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2008-03-16

[] 科学者の天体運動の研究と百姓の足元の泥濘 03:20  科学者の天体運動の研究と百姓の足元の泥濘 - 力士の小躍り を含むブックマーク  科学者の天体運動の研究と百姓の足元の泥濘 - 力士の小躍り のブックマークコメント

  

 ブログ「しあわせのかたち」から、文学とは何か? と、そのコメント欄から発生した次の記事、「学問」、「科学」という名の信仰という二つの記事をあわせて読んだ。

  

 「物語の読み方は自由である。唯一の『正解』は『読者の数だけある』」という話についてなんですが、先サイトのコメント欄では、明らかな莫迦は間違っている、もしくは莫迦といって差し支えないのではないか、という話をしている。

 それすらせずに、線引きなんてできないよね、という相対主義的撤退戦というのは、あまりにも臆病過ぎていて、何も言っていないに等しくなるというか、そもそも論として元のテクストの価値すらも否定するものではないか、という話である。

 この時点で話についてこられない方はいないとは思うけれども、いたとしたら、その人はもう莫迦と言って差し支えないのではないか、というのが私の主張である。

  

 たとえば、日本最古の物語ともいわれる『竹取物語』を読み、「この作者の言いたいことは、朝食を摂る重要性とそのダイエット効果にある」などと言っていれば、余程の裏がない限り、間違っていると言ってしまったほうが良い。

 ただ、同じぐらいの偏差値に思えるような「美人ってわがままでも許されるって話だよね」というのは、一見莫迦っぽく思えるかもしれないけど、強ちどころか、まるっきり外れていないため、これを間違っているということは難しい。

 その一方で、「ブルジョアや権力を持つ人間は酷い目に遭うものなのだ」という共産主義のプロパガンダ的理解になると、知的なのか莫迦なのか一周まわって判断に困る。

 しかし、どこまでいっても「朝食を摂る重要性とそのダイエット効果という話」という読みは、間違っているとか、ハッキリ莫迦だと言うべきだろう。

  

 「学問」、「科学」という名の信仰という愚にもつかない記事の最後で、以下のような記述がありました。

 ある種の考え方、思想、論考は、それが優れているだけに、一見「なんにでも使えてしまう」ように見えてしまいます。マルクスの考え方も、フロイトの考え方も、ボーヴォワールも、レヴィ爺やポパーの考えでさえ、「それが有効な場面と、そうでない場面がある」ということを常に意識しておくこと。

 そうでないと思想自体が死んでしまう(マルクス主義がよい例ですね)ということは、再三指摘されていいことだと思うので、書いておきます。

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20080315/1205558393

 これは本当でしょうか?

  

 私が先ほど書いた、竹取翁の物語の共産主義的プロパガンダ風理解の類のことを指していると思われますが、そんなんで思想が死ぬんでしょうか?

 例えば、竹内久美子がどれだけ利己的遺伝子を万能風に書いたとしても、それで死ぬのは、ドーキンスでもダーウィンでもなくて、トンデモ竹内の信憑性だけでしょう。

 マルクス主義が死んだのは、トンデモによりオールマイティに使われたことよりも、実践してみたんだけど、誰も実践し切れなかったし、どうも、誰がやろうにも無理っぽいよね、という死に方じゃないの?

 遺伝子であれ脳内物質であれ無意識であれジェンダーであれ、一元的に、もしくは二項対立で、世界中の全てを語り得てしまえるという考え方が眉唾なのは世間知としてはその通りではあるのだけれども、マルクス主義がそうすることによる死に方であったのかどうかは、疑問を感じます。

  

 イデオロギーというのは、世界の切り取り方とも言えるわけで、原則的にはそのイデオロギーのフィルターを通して、世界を見るわけですから、そのイデオロギーは万能として使われるのは、ある意味で止むを得ない面もあります。

 問題は、イデオロギーによって、他の切り取り方が莫迦に見える場合というのがあります。

 例えば、日本で最も有名な物語の一つである『桃太郎』。

 反実力成果主義で年功序列主義の生徒が「この物語では、活躍如何に関わらず、きび団子が支給されるという安心感により、ファミリー的な団結が生まれ、犬猿の仲と言われるほど仲の悪い犬と猿が協力し合い、その結果として強大な鬼にすら勝つこともできるという教訓が含まれている」と答えたとする。

 これを、リベラリストの教師が「この生徒は駄目だ。被雇用者である犬猿雉は、きび団子を労働前に支給されるという、いわば前借金制度の被害者であり、嫌でも強大な鬼と戦わなくてはならない、ほとんど奴隷として扱われる可能性について問題視すべきだろう」と判断するかもしれない。

 さらにこの生徒の父親は反植民地主義オリエンタリズムで「一方的に『鬼(野蛮)』と呼ばれて差別される者が、鬼退治なる正当化のためのスローガンとともに、畜生どもに侵略されて襲われる悲哀を描いた話なのに」と先生に詰め寄るかも知れない。

 その話を聞いた生徒の母親は、自分の夫に「桃太郎が勇敢であるという描写は、ジェンダーの規範を押し付ける物語であり、爺さんが芝刈りに行き、婆さんが洗濯するというのも、女性を家事に押し込めるという、男社会を強化させるための物語だ」と言うかも知れない。

 あるいは人によっては桃太郎を単なる英雄譚として「桃太郎って勧善懲悪で鬼をやっつけるヒーローだよね」と読むかもしれない。

 ここまでくると、どのイデオロギーが莫迦で、どのイデオロギーが深いというよりも、筒井の「一杯のかけそば」分析や、スケベメガネおっさんによる『大塚愛「さくらんぼ」分析』のように、知的遊戯のネタなのか、あるいはマヂなのか、「もうそれって『桃太郎』は関係なくね?」ってレベルに至ったりする。

 それ、別に『桃太郎』から読み取るのは間違ってんじゃねーの? というね。

  

 ただ、一つだけ言えることは、ある一つのイデオロギーや、一つの読み方しかできない者が、自分の読み方を「これが正解だよね」と思い込む読み方よりも、複数のイデオロギーによる複数の読み方をできるだけ多く踏まえた上で、一番妥当であったり、知的であるものを「選び取る」という工程を経たものの方が、間違いなく価値が高いのではないか、ということである。

  

 莫迦にはどうやっても理解できない高度な読みというのは少なからず存在し、その読みの価値が、「だって、考え方って人それぞれだよね」などという莫迦な妄言一つを印籠のように相対化させて「どっちも等価値」なんかにしてしまって良い訳がないと思うんですけど。

ohnosakikoohnosakiko 2008/03/16 13:01 またブログタイトル変わったんですね。

議論が分裂しそうでどっちの記事に書いたらいいのかわかりませんが、私がつっこみ損ねたところが書かれていて、そこは実際その通りだと思いました。

sho_taさんが相対化メソッドを出してくる時、対象になるのが大抵マルクス主義だったりフロイト精神分析だったりフェミニズムだったりして、まあそのくらい思想として影響力をもったものだから当たり前ではあるもののちょっと気にはなっていたんだけど(ロマン派右翼だからしょうがないけど)、「思想、イデオロギーってそもそもそういうものです」というのは当たり前のことですね。
それを根底から覆す思想と実践が登場し、それが何らかの実を結んで初めて、元の思想は「死んだ」(というか有用性を失った)と言えるのであって、それもないのに相対化だけでは弱いなあという気はします。マルクス「信者」やフェミ「信者」が嫌いというのは、心情的にはわからないでもないですが。

>マルクス主義が死んだのは、トンデモによりオールマイティに使われたことよりも、実践してみたんだけど、誰も実践し切れなかったし、どうも、誰がやろうにも無理っぽいよね、という死に方じゃないの?

マルクス主義の世界認識は基本的には間違っていなくて、否定されたのはむしろレーニン主義で、それもまだヨーロッパで資本主義が成熟していない時期に無理矢理革命が行われたから、歴史的にも地政学的にも無理があった、マルクス・レーニンを教条化した旧ソ連共産党に問題があった、またマルクスも資本主義がここまで強大でしたたかなシステムだということまでは見抜けなかった‥‥と。えらい乱暴なまとめですが、そんな説はマルクス研究者の間でよく見られるようです。まぁそういう批判でないと、思想も浮かばれないと思います。
でもラカンを批評的に読み替えているジジェクは、レーニン主義を「実践」として評価してますよね確か(と、ここはsho_taさんに向けて)。

sho_tasho_ta 2008/03/16 13:33 レス書く前に大野さんと瀧澤にちょっと質問です。
私は当該エントリで、

> これは自分自身の判断基準が「時代性と地域性に限定されたものである」と認めたうえで(相対主義スパイラルを一周回ったうえで)「やはり、選択肢が多いほうが賢いし幸せである」と、「宣誓(信仰告白)」するのがよいのではないかと思います。

と書いているのですが、これは読んだうえでの話なんですよね? とりあえずこの一文を踏まえたうえでの話だということでいいですか?

ohnosakikoohnosakiko 2008/03/16 14:28 >sho_taさん
踏まえていますし、その内容にも基本的には同意です。
で、sho_taさんは豊富な選択肢の中からそのつど、「これが正しいだろう」という何かを選び取っているんですよね? それは豊富な選択肢を視野に入れるだけの教養と知性を、sho_taさんがもっているからですよね? つまり「間違った答はない」とポストモダンっぽく言っても、実際は相対化を徹底しているのではない(だからあちらのコメ欄に「シニシズム」ではないと思うと書きました)。
「莫迦」は具体的にどういう選択肢があるのかさえ知りません。ただ「わーい、なんでもありだぜ」と思っているだけです。
そういう差異が厳然としてあるということを、はっきり言ってもいいのではないか?という話だと思うのですが。

2008-02-21

[] 『アーティスト症候群』 22:55  『アーティスト症候群』 - 力士の小躍り を含むブックマーク  『アーティスト症候群』 - 力士の小躍り のブックマークコメント

 ネットで注文した『アーティスト症候群』が届いた。

  

 主人公で不器用な高校生である墓本鬼太郎の学校から、全国愛国弁論会のグランプリ受賞者が選ばれる。その表敬訪問に、二千七百年前の祭司を祖に持つ皇帝一族の春礼親王が学校を訪れたことから物語は始まる。

 学校の廊下に張り出された墓本鬼太郎の絵に、春礼親王は目を留める。春礼親王は鬼太郎の絵を譲ってもらいたいと言い出す。春礼親王は皇帝一族でも随一で芸術に造詣が深く、国内でも有数の目利きと知られている。

 校長は鬼太郎を呼び出し、春礼親王に先の絵を献ずるように勧める。鬼太郎は戸惑う。鬼太郎の絵は、高校生とも思えないような稚拙なもので、鬼太郎本人もただただ不器用な子供の下手糞な絵レベルだと自覚していたからだ。

 鬼太郎が「こんな下手な絵を親王殿下に献上するのは恥ずかしい」と固辞すると、春礼親王は「一億円の謝礼でどうか?」と持ちかける。鬼太郎は驚くも「こんな絵に一億円も貰えない」と無料で進呈しようとするが、春礼親王は後日必ず支払うからと連絡先を記録して御所に戻る。

  

 後日、黒いスーツを着た遣いの者がアタッシュケースに三億円を詰めて鬼太郎の家に来た。

 先日の絵に約束の一億円と、新たに十枚の絵を描いてもらい、それを総額二億円で買い取りたいという。

 鬼太郎は「一枚二千万円の絵などどう描いていいのかわからない」と断るのだが、鬼太郎の母親は欲に目が眩み「親王殿下に不敬があってはならない」と、鬼太郎に描くように強要する。

 鬼太郎は何をどう描けばいいのかわからぬまま、子供の落書きのような下手な絵を描くのだが、春礼親王はそれに満足し、「なんとも言えない絶妙な味わいと暖かさがある」と評価する。

 春礼親王の後押しもあり、絵につけられた一億円という価格も話題となり、鬼太郎の絵は大評判となる。

 鬼太郎の絵を「子供の落書き」と評する芸術家や評論家も現れるが、嫉妬に狂う才能の無い画家だとか、絵の良さがわからない節穴評論家だとか批判され、さらには皇帝一族を崇め奉る団体に脅されるおまけまで付いて、批判する者は消えていく。

 鬼太郎の芸術家としての地位は飛躍的に高まっていく。

 鬼太郎の絵の評価が高まれば高まるほど、鬼太郎はどんどんと不安が増してくる。

 鬼太郎は、何がどうして評価をされているのかが自分で理解できていないからだ。鬼太郎は美術の先生に聞くことにした。

 これまで鬼太郎の美術の成績は五段階評価で「2」だったものが、突然「5」になったのだが、美術の先生も「今まではデッサンの力だけで評価していたが、これからは全体的な評価に変えたので……」などと言い訳をしていて、鬼太郎の絵がどう高く評価されているかを教えてくれなかった。

  

 春礼親王は「庶民にも芸術を楽しんでもらうため」との理由で、鬼太郎の絵を一枚競売にかけた。鬼太郎の絵は、林山財閥が個人収集の美術館に飾るために五億円で落札した。

 自分の絵に五億円の価値があるのか?

 鬼太郎は言い知れぬ不安に苛まれる。芸術家として評価されている自分の虚像と自分で理解している自分の実像の間に揺れてノイローゼ気味になってくる。

 やがて鬼太郎は、黒いスーツを着た男に命を狙われているのではないかと怯え始める。

 鬼太郎の怯えは、作家、表現者として、自己を見つめすぎるが故のエキセントリックな幻影であると見られていたが、鬼太郎のクラスメイトである平野祢子だけは、鬼太郎を殺すことにより、その絵に希少価値をつけて高く売ろうとしている春礼親王の企みで、実際に鬼太郎の命は本当に狙われているのではないかと確信していく。

  

 鬼太郎と祢子は、春礼親王の手下から逃げ延びられるのか?

 それとも、鬼太郎の芸術家としての重圧から来る精神的病状による妄想の産物に祢子も巻き込まれているだけなのか?

 現実と妄想が綯い交ぜになったような筆致でストーリーは続いていく痛快ドタバタ冒険活劇。

  

 読者の意表を突く最後の大どんでん返しはお見事としか言いようがない。一緒に逃げるうちに、鬼太郎が祢子に心を惹かれていく描写も面白い。

 鬼太郎は祢子に「美しさ」を感じ、この美しさを芸術として表したいと渇望し、その美しさを描こうとしてデッサン力の無さを嘆く場面などは滑稽でもあるが切ない。

  

 芸術性という、はっきりとした根拠が必ずしもあるわけではないものに振り回され、その不確かな根拠に多額の金銭的価値を乗せられる重圧と不安感。

 資本主義的市場主義的に取り込まれている「芸術」という『価値』を、その「かたちのないもの」をどう扱って、どう考えたら良いのか、を考えさせられる。

 「芸術」は、資本主義や市場主義に下部的価値観として取り込まれてしまって良いのか。そこを作者は問うているような気がする。

  

 「奇を衒う」ということと「進取の精神」の違いが曖昧になっている「現代芸術」に翻弄される鬼太郎の心の様は、実は、多少の程度の差で、全ての芸術家も感じている病なのかもしれない。

2007-10-08

[] 芸術の飽き 18:39  芸術の飽き - 力士の小躍り を含むブックマーク  芸術の飽き - 力士の小躍り のブックマークコメント

  

 ずいぶんと前に美術館に行ったのだが、特別展はとにかくべらぼうに面白かったにもかかわらず、常設点はさっぱり面白いと思わなかった。

 私は美術について全くわからず、ほとんど画盲と言って差支えがない。

 それでも緻密であったり迫力があったり細微であったり大胆であったりエキセントリックであったりサイケデリックであったり侘び寂び風であったりするのは、それなりに趣を感じたつもりになれるのであるが、どうにも理解不可能な分野がある。

 近代美術というのだろうか? 現代美術というのだろうか? シュールレアリズムになるのか?

 素人ながらの具体的な説明を試みると、大きなキャンパスに五センチ幅の白と緑のストライプが交互に並んでいるだけのものや、キャンバスを三本ナイフで切り裂いてあるだけのものが「芸術でござい」と展示してある。

 何が面白いのかがさっぱりわからない

 そこには独創性も芸術性も感じられない。奇を衒って外したようにしか思えない。キャンバスをカッターで三本切り裂くなんてね、私がもう一本増やしてやろうか、という気にさえなった。

 こんなもの、私が今からカッターでもう一本切り裂いたところで、この芸術性に変化はあるのだろうか?

 どうも私の見た美術館では、アメリカの1940年代あたりの作品を中心に、悉くつまらないの極致を極めに極めまくったものがあった。私は大東亜戦争前後のアメリカの芸術を「糞美術の時代」と勝手に名付けたいほどにつまらなかった。

 何も楽しめない。ただただ飽き飽きするだけの芸術である。

  

 私は特別展の面白さと、常設展のつまらなさ*1の落差に驚き、美術部の部長に解説を求めた。

 美術部の部長は次のように言い放った。

「あれはね、ある程度は美術史を通して包括的に理解していないとわからない部分があるんだよね」

 なんだよ。知の独占かよ。

  

 昔「俳句というのは芸としてどうなの?」という文学論争があった。

 「解説がつかないと意味も味もわからないものが芸術と言えるのか?」という視点から、「俳句は作者の名前を隠して見せられたら、名人作も素人作も違いがわからないのではないか」とか「解説もなしで単独で見せられたら意味がわからない俳句が名作とされているが、それは単独で芸術と呼んでいいのか?」とか言われた論争だ。

 これはある種の専門的な文脈を読む上での理解が必要であって、それはある意味では高尚であると同時に、莫迦は置いてきぼりという状態も生む。

 莫迦をどこまで掬い上げるかという問題というのは、高尚のインフレ競争によって引き起こされる面が大きい。

 その「解説がないと意味がわからない」というどうしようもない状態というのは、この「糞美術」にこそ当てはまるのではないか。

  

 とりあえず、わからないなりに解説を聞いてみたのだが、それでもやはりわからなかったので、全く理解できないまま私なりの解釈で解説をし直してみるが、何しろ私が理解できていないので間違っている可能性が極めて高いが、私はこう理解した。

  

 「芸術というのは、ずっと神に捧げるものであった。音楽然り、美術然り。しかし近代に入り、芸術は神から切り離されることとなった。神から自由になった美術は、その神の文脈から切り離され自由になったという、その自由を謳歌するために、それまでの文脈から如何に離れたことをやるか、というのがテーマになった。神から美術を人間の手に取り戻した凱歌が、近代美術だ」

  

 それはつまり、神にささげなくなったら、とたんにつまらなくなったということ?

 それまでのテーマから離れるのがテーマという、メタなものって、やっぱりつまんなくなってしまうというか、テーマから逃走するのがテーマというのは、意味があるのは一発目だけであって、後追いはことごとく二番煎じで面白くないというか、手を変えて同じことをしているだけというか、そういうことなのだろうか?

 文脈から外れることが新しい文脈、みたいな、結局は如何に文脈から離れるかという作業を全員でやってしまったら、そもそもの文脈自体を喪失してしまって、本来の目的自体が見えなくなってしまったということなのだろうか?

  

 この私の解釈が正しいとするならば、美術史を通して包括的に理解していると面白くなるというよりも、文脈を逸脱するためにメタ的に自家中毒を起こしている時代の刻印であり、歴史的な意味合いは残っているけれども、美術の作品としてはスカだった、としか思えない。

 キャンバスをカッターで三本切り裂くなんてのが芸術として認められているのならば、おそらく買ったばかりの白いキャンバスに、そのまま「心の中の修羅」だかの適当なタイトルをつけて「芸術だ」と言い張っている奴もいそうな気がする。

 買ったばかりの白いキャンバスだって芸術作品と言える、のか?

  

 私があまりにも芸術に疎いためか、結局はどうしても理解できなかった。

 こういうことを専門家に訊いていいものかどうか、逡巡しないことはないのだけれども、普段からデリカシーには定評があるのだし、聞いてしまおう。

 大野さん、近代美術?がつまらないのは、知の独占で莫迦にはわからないからですか? それとも作品がつまらないからですか?

 どのような文脈で読み取ったら、面白くなるのですか? 御教授いただけたら幸いです。

*1:一部を除く

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/08 22:39 呼ばれたんで来ましたよ。

近代以降の美術がわかりにくいのは、写真の登場によって再現性を手放したこと(絵画の場合)と、その時代の支配的美術様式や方法や考え方のパラダイムシフトを旨としたゲームに突入したためです。瀧澤さんの理解でだいたい合ってます。

再現性は復活していますのでパラダイムシフトについて、(ご存知かもしれませんが)一つ有名な例を挙げて説明します。
前世紀の始め頃、便器にサインをして美術館に置いた(今そんなことやったら中二病と言われます)デュシャンという人は、現代美術の父として奉られていますが、その便器をいくら「鑑賞」しても面白くも何ともありません。
その「作品」の意味は、「美術館に展示されていれば、みんな有り難がって鑑賞するんだね。それ、美術館って場所の特権性に騙されてるってことだよね。何で誰もそれに気づかないの? 」ということだったからです。
意地悪な人ですが、このくらい底意地が悪くないと美術史に名は残せませんので。

「何で誰もそれに気づかないの?王様は裸だ!」をいかに言うかを競っているのが、近・現代美術の歴史です。まあそれも70年代でだいたい終わったんですけど。

乱暴に言ってしまいますと、近・現代美術は莫迦=一般大衆にわからなくても一向に構わないです。
面白いと思えるようになるには、たくさん見ることと美術史とその近隣分野の勉強が必要ですが、最近は必要ないものも多いですね。だから見て「おお」とか「きれい」とか「おぞましい」とか思えればそれでいいんじゃないですか。つきつめていくとほとんど趣味の領域ですし、アートなんてものは基本的に、知的変態のゲームだと思っておけば、ほぼ間違いないです。

しかし民主主義というのは罪深いものですね。美術館は大衆への啓蒙を課せられ、キャンバスを初めて切り裂いた(今そんなことやっても中二病)というだけで美術史に登録された人の作品を、税金で買って見せているわけですから。

ここだけの話ですが、あれは私が昔、搬入作業のどさくさに紛れてこっそりすり替えといたものです。あれ私が作ったの。誰も気づかないけども。

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/08 23:04 読み返したら、あまりにもつっけんどんな説明だったような気がしました。
改めて伺うと、瀧澤さんの訊きたかったのは「抽象絵画がつまらな過ぎるのだが、どう見たら面白くなるのか」ということだったんでしょうか。

私見では、最初に見て「つまらーん」と思ったものは、どんな説明を受けて意味を理解しても、そのつまらん印象を拭い去ることは難しいです。説明せよと言われるならしますが‥‥、長くなります。抽象絵画も、ヨーロッパとアメリカとだけ比べてもコンテキストが違うんで。

takisawatakisawa 2007/10/09 04:52 なるほど。ありがとうございます。
概ね理解が正しいと確認できれば満足です。

>「何で誰もそれに気づかないの?王様は裸だ!」をいかに言うかを競っているのが、近・現代美術の歴史です。

結局は「美術」から如何に乖離するかの競争そのものが「美術」であったということでしょうかね。

>乱暴に言ってしまいますと、近・現代美術は莫迦=一般大衆にわからなくても一向に構わないです。

完全に蛸壺の中の政治ですよね。
まぁ、もっとも、今の純文学にしても近い部分はあるわけですが、綿矢などあるだけ、若干は外にも向いているし、裾野の違いもあるのでしょうが。
岡本太郎や棟方志功みたいな、エキセントリックで興味深い人もそれなりにいたりするんですかね? 山下清とか。
最近で、綿矢みたいなかたちで話題になる人とかっていたんでしょうか?
音楽に関しては、原則的には新しい作品はほとんどが「大衆芸能」に当たるわけで、一般大衆=莫迦向けではない音楽というと、なんだろ?
私は足萎えのいざりだったのですが、エリカ様の歌を聴いたら自分の足で歩けるようになったので、エリカ様だけは大衆芸能とは思っていませんが。

J-POPや大衆文学、漫画などが盛隆であるとするならば、美術の大衆カルチャーは「フィギュア」とかになるんでしょうかね? 村上隆しか知りませんが。
「近・現代美術は莫迦=一般大衆にわからなくて結構」と言った後に残るのは、モダンポップアートや、それこそ、他に目的のある「プロダクトアート」が「美術」としてあるんですかね? デザインとしてのブランドバッグとか。
考えるだけ休むに似たりなのでやめます。

>民主主義というのは罪深いものですね。美術館は大衆への啓蒙を課せられ、キャンバスを初めて切り裂いた(今そんなことやっても中二病)というだけで美術史に登録された人の作品を、税金で買って見せているわけですから。

たとえば、911テロや原爆投下を芸術パフォーマンスだと言ったり、表現の一種だという声明を出すと、論理的な扱いとしてはどうなるんでしょうね? もちろん政治的には抹殺されるわけですが。

>ここだけの話ですが、あれは私が昔、搬入作業のどさくさに紛れてこっそりすり替えといたものです。あれ私が作ったの。誰も気づかないけども。

もうちょっと真面目に作ってください。あれでは子供の工作や塗り絵ですよ。

>抽象絵画も、ヨーロッパとアメリカとだけ比べてもコンテキストが違うんで。

抽象絵画は、筒井の「家族八景」に出てくる知識が私の全てです。
それだけで特に不自由してないし、抽象画では擦り傷も治らないと思うので、長い解説は結構です。

takisawatakisawa 2007/10/09 04:54 >完全に蛸壺の中の政治ですよね。

「政治」といっては失礼ですね。いくらなんでも。
せめて「自慰」のほうが良かったですが、それも違うか。

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/09 17:06 >岡本太郎や棟方志功みたいな、エキセントリックで興味深い人もそれなりにいたりするんですかね? 山下清とか。
最近で綿矢みたいなかたちで話題になる人とかっていたんでしょうか?

綿矢って綿矢りさ? 奈良美智とか村上隆くらいですかね。でもエキセントリックじゃないし。
アーティストではない人の作ったものをアートだって持ち上げるのは、かなり前から流行ってます。最近ではヘンリー・ダーガーって人が有名になりました。

>で、音楽に関しては、原則的には新しい作品はほとんどが「大衆芸能」に当たるわけで、一般大衆=莫迦向けではない音楽というと、なんだろ?

現代音楽。でもジョン・ケージまで行ったあとはポップ化していってますね。「大衆芸能」とは言えないのもあるでしょうけど。

>J-POPや大衆文学、漫画などが盛隆であるとするならば、美術の大衆カルチャーは「フィギュア」とかになるんでしょうかね? 村上隆しか知りませんが。

村上隆は大衆カルチャー(というかサブカル)の文脈を取り入れた「高級アート」ですよ。何十万ドルもする「フィギュア」をアメリカの成金が買って自宅のサロンに飾って知的変態どもにみせびらかす、そういうアート。貴族の時代にしていたことと同じです。

>「近・現代美術は莫迦=一般大衆にわからなくて結構」と言った後に残るのは、モダンポップアートや、それこそ、他に目的のある「プロダクトアート」が「美術」としてあるんですかね? デザインとしてのブランドバッグとか。

何でもアートだっていう言い方は蔓延してますね。もうグズグズでいいということなんでしょう。

>たとえば、911テロや原爆投下を芸術パフォーマンスだと言ったり、表現の一種だという声明を出すと、論理的な扱いとしてはどうなるんでしょうね? もちろん政治的には抹殺されるわけですが。

論理的な扱いとは? 大量殺人を芸術とする論理ですか? 芸術の定義が曖昧な状態で、共有しうる論理自体が成立しないという状況なので、倫理的な判断しか問題にされないでしょうね。

>もうちょっと真面目に作ってください。あれでは子供の工作や塗り絵ですよ。

元の作者に言ってください。

>「政治」といっては失礼ですね。いくらなんでも。
せめて「自慰」のほうが良かったですが、それも違うか。

自慰としての政治ってとこかもしれません。このあたりのことを含んで来年アート関連本出しますので、御期待下さいませ(今度はちゃんと差し上げます)。

takisawatakisawa 2007/10/10 02:14 >綿矢って綿矢りさ? 奈良美智とか村上隆くらいですかね。

奈良美智を綿矢レベルで可愛いのか検索してしまいました。

>現代音楽。でもジョン・ケージまで行ったあとはポップ化していってますね。「大衆芸能」とは言えないのもあるでしょうけど。

無音などの前衛芸術がありましたね。

>何でもアートだっていう言い方は蔓延してますね。もうグズグズでいいということなんでしょう。

知的であるからわからないという次元ではなくなっている気がしますね。

>芸術の定義が曖昧な状態で、共有しうる論理自体が成立しないという状況なので、倫理的な判断しか問題にされないでしょうね。

大学の校舎にペンキで書き殴ったアジテーションが「表現の自由」になる可能性があるならば、911テロや原爆投下も芸術と言える可能性はないですかね?

>自慰としての政治ってとこかもしれません。このあたりのことを含んで来年アート関連本出しますので、御期待下さいませ(今度はちゃんと差し上げます)。

お、それは結構なお話で、おめでとうございます。
また、下手な字でサインをお願いしますね。
ただ、いくらなんでも政治だけで決まるわけではないですからねぇ。

takisawatakisawa 2007/10/10 03:51 草さん@ぶっくまーく
>だけど、プレモダンな俳句とモダンの徹底としての「現代美術」はぜんぜんちゃうよね。たぶん。

知の独占として、プレモダンとモダンと関係あるの? どう違うの?
プレモダンとモダンの違いが出るとしたならば、モダンのほうに内在する啓蒙思想に表れるだけであって、モダンのほうがそれを不徹底にしている現状で、違いがあるとも思えないんだけど。
作り手側の意識として、プレモダンは最初から百姓など意識していないのに対して、モダンは「百姓どもにはわかるめぇ」と、そのうえで一周まわって「百姓どもを見下している芸術ヲタには『ソーカル』を喰らわしてやれ」みたいな違い?

ohnosakikoohnosakiko 2007/10/10 13:43 >奈良美智を綿矢レベルで可愛いのか検索してしまいました。

週刊誌に取り上げられる程度のポピュラリティって意味だと思ったのに。
奈良氏は昔は爽やかな美少年でモテモテでしたよ。

>大学の校舎にペンキで書き殴ったアジテーションが「表現の自由」になる可能性があるならば、911テロや原爆投下も芸術と言える可能性はないですかね?

911テロを偉大な芸術と看做すことを提案した作曲家のシュトックハウゼンは、猛烈な世論の非難にあって発言を取り消し謝罪しました。しかし芸術とは本来反社会性を含んだもの、常識の外にあるものだという近代芸術の観点に立てば、シュトックハウゼンの見方は当然出てくるものだと思います。

「本人が芸術と言えば芸術になる」という狭い意味では何でも芸術だと言えますが、芸術作品として社会的に認知、評価されるかどうかは、それとは別です。つまり「芸術と言える」のは、「誰が言うのか」にかかってきます。
平たく言えば何らかの権威(有名批評家、ギャラリスト、美術館、美術ジャーナリズムなど)がそう言わないことには、芸術にならないでゴミ扱い、あるいは犯罪行為扱いされて終わる可能性が高いということです。これはどこの世界でもある程度言えることでしょうが。

昔、美術館に生ゴミを作品として展示しようとして拒否され、「芸術かゴミか」裁判を争って負けた人がいましたが、自分のウンコの缶詰を作って売った人http://www.kanshin.com/keyword/216473は有名アーティストになり、缶詰も美術作品として売買されています。
まあ生ゴミそのままでは匂いが迷惑ですけど、ウンコの缶詰はその点安心ですからね(それに、缶詰にするという一手間かけているところは評価できるかもしれません)。
結局、人に直接的な被害を与えていないかどうかという公共道徳が優先されるわけですが、これも判断が難しいところはあるでしょうね。

>また、下手な字でサインをお願いしますね。

あれは酔っぱらってたからだってばー。