横浜逍遙亭

2016/12/10 (土)

ノット+東響の『コジ・ファン・トゥッテ』

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オペラはほとんど観ない。『フィガロの結婚』も『ドン・ジョヴァンニ』もまだ生を観たことがない。『コジ・ファン・トゥッテ』を聴いたのは、これが生れてはじめて。とても、とても楽しかった!(2016年12月9日、ミューザ川崎)

モーツァルトのオペラで観たことがあるのは『魔笛』を1980年にウィーン国立歌劇場で体験したのが最初で最後である。生れてはじめてヨーロッパに行ったときのことだ。それ以来のモーツァルトのオペラに接して、こんなに楽しいのなら、また聴いてもいいと思った。演奏が信頼のノット氏と東響なら。

オペラはほとんどまったく生で観たことがないが、録音となると話は違ってくる。『コジ・ファン・トゥッテ』だと、若い頃はベーム贔屓だったから、録音もベームとウィーン・フィル、歌手はヤノヴィッツ、ファスベンダー、シュライヤー、プライが歌う盤がなんといってもお気に入りだった。『フィガロ』も、やはりベームの演奏でなじみ、若い時の一途さで、これらのオペラの演奏はベーム盤がすべて。その演奏があまりに耳についてしまい、他の演奏は受け付けられない、他の歌手の歌いまわしは正しくないように感じられる。こうなってしまうと、他の有名な演奏にもケチを付けたくなるだけだし、日本で下手な歌手の演奏を聴いても楽しくないだろうなどと、生意気な素人はおそろしくも正しい反応をしたりする。歌は生身の歌手の体が楽器で、人によって異なる表現の幅の広さは、器楽のそれをはるかに凌ぐ。この人の、この演奏がよい、などと言い始めたら、楽しみの幅はほとんどなくなってしまう。そういう時間が続いてきた。

それに。これは前にもブログに書いたことがあるが、オペラの演劇的要素は音楽を聴くのに邪魔になる部分がある。歌手にあれこれの演技をさせ、様々な書割をつくり、それはたしかにそういうものがあれば、確かにその良し悪しをあれこれと言いたくなる。それは分かる。だが、それがゆっくりと音楽を聴く、音楽に没入する妨げにもなる。そこがオペラは面倒くさい。うっかりとはまってしまったら大変だという思いもどこかにある。

今回『コジ・ファン・トゥッテ』を聴いたのは、何よりもジョナサン・ノットと東京交響楽団が取り上げると知ったからだ。聴き始めて4年目。絶対に悪い演奏にはならない信頼がある。そして、演奏会形式で、下手な演出がない。さらに歌手には、大物のバリトン歌手、トーマス・アレンが加わってドン・アルフォンソの役をやる。これは質の高い演奏になると思ったし、それに昔のように「この演奏はこの演奏家」という偏狭な聴き方をしなくなってきたという自分自身の変化もある。次第に歳を取ってくると、どうでもよくなってくることが次第に増してくる。「ヘルマン・プライ最高!」という聴き方が偏狭すぎるということも、いつの間にか分かってしまっている。歳を取るのは決して悪いことではない。

この日会場で手渡されたパンフレットを読むと、どうやらノット氏は、モーツァルトのオペラとダ・ポンテのオペラ3作すべてを東響と一緒にやるつもりらしい。それは素晴らしいと思ってしまった。ついでに『後宮からの逃走』や『魔笛』もやってくれないか。全部聴きに行くから。

JGJG 2017/01/10 18:30 1975年のカール・ベーム日本公演のことを調べていてこちらに伺いました。興味深い内容満載で、ゆっくり過去記事から読ませていただきます。

taknakayamataknakayama 2017/01/11 17:10 JGさん、ありがとうございます。

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2016/12/06 (火)

ノットと東京交響楽団のシューマン交響曲第2番

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「トリが地味な曲だから、このコンサートはやめとこ」と思っていた東響の定期(トリスタンの第一幕への前奏とデュティーユのチェロ協奏曲、シューマンの交響曲第2番の3曲)に行ってきた。一週間前にもらった東響からの営業メールを読んだら、なんだか急にトリスタン和音が聴きたいような気分になり、結局、ミューザ川崎に足を運んでしまったのだ。しかし、本当よかったのは当初は地味だからと遠慮していたシューマンの交響曲第2番で、これはノットと東京交響楽団の素晴らしさが十二分に発揮された演奏だった(2016年12月4日)。

70年代、80年代ぐらいまではオーケストレーションが下手な作曲家の代名詞みたいに言われていたシューマンだが、実際のところ、2番はオーケストレーションのどんくささが際立つようなくすんだ音色と、音楽の全体の構造観が見えにくい「出来損ない古典派」的な演奏が、まあ通り相場といってもいいほどだったように思う。

しかし、この日の東響のような演奏を聴くと、まさにそのオーケストレーションにこそ、シューマンの声楽曲やピアノ曲の繊細さが聴こえてくるからノットは大した指揮者だとあらためて感服した。弦楽器のメロディの微妙な受け渡しとブレンド感にとくにそれを強く感じた。ニュアンスの細かい変転を孕みつつ、ハイテンションで疾走する演奏は、以前このコンビで聴いた『運命』を思い出させる。その時も、まあこの聴きなれた曲が新しく聴こえることよと感嘆の声を上げたくなったものだが、この日もまさにその再現といった展開で、しかも東京交響楽団の演奏はさらにこなれて、ノット・クレッシェンドとでもいうべきクライマックスの築きは、より自然で堂に入ってきた。ブラボーである。

今年聴いたこのコンビではリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」、ブルックナーの交響曲第8番、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番と楽しんできたが、このシューマンはそれらと同等、あるいはそれ以上の達成だったのではないかと思った。

そこで考えたのは、この演奏を10月の東響欧州ツアーで酷評をしたドルトムントの新聞の批評子が聴いたら、さて、何と言うかということである。おそらく「機械的」という反応が再び聞かれるだろうというのが私の感想だ。そう言わせるものが東響の響きにはあって、これは今すぐにどうなるものでもないし、どうしようもない。さらに、ノットの棒の下で「コン・ブリオ」にたたみかける一体感の強い演奏になると、この「機械的」感はむしろ強調される面もある。まだ、そこを突き抜けるまでの余裕はこのコンビにはないとしても、さらに時間を経れば、東響はますます面白くなる気がしてきた。

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2016/11/26 (土)

Twitterがオーケストラを導く

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この前のエントリーのコメント欄で、id:mmpoloさんがTwitterの影響力について話をしてくれた。その話に触発されて少し書いてみたい。

TwitterとFacebookは、ときどき読みますぐらいの利用しかしていないのだが、ここ半年ぐらい、自分が足を運んだコンサートの後に、そのコンサートを聴いた人の反応をTwitterで読んでみるようになった。そこで思うのは、みんな優しいな、ということだ。絶賛モードのコメントがたくさんアップされている。もちろん、わざわざTwitterに書くのだから、その多くは好意的なコメントであるに決まっている。そして、その印象はもちろん本心からのものだろう。

これらのファンのコメントは、日本のオーケストラの固有の真価をさらに促進する方向に左右するのだろうと思う。個人的には「これでいいのか!」と思う演奏に賞賛が集まるのを見ると「嘘だろ」と思うのだが、コメントをする人たちはもちろん本心から語っているわけで、そうした演奏がTwitterで共有され、賞賛すべき演奏の型が形作られ共有されているのがひしひしと感じられる。その思いは日本のオーケストラの、ドイツやアメリカとは別種の音や表現のベクトルを強固にする方向に如実に左右するのではないだろうか。きっと日本のオケはますます独自進化を遂げる。個々のプレイヤーはどんどん上手になっているから、演奏はますますきっちりとしたものとなり、日本の独自の型が明らかになるだろう。

ちなみに、どうしてこの演奏にブラボーなんだというコンサートについては、このブログには感想を書かないようにしている。例えば、今年でいうと、〇×交響楽団のあれと、▽□交響楽団のあれなどは思いっきり悪口を書いてみたいという欲望がないではないのだが、それはやはり大人げないというか、もしかしたら、感激している人に水を差すことになるかもしれないと思い(なんといっても、きょうび、みんなすぐに検索エンジンで検索して読みに来るので)、遠慮することにしている。

EmmausEmmaus 2016/12/01 23:42 辛いことを優しく。優しいことを辛く伝える。ようにしたいですね。

taknakayamataknakayama 2016/12/02 19:18 そうですね。それはたしかに。しかし、ジジイの入り口に立っている歳になっても、老成はまだまだ先のようです。

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2016/11/24 (木)

日本のオーケストラは日本の音がする

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10月に欧州公演に臨んだ東京交響楽団の、ドルトムントでの新聞評を見つけて紹介したら、常日頃の何倍ものアクセスがあった。何倍なんてものではない。このブログはたくさんに人に読んでもらいたいだとか、お客さんを増やしたいだとかいう動機をすでに忘れてしまったところで書いているので、お読みいただいている人の数は限られている。月に1度か2度書くと、その時には百人ぐらいの人が読みに来てくれる。別でやっている写真ブログの方はもう少し少なくておそらく50人から60人ぐらい。それぐらいの数の人たちがこのブログの読者の皆様なのだが、今回は2000人を超える人が数日でやってきた。誰か影響力のある人がどこかで話題にしたのだろうとすぐに思ったが、クラシック友達のKさんが音楽ライターの人がTwitterで紹介したのだと教えてくれた。

贔屓のオーケストラが本場ヨーロッパで好意的に評価されるのを聞きたいというファンは少なくないだろう。残念ながら、ドルトムントの新聞の評はけちょんけちょんだったが、「機械的で音楽がない」というのは、実際に欧州のオケを聴きなれた耳で日本のオケを聴いたドイツの音楽好きの反応としては、ある意味自然なものだと思う。

それは日本のオーケストラがあちらに行くたびに、ずっと投げかけられてきた言葉であり、今回の評者は日本のオーケストラを初めて聴いたので、正直に思いを口にしたらそうなったのだと思う。でも、日本のオーケストラを聴いてきた耳からすれば、今の東京交響楽団はかなりいけていて、機械的な演奏からそれなりに脱却しつつある日本のオケの見本なのかもしれないと思ったりする。しかし、それは、常日頃、数十年日本のオケを聴き続けた人間が知る事実であって、初めて聴いたドイツ人には通じるはずもない話だ。日本のオケは日本語を話すので、ドイツ語しか聴いたことがないドイツ人には分からない。たぶん、日本の文化の中で、日本語をしゃべる演奏家が演奏するオーケストラは、たとえ個人の演奏技術がさらに上達したとしても、ドイツのブラームスのようにはならないと最近は強く思うようになった。違うものとして楽しむしかない。

おそらく欧州でそれなりの評価を得られる団体はN響だけだろう。来年N響もロンドン、ベルリン、ウィーンなどを回るようだが、マーラーの交響曲第6番とともに、今回東響が演奏したショスタコーヴィッチの交響曲第10番も持っていく。実演でN響に接して、ブロムシュテットのおじいさんなどとの演奏でとくにそういう思いを強くするが、大勢の音楽家が一つの楽器になって音楽を奏でる感覚は、どの日本のオーケストラにもましてN響は秀でている。機械的ではない演奏になる。どこのパートがどうで、などと素人が心配することなど忘れて音楽の移ろいに没入させてくれる点では、やはりN響以上の団体はなく、欧州でもそれなりの評価を得ることは間違いないだろう。

ただ、そのN響も日本のオーケストラの音がする。もうだいぶまえに20世紀最後の年にカーネギーホールでN響を聴いたときの話を10年前にブログに書いたが、この時の感想はいまのN響にも同じようにあてはまる。もっとも、現在のN響は当時に比べてさらによい楽器になっているが、ネガティブな点に関しては変わるところがない。日本のオケは、今後進化しても欧州のオケの音はならないということに、ドルトムントの下手な演奏会評を読みながら、やっと今頃気がついた。何十年かオーケストラのコンサートを聴いてきて、それだけのことにやっと合点がいくという事実。


■N響の音(2006年9月21日)

mmpolommpolo 2016/11/25 09:42 昨年だったか一昨年だったか、京橋のギャラリー椿で桑原弘明展をやったとき、1,000人の入場者があったということです。アンケートを取ったら600人が回答して、何でこの個展を知ったかという質問に、90%がツイッターと答えたそうです。
最所はブログやホームページから知ったのでしょうが、それをツイートした人がいてそれがリツイートされて広がったということでしょうか。
私はツイッターをしないのでこのあたりのことはよく分かりませんが。
でも情報の拡散は確実にツイッターになっているようです。

taknakayamataknakayama 2016/11/25 22:33 なんだかすごいですね。結局インフルエンサーに左右される世の中は、かつて大手メディアが担っていた役割を個人が役割分担して担っていて、その人が分別のあるよい人だったらいいのですが、そうじゃないと大変なことにもなる、とそういう世界が怖いです。
もっとも知り合いのあちこちに無節操につながるfacebookは、もっと怖い感じがありますが。

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2016/11/06 (日)

シモーネ・ヤング+東京交響楽団のドヴォルザークとブラームス

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欧州ツアーから戻ってきた東京交響楽団のコンサートに行ってきた。シモーネ・ヤングの指揮でドヴォルザークのチェロ協奏曲とブラームスの交響曲第4番のプログラムである(2016年11月3日、ミューザ川崎)。

シモーネ・ヤングさんは、女性指揮者としては今いちばん名を知られている人だろう。竹を割ったような直線的な解釈をする演奏を、いくつかの録音で聴いたことがあり、こういう曲目は合わないんじゃないかとネガティブな先入観を抱きながら行ってみたら、これがなかなか面白い演奏会だった。

ドヴォルザークの協奏曲は、予想通りの直線的演奏。メリハリが過度にはっきりして、山を作るところはしっかりオケを鳴らす、その潔さが気持ちいいが、この曲でそんなに力こぶを作らんでもという気分におそわれるパワフルさが強奏で発揮される。ソロのアリサ・ワイラースタインさんは柔らかい音とテクニックを備えた素晴らしいチェリストで、この人のおかげでヤングさんの剛毅はうまい具合に中和された感があると言ってよいか、それともソリストと指揮者の芸風の違いが気になったというべきか。

後半のブラームスは、やはり一貫してザッハリッヒな解釈だが、前半のドヴォルザークはまだ予定調和の範疇だったのが、ブラームスでは「私はこういう具体に聴かせたい」という主張がくっきりして、その自己主張が面白かった。早めのテンポの中でドラマチックな展開を目指した第一楽章がとくに。

二、三日の練習でこれだけやりたいことを伝えて、しっかりとそれを実現するのは、指揮者としてなかなかのものだと思った。いいようにいじくりまわされるオーケストラの側には、面白いと感じる演奏者と、ウザったいと感じる人とがいただろうなと想像しつつ、客席で聴いていて十分しっくりいくところまではいかなかったにせよ、初めての指揮者の意図をそれなりに体現して形にする東京交響楽団には健闘への拍手をしっかりと送らせていただいた。

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