「仄めかしメソッドは全て私が引き受ける」

  
 「どうしてid:tomo-moonさんに酷く当たるのか」という意見があり、それに答えるとするならば、別にともさんに対して当たっているのではなく、「議論の治外法権」に対して当たっているのです。
  
 はしごたんの話のときでもそうだし、びせいそさんの話のときでもそうなのですが、ネットで議論や意見交換をする場合、私は原則対等な立場で行いたいという希望があるわけですが、例外的なポジションに立つ人、もしくは立とうとする人が出てきます。
 自分が他者を攻撃するにもかかわらず、自らが他者に攻撃を受けると「傷ついた」と「被害者というアンタッチャブル」と化し、傷つけた側を悪者にするという「治外法権」を壊したかったわけです。
 女性が多いわけだけれども、それはただ単に、男で「僕ちん傷ついたー」と泣き言を垂れ流す奴は滅多にいなくて、いたとしても、通常は「マザコンお疲れ」で済むわけで、どれだけはてな村が特殊だといっても、そんなのは複数人もいたりはしないでしょう。「そうかー、ボクちゃん、可哀想だったねぇ」なんて、大人の社会では考えられないわけですよ。
  
 ともさんがよく使う技で「仄めかしメソッド」というのがあります。
 例えば、すぐ上の「僕ちん傷ついたー」などがそのメソッドに依っています。
 この「仄めかしメソッド」って気に入らないんだよね。
 せめて「私のこと?」とか言われて、もし「違います」と言うなら、違う誰なのかぐらいは書けよ、とか思うわけです。
 というのも、否定するほうはあたかも「自意識過剰なんじゃないの?」みたいな態度であしらうことができる。仄めかして攻撃した上に、追い討ちをかけるように「自意識過剰なんじゃないの?」と侮辱できるわけです。そういうならば「じゃあ誰なのよ」みたいになるのは必然で、その姿をまた嘲笑できたりするわけです。これは汚い。まさしく卑怯者のやり口です。
 仄めかされて「これは俺のことだと思いますが」と反論を書いたら「あなたのことじゃないですよ。自意識過剰じゃないですか? 長々と書かれてもあなた宛じゃないので返事に困ります」と書かれたり、書かれているのを見ると、もうその相手の仄めかしには触れたくなくなります。大抵は「自意識過剰だと思われるから、反応しないでおこう」という「大人」な対応をするようになるものです。
 それこそ「子供」の思う壺です。味をしめて繰り返すでしょう。「大人」な対応が、仄めかしメソッドを甘やかせて増長と助長させるわけです。
 「仄めかして言っておけば、こちらが悪口を言っても、相手はきっと返してこないからね。返してきても『あんたのことぢゃないよ』でOKだし」と、言いたいことは言ってやりたいけど、自分が言われるのは嫌だという性根の人にはうってつけのやり方になっていくわけです。これは卑劣でウザい。こんなんで口を噤んで良いものか。
  
 ほとんど便衣兵やゲリラ戦のようです。
 あるいは「流れ弾に勝手に当たって大騒ぎされちゃーねぇ」みたいな。撃つならきちんと狙って撃てよ。
 そうなるとね、もうさ、手法を使う人を批判するか、買って出るしかないんだよね。
 いつまでもしつこく答えるまで「で、本当は誰のことを言ったの?」と言う。
 もしくは「いいや、断固として私のことを言及した」と言い張るしかない。
 明らかに関係のないところにもガンガン突っ込んで行く。
 「ギークなおネエさん」とか仄めかして誰かに皮肉を書いていたら、私がギークでもなければおネエさんでなくとも「俺のことかーっ!」と突っ込んで行くしかない。
 「あなたのことではありません」とか言われても「いいや、俺のことだ。俺に言及したな」と頑として引かない。
 「あなたはギークでもなければおネエさんでもないでしょ?」
 「そんな言い逃れが通用するか。これは絶対に俺のことだろ!」
 一周回って逆に格好良い。
 「釣り」という逃げ方に対して、id:feather_angelさんが「まじめに言っている人にとっては「釣り」とは罵倒であることもある。負けず嫌いが非難を浴びて逃げの口上で「釣り」使う時もある。複雑すぎて解らないのでネタでもマジレスしてやる」と意気込みを見せていて、これこそ、一周して正しい大人の対応でしょう。
 私がある人に「全ての仄めかしはお前が引き受けろよ」と要請したところ、「お前が『仄めかしメソッドは全て私が引き受ける』と宣言しろよ」と言われました。嫌だよ。すげー疲れそうだ。
  
 そもそも、たとえともさんが何度も繰り返して弁明しているように「O野さんはワンノブゼム。その中でも後の後の方」だとしても、「本人の主観」なんて公表された文章においては「読み方のワンノブゼム」であって、重要な参考意見のひとつでしかない。
 ましてやツィッターで「いやO野さんにカミツキ亀なわけじゃないのよ。まじで。いろいろうざいからリンクはしなかったけどw」と皮肉口調で触れるならば、最初から流れ弾になるように仕向けていたと取られるのも織り込み済みと考えるべきであって、そうでなければよほど想像力や人間関係の配慮に極端に欠陥があるという話にもなりかねません。
 ともさんもとっとと「ラヂオさんに向けて書いたんだけど、あのへんと関わり合いになりたくないから、仄めかして書きました」と言ったら良かったのに。
  
 因みに、ツィッターだろうが、断片部だろうが、公開された文章については容赦する必要はないでしょう。そんな「ツィッター断片部での悪口は触れてはいけません」などという「はてな村の掟」などというローカルルールを言われても、わしゃ村議会の政治の話なんて知らんよ。
 文章を公開するのならば、言及されることぐらい覚悟しようよ、そこはさ。まして他人の悪口や非難や批評を書いておいて「愚痴にまで言及される」も糞もないだろうに。なら、こっちのこれも愚痴だ。言及することならん。
 あと「まるっきり見当違いなワタシ像」とか、分析が見当違いであるというのは、自分本人がわかるという話ではないことぐらいはさすがに理解できてますよね? 「本当のワタシを知っているのは、ワタシだ」とか勘違いしちゃってます? 「自分」というのは、自己認識だけで規定されるものではなく、他者の認識で大きく規定されるものです。というか、そのズレで苦しんでるんでしょ? 私をもっと認めて、って。
 「自分」について、自己申告だけで規定されるのならば、裁判での殺意は全て否定可能になるわけですが、社会としてはそうなっていないでしょ。自己認識なんて参考意見のひとつに過ぎないのです。だから根拠と説得力の勝負になるわけですが、ともさんはやたらと「違う」と言うだけで、どう違うかの根拠と説得が足りていないように見受けられます。目を瞑って耳を塞いで「違う」と言いさえすれば否定されるという世界認識をしているわけではございますまい。
 個人的にはともさんがどのように自意識を守ろうともかまわないのですが、それは飽くまでもともさんが誰も攻撃していないときの話であって、自分は言いたいことを言って他者を傷つけるけど、自分は手段を選ばず自意識を守りますというのは、あまりにムシの良い話なので、私は認めません。
 もちろん、ツィッターだろうが、断片部だろうが、愚痴るのは全然OKですよ。ただ「揉めたくないから名前は出さないでおいてやるわ」みたいな自意識防御があろうとも、「反論を喰らいたくないだけの池乃めだかメソッドでしょ? それで通ると思ってるの?」と、空気も無視して書いちゃったりするわけですが。愚痴るのも自由、愚痴に言及するのも自由。はてな村はどうか知りませんが、それ以外ではそんな感じになっています。
  
 ともさんが私に言及されて気に病まないのならば、私もともさんに言及することに気を病む必要はないわけですし続けることも差し支えないはずです。もしも、私の言及でともさんが怒ったりアタマに来ているとするならば、ともさんが仄めかしでネガティブに言及している人たちも、怒ったりアタマに来ていると思ったほうが良いでしょう。自分が腹が立つのに、他人は怒らないとでも思ってるわけでもないでしょう。
 自分は批判したいけれども、自分が批判されるのが嫌だというのは、多くの人間が内心ではそうであるのでしょうが、それをそのまま表に出してしまうから、ネット以外での他者とのコミュニケーションが苦手だったりするんだろうね。あ、これは私のウェブログで感想を言っているだけだから気にしないでね。まぁ、池乃めだか風に「アレの言うアレなんて気にしてないわよ」と言ってくれると信じていますよ。
 私は、ともさんも他者に対してネガティブなことを書かないのであれば、私はともさんに対してこのようなエントリを書くこともなかったでしょう。しかし、これでともさんが他者にネガティブな言及をしなくなってしまっては、ともさんも、ともさんの読者も、ともさんのウェブログが面白くなくなってしまうと思うんじゃないかな。だから、他者も批判するし、他者にも批判されるし、で良いんじゃないかな。早く打たれ強くなってね。
 私に対して、ともさんに酷すぎると思っている人や、あるいは喧嘩しないで仲良くして欲しいという人は、ともさんのネガティブ言及や仄めかし誹謗中傷で傷つけられている人のことを、どう考えているんだ? その人たちは心を痛めていればいいわけ?
 私は、ともさんが特別にアンタッチャブルの恩恵を得る理由はないと考えています。
  
 私にとっては「はてな村の空気」よりも、「治外法権を壊す」ほうが重要ですので、「はてな内コミュ能力」という高い政治力を背景にアンタッチャブルになられてしまうのは、はなはだ都合が悪いわけです。
 別にともさん個人が嫌いというわけではないので、アンタッチャブルであったり、治外法権でさえなければ、私はノータッチでも友好関係でもいいんですけどね。別にともさんその「人」が嫌いなわけではないので。
  
 ただ「愚痴るのも自由、愚痴に言及するのも自由」となると、ヴァーリトゥード状態になり、言論弱肉強食の世界になり「強い者が弱い者を叩き、弱い者が口を噤む」というネット社会になるのではないか、という懸念があるわけですが、これについては「弱い者が泣き言を言って何が悪いか問題」として、後日書きます。