DQNとストレス

  
 知り合いから聞いた話。
 知り合いの従姉妹には小学二年生の男の子がいるそうなのだが、その従姉妹は二年生の子供を寝せてから、大人だけで外に遊びに行ったそうなのだ。
 夜中に知り合いの従姉妹が家に帰ると、二年生の男の子は目が覚めていて、怒り泣きしながら母親を出迎えたそうだ。
 怒っている子供を宥めるために夜中にファミレスに連れて行ったところ、子供はファミレスでこう怒ったそうだ。
「目が覚めたらお母さんがいなくて、探してもいなくて、待ってて凄くストレスが溜まった」
  
 以前ならば「お母さんがいなくて寂しかったんだよぅ!」とか言ったものだ。
 男のガキの特有の強がりもあるのだろう。「寂しかった」という弱みを見せたくはなかったのかもしれない。
 しかし、どこまで行ってもこれは「寂しくさせられて腹が立った」としか言いようがない。小学校の低学年が「ストレスが溜まった」とは片腹痛い。
  
 子供が、親がいなくて寂しくて、その寂しい思いをさせた親に腹を立てるけれども、しかし親が恋しくて待っているんだけれどもやっぱり「なんで居てくれないんだ」と当たりたくなる気持ちを表現したいのに出る言葉が「ストレスが溜まる」。
 普段から大人が使っている言葉が子供に移っていくことは良くあることで、以前は大人だけが使っていた「ストレス」という言葉を子供が使うのも当たり前の流れではあるのだが、それでも「何を偉そうに」という気はしてしまう。
  
 id:gyu-sanさんの過去のエントリに『便利な言葉』というものがある。
 ほぼ日常語と化している『DQNという言葉について書いている。
 日常生活において、特に運転中など「あーもぅ、あいつDQNだよ」とか「あっぶねーなー。DQNかよ」という言葉がつい口をついて出そうになる場合があるほどに、DQNは汎用性のある言葉である。
 私も親と話しているときに何度か「あのー、だからあれだよ、あいつら、いわゆるDQNなんだよね」と言いたくて、他に代替の言葉が当てはまりにくいし、見つけられなかったり、置き換えるのが面倒くさかったりすることがある。
  
 新語であれスラングであれ、定着するものとは、大凡の場合、その概念に合致するような適当な言葉がなく、それをお誂え向きのようにカバーする言葉が定着する。
 DQNなんて、言葉を一度認識してしまったが最後、どうして今までこの言葉がなかったのだろうかと不思議に思うほど、時代にマッチしている。
 マミー石田で初めて見たときには、そんなことになろうとは予想もしていなかったほど、便利な言葉として成り上がっていると言っても過言であろうがとにかく便利だ。
  
 新しい言葉を使いこなすようになったとき、それはあたかも、それまでは意図する概念に合う丁度良い言葉がなかったように思ってしまうし、事実そういう面もあるのだが、実はその逆も考えられる。
 DQNという言葉を手に入れたら、その言葉に当てはまる概念が形作られるのだ。
 「概念があるから、それを名付ける言葉が生まれるのだ」というのは、あたかも「人間が集まるから社会ができる」と同じぐらいに自明のように思えるが、実はどちらも相互的であって、漠然とした「新しい言葉」に伝えたかった概念を全て押し被せる作用が働く。言葉に後から概念が固まり作り上げられていく。
  
 夜中に目が覚めたら母親が居なくて、寂しくて泣けて、泣くほどの状況にした母親に怒れて、母親が恋しいのに怒りの矛先を向けたくなるアンビバレンツな感情を「ストレスが溜まる」と表すとき。
 そこには、母親が居なくて寂しいという弱みは微妙に隠され、そして同時に、怒りの対象者も微妙に隠され、ただただ発言者の心の内部にのみ「ストレス」というものが「溜まる」という状態が表されている。
 概念に合う丁度良い言葉と思えるような言葉であっても、そこから切り落とされている感情や情報はいっぱいある。
 その一方で、多くを切り落とすことによって、わかった気になれる言葉の便利さは手放せない。
 ただ、もともと言葉というのは、伝えたいそのほとんどを取り零すものであるということだけは意識の隅にでも置いておきたいものだと知り合いが言ってました。