吉本隆明が丸山健二を誉めると

吉本隆明丸山健二著『水の家族』評に出てくる次の一節は、言ってしまえば、ある時期以降の丸山作品全体にあてはまる普遍的な誉め言葉になっている。

この作品は、そう言ってよければ一編のお伽話、あるいは大人のために書かれた童話だとおもう。すべての童話は子供が読むために書かれるのだが、そのうちすぐれた童話は、そのまま大人が読むのに耐える普遍性をもっている。作者に身をよせていえば、子供のために書くというモチーフをもていなくても、書かれた作品が童話になっているものを、わたしたちはすぐれた童話と呼んでいる。この作品はまったくそのどれともちがっている。子供はこの作品を読んで理解ができないだろうし、読もうともしないだろう。なぜかといえば、作品の全体の基調になる色合いが、なかなか根深いニヒリズムで、子供の喜怒哀楽の起伏にかなう場面は削りとられて、低い平原、地勢でいえば台とか平とかいうところに平準化され、それが紙のようなニヒリズムの半透明の帯域をつくっているからだ。子供たちはこの作品で遊んだり、ふざけたりする手がかりの起伏がつかめないので、困惑してしまうにちがいない。だがそれでもこの作品は、よく彫琢された、輪郭のはっきりした物やこころの働きのディテールは、ことごとく刈りとってあり、その抽象と単純化の線が構成するものが童話的と呼ぶよりほかないとおもえる。
吉本隆明『新・書物の解体学』より)

こういうくだりを読むと、あらためて吉本批評の切れ味にほれぼれする。丸山健二の作品に何が顕著か。つまりそれは「よく彫琢された、輪郭のはっきりした物やこころの働きのディテール」が書き込まれている点であると述べ、その明晰なかきっぷりを「童話」的と言ってのける。この飛躍が吉本ならではの表現だ。そうすることで、童話と丸山作品の間にある大きな溝が「ニヒリズム」であることがくっきりと見えてくる。

吉本批評はすごいなあとあらためて脱帽の思い。

ところで、新刊『日と月と刀』では、吉本がいうところの「ニヒリズム」、それは丸山健二の体臭のようなもので抜けはしないが、そのニヒリズムを超えるサムシングが提示されていて気持ちがよい。ある種の童話(=典型的丸山作品)のもつシニシズムがそこでは見事に中和されている、あるいは乗り越えられているのである。