過度の専門化の前にあった何かを想像する

先週末に聴いた古楽器の団体「アンティネッロ」と合唱団「ラ・ヴォーチェ・オルフィカ」は、一人の演奏家が複数の役回りを担っていたのがとても面白かった。指揮者が中世の角笛とでもいうべきコルネットとリコーダーを指揮しながら吹くし、リコーダーもすごい腕前。皆、ふつうに複数の楽器を演奏する。現代のオーケストラでも、打楽器の人は複数の楽器を演奏することがあるが、どちらかと言えばそれは例外で、弦楽器も、管楽器にしても、ある楽器に専門化され、高度に洗練された技術を身につけた人の集まりである。それを知っているだけに、古楽器の人たちのマルチな能力にびっくりした。いちばん驚いたのは、艶やかな声でバリトンのソロを歌っていた春日安人さんという人が、曲によっては縦笛、横笛を自在に吹いていたことだ。古楽の世界というのは、そういうものなのだろうか。未だに、その辺りの歴史的な背景や、こうした古楽の運動の演奏史の中での意味合いや、そうしたものが分からないままにこれを書き、当夜の楽しい雰囲気を頭の中で反芻しているのである。

初めて聴いたバロック以前の古楽のコンサートには、音だけではなく、こうしたインパクトもあったわけだ。我々が当たり前のものとして疑ってみたことがない生き方を、少しだけずらしたところにある、もう一つの豊かさに気づかされる体験と言えばよいか。一人で何役もの仕事をこなすのは、一つの楽器演奏の洗練という意味では不利なことが多いに違いない。一つ一つの楽器に集中すれば、技術の上達という意味では達成度合いは大きいはずだし、歴史はそういう風に進んできたと言ってよい。

しかし、一人の人の「音楽をすること」という根っこの部分を広げる、豊かにするという意味では、マルチな役割を担うアンティネッロのようなやり方には、高度に専門化された技術教育とは異なる、奏者個人にとってのある種の達成の可能性があるはずだと思った。この種の豊かさを我々の社会は忘れているのではないか。それは演奏する者と演奏を聴く者の分化を突き詰めたところにある、「ひたすら上手な演奏家を聴きたい」という欲望の果てにある、ある種の悲劇なのかもしれない。同じ事態が、楽器の演奏やコンサートという世界だけではなく、生活のあらゆる側面にも起こっている可能性はあるだろう。古楽の人たちの演奏形式は、流れ作業が当然の生産現場に導入されたセル式生産方式を想起させたりもした。ちょっとした思いつきの域を出ない感想だが、演奏会でこういう感想を持ったのは初めてだったので、少しびっくりし、同時に異質なものに接する機会を持つことは重要だとあらためて思った。