啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2012-06-28

[] 啄木作品は昭和歌謡に影響を与えた -北海道新聞-

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[ナナカマド]


《啄木特集》啄木と音楽

啄木と音楽−。意外な組み合わせと思われるかもしれないが、両者は太い線で結ばれている。叙情性に富んだ啄木作品は、昭和歌謡史を彩る歌手や作詞家、作曲家に影響を与えた。啄木自身も妻となった節子に感化され、西洋音楽への関心を深めたこともあり、独自のリズムを磨いた。誰もが「歌いやすい」短歌を作ることになったと見る研究者もいる。「音楽」は啄木を理解するキーワードのひとつだ。

  • 歌謡曲にも影響

谷村新司作詞・作曲「昴」、石原裕次郎のヒット曲「錆びたナイフ」、井沢八郎のヒット曲「ああ上野駅」。啄木を素材にした昭和歌謡は6曲はあるという。ロックシンガー・尾崎豊は、デビュー曲「15の夜」の歌詞と啄木短歌の共通性が取り沙汰された。

  • 独特のリズム感 音楽家の心に

現代にも通じる啄木短歌の音楽性は、天賦の才に加えて、啄木自身の音楽とのかかわりを無視するわけにはいかない。啄木作品や日記には、ハイドン、メンデルスゾーンら西洋音楽の作曲家が10人、曲名が11曲も登場するという。啄木と西洋音楽との接点は、妻・節子の存在だ。「忘れな草 啄木の女性たち」の著者、山下多恵子さんは言う。「音楽は2人をつなぐ重要な要素。啄木の歌が独特のリズムや呼吸を持ち、暗誦性の高いものになっているのは、10代のころに節子の影響を受け、音楽に没頭していたことと無関係ではないと思います」

(編集委員 黒川伸一)

(2012-06-25 北海道新聞)

[] 短歌月評:啄木と現代=大辻隆弘

  • 永井祐の第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』(ブックパーク)が出た。

  日曜の夕方吉祥寺でおりてそこにいるたくさんの若い人たち

  鼻をすすってライターつけるおいしいなタバコってと思って上を向く

  本屋さんを雨がさらってその前の道にたばこの箱が落ちてる

私はこのような永井の歌を読んで、唐突だが、石川啄木の歌を連想した。

  真白なる大根の根の肥ゆる頃

  うまれて

  やがて死にし児(こ)のあり

  • 啄木が生後間もない長男を失った時の歌である。「うまれて」という淡々とした表現のなかに、悲しみを超えた啄木の呆然(ぼうぜん)とした心情が逆説的に滲(にじ)み出ている。永井のなかにある都会生活者の淡々とした感情表現は、あるいは、遠く啄木あたりにその源流があるのかもしれない。

(2012-06-18 毎日新聞)

[] 雑記帳:啄木記念館にキツツキの親子すみ着く 盛岡

  • 「一握の砂」などで知られる歌人・石川啄木のふるさと、盛岡市の啄木記念館の桜の木に、ペンネームの由来となったキツツキの親子がすみ着き、観光客らを楽しませている。
  • 結核のため自宅で療養し、人生に悩んでいた啄木は、キツツキが木をたたく音を聞いて心が安らいだという。その「啄木鳥(きつつき)」から取って「啄木」と名乗り始めたと、自身のエッセーに書き残している。(浅野孝仁)

(2012-06-27 毎日新聞)

2012-06-27

[][] 『ガン50人の勇気』病みてあれば心も弱るらん

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[ベニバナヤマボウシ]


《作品に登場する啄木》

  『ガン50人の勇気』

   柳田 邦男 (著)  文藝春秋


< しなやかな心 >(P.73)

白血病のため十一歳で亡くなった横浜市の宮上裕君の日記『おにいちゃんは一ばんぼし』(創芸社)は、そういう中でも広く知られた記録のようである。

「なるべく母に楽しい顔を見せてドアを開けた。ガチャリ」

この一行は、診察室で医者から入院日を指示されてから、出てきたときのことである。

「ぼくの好きな詩

    石川啄木 『悲しき玩具』から

   病みてあれば心も弱るらん

   さまざまの

   泣きたきことが胸にあつまる

たった三行の短い詩だけれども、病気でたおれてねている作者の姿が目にうかぶようだ。これからどうしようか。心細くて、ため息をつき、泣きたくなってふとんの上にいる作者───。

ぼくも入院した初めのころは、病気のため心細かった時があったせいかもしれないが、ぼくはこの詩に親しみを感じる。

たしかに、病気をすると、さまざまないやなこと、つらいことが胸にあつまってくる。

他人のこととはいえないから、ぼくはこの詩が好きなのだ」

裕君は五百冊の本を読んでいた。

2012-06-26

[] <ふるさとの訛なつかし> 上野は今も北の玄関

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[ピエール・ド・ ロンサール]


談話室

  • 〈ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく〉。啄木の歌碑が上野駅ホームそばに建つ。東北人にとってのみならず、上野は今も北の玄関である。新幹線開業までは山形への特急始発駅もそこだった。
  • 東北新幹線は開業当初、盛岡−大宮間を走った。北の玄関までも直接は届いていない。大宮−上野間は「新幹線リレー号」がつないだ。3年後、上野までは伸びたがその先3.6キロは遠かった。6年かかって東京駅に乗り入れたのは山形新幹線が開業した前年のことである。・・・

(2012-06-26 山形新聞>談話室)

[] 「啄木没後100年記念「明星」からスバルへ」盛岡 6/26~10/22

盛岡てがみ館 第38回企画展

石川啄木没後100年を記念し、与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめとする、「明星」・「スバル」の文豪たちの手紙や原稿を通して、今も色褪せることのない啄木像を浮かび上がらせます。

  • 2012年6月26日(火)〜2012年10月22日(月)
  • 学芸員によるギャラリートーク

  7月7日(土)、7月23日(月)、8月23日(木)、9月23日(日) 

○盛岡てがみ館

    • 盛岡市中ノ橋通一丁目1-10
    • 電話番号:019-604-3302

2012-06-23

[] 上野駅の啄木歌碑のこと

啄木文学散歩・もくじ


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JR上野駅15番ホーム車止め前にある啄木碑

写真の左側が15番ホーム(高崎線など)、右が16番ホーム(常磐線など)。

[1985年(昭和60)3月14日、東北新幹線上野乗り入れが実現した。これを記念して、同年3月19日に建立。歌碑は直径120cm、厚さ30cmの円形で鋳鉄製。(『啄木文学碑紀行』浅沼秀政 著)]



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建立したのは…

丸い台座の左スミに小さい楕円のプレートが写っている。そこには「東京北ロータリークラブ」と書いてある。(このあとの YouTube では大きめに写る)

[同ロータリークラブが昭和55年に三十周年を迎えたのを契機として建立計画を進めた。「新幹線が上野と東北を物理的に結ぶなら、啄木の歌碑は上野と東北の人々の心をつないでほしい」との願いがこめられている。(『啄木文学碑紀行』浅沼秀政 著)]



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   ふるさとの訛なつかし

   停車場の人ごみの中に

   そを聴きにゆく

          啄木

    『一握の砂』1910 (明治 43) 刊行



◎ 移動中の歌碑を目撃!

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啄木歌碑、移動中 <2001年1月24日撮影>

2001年1月24日、石川啄木の歌碑を訪ねたが、“いつもの場所”に無かった。駅員に聞いたりしてようやく見つけたのは、新幹線乗換口に向かう広場の太い円柱の前だった。碑は運んだばかりで固定されていないため、緑色のフェンスに囲まれていた。工事の人は「明日、この裏にコンクリを流し込んでしっかり止める」という話をしていた。

ぼんやりしていた私は、このままこの場所に固定したものと勘違いをしていた。さらに、“いつもの場所”についてもはっきりしなかった。

そこで、歌碑について駅のインフォメーションでお尋ねした。「以前は、3階のみどりの窓口付近にあった。10年くらい前に、今の場所に移動した」とのこと。

私は、移動したちょうど「その日」に「移動中の歌碑を目撃」したわけだった!

啄木文学散歩 上野・本郷・湯島



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2012年6月撮影

歌碑の仮置き場の位置を他の写真とも見比べてみた。移動中の歌碑は中央やや左の太い茶色の円柱の下に置かれていたらしいことが判った。



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10年以上前に歌碑があった付近(明確ではない)

歌碑がかつて設置されていたという、3階のみどりの窓口あたりに行ってみた。はっきりした場所を知っている駅員の人には出会わなかった。



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<動画 48秒> 歌碑の周辺

何枚か写真を撮っているあいだにも、啄木歌碑に見入ったり、手で撫でている人たちを見かけた。この場所は、東京と東北とを物理的にも心の中でもつなぐ役目を果たしているのだと感じた。

 

[] 『啄木「ローマ字日記」を読む』 西連寺 成子(著)

  • 教育評論社
  • 2012年4月発刊 1,890円(税込)

啄木23歳の春に“ローマ字”で書かれ、貧困、借金、放蕩、家族、自殺願望、書けない小説・・・、様々な想いが詰め込まれた「ローマ字日記」。漢字仮名交じり文での翻刻全文を掲載し詳細な注と解説で読み解く。

目次

第一部 「ローマ字日記」を読む

  四月 コラム「ローマ字日記をはじめるまで」「活動写真」「家族の扶養と生活の負担」 「貧困と格闘する」「文字と文体」

  五月 コラム「淫売婦」「小説と格闘する」「自殺願望」

  六月 コラム「浪費」


第二部 「ローマ字日記」以降の啄木

  啄木の短歌 〜「一握の砂」抜粋〜 解説

  啄木の詩 〜「呼子と口笛」他〜 解説

  啄木の評論 〜「時代閉塞の現状」〜 解説

  啄木の小説 〜「葉書」抜粋〜 解説

  啄木と現代の若者

[] 講演会「野村胡堂と石川啄木」 野村胡堂・あらえびす記念館 6/24

  野村胡堂生誕130年記念事業 平成24年度胡堂講座 第1回

  • 2012年6月24日(日)午前10時〜
  • 会場 野村胡堂・あらえびす記念館ホール
  • 講師 太田愛人氏

  牧師・エッセイスト・日本エッセイストクラブ常務理事。

  • 問い合わせ 特定非営利活動法人野村胡堂・あらえびす記念館協力会
    • TEL:019-676-6896 FAX:019-676-6897
    • 岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193−1

2012-06-19

[] かなしくも/夜明くるまでは残りゐぬ/息きれし児の肌のぬくもり  石川啄木

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[ヘラオオバコ]


照明灯

  • 石川啄木は長男の真一を生後3週間余りで亡くしている。直後に出版した初めての歌集「一握の砂」に「亡児真一に手向く」と書いた。
  • 「一握の砂」に、真一の最期を詠んだ数首がある。二三(ふたみ)こゑ/いまはのきはに微(かす)かにも泣きしといふに/なみだ誘はる―。啄木が勤め先から帰った深夜、既に不帰の人になっていた。各地を流浪し、団欒の2文字に縁遠かったようにみえる啄木のわが子を失った痛切が胸に浸みる。
  • こんな一首もある。かなしくも/夜明くるまでは残りゐぬ/息きれし児(こ)の肌のぬくもり―。慈しみ育ててきた子どもの表情が脳裏から離れず、死を受け入れられない。幼子ならなおのこと、いつの時代も変わらない親の心情だろう。
  • 「大きな希望を残してくれました」。脳死移植手術で臓器を提供した男の子の両親はつづった。……

(2012-06-19 神奈川新聞>照明灯)

[] 東北本線と「はつかり」の時代 みちのく路の大動脈 写真特集

  • 「東北本線」「はつかり」−−。ある世代までの「みちのく出身者」にとって、それは決してただの路線名、列車名ではなく、ある種の特別な感情を運んでくるキーワードだ。
  • 明治以来、東京の「北の玄関口」上野駅に到着する列車は、みちのくの空気、におい、言葉を満載してやってきた。石川啄木は遠い岩手の空を胸に詠んだ。「ふるさとの訛(なまり)なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」。現在、上野駅ホームにその歌碑がたたずむ。

(2012-06-18 毎日新聞)

2012-06-18

[] いのちなき砂のかなしさよ -高田松原の啄木碑

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[ミズナラ]


河北春秋

  • <いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ>。石川啄木の秀歌を刻んだ碑が陸前高田市の名勝・高田松原にあった。66年に建てられたが、東日本大震災の津波で約7万本の松林とともに流失した。この歌碑は2代目。最初の碑も60年のチリ地震津波で流されたが奇跡的に見つかり、今は高台に移設されている。
  • ことしは啄木の没後100年に当たる。出身地・盛岡市の関係者らでつくる記念事業実行委員会は、高田松原の歌碑の代わりとなる碑を陸前高田市に建てようと募金活動をしている。万感の思いで完成を心待ちにしている人がいる。石川啄木記念館の菅原寿館長。職責上というわけではない。陸前高田は菅原さんの古里。震災で実家は流され、同級生8人、教師時代の教え子23人を失った。
  • 望郷の歌人の碑は、悲しみを乗り越え生きる人々のよりどころになろう。

(2012-06-17 河北新報>河北春秋)

[] 近年の啄木祭を振り返る ズームアップいわて

  • 啄木の古里玉山で長年開かれている啄木祭は、多彩なイベントで啄木の魅力を探り、顕彰する役割を果たしてきた。近年のイベントを振り返ると、啄木の魂は決して色あせることなく、現代を生きる人々の心に共鳴していることが分かる。
  • 2003年、啄木同様に短い人生を駆け抜けるように逝った尾崎豊さんとの共通性。2007年、芥川賞作家新井満さんが作曲した「ふるさとの山に向ひて」を合唱。2010年、トークショーで直木賞作家の高橋克彦さん、荒俣宏さんも啄木を高く評価した。

ゆかりの地サミット

  • 関係者5人が、それぞれの立場から漂泊の歌人の魅力などについて語り合った。
  • 啄木終焉の地、東京都文京区の成沢広修区長「盛岡市とさらに連携を深めていきたい」、釧路市の小松正明副市長「啄木が釧路で一気に文学的才能を開花させたことは私たちの誇り」、札幌啄木会の太田幸夫代表「啄木のころの北海道の鉄道の状況を、啄木ほど克明に書き残した文学者をほかに知らない」、函館市教委の山本真也教育長「啄木には不思議な魅力があったのではないか」、盛岡市の谷藤裕明市長「啄木の魅力はやはり『人』。日本の将来を見通す先見性も持ち合わせていた」とそれぞれに評価した。

(2012-06-03 岩手日報>特集)

2012-06-15

[] 「啄木 うたの風景 第 10 回」岩手日報

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[ブルーベリー]


第 10 回

第一部 青春の輝き(6)

  遊座さん(国際啄木学会元会長)インタビュー

  古里の美しさ教わる

少年時代の啄木が詩想をはぐくんだ故郷・渋民。啄木が育った宝徳寺(渋民)に生まれた啄木研究者の遊座昭吾さんに啄木と渋民について聞いた。

  • 啄木は1歳で宝徳寺に移り、18歳で上京するまで寺で育った。盛岡に進学した時期も、休みに帰るのは宝徳寺だった。「5歳で渋民尋常小に入ると、同級生(一斉入学ではないので4歳上)に千代治というのがいた。千代治は「一(啄木の本名)は、寺にある炉の灰にやたらと文字を書いていた。奉公人の女の子が理由を尋ねると『俺は文章を書いて飯を食ってみせる』と答えた」。私が直接千代治から聞いた忘れられない話。
  • 堀合節子と結婚後、啄木は代用教員として渋民に戻る。「啄木は初めから先生でしたね。日記には『成人するとは、持つて生れた自然の心のまゝで大きい小児に成るといふだけの事だ(中略)大きい小児を作る事! これが自分の天職だ。イヤ、詩人そのもの天職だ。詩人は実に人類の教育者である』と書いている。啄木にとっては詩人イコール教師ですよ」
  • 啄木が故郷や寺を詠んだ歌は、緑の風景や鳥の声など自然描写が実に鮮やかだ。「私はそこに生まれた。四季ごとの山の風景の違い、木枯らしの音…。古里の風景の美しさは、啄木の歌が耳に入り、頭に入って、それが原点となって、自分の思い出になった。彼に教えられた」

(2012-06-06 岩手日報)

[] 卓上四季


白熱電球

  • 独り身になったつもりで小説を書いて一旗揚げる―。そんな野心を胸に、石川啄木が、母と妻子を函館に残し、上京したのは1908年(明治41年)4月のことだった。東京に出た啄木は、千駄ケ谷の与謝野寛・晶子宅に身を寄せた。3年ぶりの訪問。四畳半の書斎は本も増えていない。生活は苦しそうだ。ところが…。意外なものが目に留まる。「電灯」が付いていた。啄木は<少なからず驚かされた>と日記に書いている。寛は「かえって経済的なのだ」と説明をしたが、<この四畳半の人と物と趣味とに不調和であった>と啄木の筆は辛辣(しんらつ)だ。
  • 啄木はかつて詠んだ。<秋近し! 電燈の球(たま)のぬくもりの さはれば指の皮膚に親しき>。

(2012-06-15 北海道新聞)

2012-06-14

[] 啄木に会いに 旭川 <その 3 (終)>

啄木文学散歩・もくじ


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横からみる啄木像の隣の席は・・・

「啄木さんの隣の座席が空いています。どうぞ一緒に記念撮影して下さい」という表示板が出ている。

歌碑像は高さ2.3m、幅1.6m、奥行き1mのアルミ製。明治時代の座席の雰囲気が感じられる。



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作者の心が伝わってくるような啄木の表情



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たくちゃん!

歌碑建立記念パンフのさし絵は「たくちゃん(啄ちゃん)」。「建てる会」副会長の中村泰敏さんが描いたマスコットキャラ。別の表情やしぐさのもあり、とても可愛い。



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<動画 49秒>旭川駅の石川啄木像

「札幌方面、新千歳空港行きスーパーカムイにご乗車のお客様は・・・」と構内アナウンスが入る。



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ライラック揺れる街

啄木さんに会える街、旭川。

(「啄木に会いに 旭川」終わり)

 

[][] 絵本「サルと人と森」が好評

石川啄木の短編小説「林中の譚」をアレンジ、「自然観、見つめ直して」 /岩手

  • 啄木の没後100年となる今年、啄木が生前書き残した短編小説「林中(りんちゅう)の譚(たん)」を現代風にアレンジした絵本「サルと人と森」(NPO法人森びとプロジェクト委員会発行)が注目を集めている。09年に発行した絵本は増刷を重ね1万2000部を超え、売れ行きも好調。発行元のNPO法人は「大人も読んで自然観を見つめ直してほしい」と話す。
  • 「人間はいつの時代も木を倒し、山を削り、川を埋めて平らな道路を作ってきた。だが、その道は天国に通じる道ではなくて、地獄の門に行く道なのだ」。作品の中でサルが人間に話す言葉には重みがある。サルに啄木自身のメッセージを投影していると啄木記念館の山本玲子学芸員は解説する。「人間は自然より力があると思っていたが、昨年の震災でそれが過信だと気づいた」

(2012-06-14 毎日新聞>岩手)

2012-06-13

[] 啄木に会いに 旭川 <その 2 >

啄木文学散歩・もくじ


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啄木は雪の結晶に囲まれた窓から外を見ている

像を建立したのは、「旭川に石川啄木の歌碑を建てる会」(会長・相川正志さん)。2010年に、旭川市出身で国際啄木学会前会長の近藤典彦さんが「旭川駅前に『啄木歌碑』を建てませんか」と提案したことから始まった。

啄木は、1908年(明治41)1月、小樽から釧路に向かう途中、旭川で下車した。啄木像は汽車の窓から厳寒の旭川を見る姿をイメージした。デザインしたのは旭川出身の造形作家、中村園さん。



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啄木像の正面下の歌碑(揮毫・中西清治さん 旭川市在住)


  • 歌の解説 近藤典彦さん

啄木は1908年(明治41)1月20日旭川駅で下車した。すぐに「停車場前の宮越屋旅店」に向かった。

宮越屋旅館の思い出

   名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の/宿屋安けし/我が家のごと

1月20日 北海道奥地の旅館なのにどっしりとして広い部屋、大きな桐胴の火鉢、行き届いたサービス。啄木にとって旭川の好印象と重なる宿となった。

宮越屋旅館の思い出

   伴なりしかの代議士の/口あける青き寐顔を/かなしと思ひき

1月20日 夜になって釧路新聞社長白石義郎が合流し、啄木はふたりで1泊した。白石社長(五月衆議院議員になる)の寐顔には、福々しいこの人がふだん見せることのない疲労と苦痛が表れていた。啄木は人生のむなしさが見えるようで、悲しいと思った。これもあの旅館につながる旭川の思い出だ。



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台座左横の歌碑


宮越屋旅館の朝

   今夜こそ思う存分泣いてみむと/泊まりし宿屋の/茶のぬるさかな

1月21日 6年前の1902年1月25日氷点下41度を記録した旭川である。この日も猛烈な寒気が天地を覆う。旅館にも寒気は容赦なく侵入する。熱湯は急須に注ぐとぬるくなる。湯飲みに入れるとなお冷める。口に含むころには夏の川の水のようだ。「茶のぬるさ」はこの日の厳寒の表現なのだ。

旭川駅の列車内

   水蒸気/列車の窓に花のごと凍てしを染むる/あかつきの色

1月21日 午前6時半発釧路行きの汽車へ乗った。まだ日の出前である。この日の気温は氷点下27.1度。列車のすべての窓には千変万化の模様が満遍なく凍り付いている。東南東の化雲岳あたりから射して来る紅い光がその模様を染める。



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「歌の解説」の額

啄木は小樽から釧路に向かう途中旭川に下車した。わずか15時間余の滞在だった。1910年(明治43)10月、旭川滞在を回想して4首の短歌を作り、不滅の歌集『一握の砂』に編集した。2週間滞在し非常に気に入った札幌の場合でさえ4首である。旭川の印象が鮮烈であったことを物語る。

(つづく)

 

[] 台日文学者交流会:台湾の文学者ら、震災語り合う

  義援金に感謝、先月訪台の大槌高生徒と /岩手

  • 「台日文学者交流会」で来県中の台湾の文学者らが11日、大槌町の県立大槌高校を訪れ、生徒らと震災について語り合った。
  • 一行は詩人で団長の陳義芝さんら6人。大槌町には台湾から多額の義援金が寄せられ、同高の生徒33人が5月、感謝の気持ちを伝えるため訪台して李登輝元総統に会見もしている。学校訪問は5月21日に3回目の啄木学会台北大会を開き、今回の交流会を共催した国際啄木学会の橋渡しで実現した。

(鬼山親芳)

(2012-06-12 毎日新聞>岩手)

2012-06-12

[] 啄木に会いに 旭川 <その 1 >

啄木文学散歩・もくじ


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2012年4月13日 旭川駅に誕生した石川啄木像



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新装なったJR旭川駅

鉄道高架化工事が完了し、2011年10月に新駅舎が開業。「川が見える駅」は珍しいとのこと。

駅舎のすぐ後ろに忠別川が流れている。忠別川方面の北口駅前広場の整備はこれからなので、駅構内から北へ出るドアはまだ使用されていない。写真手前が南口駅前広場。整備工事のため囲いがしてある。



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ガラス張りの駅舎

駅正面にあった時計付き「夢トライアングル」の大三角形は撤去され、全面ガラス張りの駅舎が旭川の顔になった。



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構内にある高さ3mのオブジェ

駅の印象は、天井が高い、広い、木の香りがする。駅構内にはたくさんのテーブルとイスがあり、ベンチのように座れる場所も驚くほど多い。待合室も充実している。



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ホームにある四叉柱支承部

「四叉柱 (よんさちゅう) 」は、4本の鉄筋の柱が上に向かって伸びて、大きな屋根(60m×180m)を支えている。ホーム全体で20基ある。地震や風で横から力を受けたときに、その力を伝えないで逃がす構造になっているそうだ。色も形も大きさも大変目を引いて美しい。



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啄木像のある旭川観光物産情報センター(旭川駅東側)

写真中央の光が当たっている場所に「水蒸気 列車の窓に 花のごと」の雪の結晶が白く見えその真ん中に啄木の顔がある。

左手前はインフォメーション、中央奥は飲食コーナーのテーブル、右側は地場産販売コーナー。


2012年4月13日、この場所で石川啄木像・歌碑の除幕式が行われた。この日は啄木没後100年の「啄木忌」だった。


旭川に石川啄木の歌碑を建てる会HP

啄木像を建てるまでのこと、啄木と旭川のつながり、啄木の生い立ち、交友関係、ほか詳しい情報が満載のページ。

(つづく

[] 《私の中の啄木》(4).(5)

(4)釧路時代 76日間

  • 小樽に家族を残し、1908(明治41)年1月21日夜、啄木は釧路に着く。寂しいという第一印象とは違い、釧路での生活は華々しい。釧路新聞の職場で編集長格で活躍し、地域の有力者とも語り、高級料亭に通い続ける。
  • しかし、主筆に対する不満と東京へのあこがれなどから3月末には釧路を出ることを決意。1週間ほど後、ついに釧路から海路で離れる。釧路滞在期間は76日間だった。

貧しさに共感 研究積む

  「国際啄木学会」

  • 国際啄木学会は石川啄木の研究・普及を目的として1989年12月に設立された。事務局は岩手県の盛岡大学内に置き、現在、国内に5支部、海外にも4支部がある。学会主催の大会が来年9月に釧路市で開かれる。いわば「啄木研究家のサミット」だ。
  • 学会創設以来のメンバーで釧路に住む学会道支部長の北畠立朴さんは、「貧しい生活の中で歌を作り続けた啄木に共感した」と話す。啄木に関する勉強会で、地元の啄木研究の第一人者だった故鳥居省三さんに指導を受けた。
  • 来年の釧路大会では初めての試みをする。啄木滞在時期の釧路の街を長さ約5メートル、幅2メートルの巨大な地図に再現する計画だ。料亭や銭湯、近所の住人など当時の詳しいデータを盛り込む。

「次の世代にも啄木のことを伝えたいのです」

(2012-06-09 朝日新聞>北海道)

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(5)北海道を後にして

  • 家族を残し、函館を離れた啄木は1908(明治41)年4月27日、横浜に到着する。翌年に東京朝日新聞に入社。同年12月歌集「一握の砂」が刊行され、第一線歌人の地位を確立する。
  • 11年2月、慢性腹膜炎と診断されて入院。翌年4月13日、早朝から危篤になり永眠。肺結核だった。

遺骨と資料 函館で守る

「おれは死ぬ時は函館へ行つて死ぬ」

  • 函館市の立待岬近くにある石川啄木一族の墓碑に刻まれた啄木の言葉だ。函館の友人で最大の支援者だった宮崎郁雨に宛てた書簡に記されていた。なぜ、啄木の墓はふるさとの岩手県ではなく、函館にあるのか。
  • 「啄木の遺骨は、私の父が図書館の書庫で一時、大切に保管していたと聞きました」市立函館図書館(今の函館市中央図書館)の創設に尽力し、初代館長に就いた故岡田健蔵氏の長女で函館啄木会代表理事の弘子さんが回想する。
  • 啄木は浅草の等光寺で葬儀が営まれた。妻の節子は2人の娘を連れて、知人らを頼り函館へ戻った。13年3月、節子は岡田氏らに等光寺にあった遺骨を函館に持ってくるように頼んだとされる。同年5月には節子も26歳で亡くなった。岡田氏は、節子の妹と結婚していた宮崎らと協力して翌月、立待岬近くに墓を建て、啄木や節子ら4人の遺骨を埋葬。26年に現在の墓碑が完成した。
  • 啄木の遺品は行李二つだったという。一つには啄木の古着。もう一つには日記やノート、書簡、原稿があった。その多くが函館図書館に永久寄託された。啄木研究者にとっては「聖地」になった。弘子さんは「『啄木に関しては、紙ひとつでも絶対になくすな』と父から言いつけられてきました」退職後もボランティアで黙々と整理を続けている。

「啄木の資料を守り、次の世代に残しておきたいのです」

 =おわり

 (この連載は横山蔵利担当)

(2012-06-10 朝日新聞>北海道)

[][] 啄木が見たかるた会再現 釧路 6/24

  • 歌人石川啄木が見学したかるたを再現しようと、歌留多会が24日午後1時から、真如山本行寺(釧路市弥生2)で開かれる。
  • 石川啄木没後100年を記念したもので、同寺と北海道百人一首かるたジュニア伝承会の主催。啄木はかるた好きだったといい、釧路滞在中も日誌に本行寺のかるた会を見に行ったことを記載。同寺は「啄木ゆかりの歌留多寺」と呼ばれている。
  • 同会はかるたの読み手を含めた対戦参加者・見学者を募っている。参加無料で直接会場へ。
    • 問い合わせは柏木代表(電)090・3390・5286へ。

(荻野貴生)

(2012-06-08 北海道新聞>道東)

2012-06-08

[] 「啄木 うたの風景 第 8・9 回」岩手日報

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[エッ?]


第 8 回

第一部 青春の輝き(4)

  岩手公園(盛岡市)

  中学時代の思い刻む

  • 1898(明治31)年春。12歳の啄木は盛岡尋常中学校(現・盛岡一高)に入学する。当時の学校は現在の岩手銀行本店が建つ一角にあった。洋風の木造2階建て校舎は「白亜城」と呼ばれた。啄木は時折、授業を抜け出し、歩いてすぐの距離にある城跡に出掛けていた。

   不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心

  • 啄木入学の翌年「盛岡中学校」と名前を変えた。その頃の盛岡中学は、「立志」の気風にあふれ、首相、海軍大臣を務めた米内光政をはじめ、生涯の友となる金田一京助(言語学者)、「銭形平次捕物控」を書く野村胡堂がいた。胡堂は、体の小さい啄木の第一印象を「骨組みや腕っ節になる養分が、ことごとく知恵の方へ回ったという顔をしていた」(「胡堂百話」)と記す。
  • 4年生になると、啄木は回覧雑誌を作る。啄木の短歌が「翠江」という筆名で初めて岩手日報に連載された。その後も文芸時評を岩手日報に度々掲載。中央文壇の知識とともに中学生とは思えない文学の素養を見せている。

(2012-05-23 岩手日報)

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第 9 回

第一部 青春の輝き(5)

 高田松原(陸前高田市)

  受難の歴史 波に消え

   いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ

  • 昨年3月の大津波は、陸前高田市の名勝高田松原の海岸線約2キロにわたる松林を流し去った。そこにあった啄木歌碑は津波の後、行方が分からなくなっている。
  • 1900(明治33)年の夏。盛岡中学3年の啄木は、担任の富田小一郎の引率で級友5人と三陸海岸を旅した。富田は顎ひげを生やし、風格のある先生だった。歌集「一握の砂」に「よく叱る師ありき/髯の似たるより山羊と名づけて/口真似もしき」の歌を残し、親しみを感じていた様子が伝わってくる。
  • 「碑も、松原もこんなになるなんて」。大船渡市盛町の佐々木紀子さんは、高田松原の歌碑があった場所を眺めながらつぶやいた。一昨年発足した市民ガイド「椿の里・大船渡ガイドの会」の副会長を務める。震災直前に完成したガイドブックには「石川啄木の気仙周遊マップ」を収録。啄木が旅した場所にある七つの顕彰碑を載せた。高田松原の碑は、津波の前月に取材に訪れた。写真に残る歌碑は木々の緑に囲まれている。

(2012-05-30 岩手日報)

[] 《私の中の啄木》(3)小樽時代 115日間

  • 1907(明治40)年9月27日、小樽に着いた啄木は、中央小樽駅長に就いていた義兄夫婦を訪ねた。小樽日報社に勤め、家族もそろい、つかの間のだんらんの時期だ。しかし、1カ月ほどで友人と主筆の排斥を企てる。啄木は三面主任として活躍し、主筆は解任された。
  • このころ、札幌に新しい新聞が発刊されると聞き、しばしば札幌に出向く。このことで12月12日、小樽日報社の事務長とトラブルになり、暴力をふるわれたとして、退社を決意、翌日から社を休む。
  • 借金取りに追われながら年を越した。08年1月13日、釧路新聞社の社長と会い、入社が決まる。19日に家族を残し、釧路へ。小樽滞在期間は115日だった。

中学生の歌 息づく日常

   かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ

  • 石川啄木は約4カ月を暮らした小樽市を、こう詠んだ。市内の水天宮境内には歌碑もある。
  • その小樽でいま、没後100年を記念した短歌を中高生を対象に募集している。小樽啄木会が「啄木と短歌に親しんでもらおう」と主催した。約70首を応募した中学校がある。日本海を一望する丘に立つ市立銭函中だ。

   いやなこと/かき消すように/流れてく/かすかに感じる/風のぬくもり(奥村木歩さん)

   弟が/生まれ家族が/一人増え/家がにぎやか/皆いやされる(吉田悠陽さん)

   美味(おい)しいな/どんなごちそう/にも勝る/僕らを思う/母の手料理(銘形和威さん)

  • 生徒たちの中から、啄木のような歌人が生まれるかも知れない。

2012-06-07

[] 「啄木 うたの風景 第 6・7 回」岩手日報

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[ツバメ]


第 6 回

第一部 青春の輝き(2)

 渋民小(盛岡市玉山区)

  守り継ぐ先輩の感性

  • 渋民・宝徳寺の長男として成長した啄木は1891(明治24)年、就学年齢より1年早く、5歳で渋民尋常小学校に入学する。入学当初、それほど優れた成績ではなかったが、3、4年には首席を争い、卒業時に「神童」と呼ばれるほどになったという。
  • 渋民小は、創立139年を数える。今年4月、啄木の後輩に当たる6年生は、石川啄木記念館で旧渋民小校舎と旧斉藤家の清掃に汗を流した。児童たちは日頃、啄木の作品や人生に触れながら学校生活を送っている。毎朝、校内放送で「今日の啄木短歌」が流れ、総合学習は渋民と啄木の関わり、啄木作品を学ぶ。母校を象徴するものの一つに啄木が作詞した校歌がある。

  春まだ浅く月若き/生命の森の夜の香に/あくがれ出でて我が魂の/夢むともなく夢むれば…

  • 同校は啄木百回忌の昨年から、6年生の修学旅行先を函館に変更。啄木一族の墓などゆかりの場所を訪れ、啄木をより身近な存在として学習に取り入れている。

(2012-05-09 岩手日報)

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第 7 回

第一部 青春の輝き(3)

 下橋中(盛岡市)

  卒業生の歴史に誇り

  • 1895(明治28)年、啄木は盛岡高等小学校(現・下橋中学校)に進む。9歳の啄木は小柄でかわいらしい子だった。「糸切り歯が見え、笑うと右の頬にえくぼが出た」。啄木の隣の席だった伊東圭一郎は著書「人間啄木」に記している。中学校進学を目指す生徒が集まった。生涯の友人となる言語学者金田一京助との出会いもこのころ。新入生として通学してきた啄木を、4年生の金田一は友人とからかい、怒った啄木に追い回された。真剣で負けず嫌いな姿を「君の生涯を象徴しているように思えてならない」(「新編石川啄木」『生い立の記』)と回想している。
  • 下橋中は今年で創立125周年。歴史を感じさせる石造りの校門を入り、左側の庭園に啄木の歌碑がある。

  その昔/小学校の柾屋根に我が投げし鞠/いかにかなりけむ

  • 同校は啄木、金田一をはじめ多くの先人が学んだ。創立100年を記念して校舎内に整備した校史館に草創期の日誌や写真をはじめ、教科書や卒業生の著作などゆかりの品を展示。階段踊り場などにパネルが並び、偉大な先輩の足跡を伝えている。

(2012-05-16 岩手日報)

[] 《私の中の啄木》(2)札幌時代 14日間

  • 1907(明治40)年9月14日、函館を発った啄木は、札幌に到着し「北門新報社」で働き始める。数日後には、友人とともに小樽で発刊されるという「小樽日報」に転職することを密談する。2週間後には、小樽日報に入社するため札幌を離れる。滞在期間は、わずか14日間だったが、のちに札幌の街などをテーマにした4首を作る。
  • 道内で初めて鉄道が通った小樽・手宮―札幌間の道内最古とも言われるレールは、どこの国で製造されたものか――。30年ほど前、小樽保線区長だった太田幸夫さんが抱いた疑問だ。これが啄木にのめり込むきっかけになった。調査の中で出会ったのが、鉄道史に載っていた啄木だった。レールの答えは見つからなかったが、啄木の歌にはまった。

「鉄道の歌は結構多い。汽車の窓から歌った情景は、鉄道マンなら心を打たれます」

  • 太田さんはJR退職後も啄木の研究を続け、1998年、60歳の時に本を出版した。「石川啄木入門 啄木と鉄道」。啄木の人生に加え、啄木が乗った汽車の時刻表、当時の交通事情などを豊富な資料で紹介した。約400ページの大作だ。
  • 5年ほど前、「道内最古のレール」の現物が見つかった。小樽の防波堤のつなぎ目に使われていた。「英国製でした。長年研究していると、新たな発見があるものです」
  • 2002年に札幌啄木会を立ち上げ、代表を務める。いま取り組んでいるのが、札幌で4番目になる啄木の歌碑づくりだ。

「汽車と同じように止まったら駄目なんです。とにかく、命ある限り走り続けていきたいんですよ」

(2012-06-07 朝日新聞>北海道)

2012-06-06

[] 野口雨情の住んでいた家 宇都宮市<その 2 (終)>

啄木文学散歩・もくじ


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野口雨情詩碑「あの町この町」 鹿沼街道沿い

旧居前の鹿沼街道を挟んだ向こう側(約80m右方向)に詩碑がある。1958年(昭和33)、雨情詩碑建設委員会が建てた。

  あの町 この町 日が暮れる 日が暮れる

  今きたこの道  歸りやんせ 歸りやんせ



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羽黒山神社の詩碑

旧居の北東300mほどのところに羽黒山神社がある。坂道を上ると、神社の鳥居の横に詩碑「蜀黍畑(もろこしばたけ)」が建っている。写真の中央が神社、右手前が雨情の歌碑。1982年(昭和57)に建立。



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「蜀黍畑」野口雨情

  おせどの親なし はねつるべ

  海山千里に 風が吹く

  もろこし畑も 日がくれた

  にわとりさがしに 行かないか



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和菓子処 乙女屋 店内の額

「雨降りお月さん」二番の詩が書いてある。


  雨降りお月さん 雲の蔭

  お嫁にゆくときゃ 誰とゆく

  ひとりでからかさ さしてゆく

  傘ないときゃ 誰とゆく

  シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた

  お馬にゆられて 濡れてゆく


   いそがにゃお馬よ 夜が明けよ

   手綱の下から ちょいと見たりゃ

   お袖でお顔を 隠してる

   お袖は濡れても 干しゃ乾く

   雨降りお月さん 雲の蔭

   お馬にゆられて 濡れてゆく


日本全国を旅して各地に民謡を書いた雨情は、啄木と同じように全国に詩碑がある。

この家に来てからちょうど一年後、1945年(昭和20)1月27日、つる夫人、6人の子ども、親しい人々に看取られながら永眠した。享年62。墓は、東京の小平霊園と生家茨城県磯原にある。


  • 野口雨情旧居」
    • 宇都宮市鶴田町1740

(野口雨情の住んでいた家--終)

[] 《私の中の啄木》(1)函館時代  没後100年に 企画特集1

(1)悩みもがく姿 教え続け

  • JR函館駅から約1キロ南東の大森浜。100年ほど前に歌人石川啄木が散歩した場所に、故郷・岩手県の方向に背を向けるように啄木像が立つ。

  潮かおる北の浜辺の/砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ/今年も咲けるや

「函館を懐かしく思う歌なのでしょうか」函館市文学館の前館長森武さんが像に刻まれた作品を解釈してくれた。

  • 函館ラ・サール高校在学中に啄木の歌に魅せられ、啄木歌集を持ち歩いた。卒業後、明治大学文学部に進み、文学で身を立てることを考えた。小説家を目指したが、作品が世に出ることはなかった。北海道に戻り、高校教員の道へ進んだ。
  • 進学、就職、恋愛。思うようにならずもがく教え子たちを目の当たりにした。38歳の時、自主教材「啄木の人生と歌」を作った。「悩み、挫折しながらも、はい上がろうとした啄木を通して、『悩んでいるのは、君たちだけじゃない』と伝えたかった」この教材は15年以上使った。「啄木が身近になった」「啄木も悩んでいたんだね」など生徒たちの反応は予想以上だった。
  • 3年前に定年退職。啄木の資料が多数ある函館市文学館の館長を経て、今は市文化・スポーツ振興財団専務理事。最近、長年潜んでいた虫が騒ぎ出している。          

 「もう一度、小説を書いてみよう」

挫折しながらもはい上がった啄木に倣って……

○ 啄木は、函館や札幌、小樽、釧路と1年近く北海道を流浪した。啄木が1912年に26歳で死去して今年で100年になったのを機に啄木にひかれる各地の人たちを訪ねた。

 (この企画は横山蔵利が担当します)

(2012-06-06 朝日新聞>北海道)

2012-06-05

[] 野口雨情の住んでいた家 宇都宮市<その 1 >

啄木文学散歩・もくじ


石川啄木と野口雨情

1907年(明治40)21歳の石川啄木は25歳の野口雨情と、北海道「小樽日報」の創業時に記者として出会う。

啄木の日記によれば、知り合って十日目「野口君と予との交情は既に十年の友の如し」。「共に豚汁を啜」り、「同じ床の中に雑魚寝」をし、互いの「身の上話」をする仲だった。しかし、互いの友情はすぐに終わりを告げた。

野口雨情生家・資料館(茨城県北茨城市磯原町)にある年譜には、「明治40年(1907)10月、25歳の雨情は石川啄木と共に『小樽日報』の創業に加わるが、約1ヶ月で退社」と書かれてあった。


雨情が亡くなる前、ちょうど一年間住んだ家が宇都宮にある。



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野口雨情旧居

左は和菓子屋、右が「野口雨情旧居」(国の登録有形文化財)。鹿沼街道沿いにあり、カワチ薬局三の沢店のそば、「和菓子処 乙女屋」の敷地内。雨情はこの家に住んでいた。



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ガラス戸から座敷を見る

縁側には家族との写真や、木更津証城寺にて、昭和2年大阪放送局にて、などの写真が飾られている。



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裏手から旧居を見る

雨情は、1882年(明治15)5月29日、現北茨城市に生まれる。

雨降りお月(さん)、あの町この町、青い眼の人形、赤い靴、兎のダンス、蛙の夜廻り、かもめ、証城寺の狸囃子、シャボン玉、十五夜お月さん、七つの子、波浮の港、船頭小唄、南部音頭、岩手小唄、…など親しまれるたくさんの作詞をした。地域の民謡や校歌などの作詞も数多くある。



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この家での日々と作詞した歌などについての説明板

1944年(昭和19)1月、61歳の雨情は、東京の空襲が激しくなったため、再婚したつるの紹介で栃木県河内郡姿川村鶴田1444番地(現宇都宮市鶴田町)のこの家に疎開した。つると共に果樹、養鶏を楽しむが病に倒れた。

(つづく)

 

[] 啄木の碑 建立ラッシュ 没後100年

  • 歌人石川啄木は道内に1年近く滞在し、多数の秀歌を残した。没後100年の今年、釧路市や旭川市で啄木碑が新たに建てられ、道内の啄木碑は45基になった。9月には札幌市でも下宿跡近くに4基目が新設される。啄木を追慕する碑は全国で171基。その4分の1超が道内にある。道産子の啄木への愛着は深い。
  • 国際啄木学会北海道支部によると、啄木碑の数は4月現在、出身地の岩手県が95基で最も多く、北海道はそれに次ぐ。3位は青森県、東京都の各7基。
  • 9 月に建立されるのは、下宿跡から約300メートルほどの偕楽園緑地だ。札幌を詠んだ4首のうちの1首を刻む。

  アカシヤの街樾(なみき)にポプラに/秋の風/吹くがかなしと日記に残れり

  • 建立計画を進める札幌啄木会代表の太田幸夫さんは「当時の札幌の情景を見事に表現している。札幌を気に入っていた啄木のために協力を」と建立資金の募金を呼びかけている。問い合わせは太田さん(011-859-5356)へ。(横山蔵利)

(2012-06-05 朝日新聞>マイタウン>北海道)

[] 啄木の歌碑建立へ 建てる会が計画 -札幌

  • 石川啄木の没後100年を記念し、札幌市北区北7西7の「偕楽園緑地」に歌碑を建てることが決まった。
  • 札幌啄木会は設立10年を迎えたこともあり、「札幌に啄木の歌碑を建てる会」を設立して建設を計画。9月15日に除幕式を予定。御影石製。
  • また、札幌を訪れる外国人観光客も多いことから、歌碑の脇に設置する案内板には英語、中国語、韓国語、ロシア語で同首を翻訳して紹介する。

(2012-06-04 毎日新聞)

[] 企画展「没後100年 石川啄木と小樽啄木会展」 6/2~7/8

○ 小樽市立小樽文学館 電話 0134-32-2388

○ 2012年6月2日(土)〜7月8日(日)

  • すでに天才歌人として知られていた石川啄木は、小樽日報社に赴任するために、明治40(1907)年、釧路に向かうまでの4ヶ月ほどを小樽で過ごしました。小樽で新聞記者として活動していた間、高田紅果が友人らと啄木を訪ねた時には彼らに強い印象を与えました。
  • その後高田紅果は、小樽啄木会設立と啄木歌碑建立に尽力し、小樽啄木会は啄木研究や顕彰活動を地道に継続しながら現在に至っています。
  • これを機会に、小樽にゆかりのある天才歌人・石川啄木に触れてみるのはいかがでしょう?

2012-06-04

[] 小石川「終焉の地」に歌碑が…

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[スイカズラ]


「啄木終焉の地」碑再建へ 東京・文京区長が方針

  • 歌人石川啄木が亡くなるまで過ごした東京都文京区小石川に「終焉の地」を記念する歌碑が建てられることになった。文京区の成沢広修区長が2日、盛岡市で開かれた啄木祭の「ゆかりの地サミット」で、終焉の地隣の国有地を取得し、用地を提供する方針を明らかにした。
  • 終焉の地は都旧跡に指定。旧跡の石柱が2007年に撤去され、地元住民や国際啄木学会東京支部(大室精一支部長)が再建を要望していた。取得した土地に区が整備する高齢者施設の建設に合わせて14年度にも歌碑ができる見通しだ。
  • 碑に刻む歌は、「呼吸(いき)すれば、/胸の中(うち)にて鳴る音あり。/凩(こがらし)よりもさびしきその音!」など2首を提案している。500万円を目標に募金を集める計画だ。

(2012-06-03 岩手日報)

[] 郷土偉人に思いはせ 盛岡で啄木祭

  • 盛岡市玉山区出身の歌人石川啄木をたたえる「啄木祭−愛され続ける啄木」は2日、同区の市渋民文化会館・姫神ホールで開催された。
  • ゆかりの地サミットには谷藤市長のほか、北海道からは札幌啄木会代表で小樽啄木会員の太田幸夫さん、釧路市の小松正明副市長、函館市の山本真也教育長、啄木終焉の地の東京都文京区から成澤廣修区長と、いずれも啄木の歌が残されている地の代表が参加し、それぞれ啄木への熱い思いを語り合った。

(2012-06-03 岩手日日新聞)

[] 啄木の魅力に浸る 盛岡で没後100年祭

  • 定員600人のホールは、県内外からの来場者でほぼ満席。開幕セレモニーで、渋民小鼓笛隊、コールすずらんなどが啄木ゆかりの曲を演奏。不来方高音楽部は、啄木と妻節子の写真が掲げられた舞台で、短歌にメロディーをつけた「ふるさとの山に向ひて」を若々しい声で歌い上げた。

(2012-06-03 岩手日報)

[] 啄木没後100年、思想語り合う 盛岡

  • 建築家安藤忠雄氏が講演し、啄木が古里を詠んだ歌を取り上げ「これからを生きるには、自分の古里を守り、国際的視野を持つことが必要だ。自分の心の古里がどこにあるかを考え、それを守ってほしい」と強調した。

  • 盛岡市のほか東京都文京区、札幌市など、啄木ゆかりの1区5市の関係者によるサミットでは、啄木を題材にした観光や教育を紹介した。札幌啄木会の太田幸夫代表は「点在するゆかりの各地を、線として捉えることが課題だ」と述べた。

(2012-06-03 河北新報)

[] 没後100年記念 啄木祭

  • 啄木の母校・渋民小学校の鼓笛隊の演奏で啄木祭がスタートし、地元のコーラスグループや不来方高校音楽部も啄木の詩や短歌をメロディに乗せ聴衆を魅了しました。
  • フォーラムでは建築家の安藤忠雄さんが講演。復興を成し遂げるためにも日本人の人間力を高めなければならない、現代人も啄木のような率直な言動や感動できる心を持とうとユーモアたっぷりに語りました。また、啄木ゆかりの6都市の代表によるサミットも行われ、啄木に関する教育や観光について取り組みを報告してました。

(2012-06-03 IBC岩手放送)

[] 啄木没後100年、安藤忠雄氏が講演 記念フォーラム 岩手

  • 建築家の安藤忠雄氏が「歩きながら考える」の題で講演。わずか26年の人生で多くの作品を残した啄木をはじめ、幕末や明治の人たちが勇気をもって行動しながら考えていたとして、その濃密な人生をたたえ「現代人には持続力、戦略、忍耐がない」と指摘。
  • さらに、東日本大震災の被災地に「鎮魂の森」をつくったり、遺児育英基金を集めるなどの活動を紹介し、「心のふるさと」を持つ大切さを強調した。

(2012-06-03 産経ニュース)

[][] 第2回「文の京ガイドツアー」−啄木と本郷− 7/7

「観光ガイド」と文京区の良さを再発見してみませんか?

観光ガイドとともに歩く、文の京ガイドツアー、今回は、石川啄木没後100年記念事業のひとつとして、啄木にゆかりのある本郷のまちをご案内します。

明治末〜大正期の文京区にスポットを当てた珍しいツアー

  • 2012年7月7日(土) 午後1時30分(2時間程度)
  • 対象者 どなたでも
  • 定員 30名(抽選)
  • 料金 無料
  • 予定コース

(集合)東京メトロ千代田線湯島駅(出発)−切通坂−麟祥院−龍岡門−かねやす−旧居喜之床跡−赤心館跡−蓋平館別荘跡−東大正門(解散)

2012-06-01

[][] 台日文学者交流会 6/9-11

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[タイワンレンギョウ]


  2011.3.11東日本大震災復興祈念

台日文学者交流会

  • 2012年6月9日・10日・11日(一般参加歓迎)

6月9日(土)

台日文学者交流 I  18:00〜19:20

  岩手大学学生センターA棟・G19講義室(講演会:入場無料)

  講演「文学者が見た東日本大震災」齊藤純(日本、作家:もりおか復興支援センター長)

  講演「台湾文学の現状」陳義芝(台湾、詩人:台湾師範大学副教授)


歓迎会 19:30〜 岩手大学内「イン・シーズン」会費:5,000円

6月10日(日)

バス実地研修(参加費:2,000円(昼食込)) 9:00〜16:00

  「岩手の文学の原風景を見る」(石川啄木記念館、宮澤賢治記念館、盛岡城跡公園など)

  ガイド:森 義真(近代文学研究家、国際啄木学会事務局長)

台日文学者交流 II 18:30〜20:30

  おでってホール(プラザおでって3F)(交流会:入場無料)

  「音楽を交えた台日交流」松園シルバーダックス、只野展也、柏崎驍二、谷口ちかえ、照井翠、原田勇男、松平盟子、森三紗、渡辺通子、

6月11日(月)

バス被災地(釜石市・大槌町)訪問(参加費:3,000円(昼食込)) 8:00〜19:00

  大槌高校生徒との交流会 14:30〜15:45

2012年台湾訪問生徒発表/国際啄木学会台北大会意義/被災地関連文学作品発表

大槌高校生徒、池田功、宮下恵美子、山下正彦、東梅よう子、松崎みき子、ほか


お別れ会 19:20〜 ホテル・メトロポリタン盛岡本館4F 会費:5,000円

◎ 主催 台北駐日経済文化交流処

◎ 共催 国際啄木学会

◎ 問い合わせ先 TEL 019-629-2601(ホテル・メトロポリタン盛岡 渉外課)

 

[] 没後100年!札幌啄木ゆかりの地めぐり

<札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。>

これは、明治を代表する歌人・石川啄木が、札幌について書き記した「秋風記」の引用です。北海道では、函館や釧路のイメージが強い啄木ですが、実はここ札幌にも滞在し、その経験を基にした短歌4首を歌集「一握の砂」に詠んでいます。没後100年の今年、9月には北区に新しい歌碑も誕生。この機会に、ゆかりの地をめぐる文学散歩はいかがですか。札幌啄木会の太田幸夫代表に、中心部のスポットを案内してもらいました。

  • 札幌駅から下宿跡へ

啄木が札幌を訪れたのは、1907年9月14日。札幌停車場に着いた啄木は、友人と下宿へ向かいます。札幌駅北口から徒歩5分ほどの「札幌クレストビル」。ここは、啄木の札幌生活の拠点となった場所。ビルのエントランスには、啄木の胸像と下宿跡の案内板があります。

  • 歌碑予定地と「北門新報社」跡地

札幌クレストビルから約300mの距離にある「偕楽園緑地」。ここは、9月15日に札幌啄木会が歌碑を建立する予定地。札幌啄木会は歌碑建立の募金(個人3000円〜)を集めており、問い合わせは太田代表(011‐859‐5356)へ。

  • 大通公園を通って創成川へ

大通公園西3丁目広場には、存在感たっぷりの啄木の記念碑が、道行く人を見守っています。散策のゴールは、記念碑から歩いて5分の場所を南北に流れる「創成川」です。

  • このほか、札幌市内には、啄木があこがれた女性・橘智恵子に関連する歌碑もあるほか、道立文学館にも資料があります。ぜひ、札幌でしか味わえない文学散歩を満喫してみてください。

(2012-06-01 ようこそさっぽろ-札幌市の公式観光サイト)

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・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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