[一本桜]
「啄木臨終の記」若山牧水
- 昨年の四月十三日の午前七時ごろ、私は車夫に起された。石川君の妻君から同君の危篤の迫ったことを知らしてよこしたものであった。
- すぐ駆けつけて見ると、座に一人の若い男の人がゐた。あとでその人が故人の竹馬の友金田一京助氏であることを知った。
- その時、その場に居なかった細君が入つて来て、石川君の枕もとに口を寄せて大きな声で、「若山さんがいらっしゃいましたよ」と幾度も幾度も呼んだとき、彼は私の顔を見詰めて、かすかに笑った。あとで思へば、それが彼の最後の笑であったのだ。
- 老父は私を見ると、かたちを改めて、「もうとても駄目です。臨終のやうです」と云った。そしてそばにあった置時計を手にとって、「九時半か」と眩くやうに云った。時計は正に九時三十分であつた。