啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2012-04-30

[] (更新)台北大会プログラム ─ 国際啄木学会 5/12

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[シダレザクラ]


国際啄木学会 2012年度 台北大会

主催 国際啄木学会(共催:台湾国際啄木学会、後援:台湾大学日本語文学系)

  大会テーマ「啄木没後100年・明治の終焉から大正へ」


  • 開催地 「台湾」国立台湾大学(台北市)文学院演講ホ−ル
  • 開催日 2012年5月12日(土)

 

  • 大会プログラム(更新)

09:00 開幕式

09:20 講演1 林丕雄 淡江大学名誉教授「石川啄木研究の今後の可能性」

10:05  休息

10:25 啄木詩歌の朗読会(台湾大学の学生と学会員の交流)、二胡の演奏

11:15 講演2 太田登 台湾大学教授「啄木没後100年の歴史的意義について」

12:00 2012年度総会(昼食)


12:45 「石川啄木逝世百年紀念展」(図書館)

     構内施設見学 校史館、博物館など)


14:00 研究発表1 劉怡臻 台湾大学修士課程2年「啄木詩歌と李商隠

14:20 研究発表2 スレイメノヴァ・アイーダ(ロシア・極東連邦大学准教授)

    「与謝野夫妻と石川啄木─人生、作品の共通点と相違点をめぐって─」

14:40 総合討論

15:00  休息

15:20 研究発表3 安元隆子(日本大学教授)

    「石川啄木受容の系譜 ─ 金子文子歌集『獄窓に想ふ』と『啄木歌集』─ 」

15:40 研究発表4 西脇巽(生協さくら病院名誉院長)

    「家庭内精神力動 ─ 石川家、堀合家、宮崎家の場合─」

16:00 総合討論

16:20 全体講評

16:30 閉幕式

2012-04-29

[] 啄木没後100年の特別ミニ番組 NHK盛岡放送局

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[菜の花と桜]


NHK盛岡放送局

石川啄木没後100年の特別ミニ番組

  ふるさとに向ひて…〜啄木・歌碑紀行〜

 全国に150以上も残る石川啄木の歌碑を訪ね、そこに刻まれた歌と歌碑建設にまつわる物語を通して、「望郷と漂泊の歌人」と呼ばれた啄木の魅力を再発見する。

  • 放送日時(盛岡)

  毎週水 午後10時45分〜午後10時50分

  毎週土 午後0時40分〜午後0時45分

  毎週日 午前5時45分〜午前5時50分

  • 初回放送予定日

 [ 第 1 回 ] 生い立ち編・渋民  4/11

 [ 第 2 回 ] 漂泊編・釧路    4/25

 [ 第 3 回 ] 望郷編・盛岡駅   5/2

 [ 第 4 回 ] 成長編・盛岡城   5/9

 [ 第 5 回 ] 成長編・高田松原  5/16

 [ 第 6 回 ] 望郷編・渋民    5/23

 [ 第 7 回 ] 漂泊編・函館    5/30 

 [ 第 8 回 ] 漂泊編・小樽    6/6

 [ 第 9 回 ] 終焉編・上野駅   6/13

 [ 第10回] 終焉編・浅草等光寺 6/20

 

[] FMラジオ「ラヂオ盛岡」

「盛☆盛 ライオン」

  • 5月5日(土)午前7時45分〜8時
  • 森義真さんへのインタビュー
  • テーマ「啄木」

[] 心の奥の悲しみ引き出す歌 ─ 啄木

石川啄木記念館学芸員・山本玲子 啄木没後100年に

  • 今年度は石川啄木没後100年にあたり、石川啄木記念館での企画展、啄木ゆかりの地フォーラム、紙芝居の作成などの事業を計画している。大震災から1年、このような事業を実行できるまでになったことに喜びを感じている。
  • 記念企画は、平成22年度から3年計画で始まった。2年度の昨年は百回忌だった。記念館では、「石川啄木没後百年記念事業実行委員会」を設立するため、3月11日16時から会議を予定していた。その矢先の大震災であった。当然、会議は流れた。盛岡市内は大きな被害はなかったものの、三陸沿岸地域にいる親族、友人、知人を思い、不安と悲しみと絶望に包まれていた。そのような人々の前には、文学は無力であることを痛感した。どのような言葉も、どんな偉人の名言も空虚に感じた。そして犠牲になった人々を思い、ただただ涙を流すしかなかった。
  • 早くから社会問題に関心を寄せ、庶民の暮らしに目を向けていた啄木は、文学と生活は何ら間隔なきものでなければならないと考えた。何にも拘束されず、歌いたいことを自由に歌にすることができた啄木は、明治43年12月1日に歌集『一握の砂』を発行した。そして、年が明けて間もなく発病し、1年間の闘病生活の末、明治45年4月13日に26歳の若さで亡くなった。その2カ月後に第2歌集『悲しき玩具』が出版されたのである。
  • 啄木の歌は、人々の心の奥深い所にある悲しみを引き出してくれる。次のステップに進むためには、泣くことも大切である。被災された人々は、徐々に悲惨な状況を語り、啄木の歌に心を癒やされている。

 《頬につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず》(『一握の砂』所収「我を愛する歌」)

 《しっとりと/なみだを吸へる砂の玉/なみだは重きものにしあるかな》(同)

  • 歌の力は偉大である。心髄に触れて、歌に全身全霊を預けることによって癒やされていく。

(2012-04-29 産経ニュース)

2012-04-28

[] 別冊太陽「石川啄木─漂白の詩人」

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[石川啄木  別冊太陽のページ]


石川啄木―漂白の詩人 (別冊太陽 日本のこころ 195) 」

  • 平凡社 別冊太陽編集部
  • 2012年4月26日発行 2,415円

◇ 漂泊の詩人 没後100年記念

明治の最後の年にひときわの光芒を残して逝った石川啄木

歌集『一握の砂』や『悲しき玩具』のなかの一つ二つ、おそらく誰でもが思い出すに違いない。

歌ばかりではない。詩や小説、評論、加えて日記も評価される。望郷の想いやまず、わずか26歳で夭折。

歌、文学の魅力と波乱の人生を綴る。

 

[] 《ラウンジ》小樽駅 25日、新装開業

  • JR小樽駅が25日、1年半余りの改修工事を終えて生まれ変わる。道内最古の鉄筋鉄骨造りの駅舎は、昭和初期に建設された当時の左右対称の外観が復活し、集約された店舗ゾーンには地元の特産品を集めた「駅なかマート タルシェ」や道内初出店の「バーガーキング」など5店が新規開店する。「古き良き」と「新たな」が融合した小樽の玄関口に、観光客や市民の視線が集まりそうだ。
  • 今年が没後100年の歌人石川啄木も小樽駅に縁がある。姉の夫が当時の「中央小樽駅」(現小樽駅)の駅長で、啄木は1907(明治40)年秋から年明けまで小樽に滞在した。記者をしていた小樽日報社を退社し、子を背負った妻に見送られ、啄木は小樽駅から釧路へ向かう。

 子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな

駅前広場の北側の階段脇に、この歌碑がある。(武沢昌英)

(2012-04-23 朝日新聞>北海道)

[] <日めくり> 啄木の短歌を記事に入れてキザと言われた

  • もう大昔のことだ。記者生活の1年目。日曜出勤で「出稼者大会」の取材に行かされた。会場は千人規模の参加者でいっぱい。休憩時間のロビーは、久しぶりに会った同郷仲間のお国なまりが飛び交った。その光景からある短歌が頭に浮かび、社に帰ってデスクに「記事に入れたい」と言った。デスクは「表記を正確にしろよ」と注文をつけただけでOKしてくれた。

  ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

  • 出稿された記事は部内でちょっとした話題になり、ある先輩記者に「キザだ」と言われた。そのことが気になって別の先輩に話すと「おまえ、バカだな。この業界ではキザは褒め言葉なんだ」と笑われた。いい時代だった。
  • 啄木は大逆事件に異常な関心を持っていた。友人で事件の弁護人だった平出修から幸徳秋水の陳述書を借り出し、夜通し筆写している。その鬼気迫る姿が目に浮かぶ。今年で5年目になる大学の文章実習の授業では、毎年、啄木の短歌と「時代閉塞の現状」を紹介している。(47NEWS編集部 小池新)

(2012-04-23 47NEWS)

 

[] <卓上四季> 春の小川

  • 春の小川はさらさら行くよ―。誰もが口ずさめる歌「春の小川」が発表されて、今年でちょうど100年という。
  • きょうは、二十四節気の「穀雨」。百穀にとどまらず、万物を潤す水に感謝したい。<長く長く忘れし友に会ふごときよろこびをもて水の音聴く>(啄木)

(2012-04-20 北海道新聞>卓上四季)

[] 啄木愛される理由 記念館の菅原館長に聞く

岩手出身の歌人石川啄木が亡くなって100年。魅力は色あせず、13日の啄木忌には県内外から多くのファンが啄木の出身地、盛岡・渋民を訪れた。愛され続ける理由は何か。石川啄木記念館の菅原寿館長に聞いた。

  • 100年前の作品だが現代の人間にも通じるテーマが多く、普遍性がある。人間として共通するものに着目し、感得しているすごさが啄木にはある。
  • 人生に真っ正面からぶつかった人でもある。喜びや悲しみの体験を逃げずに受け止め見つめている。経験が頭の中で濾過され、温められたものを言葉として吐露した。「話すすべてが詩のようだった」と言われたほどだ。
  • 私自身、今回の震災で陸前高田市にある実家をなくした。北の海の潮が香る街は啄木の詩にぴったりだったのに。壊滅的、未曽有という言葉の通りになり、復興が進む中で改めてふるさとのありがたさが分かった。この望郷の気持ちを啄木はすでに歌ってくれている。啄木のひ孫石川真一さんは、啄木の詩が「被災した人の激励になれば」と話している。その通り、激励歌、人生賛歌だと思う。

(2012-04-20 朝日新聞>マイタウン>岩手)

2012-04-27

[] 「啄木 うたの風景 第3回」岩手日報

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[クスノキ]


<碑でたどる足跡>

[啄木 うたの風景 第3回]

  永眠の地(函館市

遺稿守る第二の古里

  • 死ぬならば、ふるさとに行きて死なむ─。悲痛な望郷の思いを歌にして逝った石川啄木の墓は、古里渋民から北に約200キロ離れた函館にある。
  • 今から100年前の4月13日、啄木は東京で亡くなった。啄木の遺骨は1913年(大正2)3月に妻節子の意向により、葬儀をした東京の等光寺から函館に移した。墓標には、節子の父堀合忠操が「啄木石川一々族之墓」、啄木の歌から「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」と記した。角材の簡素な墓標だった。
  • 現在の墓は1926年(大正15)にできた。岡田健蔵(後に市立函館図書館館長となる)と宮崎郁雨が中心となった。

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる

  • 墓碑には「一握の砂」の冒頭歌が刻まれた。海と砂、カニの色彩にあふれる絵画的な情景。涙で頬をぬらしながらカニと戯れる自分自身の心の痛みを見つめ、助詞「の」音の連なりがズームアップの効果を生んでいる。
  • 啄木一周忌には、岡田が私財を提供して作った私立の函館図書館で啄木を追想する催しが開かれ、作品を集める「啄木文庫」の設立を計画。岡田、郁雨らによって函館啄木会が組織された。節子の死後、義弟の郁雨を通じて函館図書館の「啄木文庫」に資料の大半が寄託された。
  • 啄木の函館生活は132日間。文学の仲間を得て、家族と楽しい時を過ごした。没後は墓が建てられ、日記と多くの遺稿が大切に守られている。26年2カ月の漂泊を終えて「第二の古里」といえる函館で眠っている。(学芸部・小山田泰裕)

(2012-4-18 岩手日報

 

[] 企画・連載「啄木 没後100年」読売新聞>岩手

「青春の歌人」啄木が亡くなって100年。その作品が古びず、色あせない輝きを放ち、今を生きる人たちの心をつかんで離さないのはなぜか。その秘密を探る。

〈1〉世紀を超え 生きる歌

 「歌の情景が目に浮かび、『啄木さん』との距離が縮まった気がした」

  • 石川啄木の101回目の命日前日の12日夜、盛岡市内で開かれた「啄木忌前夜祭」で、小学生から大学生4人が好きな啄木の短歌を語り合うパネルディスカッションが行われた。10代たちが親しみを込めて「啄木さん」と呼び、熱っぽく話す姿を見て、記者は啄木作品が世紀を超え、今も生きていると実感した。
  • 盛岡四高3年の佐々木もなみさんはこの一首を選んだ。

 古新聞!

 おやここにおれの歌の事を賞(ほ)めて書いてあり

 二三行(ぎやう)なれど。

  • 自分が所属する文芸部の合評会を重ね合わせ、「褒められたい、認められたいと思うのは人間皆同じ。啄木が身近に思える」と話す。
  • 盛岡市内では8月、全国の高校生が集まる「全国高校生短歌大会」(短歌甲子園)が開かれる。

(2012-04-18  読売新聞>岩手)

 

〈2〉歌碑 3度目の建立願う

 いのちなき砂のかなしさよ

 さらさらと

 握れば指のあひだより落つ

  • 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた陸前高田市。1本の松だけが残った名勝・高田松原は、啄木も盛岡中時代に訪れ、風光を激賞したことから記念に歌碑が建てられたという。その歌碑も震災の津波で流された。
  • 同市出身で、石川啄木記念館の館長を務める菅原寿さんは「海で亡くなった人たちを慰めているはず」と、流された歌碑に思いをはせる。菅原館長は「白い砂浜にピッタリの歌で、郷土の誇りだった」と思い出す。「復興する街を見守ってもらいたい」と、啄木の誕生日の来年2月20日に合わせて3度目の建立をしようと、募金活動を始めた。

(2012-04-19 読売新聞>岩手)

 

〈3〉現代「五行歌」の下地に

  • 啄木の生前に出版された歌集は「一握の砂」だけ。念願の第2歌集「悲しき玩具」が出版されたのは、死後2か月してからだ。
  • 小説家を志し、盛岡中を中退し16歳で上京した啄木。小説は認められず、皮肉にも短歌で脚光を浴びる。石川啄木記念館の山本玲子学芸員は「啄木にとって、短歌は失意にあった自分を慰めてくれるものだった」とみる。しかし、短歌を玩具にできたからこそ、啄木は「三行書き」を生み出せたとも、山本学芸員は考える。

眼(め)閉(と)づれど、

心にうかぶ何もなし。

 さびしくも、また、眼をあけるかな。

(「悲しき玩具」より)

  • 五行歌は、啄木に影響を受けて短歌を始めたという歌人の草壁焔太さんが19歳で考案。啄木のように感じたことを素直に表現しようとしたら、「五・七・五・七・七」の短歌の定型にこだわる必要はないという結論に達した。草壁さんは「自由に歌を詠めばいいと啄木が教えてくれたんです。啄木があと10年長生きしていたら、きっと五行歌にたどり着いていましたよ」と笑った。

(2012-04-20 読売新聞>岩手)

 

〈4〉ふるさとに帰った「魂」

  • 1912年4月13日、啄木は結核のため、東京で死去した。雄大な岩手山北上川、なまり――。啄木は再三、歌に詠んだふるさとから、亡くなる5年前に離れたきり、戻れなかった。
  • 啄木がふるさとに迎えられたのは、没後10年を経た22年。死後、やっと才能が認められた。薄幸の歌人と言われるゆえんだ。青年たちの間で「地元に啄木の歌碑を」という機運が高まり、岩手山北上川を望む同区の渋民公園に初めて歌碑が建てられた。現在、歌碑は北海道から沖縄まで約160か所に広がる。
  • 中学時代から啄木に憧れ、函館に何度も墓参したという作家の新井満さんには、忘れられない光景がある。2007年4月、啄木の短歌に新井さんがメロディーを付けた曲「ふるさとの山に向ひて」を、啄木の母校で、代用教員も務めた渋民尋常高等小学校の後身・渋民小学校(盛岡市玉山区)の児童約40人が歌った。

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたき かな

  • 会場の同小旧校舎に歌声が響いた。「魂だけでも、ふるさとに帰してあげたくて作った。もう一度、ふるさとに帰りたいという啄木の願いがかなった」と、新井さんは胸がいっぱいになった。

(2012年4月22日  読売新聞)

 

〈5〉憎めぬ人柄役者も魅了

  • 「どこか憎めず、手を差し伸べたくなるような魅力があるんだよなあ」

昨年10月に舞台化された井上ひさし作の評伝劇「泣き虫なまいき石川啄木」を演出し、啄木の父一禎役で出演もした俳優段田安則さんは、苦笑しながら啄木の魅力を語る。

  • 劇で描かれたのは、啄木晩年の3年間。家族を故郷から東京に呼び寄せたものの、新聞社の校閲の仕事はさぼりがち。貧困にあえぎながらも、親友・金田一京助の好意に甘えて金をせびり続ける姿は人間くさい。
  • 啄木研究家らによると、残されたメモなどから、啄木が26年の生涯で重ねた借金は、今の1400万円以上だという。「端から見ている分には面白いけど、友達だったらきつい」と段田さん。それでも、今では「啄木に会ってみたい」と思うようになった。

はたらけど

はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり

ぢつと手を見る

  • 「大して働いていたわけじゃないのにね」と段田さん。啄木の作品には、他人の目線で詠んだ歌も多い。「だからこそ、時代を超えて愛される。普遍的な素晴らしさを持つ作品は、100年たっても残る」

 (おわり、この連載は宇田川宗が担当しました)

(2012-04-23 読売新聞>岩手)

 

2012-04-19

[] 「昴」啄木の作品がヒントに 谷村新司さんのヒット曲

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[やねよりたかい こいのぼり]


<雷鳴抄>

すばる

  • 国立天文台長の海部宣男さんから、没後100年を迎えた石川啄木の作品にまつわる興味深い話を聞いた。海部さんは、日本がハワイに置く望遠鏡「すばる」の建設に携わった。「すばる」とは、おうし座にあるプレアデス星団の和名で清少納言も「枕草子」でめでた美しい星たちだ。この望遠鏡の愛称から谷村新司さんのヒット曲「昴」の話になった。
  • 海部さんは「あの歌詞は啄木の作品がヒントになっています」と歌集「悲しき玩具」の冒頭2首を暗唱してくれた。

(2012-04-09 下野新聞>雷鳴抄)

[] 【コラム】三山春秋

  • 〈故郷のなにがそんなにも切なく呼ぶのか。(略)癒すことのできない「渇き」のようなものがある〉。前橋市出身の詩人、伊藤信吉さんが石川啄木の代表歌の一つ〈病(やまひ)のごと思郷(しきやう)のこころ湧く日なり目にあをぞらの煙かなしも〉を評した言葉である。

(2012-04-19 上毛新聞>コラム三山春秋)

[] 小樽から即興の歌、全国へ

  • FMおたるの全国ネットワーク生放送番組で、小樽市内のミュージシャンおがわとーるさんが小樽の街をテーマにした曲を即興で作り、弾き語りで披露している。番組パーソナリティー渡辺大助さんが作った詩や小樽ゆかりの石川啄木の短歌などに曲を付ける。リスナーの反響も上々で、おがわさんは「全国と小樽の人の架け橋になりたい」と意欲を見せる。
  • 番組は毎週金曜日午後7時〜8時の「小樽からこんばんは」。番組配信会社を通じて東京や宮城、長崎など24のFM局で放送されている。
  • 小樽日報の記者として小樽に滞在した石川啄木の短歌「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」や、修学旅行の引率教諭で小樽を訪れ宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」などにも挑戦した。(竹中達哉)

(2012-04-18 北海道新聞>道央)

[] [啄木 イベント] 石川啄木没後百年記念企画展「啄木からのメッセージ 今日を見つめて」4/13-6/30

  • 2012年4月13日(金)〜2012年6月30日(土)
  • 場所 石川啄木記念館 盛岡市玉山区渋民字渋民9

石川啄木が残した多くの評論の中から印象的な一節を,今日の私たちに向けたメッセージとして紹介。

今年は第二歌集「悲しき玩具」発刊100年にも当たる。この歌集には歌論も収められており,啄木の短歌論をうかがい知ることができる。

  • 企画展講座 4月14日(土),5月12日(土),6月9日(土) いずれも14時から
  • 場所 石川啄木記念館ラウンジ内
  • 問い合わせ 石川啄木記念館 電 019-683-2315

2012-04-17

[] 講演「石川啄木没後100年 閉塞に立ち向かう啄木」京都

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[アオキの雄花]


閉塞に立ち向かう啄木を語る 田中礼京大名誉教授が講演

  • 「週刊しんぶん」京都民報創刊50周年を記念した講演会「石川啄木没後100年 閉塞に立ち向かう啄木」が14日、下京区のしんまち会館で行われ、京都府内だけでなく大阪、兵庫、滋賀などの各県から歌人や研究者ら70人が参加した。講演者は石川啄木研究の第一人者の田中礼京大名誉教授。
  • 田中氏は、啄木が詠んだ歌や執筆した評論などと啄木が生きた26年間の時代背景、戦争へと向かう時代の中にありながら、新しい社会への希望を見出そうと準備していた雑誌創刊の動きなどについて詳しく解説した。
  • 啄木に対する「泣き虫、ぐーたら」との評価について、「決してそうではない」と指摘。韓国併合や大逆事件、特高警察の創設など国が戦争へと向かう中で、幸徳秋水ら社会主義者の影響を強く受け、またロシアの革命家・クロポトキンの著書を愛読するなど、「助け合いと連帯の思想を内部に築いていった」と述べ、閉塞の時代を打開しようと動き始めていた啄木を紹介した。

(2012-04-16 京都民報>ニュース>社会)

 

[] 啄木の夏の手紙 

日経おとなのOFF

 「美しい日本語と正しい敬語が身に付く本」日経BP社 2012年3月発行 880円

● 時候のあいさつは、タイミング × 個性で勝負

かの文豪たちも、相手の心を和ませる季節感のある手紙を数多く交わしていた。意外にも技巧に走ったものや難解な言い回しはなく、実感のこもったシンプルな言葉が多く使われている。


石川啄木

「手紙を書こう書こうが

 遂今日まで宿題になっていると、

 君の方からまた先鞭をつけられた。

 弱っちゃった。東京は二三日来また雨、

 これにも弱っちゃった」

(明治42年7月9日、友人あて)


夏目漱石

「伊香保の紅葉を貰って

 面白いから机の上へのせて置いたら

 風がさらって行って仕舞った。

 どこをたずねてもない」

(明治39年10月19日、門下生あて)

2012-04-16

[] NHKラジオ「会う=啄木没後100年」山下多恵子

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[花筏]


NHK新潟ラジオセンター「朝の随想」

「会う=啄木没後100年」放送日 4月10日

  山下多恵子 さん (国際啄木学会理事)

  • もしも歴史上の人物にたったひとり会うことができるとしたら、私は迷うことなく石川啄木に会いにいきます。
  • 啄木の歌集『一握の砂』は、文学性の高さ、多くの人に親しまれているという点で近代以降の歌集のなかでも突出しています。 

  砂山の砂に腹這ひ/初恋の/いたみを遠くおもひ出づる日

  山の子の/山を思ふがごとくにも/かなしき時は君を思へり

  はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る

  • 私たちは嬉しいとき淋しいとき苦しいとき、『一握の砂』を開くとその時の感情にぴったりの歌が必ず載っています。
  • 啄木が亡くなって今年で100年になります。1912年(明治45)4月13日、啄木は息を引き取りました。桜の散る午前九時半でした。臨終に立ち会った歌人の若山牧水は、啄木が昏睡状態になったとき啄木の娘の京子さんがいないことに気づき、探しに外へ出ました。当時5歳の京子さんは家の前で桜の花びらをひろって遊んでいました。私は桜の季節になるとそのような情景を思い出します。
  • 啄木は、わずか26年2カ月の生涯を実によく生きた人であり、人を愛し人に愛される人間でした。欠陥の多い人間でもありました。しかし、彼は何度も挫折し、立ち上がるときはもっと大人に変わっていきました。私は成長し続ける啄木に魅力を感じています。
  • 啄木に会うことは叶わないことですが、彼は作品を通して「生きなさい。生きるんですよ」と私たちをやさしく励ましてくれるような気がします。そう思うと、生きる力が湧いてきます。それを私は「啄木の力」とよんでいます。

◎山下多恵子さんの話は毎週火曜日、半年間、26回ある。

2012-04-15

[] 講演会 啄木終焉の地で開催

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[講演会のようす]


講演「文京区と啄木の歌」について

  講師 佐藤 勝

 ○ 2012年4月13日

 ○ 場所:東京都文京区 中ノ郷信用組合小石川支店(文京区小石川5-24-6)

    • 没後100年の今年、文京区久堅西町会会長の井上義一さんら地元有志が、初めて法要と啄木をしのぶ講演会を開催した。
    • 講師の佐藤勝さんの講演のあと、井上町会長さんが啄木への熱意をこめた挨拶をし、石碑再建活動にも触れた。終焉の地に献花台を設置し、啄木の写真と焼香用一式が用意された。区長が献花をし、参加者が次々に手を合わせた。

 

[] 啄木歌碑像、旭川で除幕 没後100年、函館では追悼会

  • 明治の歌人石川啄木の没後100年の命日に当たる13日、市民団体「旭川に石川啄木の歌碑を建てる会」が、市民やファンらの募金で建てた歌碑付きの啄木像の除幕式を、JR旭川駅の旭川観光物産情報センターで行った。
  • 式には東京旭川会会員ら約300人が出席。歌碑を提案した旭川出身の啄木研究者、近藤典彦さんや、デザインした旭川出身の造形作家、中村園さんらが幕を引いた。また、13日には啄木が眠る函館・立待岬の墓前で啄木忌追悼会が営まれた。

(2012-04-14 北海道新聞

[] 啄木の命日:旭川で像の除幕 函館で追悼式

  • 像を建立したのは、「旭川に石川啄木の歌碑を建てる会」(相川正志会長)。10年に、東京旭川会と市幹部が懇談した際、同市出身で国際啄木学会前会長の近藤典彦・元群馬大教授が「旭川駅前に啄木の歌碑を」と提案。市民有志が会を設立し、約800万円の資金を募っていた。
  • 啄木像の隣に自由に座れる席を用意した。除幕式には旭川出身の元横綱、北の富士勝昭さんも出席した。

(2012-04-13 毎日新聞)

[] 没後100年 啄木しのぶ

函館で愛好家墓参り 旭川に像と歌碑

  • 函館市住吉町の東海山地蔵堂では啄木忌の13日、啄木の没後100年の法要が行われた。啄木の一周忌に結成され、毎年法要を開く「函館啄木会」(岡田弘子会長)の主催で、道内外の啄木愛好家など約60人が参加した。法要後、参加者は立待岬近くの「石川啄木一族の墓」に参列し、手を合わせていた。

(2012年4月14日  読売新聞)

[] 没後100年、旭川駅に啄木像 短歌モチーフに

  • 石川啄木の没後100年を記念し北海道旭川市のJR旭川駅に啄木像が設置された。歌集「一握の砂」から旭川ゆかりの短歌が刻まれている。

(2012-04-13 共同通信>写真ニュース)

[] 啄木没後100年―室蘭・海岸町の公園で父に花束捧ぐ

  • 室蘭市海岸町3の公園に啄木の父・一禎さんが住んでいたことを表す文学プレートがあるが13日、設置に携わった2人が花束を捧げ、感慨を新たにした。 設置したのは今はない室蘭中央ライオンズクラブ。「室蘭に父親がいたことを知ってほしい」と願って立てたプレートで、当時会長だった丸山貴陸さんと幹事だった増岡敏三さんがこの日、没後100年ということで訪れた。プレートの文章は当時、室蘭市港の文学館館長だった樋口游魚さんにお願いしている。
  • プレートによると、一禎さんは東京にいた病気と貧困の啄木の元を離れ、次女夫婦のいた小樽にいくが、夫婦の転勤で明治45年3月、室蘭へ。室蘭在住時に啄木の危篤を知り、上京したが、啄木は4月13日に亡くなった。一禎さんは1年8カ月、プレートの立つ海岸町に住んだ後、室蘭を去っている。(野崎己代治)

(2012-04-14 室蘭民報

[] 啄木没後100年思いはせる 市民ら墓参 講演会も【函館】

  • 函館ゆかりの歌人、石川啄木の命日に当たる13日、函館啄木会(岡田弘子代表理事)による「啄木忌」が函館市住吉町の東海山地蔵堂で営まれた。関係者や市民ら約70人が参列。没後100年を迎え、大森浜を望む地で安らかに眠る啄木に思いをはせ、静かに手を合わせた。
  • その後に行われた追悼講演会では、函館市文学館の前館長、森武さんが「啄木の終焉と妻節子」と題し講演。「女性問題や借金など、啄木には負のイメージがつきまとうが、最晩年の日記や手紙には人間らしい啄木の姿がある」と指摘。「啄木についてはいろんな角度から研究されているが、もっと愛情を持って啄木をみてほしい」と強調した。

(2012-04-13 函館新聞)

[] 「愛される啄木 今後も末永く」 盛岡で101回忌

  • ことし没後100年を迎えた盛岡市玉山区出身の歌人石川啄木の命日に当たる13日、第101回啄木忌の法要(啄木祭実行委員会主催)が、啄木の父が住職を務めた宝徳寺(玉山区渋民)で営まれた。
  • 地元住民や関係者ら約140人が出席。実行委の嵯蛾忠雄委員長が「節目のことし、啄木がこれからの1世紀も愛され続ける礎を築きたい」とあいさつ。参列者は啄木の遺影に焼香し、古里を離れたまま早世した歌人をしのんだ。

(2012-04-14 河北新報

[] 啄木の命日 101回忌法要

  • 啄木が少年時代を過ごした、盛岡市玉山区の宝徳寺で101回忌法要が行われました。啄木は26歳という若さで亡くなりました。
  • 法要では没後100年記念事業のひとつとして、新たに製作された「啄木かるた」が奉納されました。啄木の詩集、「一握の砂」「悲しき玩具」から作られた啄木かるた。今回作られたかるたは公募による投票結果を元に、新たな100首で構成されました。7月に函館で行われる「啄木交流かるた大会」など、今後は競技にも使われるこのかるたはきょうから販売され、盛岡市内全ての小中学校にも寄贈されます。

(2012-04-13 IBC岩手放送

[] 101回忌、啄木しのぶ 関係者ら継承へ意欲

  • 盛岡市玉山区出身の歌人、石川啄木の101回忌法要(啄木祭実行委主催)が、宝徳寺で行われた。地元の女声合唱団や吟詠会が啄木の作品を歌や詩吟で披露した。
  • 13日は啄木が最期を迎えた東京都文京区小石川の都旧跡「石川啄木終焉の地」周辺でも献花祭と講演会が開かれた。地元の久堅西町会(井上義一会長)が没後100年を機に初めて企画。啄木の遺影の前で手を合わせ、薄幸の天才歌人をしのんだ。

(2012-04-14 岩手日報

[] 石川啄木:101回忌法要 ファンら140人焼香−−盛岡・宝徳寺 /岩手

  • 法要には石川啄木記念館の職員や啄木ファンなどが参加。住職がお経をとなえるなか、参列者は啄木の遺影の前で焼香を挙げた。啄木祭実行委員会の嵯峨忠雄委員長が「これから幾世紀も愛されるようにしたい。今後も啄木の作品から多くのことを感じとりたい」とあいさつした。
  • また、啄木ゆかりの北海道函館市盛岡市で開かれるかるた大会で使われる「啄木かるた」が新しく製作され、祭壇に供えられた。かるたは1000部製作し、盛岡市内の小中学校に配布するほか、同記念館や市内の書店でも販売予定という。

(2012-04-14 毎日新聞>岩手)

[] 啄木没後100年 法要140人参列

  • 式典では、啄木祭実行委員会の嵯峨忠雄会長が「啄木は時代の転換期に新しい明日の到来を信じて、感性豊かに歌を詠んだ。作品や生涯から学ぶ必要がある」とあいさつ。この後、作家新井満さんが啄木の短歌にメロディーをつけた「ふるさとの山に向ひて」を地元の女声合唱グループ「コールすずらん」が歌い、参列者は思いをはせていた。

(2012年4月14日  読売新聞)

[] 早世の天才歌人しのぶ 啄木101回忌法要

  • 啄木祭実行委員会の嵯峨忠雄委員長は開会で「論文『時代閉塞の現状』で訴えていることは、現代を予言しているかのごとくで先見性の確かさを物語っている。啄木の生きざまや作品から多くのことを学ぶことができるのではないか」と語った。
  • 谷藤裕明盛岡市長(代読)は「震災から1年の歳月がたったが、今なお多くの方が努力を重ねている。啄木の作品には、日々の生活に対する思いがあふれ、これから前へ歩き出そうという人にも元気を与えてくれる力が宿っている。その力を伝えるためにも、官民一体となって全国に発信してもらいたい」とあいさつを寄せた。
  • 法要後は、啄木記念館の菅原壽館長が「わが青春の啄木」について講話した。

(2012-04-14 盛岡タイムス)

[] 「啄木の歌、震災の鎮魂に」故郷岩手で101回忌法要

  • 「啄木101回忌法要」が営まれ、地元の人や、全国から集まった啄木ファンが、時代を超えて愛され続ける早世の歌人啄木をしのんだ。
  • 法要を主催した石川啄木記念館理事長の嵯峨忠雄さんが「震災後だからこそ、啄木の歌や作品が鎮魂となり、生かされた命の励ましになると信じています」とあいさつ。

(2012-04-13 朝日新聞)

[] 没後百年 啄木しのぶ 盛岡・渋民で法要

啄木忌の法要が宝徳寺で営まれた。

  • 昨年の100回忌法要は、東日本大震災が発生したため、開催を取りやめた。父佐蔵さんが、小学校の代用教員時代の啄木に家の一間を貸していたという斉藤清人さんは「生きている間、啄木は生活が苦しかった。けれど、亡くなった100年後にこんなにたくさんの人が集まってくれて幸せに思っていると思う」と話した。
  • 昨年の大津波で流された高田松原陸前高田市)の啄木歌碑に代わる新たな碑を建てようと、盛岡市民や文化・経済団体からなる石川啄木没後百年記念事業実行委員会(会長・嵯峨忠雄石川啄木記念館理事長)が募金に乗り出した。

 〈いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れバ指のあひだより落つ〉と刻まれた碑は「奇跡の一本松」から500メートルほど離れた松林にあった。

  • 実行委事務局員で石川啄木記念館長の菅原寿さんは「命の大切さを詠んだ歌。津波で犠牲になった人や、行方の分からない人の魂を慰め、残された人たちを励ます歌碑をもう一度建てたい」。歌碑の内容や場所は陸前高田市と相談して決め、来年2月20日、啄木の誕生日の建立を目指す。
  • 募金は1口1千円。郵便振替(02280・8・134575 石川啄木没後百年記念事業実行委員会)で9月30日まで受け付ける。問い合わせは同記念館(019・683・2315)。

(2012-04-14 朝日新聞>マイタウン>岩手)

 

[] 天声人語

  • 季節の話題を書いて頂戴する便りに、日本列島の「長さ」を思うことがある。
  • 昨日が100年の命日だった石川啄木の日記にこんな一節がある。〈渋民村の皐月(さつき)は、一年中最も楽しい時である。天下の春を集めて、そしてそれを北方に送り出してやる時である〉。5月の描写だが、ふるさと岩手の遅い春の歓喜は、堀口の詩と通じあう。石川啄木記念館に聞くと、いまも畑に少し雪が残り、桜は蕾が堅いそうだ。だが、冬ざれからようやくフキノトウが出てきたという。「天下の春を集める」まで、もういっときである。

(2012-04-14 朝日新聞>天声人語

[] 石川啄木の才能とは

【北の文人 立ち話 高山美香】

迷惑かけても憎めぬ男

  • 4月13日は、岩手県が生んだ天才歌人、石川啄木の没後100年にあたります。26年という短い人生でしたが、短歌約4千首、詩や小説、評論など驚異的な量の作品を残し、その中には新聞記者などの職を得て函館、札幌、小樽、釧路を転々とした北海道漂泊時代に生まれた作品も数多くあります。

 「しんとして幅広き街の秋の夜の玉蜀黍(たうもろこし)の焼くるにほひよ」

  • これは札幌を歌ったものですが情景だけでなく匂いまで伝わるようです。道内には啄木関連の歌碑や銅像が40基以上もあるそうで、啄木人気の高さがわかります。
  • 啄木は…、友人や家族に迷惑をかけ続けましたが、不思議なのは誰も最後まで見捨てなかったこと。啄木に苦労させられた金田一京助は「どんなことをされても憎めなかった」と振り返っています。
  • 彼には歌の才能だけでなく、人から愛される才能があったのでしょう。函館大火の際に動揺する家族を落ちつかせようと「盆踊りを踊った」と記す啄木。あぜんとするが、やはり憎めないかも。

(2012-04-13 朝日新聞>マイタウン>北海道)

[] 朗読少女 : 乙葉しおりの本の小道 第65回 石川啄木「一握の砂」

  • 美少女キャラクターが名作を朗読してくれるiPhoneアプリ「朗読少女」。これまでに50万ダウンロードを突破する人気アプリとなっている。「朗読少女」で、本の朗読をしてくれるキャラクター、乙葉しおりさんが名作を紹介する「乙葉しおりの本の小道」。第65回の石川啄木の「一握の砂」だ。

 ◇

 皆さんこんにちは、乙葉しおりです。 

  • 4月13日は、歌人・石川啄木さんのご命日、「啄木忌」です。
  • 当コーナーでも、この後、石川啄木さんの作品をご紹介させていただきたいと思います。
  • 石川啄木さん初の歌集となる「一握の砂」は、一首を三行でまとめる「三行分け」と呼ばれるスタイルが特徴で、後の詩人・歌人にも大きな影響を与えました。
  • 題名の「一握の砂」は、手に握り締めた砂が指の隙間からこぼれ落ちていくさまを表していますが、転じて、こぼれる砂のように無常に流れる時間と、共に押し流されていく作者の不遇な生き様の記録という意味があります。
  • 本作品は石川啄木さんが上京した1908年から、足掛け3年にわたって詠まれた551首を全5編に分けて構成したもので、1910年の暮れに発表されました。
  • 漢字にルビを振り、分かりやすい言葉を使って詠まれた歌の数々は、「一握の砂」のもうひとつの特徴と言えるものなのですが、それはこの短歌に大きな共感を覚える労働者階級の人々に向けた配慮であろうことは、想像に難くないのではないでしょうか。

 最後に、「一握の砂」の中で特に有名な詩を二つご紹介します。

   東海の小島の磯の白砂に

   われ泣きぬれて

   蟹(かに)とたはむる

 

   はたらけど

   はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり

   ぢっと手を見る

(2012-04-13 毎日新聞デジタル>MANTANWEB)

 

[] ふるさとの歌 啄木没後百年・4

  • 石川啄木は盛岡中学3年だった1900年夏、修学旅行で三陸を訪れた。明治三陸大津波の4年後。一行は水沢、一関を経て高田松原、大船渡、釜石を回っている。
  • 啄木ゆかりの地を巡る三陸観光があったなら。「人気コースになると思ったんですけどね」。大船渡市の佐々木紀子さんは昨年3月「大船渡ガイドの会」のツアーガイドとしてデビューするはずだった。
  • 地元でもあまり知られていないはずと、啄木の80回忌の91年、足跡をたどるツアーを思い立った。昨年、正式なガイドとして活動を始めるにあたって観光ガイドブックをつくった。啄木ゆかりの七つの石碑の写真を撮って回った。最後に大船渡市の吉浜海岸の歌碑を撮ったのは3月5日のこと。その6日後、陸前高田市高田松原と長部漁港公園にあった石碑は大津波にさらわれた。
  • 釧路啄木会長の北畠立朴氏の調査によると、啄木関連の歌碑や記念碑は14都道県の計152基に上る。啄木の歌碑に魅了され、盛岡市の沢尻弘志さんは全国を巡り碑文の拓本を取り続けている。お気に入りは、盛岡市の岩手公園内の〈不来方のお城に寝ころびて/空に吸われし/十五の心〉。啄木の親友、言語学者金田一京助の筆による。3行分かち書きという独特のスタイルで詠んだ啄木。この歌碑は字と字の「空間」や字体のバランスが絶妙だという。「詩情を生かした歌碑。15歳の青春を思い出させてくれるね」

(2012-04-14 朝日新聞>マイタウン>岩手)

[] 没後100年、啄木に迫る 企画展、イベント続々

  • 歌集「一握の砂」などで親しまれている石川啄木の死去から100年がたつ今年、出生地の盛岡市を中心に各地でイベントや特別展が相次いで開かれる。望郷の念を抱きながら、26歳の若さで逝った歌人の魅力に迫る企画が目白押しだ。
  • 盛岡市が加わる記念事業実行委員会は6月2日、記念フォーラムを市内で開く。
  • 岩手県陸前高田市の名勝・高田松原で津波に唯一耐えた「奇跡の一本松」の近くにあり、啄木の代表作の一つを刻んだ歌碑も津波で流されたため、実行委は記念碑を建てようと募金を開始。来年2月の完成を目指す。
  • 故郷を出た啄木が約1年間転々とした北海道では、函館市文学館が企画展「石川啄木の終焉と妻節子」(10月10日まで)を開く。
  • 甲府市の山梨県立文学館は4月28日から約2カ月間、「石川啄木愛と悲しみの歌」と題し、直筆の手紙や原稿を展示。
  • 盛岡市石川啄木記念館も「啄木からのメッセージ」「啄木と節子のモダニズム」を相次いで開催。〔共同〕

(2012-04-14 日経新聞

 

[] 鳴潮

  • 落花盛んな徳島中央公園のお堀端で、新緑の柳に出合った。雨にぬれた若葉の色がハッとするほど美しい。石川啄木の短歌が浮かんだ。<やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに>
  • 岩手県陸前高田市には、その啄木の歌碑があったが、東日本大震災の津波で流されたという。刻まれていたのは、<いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ>。偶然にも、津波にさらわれた人々をしのんだかのような歌だ。
  • 啄木没後100年の今年、碑の再建に向けて募金活動が始まった。復興への歩みは遅いが、一歩ずつ、着実に震災前の姿を取り戻しつつあるようだ

(2012-04-15 徳島新聞)

 

2012-04-13

[] 「啄木 うたの風景 第2回」岩手日報

f:id:takuboku_no_iki:20120413194644j:image:w640

[「石川啄木終焉の地」解説板]


<碑でたどる足跡>

[啄木 うたの風景 第2回]

  終焉の地(東京都文京区) 等光寺(台東区)

孤独際立つ都市生活

  • 小石川区久堅町、今は文京区小石川5丁目にかつてあった「石川啄木終焉の地」の石柱は姿を消し、家があった場所に建つマンションの壁に小さな解説板が張り付けてある。
  • 1912年(明治45)4月13日午前9時半。啄木はこの借家で静かに息を引き取った。26歳の短い人生だった。後に若山牧水が記した文章によると、初夏のように暑い日で、庭の八重桜が空を覆うように咲いていたという。
  • 没後100年の今年は、久堅西町会会長の井上義一さんら地元有志が法要と啄木をしのぶ講演会を初めて企画した。
  • 「終焉の地」の石柱は、隣接地との境界に建っていたことから東京都教委が2007年12月に撤去。解説板のあるマンションの所有者も、啄木に家を貸した一家の子孫から別の所有者に代わった。
  • 啄木の葬儀は4月15日、土岐善麿の好意により、土岐の生家、等光寺で営まれた。

   浅草の夜のにぎはひに

   まぎれ入り

   まぎれ出で来しさびしき心

  • 1955年10月27日。等光寺の門を入ってすぐ右側に歌碑が建てられた。黒御影石に啄木の肖像が添えられている。当時の浅草は庶民の歓楽街としてにぎわいをみせていた。繁華街の人の群れの中にまぎれるように入り込み、そって出て来るという情景に、都市生活者の孤独と悲哀を浮かび上がらせている。

○「終焉の地」の石柱について、国際啄木学会東京支部(大室精一支部長)は、地元文京区などに再建を働き掛けている。

(学芸部・小山田泰裕)

(2012-04-11 岩手日報

 

[] 小国露堂:啄木の社会主義傾倒に影響 啄木の死から100年、写真見つかる /岩手

  • 歌人、石川啄木の北海道時代に濃密な交際を重ね、啄木が社会主義に傾斜していくのに影響を与えた宮古出身の新聞記者、小国露堂の写真が見つかった。写真からは、啄木に社会主義と記者の道を熱く説くことになる露堂の若き日の信念が見て取れる。【鬼山親芳】
  • いずれも若い頃の4枚。露堂の次男俊平の遺品の中にあった。

(2012-04-13 毎日新聞)

[] ふるさとの歌 啄木没後百年・3

盛岡に暮らし、石川啄木の歌を聞いたことはあった。でも、「郷土の偉人というと取っつきにくい感じがして」。岩手大教育学部付属中学2年の石川隼人君(13)が啄木に興味をもち始めたのは、同付属小5年生のとき。

  • 百回忌だった昨年、盛岡市玉山区で開かれた啄木祭を訪れた。講演した作家の新井満さんが、新潟地震を経験した際に啄木の歌に励まされた、という話をしていた。
  • 直後に、被災地を回るバスツアーに参加した。「啄木が今生きていたらどう活動したんだろう」。車窓からがれきを眺めながら、ふと思った。

(2012-04-13 朝日新聞)

[][] 啄木ゆかりの街並み追体験 盛岡で企画展 4/11~7/14

  • 石川啄木が青春時代を過ごした盛岡の街並みを、イラストなどで紹介する企画展「啄木と盛岡――美しい追憶の都」が11日、もりおか啄木・賢治青春館(盛岡市中ノ橋通1丁目)で始まった。
  • 盛岡市在住の元教員吉田矩彦さんが、啄木が20歳の頃に発表した小説「雲は天才である」「葬列」に登場する盛岡の建物などをペンや鉛筆で描いた。7月14日まで。入場無料。

(2012-04-13 朝日新聞、岩手日報

[][] 石川啄木の歌碑付き像除幕式 -旭川市

  • 旭川に石川啄木の歌碑を建てる会が旭川市民や出身者らに募金を呼びかけて建立した歌碑付きの啄木像の除幕式を命日の4月13日に合わせて行う。
  • デザインしたのは旭川出身の造形作家、中村園(その)さん。台座の階段を3段上ると、啄木の隣の席が空いていて、誰でも自由に座れるのが最大の特徴だ。除幕式では、建てる会が歌碑像を旭川市民の財産として旭川市に贈呈。最初に啄木の隣に座る人を参加者から抽選し、記念撮影する。

(2012-04-13 北海道新聞

 

[] 盛岡 啄木没後100年で法要

  • 13日は、父親が僧侶だった啄木が幼いころを過ごした盛岡市の「宝徳寺」で法要が営まれ、全国から啄木のファンや研究者などが参列しました。
  • ことしは、地元の有志などが企画して、啄木の歌からえりすぐった100首を使ったかるたが新たに作られ、祭壇にささげました。

(2012-04-13 NHKニュース、共同通信>写真ニュース、)

[] きょうの潮流

  • 7万本の松が津波で消えた、岩手県陸前高田市高田松原。残る一本松、転がる流木や水に没した根元が、わずかな形見です。松原にあった石川啄木の歌碑の再建へ、市民や啄木ファンが動き出しました。
  • 「いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ」。碑に刻まれていた歌です。啄木の歌の多くから、文字というより身体で書かれたような、生きた魅力を感じます。
  • そんな歌をつくった啄木自身、幸徳秋水大逆事件の被告の死刑にどれほど深い痛みを覚えたでしょう。判決へのなりゆきを、息をつめるようにして見守っていた啄木です。彼の明日へのまなざしも、痛切に今に伝わります。

(2012-04-13 しんぶん赤旗

 

[] コラム 筆洗

  • 震災後一年になる少し前、石川啄木の故郷、岩手・盛岡を訪れることがあった。市内の北上川沿いにある渋民公園はまだ雪に覆われていた。よく晴れた日で、啄木の歌碑ごしに真白い岩手山の堂々たる姿が見えた。
  • この歌人が、わずか二十六年の生涯を閉じたのは明治四十五年四月十三日。今日で没後百年になる
  • <今日もまた胸に痛みあり。/死ぬならば/ふるさとに行きて死なむと思ふ。>
  • 想を連ねずにいられぬのは、同じ東北の地、福島で起きた原発事故によって故郷を追われ、今なお戻れずにいる大勢の人たちのこと。

(2012-04-13 東京新聞

[] 越山若水

  • 「あともう何本もすうわけではないからと 禁煙のうやむやに 年改まる」。三行歌の先駆者、土岐善麿は94歳まで長生きした人だが、晩年に禁煙を試みたようだ。
  • 「我は今のこる最後の一本の煙草(たばこ)を把(と)りてつくづくと見る」。善麿の友人、石川啄木の短歌である。ただ禁煙というより、貧乏をかこった惨めさを嘆いた歌らしい。
  • 「空家(あきや)に入り煙草のみたることありきあはれただ一人居たきばかりに」。啄木は稼業の不振に悩んで煙草に火を付けた……。

(2012-04-13 福井新聞

[] 風土計

  • 「石川は遂に死んだ」。直接的表現で始まるこの文章は、啄木の歌集「悲しき玩具」のあとがき。刊行を委ねられた友人の土岐哀果(善麿)が記した。
  • 「眼(め)閉づれど、/心にうかぶ何もなし。/ さびしくも、また、眼をあけるかな。」。歌集の2番目に掲載されているが、これが最後に作った歌。歌稿のノートに挟まれた紙片に、もう一首とともに記されていた。
  • 何かをしたくても思い浮かばない、もどかしさを感じさせる。句読点、一字下げは歌集後半にみられる形態だ。国際啄木学会事務局長の森義真さんは「3行書きの可能性を広げる試み」と解説する。長く生きられたなら、どんな世界をつくっただろうか。
  • 「一握の砂」と併せて読み継がれる啄木の歌。誰もが親しめる。「自分の気持ちに即した歌を探してみる。すると必ずある。生活の合間や節々をうまく表現しているのが啄木だから」と森さん。
  • 鋭い評論も残した。「時代閉塞(へいそく)の現状」は説く。明日の考察こそなすべき唯一と。きょう没後100年の啄木忌。今また閉塞の中、託された言葉をかみしめる。

(2012-04-13 岩手日報

[] 日経-春秋

  • あすが死後100年にあたる石川啄木が詠んでいる。「草に臥(ね)て/おもふことなし/わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥は空に遊べり」。空はぼうっと眺めるもの、落ちてくるのはせいぜい鳥の糞。平和とはそういうものである。

(2012-04-12 日経新聞>日経春秋)

 

[] 秋田のニュース:北斗星

  • 岩手県で生まれた明治の歌人石川啄木は、鹿角と縁がある。母方の曽祖母熊谷ヱイは、鹿角市毛馬内の出身。長姉サダは、夫が勤める小坂鉱山の長屋で29歳で病没した。そして長詩「鹿角の国を憶ふ歌」の存在。ただし、啄木が実際に鹿角を訪れたかどうかは研究者の意見が分かれる。
  • 啄木と「秋田」の接点は他にもある。中央公論の編集者で秋田市出身の滝田樗陰は08年、掲載を依頼された啄木の小説を突き返す。小説でも限界を悟った啄木は短歌に没頭、後の歌集「一握の砂」につながったことが金田一の年譜からうかがえる。
  • 啄木を北海道に招き、文芸誌を編集した松岡蕗堂は旧雄勝町の出身だった。短い人生に、秋田も少なからぬ影響を与えたことに感慨を覚える。

(2012-04-13 さきがけon The Web)

[] コラム > 春秋

  • 石川啄木は、没年の明治45年までの4年間は東京で暮らした。こんな歌も残している。〈浅草の凌雲閣のいただきに/腕組みし日の/長き日記(にき)かな〉
  • 凌雲閣は明治半ばに造られた。れんが造りの12階建てで高さは約50メートル。
  • 凌雲閣が関東大震災で姿を消したあとの東京では、歳月を経て、333メートルの東京タワーが主役になった。主役は交代するのか。高さが2倍近い東京スカイツリーが完成し、来月下旬からは人が昇って大パノラマを楽しめるようになる。
  • スカイツリーがある場所と凌雲閣があった場所は隅田川をはさんで割と近い。“現代の凌雲閣”もはるかに凌ぐ雲の上にいる明治の歌人に、時代を重ねた日本はどう映るだろう。そこからの眺めを詠んでほしくなる。
  • 啄木が見下ろす2012年の日本の首都で、景気が良いのは日本一のタワーの完成話くらいのもの。詠み残した〈はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る〉人が多いことに驚くかもしれない。

(2012-04-13 西日本新聞

 

[] 産経抄

  • 〈地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く〉。きょう没後100年を迎える石川啄木による、韓国併合批判の歌として知られる。。

(2012-04-13 産経新聞>産経抄)

[] 小社会

  • 啄木は嘘つきでもあった。26歳で早世したとき、与謝野晶子が新聞に寄せた9首の哀悼歌に、〈いろいろに入り交りたる心より君は尊とし嘘は云(い)えども〉などと「啄木の嘘」を詠んだ歌が二つ。切ない思いの一方、冷めたまなざしも感じられる。
  • 新聞社の校正係の職は薄給ではなかったとの見方もあるが、いつもぴいぴいの暮らし。そんな中から代表作の歌集「一握の砂」は生まれた。
  • 親交のあった土岐善麿の尽力で世に出たのは死後8年たってから。それがなければ、格差社会の広がりの中で〈はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る〉を思い浮かべることはなかったかもしれない。

(2012-04-13 高知新聞>小社会)

2012-04-12

[][]「啄木 新しき明日の考察」書評

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[ヒメオドリコソウ]


〈書評〉森義真

『啄木 新しき明日の考察』池田功著

   新日本出版社 2012年3月発行

  • 比較的難しいと思われている啄木の評論を、啄木の主張点を明らかにしながら、具体的に解き明かしてくれているのがこの本の特徴でもある。「はじめに」においては、昨年の東日本大震災に関連した現代性を示すことから書き起こし、「未曽有の出来事で日本は閉塞状況に陥っています。もし啄木が生きていたら、この時代閉塞の状況に対してどのようなことを考え表現したでしょうか」と問いかけ、「まさに『新しき明日の考察』をしなければならぬ」、「『新しき明日』を見つめ、それに向かって考察しなければならない」と啄木が語っただろうという答えを出している。
  • 結論としての〈啄木の成長の秘密〉は、「多くのイメージや言葉やテーマや場面などが、短歌、詩、小説や評論というジャンルを超えて反復されている」とした上で、「一首の短歌の創作の背後に、詩や随筆や小説の中の言葉やイメージを繰り返し再生産し、反復させながら高みに上り詰めていく」と説いた。
  • 「むずかしいことをやさしく」というこの本につき、ぜひ、ご一読をおすすめする。

  (近代文学研究家、盛岡市在住)

(2012-04-12 盛岡タイムス)

 

[][] 石川啄木:気象でたどる日々 函館滞在時の日記検証、札幌の真田さんが冊子に

  • 明治の歌人・石川啄木(1886〜1912)の函館滞在時の日記について、気象に関する記述を当時の函館一等測候所(現・函館海洋気象台)の気象記録で確かめ、札幌市中央区の真田英夫さんが冊子(A4判50ページ)にまとめた。啄木が新天地を求めて訪れた函館の日々が、空模様を背景に鮮やかによみがえる。【去石信一】
  • 真田さんは土木が専門で、現在は札幌市のコンサルタント会社で技術顧問を務めている。知人に「啄木が札幌に来た日の天気を知らないか」と偶然聞かれたのをきっかけに、啄木の札幌滞在時の気象をまとめた。
  • 地元図書館などに寄贈した残りの冊子約30部を希望者に提供するという。問い合わせは電子メールsanada@fuji-kc.jp。

(2012-04-12 毎日新聞)

[][] 講演会 啄木終焉の地で

講演

「啄木終焉の地」〜「文京区と啄木の歌」について〜

  講師 佐藤 勝

  • 2012年4月13日(金)午前10:00〜
  • 場所:東京都文京区小石川

 

[] 4月12日付 編集手帳

  • 何年か前、『読売俳壇』で読んだ句がある。〈職探す人に幸あれ啄木忌〉(上田久幸)。仕事を探して各地を転々と放浪した歌人に、現代の就職難を重ねている。
  • 石川啄木は最後の記述となった1912年(明治45年)2月20日の日記にも金策の憂いを綴っている。あり余る詩才を抱きつつ、処世の苦しみ多き26年の生涯を閉じたのはその年の4月13日、あすで100年になる。
  • たとえば仕事を詠んでは、〈気の変る人に仕へて/つくづくと/わが世がいやになりにけるかな〉。自分の心境そのままだ…という人もあろう。…少しも古びることのない、奇跡のような歌人である。

(2012年4月12日 読売新聞)

[] 啄木の墓なぜ函館に あす没後100年 歌、友…人生に転機

  • 明治の歌人・石川啄木が没してから13日で100年を迎える。故郷の盛岡市のほか、函館・大森浜を眼下に望む立待岬石川啄木一族の墓でも「啄木忌」が営まれる。啄木の骨は生前132日間しか滞在しなかった函館で土に返った。啄木にとって函館は、永眠するほど縁の深い土地だったのだろうか。
  • 墓碑の裏には、啄木を物心両面で支えた函館の歌人宮崎郁雨に宛てた手紙の一節「おれは死ぬときは函館に行って死ぬ」との文言が刻まれている。

(2012-04-12 北海道新聞 夕刊)

[][] 石川啄木:あす没後100年 各地で行事 /北海道

  • 13日は石川啄木の命日である「啄木忌」。今年は没後100周年に当たり、道内でも啄木ゆかりの地でファンらによる記念イベントが目白押しだ。
  • 函館中央図書館では特別企画展「石川啄木の終焉(しゅうえん)と妻節子」を開催中。小樽市は市内の中高生を対象にした短歌コンクールの作品募集中。6月16日に「小樽啄木忌の集い」を市立小樽文学館で開き、コンクールの表彰式も併せて行う。釧路市では13日午後1時から、釧路啄木会の北畠立朴会長による特別講演会開催。旭川市では同市初の啄木歌碑の除幕式が、13日午前11時からJR旭川駅東側の旭川観光物産情報センターで開かれる。札幌市のファンでつくる「札幌啄木会」(太田幸夫代表)も、啄木が札幌に滞在した9月に合わせて100周年イベントを準備している。【鈴木勝一】

(2012-04-12 毎日新聞 朝刊)

 

[] 4月12日付・啄木没後100年

  • 子どもの頃、家が貧乏なのは石川啄木のせいで、啄木を石川五右衛門の弟かと思っていた、と国語学者の故金田一春彦が「わが青春の記」に書いている。
  • 貧窮と遊蕩、矜持と失意。葛藤の中から、広く愛誦される歌を紡ぎ出した。「安っぽいセンチメンタリズム」との批判もあるが、名前を聞いて、たちどころに三首、四首と思い浮かぶ歌人は啄木を置いてそうはいない。
  • 歌詠みとは別の顔もある。大逆事件の裁判の渦中に著した評論「時代閉塞の現状」は、国家や権力を敵と位置づけ、青年に現状打破を呼びかけた、当時としては過激な内容だった。閉塞状況の出口が見えない昨今、若い世代を中心に読み直されているという。(L)

(2012-04-12 四国新聞)

 

[][] 啄木の直筆日記など展示 函館市文学館

啄木直筆の日記を展示した特別企画展

  • 今年で没後100年を迎える歌人・石川啄木を資料でたどる特別企画展「石川啄木の終焉と妻節子」が、函館市文学館(市内末広町)で始まった。
  • 直筆展示コーナーでは、啄木の日記や書簡など直筆8点を含む25点を紹介。1911年(明治44年)2月4日の啄木の日記は、入院した日の様子を赤インクでつづっている。日記そのものも背表紙がほつれるなどしており、100年の年月をうかがわせる。(松嶋加奈)

(2012-04-10 北海道新聞>道南)

[][] 啄木と節子、最晩年の姿 函館市文学館で企画展

  • 日記や書簡は、遺族から寄贈・永久寄託を受けて管理する函館市中央図書館と函館啄木会の協力により展示。
  • 節子の手紙は、1908(明治41)年8月27日付の宮崎大四郎宛ての直筆書簡を初公開。道内各地を転々とした後、文学で身を立てようと妻子を函館に置いて上京した頃のもの。「私は吾が夫を充分信じて居ります」「啄木の非凡な才を持てる事は知つてますから今後充分発展してくるるやうにと神かけていのつて居るのです」「私は世のそしりやさまたげやらにうち勝つた愛の成功者」と、啄木の才能と愛情を誰よりも信じていた節子の心情がにじみ出ている。

(2012-04-12 岩手日報

2012-04-11

[] 「正直ね、ずっと啄木が憎らしいなと思っていた…」

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[サクラの天井]


ふるさとの歌 啄木没後百年・2

  • 啄木は盛岡中学(現盛岡一高)3年だった1900年7月、修学旅行で三陸地方を訪れた。明治三陸大津波の被害を受けた、高田松原や大船渡、釜石を歩いた。引率の冨田小一郎先生を囲んで撮った集合写真の一葉を、先生の孫、盛岡市在住の戸田洋子さん(74)は大事に持っている。
  • 「正直ね、ずっと啄木が憎らしいなと思っていたんですよ」。盛岡中の生徒らがストライキを起こし、祖父を含む多数の先生が更迭になった。ストを首謀したのは啄木だと聞いていた。祖父の苦労を思うと、啄木がどんなに評価されても目を向けることはなかった。
  • 20年ほど前、北海道旅行をした際、貸し切りバスの運転手が「岩手から来たのなら」と、釧路港を見渡せる公園に連れて行ってくれた。雄大な景色の中に、啄木の歌碑があった。〈しらしらと氷かがやき/千鳥なく/釧路の海の冬の月かな〉。碑の前に立つと、波がなぐように、すっと心が静まっていく。「憎さが薄れていく気がしたんです」。後日、ストの首謀者は啄木ではなかったと聞いた。

〈よく叱る師ありき/髯(ひげ)の似たるより山羊(やぎ)と名付けて/口真似(くちまね)もしき〉

(2012-04-11 朝日新聞>マイタウン>岩手)

[] 「啄木の警鐘」BS朝日テレビ(再放送) 4/14

石川啄木没後100年特別番組

「啄木の警鐘」(再放送)

2012年、石川啄木没後100年を記念して,テレビ番組を作製。

番組のコンセプトは「きょうは未来の鏡」。

真の豊かさとは何か・・・。自然の躍動と偉大な力,人間文明のおごりと脆さ。かの天才が去って100年。いまを生きる私たちに問う,啄木100年後へのメッセージ。

  • 番組名 石川啄木没後100年特別番組「啄木の警鐘」
  • 放映日時 2012年4月14日(土曜日)13時30分から14時まで
  • 出演 NPO法人森びとプロジェクト委員会理事長 岸井成格さん ほか
  • 放映テレビ局 BS朝日

2012-04-10

[] 啄木テーマの論考も -インドで日印文学交流セミナー

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[ホトケノザ]


○ 日印文学交流セミナー

野口米次郎らと相関考察

   森義真さん(国際啄木学会事務局長)寄稿

  • セミナーはインド・ニューデリーにおいて、印日文学文化協会の主催で、3 月 3, 4 の両日に開かれた。インドのタゴール(生誕150年)とアギェーヤ(生誕100年)、日本の野口米次郎(没後65年)、それに没後100年の石川啄木の4人を顕彰し、その文学的相関を探るのが目的。
  • タゴールに続くノーベル文学賞の受賞が取りざたされた野口米次郎のセッションにおいて、望月善次さん(盛岡大学長、国際啄木学会会長)は「(石川啄木)詩談一則 <『東海より』を読みて> の意味─野口米次郎に触れながら─」を発表し、啄木の理解力と文章力、さらに英語力や詩歌への展望力、啄木の渡米熱などを指摘した。
  • 啄木のセッションでは、池田功さん(明治大教授、国際啄木学会副会長)が「石川啄木とインド、そしてタゴール」と題して「啄木のインドについての言及」「インドでの啄木の受容」に加えて、啄木とタゴールの共通点を考察した。自然・環境問題への視点、教育者としての視点、反権力への視点、国際性への視点などから、二人の類似性を分析した。
  • 特筆すべきは、デリー大大学院生6人による歌集「悲しき玩具」の歌の評釈であった。「家を出て五町ばかりは、/用のある人のごとくに/歩いてみたれど─」の歌については、啄木の生活にある空虚を表しているとした上で「これは世界の全部の人々に適用される、人間は『余計者』としての生活がいやである」と解釈。インドの学生としての感性による読み解きは新鮮で、熱のこもったものだった。

(2012-04-04 岩手日報>文化)

 

[] ふるさとの歌 啄木没後百年・1

○ もし石川啄木が長生きしていたら――。

  • 劇作家昆明男さんは啄木生誕111年の年に、そんな脚本を書いたことがある。その「長寿庵啄木」では、貧乏で早世であるはずの歌人が病気を克服。小説で成功し、晩年には宮中の歌会に呼ばれるほどになる。
  • 北上川と中津川が合流する盛岡市清水町で生まれ育った。〈やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに〉。知らず知らずのうちに啄木の歌が耳に入ってきた。
  • 演劇は役者とともにつくり上げる。だから、思い通りになることはない。「短歌はモノローグ(独白)、演劇はダイアローグ(対話)なのよ」。啄木がもうちょっと長生きして芝居に出会っていたら、歴史に残る作品ができていたんじゃないかな。時折、そんな想像をする。
  • 今年、啄木の小説「雲は天才である」を題材に、6月上演予定の新作を執筆した。小説を読み込むと言葉の巧みさに驚く。古さは感じなかった。

◇◇

岩手に生まれた石川啄木が没してから13日で100年。わずか26年の生涯を送った歌人が、長く愛され続けてきたのはなぜか。啄木の世界にひき込まれた人々を訪ね、魅力を探る。

(2012-04-10 朝日新聞>マイタウン>岩手)

2012-04-09

[] ラジオで啄木を語る「朝の随想」

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[春爛漫 サクラ・カモメ・船上の人]


新潟ラジオセンター

「会う=啄木没後の100年」

・県内各分野で活躍している方の随想を紹介する「朝の随想」(月〜金曜日 午前7:40〜8:00)

  • 4月10日(火)

国際啄木学会理事 山下多恵子 さん

「会う=啄木没後の100年」(この部分は5分間)

  ・山下多恵子さんの話は毎週火曜日、半年間、26回ある。

[] 啄木と父一禎の歌碑が高知駅前に建てられた経緯

支局長からの手紙:ふるさとを記す /高知

  • 「これというスクープはありません。それでも、自分でなければ書けなかったであろう記事もあります」。四万十町志和に生まれ、広島で原爆に遭い、俳句や短歌を愛し、宗教を専門分野として記事を書き続けてきた山野上純夫さん(82)=京都府八幡市。毎日新聞と宗教専門紙「中外日報」で足かけ60年働いてきたベテラン記者が、引退にあたって「記者生活六十年 ふるさと暦」(洛西書院)を出版しました。
  • 山野上さんにとって、思いを寄せる「ふるさと」は四つ。…… それぞれのふるさとにまつわる記事を選ぶ中、高知については、石川啄木と父一禎の歌碑がJR高知駅前に建てられた経緯と一禎の人柄の話を盛り込みました。
  • 山野上さんは、高知駅前にあった「啄木の父・石川一禎終焉の地」の標柱が駅前再開発で撤去されたままになっていることを、09年に毎日新聞高知支局に伝えました。当時の大澤重人支局長は、標柱が倉庫に保管され、再建のめどはたっていないことを報じました。この記事がきっかけとなり、啄木と高知で亡くなった一禎を顕彰する機運が盛り上がり、同年9月に歌碑は除幕されました。
  • 驚くのは観察眼と記憶力、そして執念です。駅前で標柱を見つけたのが十数年前。それから帰省のたびに確認し、なくなっていることに気づき、後輩に追跡取材を依頼する。若い頃から親しんできた短歌の世界の話とはいえ、問題意識を長年にわたって持ち続けることは並大抵ではありません。

(高知支局長・藤田宰司)

(2012-04-08 毎日新聞>高知)

2012-04-07

[] 流された啄木歌碑「いのちなき砂のかなしさよ」再々度建立 陸前高田市

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[カンヒザクラ]


石川啄木:津波で2度流された歌碑、3度目の建立目指す

  • 岩手県陸前高田市で津波で流された同県出身の歌人・石川啄木の歌碑を再建立するため、有志が今月13日の啄木没後100年に合わせ、募金活動を始めた。名勝・高田松原にあった歌碑は、1960年のチリ地震と昨年の東日本大震災の津波で2度も流された。関係者たちは「3度立ち上がり、被災者を勇気づけたい」と話している。
  • 地盤沈下して海に沈んだ場所に、啄木の歌集「一握の砂」の代表歌「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」を刻んだ御影石の碑が、海に向かって建っていた。

(2012-04-07 毎日新聞)

[] 啄木離釧の地に記念看板 釧路

  • 歌人石川啄木が1908年(明治41)の4月5日に釧路を離れたことにちなんで5日、啄木を乗せた船が出発した釧路市港町の浜谷建設敷地内に記念看板が設置され除幕式が行われた。
  • 釧路啄木会の北畠立朴会長らが浜谷建設の浜谷一生社長に働きかけ、同社が費用を負担して実現。浜谷社長は「石川啄木と会社は全く関係ないと思っていたが、調べてみると、啄木は当時の釧路新聞に『釧路に港を造るべきだ』という記事を書き、翌年に工事予算がついた」との秘話を披露。
  • 看板には「石川啄木離釧の地」と大書され、啄木の4月5日の日誌と、釧路で76日間を過ごし、船で去ったことなどが短歌、絵とともに記されている。(荻野貴生)

(2012-04-06 北海道新聞>道東)

2012-04-06

[] 「啄木 うたの風景 第1回」岩手日報

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[90年前に建てられた 第1号 啄木歌碑]


[啄木 うたの風景 第1回]

  望郷の地 盛岡市玉山区

無名戦士たちの熱意

  • 漂泊の詩人、石川啄木が26歳の若さでこの世を去って今年で100年。古里の渋民から盛岡、北海道、東京と足跡を残した土地に、啄木とその作品を愛する人々によって多くの碑が建てられた。文字に刻まれた作品と人々の思いとともに啄木の人生をたどる。

   やはらかに柳あをめる

   北上の岸辺目に見ゆ

   泣けとごとくに

  • 歌碑は、啄木の死から10年後の1922(大正11)年、現在の盛岡市玉山区渋民の渋民公園に建てられた。刻まれた歌は早春の情景が色鮮やかに詠まれ、「や」音と「き」音の繰り返しも美しく、故郷を思う心情が凝縮されている。
  • 啄木は結核を患い、東京の借家で息を引き取った。翌年亡くなった節子とともに函館の墓に葬られた。
  • 「啄木を古里に迎える」。歌碑の建立に立ち上がったのは、渋民尋常高等小学校代用教員時代の啄木の教え子や、在京の学生たち。碑は台座を含むと高さ約4m。村民ら200人余が姫神山から巨大な花こう岩を切り出し、そりに載せて雪の上を3日がかりで運んだ。
  • 最初の歌碑から半世紀近く過ぎた1970年、宝徳寺に近い高台に石川啄木記念館が開館した。玄関に向かって左側に「石川啄木慰霊塔」が渋民の町並みを見下ろすように建っている。裏面に刻んだのは、亡くなる10カ月前に病床で作った歌。「やはらかに−」の歌と対照的に、死を意識した25歳の啄木の痛切な思いが心に響く。 (学芸部 小山田泰裕)

   今日もまた胸に痛みあり。

    死ぬならば、

    ふるさとに行きて死なむと思ふ。


(2012-04-04 岩手日報

 

[] 「啄木没後100年企画スタート」岩手日報社 社告

4月から紙面衣替え

啄木没後100年企画スタート

「啄木 うたの風景」(4月4日から毎週水曜日付特集面)

今年は盛岡市玉山区出身の歌人・詩人石川啄木が亡くなって100年。北海道や東京などを転々としながら、望郷の念や身近な暮らしを短歌に詠みました。ゆかりの地に建立された歌碑と足跡をたどり、啄木を顕彰する人々の思いを紹介。今なお愛されるその魅力を探ります。

(2012-03-25 岩手日報>社告)

2012-04-05

[] 啄木の1世紀前の警告 現実のものに -北海道新聞-

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[サクラ]


《啄木特集》啄木と環境

  自然破壊 憎むべき反逆

  • 東日本大震災後、福島第1原発が「想定外」の事故を引き起こし、広範囲な地域で放射能拡散による甚大な影響が拡がっている。21世紀に入って最悪の環境破壊が懸念されているが、石川啄木は1世紀前、環境問題に鋭い嗅覚を発揮していた。(編集委員 黒川伸一)
  • わが国公害の原点とも言われる足尾鉱毒事件に対し、いち早く反応し行動(1902年)していた啄木。
  • 啄木は函館にいた1907年9月、エッセー「一握の砂」の中で、猿と人と森の関係を素材に「林中の譚」という物語を書いた。豊かさ、便利さを追い求めて安直に環境破壊に突き進もうとする人に対し、猿が樹上から警告する。
  • 社会が発展していく過程で、人がもともと持っていた自然を大切にする精神を失い、自然破壊に走りがちになることを、啄木は「(自然に対する)最も憎むべき反逆」と位置づけた。
  • 啄木研究者の近藤典彦さんは「啄木が、『林中の譚』で示した予言は、ますます的中し現実となっている。啄木が『天に達するの道にあらずして、地獄の門に至るの道なるを知らざるか』と言ったことの意味を、今こそ真摯に考えたい」と話す。

(2012-03-26 北海道新聞>文化)

2012-04-04

[] 啄木の交友録(33 ~ 35)「街もりおか」

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[「啄木の交友録」コピーと4月号表紙]


月刊誌「街もりおか」

啄木の交友録【盛岡篇】執筆 森 義真 氏


33. 岩動 露子  2012年2月号(No.530)

露子の本名は孝久。開業医の長男として生まれ、明治29年に盛岡中に入学した。金田一京助らと同級で啄木の2級上だった。

少年時代から文学にあこがれ、盛中5年の時、正岡子規の俳句に傾倒して上京し、東京・根岸の子規庵を訪ねるほどだった。京助は「露子こそ盛中に文学の風を吹き込んだ人だった」と露子の孫に語っている。その風を受けて啄木は自由に文学活動に励んだものだろう。「天地の水素の神の恋成りて酸素は終に水となりにけり」は、金田一京助の盛中卒業時に開いた留別短歌会で啄木が詠んだもの。座からは「けしからん、人を馬鹿にしている」という雰囲気だったところに、露子が「いや、これが文学と化学の調和だろう」と啄木を弁護したので、落着した。


34. 工藤 大助  2012年3月号(No.531)

大助は士族で巡査を務める工藤常象の三男として生まれた。常象の一番下の妹がカツであり、後に石川一禎に嫁し一(はじめ)、即ち啄木の母となる。従って大助と啄木はいとこであるが、15歳も年が離れていたため、啄木は大助のことを「おじさん」と呼んでいた。大助は仙台の二高医学部(現・東北大医学部)を卒業し宮城病院に勤めていた際、明治三陸大津波で医師のいなくなった釜石に赴任した。

啄木は明治33年、盛岡中学3年生の時、富田小一郎先生と級友とともに南三陸沿岸旅行を行った。明治三陸大津波から4年後のことである。啄木は、津波について何も書き残していないが確実にその跡を歩いている。釜石では一行は旅館に泊まったが啄木は大助宅に約2週間滞在。その釜石で啄木は、人口約7千人の半数以上が犠牲となったという津波の傷跡をいやでも目にしたであろう。


35. 上野 広一  2012年4月号(No.532)

  友よ友よ、生は猶活きてあり。二三日中に盛岡に行く、願くは心を安め玉へ。

  三十日午前十一時十五分 好摩ステーションに下りて はじめ

    啄木が、上野広一に宛てた明治38年5月30日付のハガキ。

この日、花婿のいない結婚式が、盛岡市の「啄木新婚の家」で行われた。啄木は仙台を発ち、盛岡を素通りして好摩駅に降り立ったのである。結婚式の媒酌人を務めた広一は、愛想を尽かしてその後の啄木との交友を断った。

広一は岩手県会議員を長く務めた上野広成の長男として生まれた。盛岡中では啄木の一級下だった。絵描きをめざし明治40年にフランスに渡り、滞仏12年、帰国した。肖像画家として、皇族、政財界の要人たちの肖像画を多く揮毫した。

「街もりおか」杜の都社 発行

40数年続く月刊誌。盛岡の歴史的建物、盛岡伝説案内、散歩日記、エッセイ、本や演劇やコンサートや映画情報など満載。1冊250円。

  • 杜の都社 TEL 019-625-5835 盛岡市本町通2-13-8

2012-04-03

[][] よみがえる『悲しき玩具』 平岡敏夫

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[カンヒザクラ]


<『復元 啄木新歌集』を読んで>  平岡敏夫

    [近藤典彦 編 2012年1月 桜出版 ]

  • 8年前、近藤氏は『「一握の砂」の研究』(おうふう)を刊行し、その4年後、従来流布されてきた『一握の砂』の初版を復元(朝日文庫『一握の砂』)した。
  • そして、没後100年『復元 啄木新歌集』を刊行、『悲しき玩具』を生まれ変わらせ、幻の歌集『仕事の後』を新たに生誕せしめ、100ページにわたる魅力的な解説を付した。
  • 『悲しき玩具』は友人・土岐哀果の編集によって1912年(明治45)6月に刊行された。
  • 近藤典彦氏はこのノート(「一握の砂以後(四十三年十一月末より」)を復元するにあたり『悲しき玩具』の問題5点をあげ、まず冒頭の次の2首は啄木最後の歌であるので最後にまわした。

   呼吸(いき)すれば、

   胸の中(なか)にて鳴る音あり。

    凩よりもさびしきその音!

 

   眼閉づれど

   心にうかぶ何もなし。

    さびしくもまた眼をあけるかな。

  • 1908年(明治41年)、啄木は歌集「仕事の後」(255首)を春陽堂に売り込んだが売れなかった。この啄木の遺志を先行研究をもふまえながら蘇生せしめた。大逆事件をひき起こす国家強権に対峙しつつ「時代閉塞の現状」を生きた啄木の仕事が、ここに画期的によみがえったのである。

(ひらおか・としお 筑波大学名誉教授・群馬県立女子大学名誉教授)

(2012-04-03 しんぶん赤旗>学問・文化)

 

[] 没後100年、啄木に光 4月から各地で企画展

盛岡市玉山区出身の詩人石川啄木が26歳の若さでこの世を去ってから今年で100年。命日の4月13日に前後して、各地で啄木の作品や人生をたどる展覧会が相次いで開かれる。直筆原稿や書簡、日記など貴重な資料も展示され、世紀を超えて今も愛され続ける啄木の魅力に迫る。

  • 県内では啄木の古里・渋民と青春時代を過ごした盛岡で展覧会が始まる。石川啄木記念館(盛岡市玉山区)は、13日から企画展「啄木からのメッセージ〜今日を見つめて〜」を開催。
  • 啄木と当時の盛岡の街並みに焦点を当てるのは、もりおか啄木・賢治青春館(盛岡市中ノ橋通1丁目)。企画展「啄木と盛岡−美しい追憶の都」を11日から開催する。
  • 盛岡市先人記念館(盛岡市本宮)は、収蔵資料展として「盛岡中学の黄金時代−金田一京助石川啄木たちの青春群像−」を7日から開催。
  • 県外は、啄木の墓があり、多くの資料が残っている函館の展覧会が注目される。函館市文学館(北海道)が8日から開く没後100年の特別企画展は、函館啄木会が所蔵する啄木の「明治四十四年当用日記」「千九百十二年日記」を展示。啄木と妻節子の日記や書簡とともに病と貧困に苦しんだ晩年を振り返る。
  • 啄木が新聞記者として過ごした小樽では、市立小樽文学館(北海道)が6月から企画展を開催。一周忌から顕彰活動を続けている小樽啄木会と啄木の関わりを紹介する。
  • 山梨県立文学館(甲府市)は28日から企画展「石川啄木 愛と悲しみの歌」を開く。

(2012-04-03 岩手日報

2012-04-02

[][] 国際啄木学会・東京支部会 明治大学 4/21

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[東京スカイツリーと咲き始めた桜]


第57回 国際啄木学会・東京支部会

  • 2012年4月21日(土)14:30~17:00
  • 明治大学・駿河台校舎 研究棟 4 階 第 3 会議室

 ○ 会議 14:30~

 ○ 研究発表 15:00~

  1.鈴木久   釧路・東京時代の啄木と小泉奇峰(長三)

  2.横山強   啄木が小樽時代に会った「紅屋世の介」とは誰か?

  3.大室精一  『悲しき玩具』における推敲の法則

 ○ 懇親会 17:30~


☆ 初めての方のご参加も歓迎 ☆

 

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・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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