劣化する記憶力について

またしばらくブログから遠ざかっていたが、この9月は3回の音楽会に行った。どれもそれぞれに楽しめた。素晴らしいコンサートだった。

と書いておいて、困ったことに実際の演奏をよく覚えていない、ということが今日のトピック。例えば、カンブルランが振った読響で、モーツァルト交響曲第29番で柔らかさと繊細さの同居した第一楽章の出だしに「これはちょっといいなあ」とおもったことや、ブロムシュテットのおじいさんがN響相手にブラームスの4番で「ほほぉ、そう来ましたか」と思わず心が跳ねるような瞬間を一度とならず作り出し、嬉しくなったことはちゃんと覚えている。しかし、覚えているのは、そんな風に自分が反応しましたという部分であって、実際の演奏を心の中で再現しようとするとほとんど何も覚えていないのである。ほとんどなーんにも。

困ったことになってきたなあと思う。歳をとってきて記憶力が落ちているのだ。もう少し若い頃は聴いた演奏が頭のなかで鳴り響くようだったり、印象的なパートを心のなかで再現してみたり、ということが自然とできた。それが音楽会の楽しみのようなものだったはず。

ところが、最近は、聴いた端から忘れていく。

その瞬間は楽しい。聴いた直後はその余韻の中でニコニコの気分を楽しむこともできる。しかし、もうすでに、そんな余韻に浸る瞬間においてすら、聴いたばかりの演奏をしっかりと記憶の中でプレイバックできないことに気がつかないわけにはいかない。

こうなると、いったいそれなりの金額をはたいてチケットを買ってコンサートに行く価値はどれだけあるのだろう。そう自問自答の世界に入ることにもなる。

いろんな些細な衰えにいくつも気づかされ、急におじいさんになってきた気分。いや、そういう哀しさの実感のあとにおじいさんになりつつある自分に気がつくという展開が待っているとは、ほんの1年前にすら知ることはなかった。恐ろしいなという思い半分、面白くなってきましたねえという思いも幾分。そういう人生の時に入ってきたみたいです。