『走ることについて語るときに僕の語ること』を読み始める

自動車の下で夜露をしのいでいるらしい野良の「車猫」に今日も通勤途上で出会った。かなり大きな図体のこの白黒猫は、道ばたに駐車している自家用車の下にいていつもバンパーの下あたりに丸い足が覗いている。だいたい白の大衆車の下にいるが、その車が出払っていた今日は、隣の赤いスポーツカーの下で丸くなっていた。考えごとをしながら歩いていたために猫のことはすっかり意識から消えていたのだが、今日は嬉しいことに先様から「にゃお」と挨拶をしてもらう。大きな声だ。はっと気が付いて腰をかがめ「Hi!」と一声かけて先を急いだ。

先日話題にした『走ることについて語るときに僕の語ること』を読み始めた。ブログに感想を書くのなら読み終わってから一筆啓上するのが通り相場だろうが、長い読書になりそうな気がして、書けるときに書いておく作戦で行くことにした。そんな文章が許されるのもブログの一興だろう。

長い読書になりそうと言ったのは、本書の内容の重たさに由来している。軽いエッセイなのかと思ったら、どうも、ささっと一読というわけにはいきそうにない。今、9章立ての最初の章を読み終わったところなのだが、けっこうこれだけでお腹がいっぱいという気分に浸っており、これを消化せずして次にかかってよいものかと自問し、また、不可避的に前のページに戻り、という読書を土曜日の夕方から行っている。こういうのは自分にとって久しぶりかもしれない。

僕は『ノルウェイの森』以降、村上春樹さんの作品との間に少し距離が出来たと感じている人間だが、それは村上春樹に責任がある話ではなくて、単に僕自身が村上なしでも生きていけると感じ始めたということかもしれないし、『ノルウェイ』以前の作品にそれなりの思い入れを感じていることの裏返しかもしれない。ところがブログに「以前ほど村上春樹についていけない」と書くことによって、熱心に読まなくなったはずの村上春樹に戻ってくるという出来事が今の僕に起こっている。日記に書き付けたらそこまでで終わっていたはずなのに、個人的な小さな思いを書いたのがブログだったことによって、結果的にいくつかの印象的なコメントを頂くことになった。それはコメント欄への書き込みだったり、トラックバックだったりするばかりでなく、ときにメールで、あるいは口頭で、いろいろな人が僕に向かって村上を語るのである。それが村上春樹を再度僕に突きつけてくる。そんな循環がブログという道具を介在して起こっている。「ブログの不思議」を常ながら実感する。

走ることについて本を一冊書いてみようと思い立ったのは、かれこれ十年以上前のことだが、それからああでもない、こうでもないと思い悩みつつ、執筆に手をつけることなく歳月をやり過ごしてきた。「走ること」とひと口に言っても、あまりにテーマが漠然としていて、いったい何をどのように書けばいいのか、考えがなかなかまとまらなかったのだ。
(「まえがき」より)

こうして十年寝かされてきたテーマが2005年夏から2006年秋にかけて執筆された。「ほとんどは僕の「今の気持ち」をそのまま書き記した」(「まえがき」)のが本書である。
もし、十年前に村上が「走ること」について書いていたら、今のような内容にはならなかっただろうし、僕がその作品に出会っていたとしたら、斜め読みしてほいと巻を放ってしまったのではないかと思う。『走ることについて語るときに僕の語ること』というまわりくどい表現はいったい何だろうと誰もが思う。それは本来ならば『走ることについて僕の語ること』となるべき表題ではないのかというのが率直な違和感とともにやってきた感想だ。しかし、第一章「2005年8月5日ハワイ州カウアイ島 誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう?」を読んだところで簡単に謎は解けてしまう。この本の、といってお先走りに過ぎるのであれば、第一章を読んだ感想はと書き直してもいいが、ともかくそこでなされているのは『走ることについて語る』でも『走ることについて僕の語ること』でもない。村上さんがここで「語ること」をしているその対象は“老い”なのだ。老いることは人生だと言ってしまえば、彼が素材としているのは人生そのものだと言ってもよい。僕がこの本が重たいという理由はそこに尽きてしまう。

第一章の感想をもう少し具体的に書かせてもらおうと思ったが、時間の都合上今日はこれくらいで。もう書くべきことは書いてしまったような気もするが、また続きは機会を変えてぜひ。