと思います。

え? 構造的には一緒でしょ?
身の危険を避けるという「世間知」を運用することで、差別が強化されているわけで。違う話をしてますか?

>暴力を振るう人は差別、非難されていいという社会常識はありますが、身体障碍者が差別、非難されていいという社会常識はありません。

え? 交通事故を起こした人、でしょ? 暴力を振るわれた人に対応するのが身体障碍者ぢゃなくて?

>どうしても選び取れない環境や運命を根拠にされるのが、もっとも本質的な差別ですから。

バカでブスで親が貧乏な人が怒鳴りたくなるような話ですね。

>交通標語にそのような二重の読み取りをする余地はありません。だって自分が注意すれば避けられることだもん。

「ドラえもん」の漫画を買いにいって、帰りに横断歩道で轢かれた知り合いは、本を袋に入れたままであったにもかかわらず、漫画を読みながら帰って来たせいで轢かれたと親に怒られてましたよ。

>書き手の意図と異なる読みをした上での批判に賛同が集まったのは何故か?は考察に値する問題だと思います。

綺麗事へのアンチはニヒルで格好良いというのと、発言者のツィッターが女子高生みたいで可愛いのと、超高学歴で可愛いのと、他にありますかね?

>そんなこと私が書いたらbさんには「何を上から目線で。人の気も知らないくせに」と思われそうで書けません。

aozora21さんのブックマークコメントは、酷いけれども面白い指摘で、私は高く評価していた(上から目線)のにグダグダになっちゃいましたね。

>それをも「『トラウマ』のなせること、という解釈もでき」るのなら、「ルール」なんか関係なくなってしまうわけです。

そんな他人のトラウマなんて知ったこっちゃないんじゃないんですか? 政治は九十九匹に向いているものです。あぶれちゃったら「宗教」に行けばいいんですから。

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/09 16:46 >え? 構造的には一緒でしょ?
身の危険を避けるという「世間知」を運用することで、差別が強化されているわけで。違う話をしてますか?

ああ、納得しました。ちょっと言葉尻を捉え過ぎました。ごめんなさい。

>え? 交通事故を起こした人、でしょ? 暴力を振るわれた人に対応するのが身体障碍者ぢゃなくて?

ええそうなんですけど。あれ?どこでこんがらかったかな。
「交通標語は差別を生まないけど、あの詩は差別を生む」という反論が起こり得る理由を考えていたんですけど。まあ私がそういう反論したいわけじゃないのでいいです。

>綺麗事へのアンチはニヒルで格好良いというのと、発言者のツィッターが女子高生みたいで可愛いのと、超高学歴で可愛いのと、他にありますかね?

「世界にたったひとつの花」教。「人はいろいろです」教。「頑張れば未来が」教(←全部繋がってる)。

>aozora21さんのブックマークコメントは、酷いけれども面白い指摘で、私は高く評価していた(上から目線)のにグダグダになっちゃいましたね。

あれ以上どうしようもなかったので、相手の想像力や文章能力の欠如によるこちらの無理解と、嘘言い逃れをされていることと、自分にとってどっちが厭かと考え、厭じゃない方を選択しました。

>そんな他人のトラウマなんて知ったこっちゃないんじゃないんですか? 

その通りだと思います。

takisawatakisawa 2007/10/10 00:40 >「世界にたったひとつの花」教。「人はいろいろです」教。「頑張れば未来が」教(←全部繋がってる)。

新規のエントリでも書きます。

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