翻訳と演奏、あるいは解釈について思うこと

『mmpoloの日記』に東欧文学の専門家である沼野充義さんの翻訳論が紹介されている。ご自身翻訳家でもある沼野さんによる卓越した翻訳小論であることは認めるのにやぶさかではないが、沼野さんの論旨の明快さに圧倒されつつも、最後の部分は「説得されないなあ」と口に出してしまったことだった。

沼野さんは、大江健三郎が『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』の題名としても使ったポーの『アナベル・リイ』日夏耿之介訳を引き合いに出し、優れた翻訳の持つ異化作用に言及している。沼野さん自身、日夏訳は極端にすぎると認めているし、これはこれ以上の極端はなかなかないほどの例で、かつそれが見事につぼにはまっている成功例だろうが、こうした文学的翻訳はしかしやり過ぎだと、むしろ翻訳の専門家には言ってほしいというのが僕の個人的な望みなのだ。

大江健三郎は、彼のエッセイの中で、子供の頃から英語の文章に接し、原文よりもむしろその翻訳の日本語に惹かれたと語っている。したがって、原文と同時に日本語を覚えたと書いているほどだ。翻訳の持つ異化作用に若い頃から動かされてきた大江は、『新しき人よめざめよ』の頃から、積極的に、英米の文学者の原文/翻訳を作品に取り込むようになり、それによって傑出した作品をものしてきた人だから、「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」といった日夏の擬古文調の翻訳に一目も二目もおいたのはわかりすぎるほどわかる。大江作品は、そうした名作/名訳を自作の中で取り込むことによって自作を異化し、また、自作の中に自身や家族を連想させる人物を配置することによって自らの人生を異化してきたような人なのである。日夏訳のメガトン級の異化する力を褒めそやすのは納得できる。

しかし、翻訳がそうしたことまでできる力を備えた、創造的行為になりうることを認めた上で、文学の翻訳はなおさら、沼野さんが言っている「適応」的タイプであって欲しいと僕は思う。音楽の世界になぞらえてみよう。言葉の世界で翻訳にあたる行為が、音楽の世界では演奏家による解釈にあたる。どちらもInterpretationという機能が不可避である。僕が演奏家によるInterpretationを繰り返し聴きたいのは、その曲がかくあるべしという姿を、よい演奏家は見事に示してくれるはずだという「思いこみ/願い」があるから。たどり着けない理想的な姿を目指すアキレスの矢としての演奏にこそ、創作とはまた異なる、しかしミニマルな差異の発見を極めようとする際に現れる創造性の発露に接することができる喜びがある。楽譜という原作を前にして、楽譜を読めない人たちにも向けて、この音楽がもっとも伝えようとしている本質を語りかけようとする。そのスリルが演奏なのではないかと思う。僕のように限られた語学能力しかない者にとっては、基本的には翻訳もそういうものであって欲しいと思う。そうやって、いわば無私の状況の中から出てくる個性が解釈の面白さだと思うので。

日夏耿之介の翻訳は、クラシック音楽の世界に当てはめると、極端に遅かったり、早かったり、アーティキュレーションを変えたりするグレン・グールドモーツァルト演奏のようなものだ。あるグールド本の中で紹介されていたカナダの作曲家の証言は面白かった。彼の作品をグールドが取り上げた。魔法のように優れた演奏だったという。しかし、グールドは作曲家の指定した強弱記号を見事なほどに無視したというのである。

恐ろしいばかりの異化作用に新しい創造を見い出す喜びがあるとしても、戦後の世の中で「beautiful Annabel Lee」という軽い口調のポーの原作を、「臈たしアナベル・リイ」と訳出するのは、確信犯としてそう振る舞うときだけにして欲しいものだと、原書で文学を読む語学力がない者としては願うばかりだ。


■沼野充義の翻訳論、または亀山郁夫批判、そして日夏耿之介小論(『mmpoloの日記』2008年2月10日)