住まう・帰る

アメリカに駐在した4年3ヶ月の間に2回日本に仕事で帰った。最初は赴任1年後に一人で、二度目は2年目が過ぎた夏休みに家族5人で。


最初の日本出張で東京での仕事を終えてアメリカの我が家に戻ったときに、「あぁ、帰ってきた」と感じたことが、とても得難い体験だったなぁという意識とともに思い起こされる。僕は日本国内で単身赴任をしたことがない。つまり家族と離れて生活をしたことがない。それもあって、このとき初めて「家族のいる場所が自分の帰る場所だ」ということを意識させられることになった。それが日本だろうが、外国だろうが、家族が学校に行き、仕事をし、一緒に日常を生きている場所が帰る場所だという感じ方。


赴任した当初、アメリカで住まうということがどんなことなのか、まるで見当が付かず、1年経ったその頃はまだまだ慣れる途上といった時期だったように思うが、それでも不思議なことに、日本にいる間意識はあくまで主張中で、どこか落ち着かず、家族が生活するアメリカの街こそが帰るべき場所だった。日本は行く場所で、アメリカが帰る場所。海外に住まう人たちにとってはごく当たり前の感覚だと思うが、僕にとってはそれまでまるで経験がなかったことだったので、自分の感じ方を未だに新鮮な気持ちとともに記憶にとどめている。二度目の帰国の際は家族で日本に戻ったのに、「日本に来ている」という感じ方が拭えないのは同様だった。僕の意識は、家族の生活圏がまずあって、しかるが後に国があるという同心円の社会的空間を生きているんだなあと、これまでそんなこと考えたことなかったのになあと不思議に思ったものだ。


このことについて、今はもう少し違った風に捉えられないだろうかとも思っている。僕は当時「帰る」感覚を家族の存在にかこつけて理解した。その直感はおそらく間違っていないとは思うのだが、自分にとっての場所の核を形作るのは何も家族だけではないのではないかとも考え始めているのだ。自分をある場所につなぎ止める契機は仕事かもしれないし、近隣との関係かもしれない。あるいはもっと単純に風景かもしれない。そういうものが、自身の生のありようと触れあってショートする感覚を覚えたとしたら、その場所は僕にとって今帰る場所になりうるのではないか。自分自身の現在は帰る場所を選びうる。そう考えることによって、自分自身が何かに向けて一歩を踏み出す小さな勇気を獲得できるような気がして、こんなことを書き付けてみた。