力士の小躍り このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-05-23

[] 神様を信じる強さを僕に 22:40  神様を信じる強さを僕にを含むブックマーク  神様を信じる強さを僕にのブックマークコメント

  

 私は基本的にジブリ作品はほとんど見ていなかったのだけれども、ジブリの絵職人・男鹿和雄展を見に行った。

 私は絵のことはわからないのだけれども、森の作る陰影と木漏れ日の光の対比が非常に印象に残った。「上手い具合に描くなぁ」という極めて素人くさい感想である。

 で、絵そのものの感想ではなく、おそらくは監督の宮崎駿の趣味なのだろうけれども、その森に、祠や鳥居や社や道祖神などといった土着宗教絡みのモチーフが多く描かれていた。

 森、そこに自然というテーマがあるのだろうけれども、それ以上に、人智の及ばない奥行きとして、森を鎮守の杜にしているのだろうと思うのだが、ジブリ作品をあまり見ていない以上なんとも言えないし、おそらく見ている人の緻密な分析が既にされていると思う。

 ただ、展覧会を見て思い出す出来事があった。

  

 私はギックリ腰の癖がある。

 こないだもぎっくり腰をやって二週間ぐらい寝込んだ。

 寝込んでいるところに身内の人が一歳になる子供を連れて家に来た。

 私が動けなくて寝込んでいるのを見て、一歳の子が治そうと「痛いの痛いの飛んでけ」とやろうとした。それが痛いわけであるが、その子はさらに私の腰に「ちぅ」とキスをした。

 私はその一歳の子の接吻に思わず勃起するところであった。

 その子にとって、転んだりして痛いことがあったとき、両親や祖父母にしてもらうことを真似て、私にしているわけだ。

 それは単なる形式的な儀式であるのか、あるいは、それで本当に痛みが消えると一歳の子が信じているのか、それは私にはわからないが、とにかく微笑ましくて笑ってしまった。動けるものなら抱擁してディープキスぐらいしたい勢いだ。

  

 数日後、まだ寝込んでいる私に電話があった。

 その親子からだ。母親が「調子はどう?」と心配してくれていた。まだ寝込んでいることを告げた。

 すると母親が面白いことを言った。一歳の子が、私の腰が早く治るように「何かにお願いしてるよ」と言うのだ。

 私は何気なく「ああ、神様にお祈りしてくれてるんだ」と答えると、「うん。何かにお願いしてる」とのこと。

 ああ、違うんだ。

 「神様」ではなく「何か」。

 「お祈り」ではなく「お願い」。

  

 私は概念として「神様」に「お祈り」するという形式上のイメージを持ってしまっているが、子供にとってみたら、自分でも親でも解決できない、人の手を超えてしまっていることを叶えたいと思うのを、そのまま「未知のもの」に「願う」わけだ。*1

 手を合わせて言挙げるという、かなり原初に近いものですら、形式であることを思い知らされる。そこには「縋る」という剥き出しの欲望と謙虚さしかない。

 事実、私は、その「お願い」された「何か」によって、ぎっくり腰は治るわ、盲いた目は見えるようになるわ、聾しい耳も聞こえるようになるわ、唖した口も利けるようになるわ、萎えた足も歩けるようになるわ、癩病も治るわ、ヤコブ病も治るわ、水の上も歩けるわ、ウハウハになりました。

 御利益という観点から語ることこそ莫迦莫迦しい合理主義的視点であることを承知の上で言っても、この効果は目覚しい。なにしろ現代医学では治らないものまで治るのだから。

  

 現代日本では、なんらかの宗教を信じることが酷く格好悪いことのように思われている風潮がある。

 「僕らの生まれてくるずっとずっとずっとずっと前にはもう人類を月に行かせた科学主義が、全世界を遍く照らして闇をなくしているというのに、どうやって宗教を信じることが出来るの?」という話である。

 宗教を信じる奴は、どっかちょっと精神が弱くて若干イっちゃった奴というイメージを持たれがちだ。

 新宗教の勧誘に持っていかれちまう弱さ。オウム真理教事件における宗教やっている奴ってちょっとね感。911におけるイスラムによるテロ事件での「宗教なんか信じるから殺し合う」論。伝統宗教における坊主や宮司どもの俗物的地味さ。池田大作

 宗教なんかやっている奴は騙されている莫迦で、無宗教にあらざらむ者はみな人非人なるべしと言っても過言ではない。

  

 親を含め、宗教話が可能な関係性の人と話をすると、ほとんどの人は「宗教なんて、ねぇ。なんであんなもの信じるんだろうね」的なスタンスをとる。

 宗教を信じている奴は莫迦で、無宗教の俺って格好良い、という前提でもあるかのようだ。

 だが、たかだか現在の科学力如きで万能感を持つのは、ちょっと恥ずかしいのではないだろうか。

 ままならぬことを「何かにお願い」するという縋りたい気持ちこそ、宗教の本質であり、これを否定する「思い上がり」こそ、無様で醜悪で格好悪いを極めていると言える。

  

 しかし、その「手を合わせて言挙げる」ことすら形式的に思わされる「畏怖の念」という宗教の本質というか原初を身を以って感じてもなお、知識として「宗教は儀礼的な形式」が必須であることも知ってしまっている。

 人間は弱さ故に信仰が必要であるにも関わらず、その弱さ故に形式がないと信仰を続けられないのだ。

「本質」から離れることによってのみ、人間は信仰を続けられるというのは、もはや人間の業と言っても良いかもしれない。

 無宗教であることを自称するのは無知であり知的怠惰であるのだが、ある特定の宗教を選び取ることもまた、相当の覚悟を必要とする話である。

 とりあえず私は、最近はご利益の薄いエリカ様教を棄教し、その一歳の子に帰依することに決めた。似ているので、仮の御真影として石井萌々果ちゃんを使おうと思う。

*1:まぁ、親と寺社参りはしているから、完全に規制の概念の形式から自由なわけではないが

西元和夫西元和夫 2008/06/02 02:25 タイトルのフレーズについて、あえてそれが歌詞の一節であることをいわないのは理由がありますか。著作権?
宗教は「信じる」以外のアプローチもあります。

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