あらためてフルトヴェングラー

偶然にフルトヴェングラーの『魔笛』を聴いて感心し、ブログに感想を書いたら、これもまるで偶然にブルーノ・タウトの日本での仕事を見せてもらう機会に恵まれた。両者に共通するのはドイツはベルリン。それも1930年当時のベルリンである。さらに反戦ないし厭戦思想。フルトヴェングラーヒトラー政権下のドイツ国内にとどまったことについては一方で批判がある。そのことは承知しているが、いくつかの書物を読んだ限り、フルトヴェングラーユダヤ人の音楽家のために私財と多くの時間を使って無私の尽力をした事実は否定しがたいし、彼がドイツとナチス政権を別物と考えていたことに対してもほとんど反論はないのではないかと思う。タウトも明確な反戦思想の持ち主だったようだが、フルトヴェングラーのように国内にとどまって、際どくも身の安全を保障されるアーティストは、彼以外ほとんどいなかった。もっとも親衛隊のボスだったヒムラーに目の敵にされていたフルトヴェングラーも、最終的にはスイスに逃れたわけだが。

あらためて『魔笛』をフルトヴェングラーで聴き直す。20歳代で指揮者として頭角を現し、その頃から他に類例を見ない演奏を実現する若者と聴衆とオーケストラに支持され、死して半世紀を経て未だに他に類例を見ない演奏と崇められる。しかし、人がそう言いたくなる気持ちはやはり分かる。『魔笛』の録音はそれなりに聴いたが、フルヴェンの演奏はどれとも違う。遅いテンポのなかで、歌手たちが全幕にわたって深く呼吸をしているかのように聞こえるのだ。これは不思議な感覚で、我々がCDで聴けるような演奏には決して悪いもの、お粗末なものはないとしても、フルトヴェングラーを聴いた後、その印象が心に残っている間はそれらの演奏が単調に聞こえることがあるのは困ったものだ。

彼の交響曲の演奏においても、忘れがたいのは緩序楽章だとは思っていたが、そのオペラ演奏を遅まきながら初めて聴いて、彼が人が呼吸する感覚を器楽合奏を指揮する際にも明確に意識していたのではないかと気がついた。もしかしたら、これはフルトヴェングラーに詳しい方には当たり前の話なのかもしれないし、見当違いかもしれない。クラシックの演奏において誰が一番という話はするつもりはないが、少なくとも人が貧弱な録音をもろともせずにフルトヴェングラーの演奏を聴きたがる気持ちはよく分かる。


モーツァルト:魔笛 全曲

モーツァルト:魔笛 全曲