岩手県立図書館 メールマガジン「館長からのお便り」の中で、啄木について触れていました。
・盛岡市出身の歌人である大西民子の生誕100周年を記念した展示。 (5月30日まで)
・大西民子は、城南小学校在学時に、遠足で行った盛岡天満宮の石川啄木の歌碑をみて、歌人への道を歩む。
〜遺愛女学校在学中から、結婚後二児の母となるまで〜
水関 清
第一節 はじめに
石川啄木が記した「明治三九年 渋民日記 八十日間の記」の一二月三〇日の項は、以下の一文ではじまる。なお、文中の「トキ」とは「堀合トキ」のこと、啄木の妻・節子の母親である。
「イマブジオミナヲウム○トキ(二十九日午后三時四十分発)」
さらに、日記は以下のように続く。
「予はこの電報を握つて臥床の中より躍り起きぬ。ああ盛岡なるせつ子、こひしきせつ子が、無事女の児——可愛き京子を生み落したるなり。予が「若きお父さん」となりたるなり。天地に充つるは愛なり。…………」
第二節 石川京子年譜
第三節 啄木短歌の中の京子
第四節 節子の啄木への想いと、啄木没後の苦悩
第五節 節子と京子の房州での暮らし
第六節 祖父・堀合忠操と京子
第七節 石川京子の短歌を読む
第八節 まとめ〜京子と啄木の短歌を読み比べてみる〜
⚪︎女学校時代
悲しきはかかる性もつ/我なりき/秋の夕に笛の音をきく(京子)
かなしきは/飽くなき利己の一念を/持てあましたる男にありけり(啄木)
⚪︎結婚後
うるさしと思ひし事の/◾️今更に悔ひられぬ子等の/◾️いねてしまへば(京子)
児を叱れば/泣いて、寐入りぬ。/◾️口すこしあけし寐顔に触りてみるかな。(啄木)
妻として、母として、そして啄木の娘としての京子が営む日々の暮らしの踏み跡として、短歌がしっかりと残されたのである。
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〜啄木の魅力を歌うということ〜
水関 清
谷村新司が作詞を手掛けた楽曲には、啄木の短歌を想起させる歌詞が目立つ。谷村の「昴」には啄木の『悲しき玩具』の冒頭に置かれた二首に酷似した歌詞が含まれ、「群青」には『一握の砂』の中の四首に似た歌詞が散りばめられている。
(以下割愛)
——〈西洋風のわが家〉と都市居住者 ——
栁澤有一郎(国際啄木学会会員)
一、未完の詩集『呼子と口笛』
石川啄木は晩年、未完の詩集『呼子と口笛』を遺した。世に出たのは死から一年後の『啄木遺稿』においてである。
⚪︎成立までのプロセス
・1911年(明治44)6月15日から17日にかけて、啄木は九篇で構成される詩群をつくり、通し番号を付け、大学ノートに清書。
・同月18日頃、「一」「八」「九」を抜き、残りの「二」から「七」を推敲。
・この六篇は「はてしなき議論の後」という標題で、7月発行の「創作」巻頭を飾る。
・そのあと、詩集をつくることを思い立ち、「創作」稿にさらに手を加える。各詩篇にタイトルを付けたものを大学ノートに清書。
・「家」「飛行機」の二篇を末尾に加え、『呼子と口笛』の形が整う。
二、明治末期の持ち家願望と洋風住宅
詩集『呼子と口笛』におさめられた「家」を眺めてみよう。
家
一九一一・六・二五・TOKYO
今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、
夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。
場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさつぱりとしたひと構え、
…………
三、都市居住者と埃及煙草
四、都市居住者の夢
石川啄木の詩「家」には、「都市居住者」が思い描く「西洋風」の「わが家」が登場する。「わが家」を希求する姿は当時、富裕層を中心に広まっていた持ち家願望に通じ、そこに描かれた「西洋風」の住宅は、当時、導入されはじめた西洋住宅の類型として見ることが可能である。
そして、「家」のあとには「飛行機」が配置された。「家」から「飛行機」へ何が手渡されたのか。それを解明する仕事が我々に残されている。
——「創作」巻頭詩をめぐって——
近藤典彦(国際啄木学会元会長)
1911年(明44)6月に制作された石川啄木の「はてしなき議論の後」は三つのテキストを持つが、長詩として一の完成を見たのは同年7月刊「創作」所載の、六章からなる「はてしなき議論の後」(一〜六)のみである。この詩を一篇の長詩、一つの世界として見るならば、これを「呼子と口笛」における独立した六篇の詩として見たときとは、別の相貌を呈する。序章にはロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺を企てたカラコーゾフの事績が秘められ、終章には同皇帝暗殺に成功したソフィア・ペローフスカヤのイメージが沈められていて、詩はその主題が皇帝暗殺に関係するものであることを暗示している。であるならば、啄木がこの詩でうたおうとしたのは日本における皇帝暗殺未遂事件すなわち大逆事件なのではないか。この問を以下に追求してみたい。
◎ 特別寄稿の近藤典彦先生の論文は、13ページにわたります。
文芸誌 『視線』はこちらで求められます。
(つづく)
2024年4月18日のシアターテイメントNEWSに『文豪とアルケミスト』の記事がありました。
・『文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)』は、 2024年6月6日から16日に東京・シアターH、6月21日から23日に京都・京都劇場で上演予定
・櫻井圭登扮する石川啄木
メインキャストのソロビジ公開 | シアターテイメントNEWS
2024年4月13日の東京新聞に、啄木忌の記事がありました。
・4月13日は「啄木忌」。26歳で早世した明治時代の歌人・詩人、石川啄木の命日です。啄木短歌の名作の中から、読者の皆さまのお気に入りを紹介してもらいました。(栗原淳)
・名歌集『一握の砂』
<はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る>名古屋市の読者
<友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ>習志野市の読者
◆時代超えて愛される親しみやすさ
啄木の「一番の魅力は短歌です」と断言するのは、国際啄木学会長も務める池田功・明治大教授。
「文語を駆使した花鳥風月の歌が主流の時代に、口語調で日常生活に根差した身近な気持ちを詠みました」。時代を超えて愛される親しみやすさが、啄木の短歌にはあるといいます。