ヴァンスカと読響のシベリウス

オスモ・ヴァンスカと読響がシベリウス交響曲第5番、6番、7番をやるというので聴きに行った(12月5日、サントリーホール)。
ヴァンスカとラハティ交響楽団シベリウスは5番をCDで所有していて、けっこうイケてると思っていたので、早めにチケットも確保し、楽しみにしてたのだが、鑑賞後の感想は「?」である。会場はものすごく沸いていたので、きっとよい演奏だったのだろうが、どうもうまくなじめなかった。
実は6番、7番を生で聴くのは初めてで、だから生の6番、7番というものが、本来こういう風に聴こえるものなのかもしれず、だとすると、我が家のステレオ装置で聴く音楽とはなんと違うことよ、と思ったりするのだが、そう思う間もなく、いや、きっとこれは録音と生の違いじゃなくて、演奏がダメなせいに違いないと疑ったりしてしまう。

6番や7番って、あんなにエキセントリックな音楽だっただろうか、弦も、管も大編成であんなに強い音を鳴らす音楽なのだろうか、あれではコラール鳴らしっぱなしの、下手なブルックナーの5番の演奏みたいじゃないか、などと考えてしまうのは、私がシベリウスの生の演奏を知らないからなのか、それとも演奏にある種のデリカシーがなかったからなのか。熱を持ったシベリウスを描こうという意図は明らかで、それが成功したかどうかという話になるのだが、全体的にオーケストラの音が強すぎて、なんだか太めのマジックで描いたようなシベリウスに聴こえてしまうのである。生の音響はそもそもそうなのか、ヴァンスカがそう仕立てているからなのか、霧が立ち込めたような6番や7番という印象は遠のき、より角がしっかりし、パート毎の主張が激しい元気な音楽に聴こえる。それが自分がシベリウスに持っているイメージにそぐわない。

演奏会の翌々日の今日、かつてシベリウスの演奏を実演で聴いたことがある3人の指揮者、ヤルヴィ、ベルグルント、デイヴィスで7番の録音を聴きおなしてみたが、北欧の独自の語調から遠めに感じられるコリン・デイヴィスロンドン交響楽団ですら、常日頃は感じる微妙な違和感が気にならないのは、曲全体に大きなフレーズ感があり、自然なカーヴを描いているからだ。ヴァンスカにそういうものが聴こえなかったのは演奏の責任ではなくて、自分の耳が悪くなっているからか。

そういえば、真逆の印象をハーディングと新日フィルの5番で感じたのを思い出した。冷え冷えとした第5番の演奏(2013年6月29日)。同じサントリーホールでの演奏会だった。でも、この日のヴァンスカなら違和感満載だったハーディングの方がまだ納得できる気がする。